「馬面(づら)」「マッチ箱」「ハ-モニカ」「ドジョウ」「お見合い」…。その姿かたちからこんな愛称で呼ばれた旧花巻電鉄の廃線跡を数日間、汗だくになりながらほっつき歩いた。コロナ禍の猛暑の中、一体どうして?Mr.PO(上田東一市長)が将来見通しも明らかにしないまま、がむしゃらに進める「JR花巻駅の東西自由通路(橋上化)」のナゾを考えていたそんな時、花巻市博物館で開催中の企画展「鉄道と花巻―近代のクロスロ-ド」に足を運ぶ機会があった。「東北本線を跨(また)ぐために岩手県で初めての跨(こ)線橋が…」―。パネルの説明に足がくぎつけになった。橋上化の第1号が足元にあったとは!?
花巻電鉄(当時)が運営する「鉛線」(総延長約18キロ)は大正4(1915)年、東北初の路面併用電車としてまず「西公園―松原」間が部分開通し、10年後の大正14年に「花巻―西鉛温泉」の全線が電化された。この同じ年に遅れて整備された「花巻温泉線」(総延長約9キロ)も開通した。電車敷設のきっかけは余剰電力の有効利用だった。まちを貫流する豊沢川の水力を利用して、花巻に灯りがともったのは大正元年。当時、東北本線を利用した湯治客が遠方からも訪れるようになり、「観光客誘致」に白羽の矢が立ったのが“電車”という当時としては珍しい文明の利器だった。
「トテ馬車」―。全線が電化されるまでは「志戸平温泉」が近代と前近代との分岐点だった。電車に乗ってきた乗客は馬車へ、馬車に乗ってきた乗客は電車へ。近くの鉱山から払い下げを受けた馬車鉄道への乗換駅がここだった。10人乗り程度の箱の下に車輪をつけ、御者が馬にムチを当てる。馬はレ-ルの中をパカパカと走り出す。発着の合図に「トテ、トテ」とラッパを吹いたことから、こう呼ばれるようになった。「じゃまだ。どけろ」(運転手)、「いやあ、馬が言うことをきかない」(御者)…。『写真集 栄光の軌道/花巻電鉄』(花巻電鉄OB会刊)は、“近代”と“前近代”の「相克」をクスッと笑いたくなるような巧みな描写で紹介している。
「東北本線をまたぐこ線橋(橋上)の上を馬面電車がコトコトと走っている」―。なぜなのか、この何となくマンガめいていて、心が浮き立つような光景がイメ-ジとしてわいてこない。「鉛線」は昭和44(1968)年8月、「花巻温泉線」は同47年2月に廃止となったが、それまでは私にとっては重要な「足」だった。実際、自宅のそばにあった「鉛線」西公園駅は大沢温泉の露天風呂や鉛温泉スキ-場に向かうための欠かせない乗降駅だった。なのにどうして、こ線橋の光景が欠落してしまったのか…。
「岩花線」(軽便花巻~中央花巻~吹張~西花巻)―。企画展で初めて聞く線名に出会った。大正7(1918)年、岩手軽便鉄道(現釜石線)の花巻駅と西花巻駅をつないだ新線で、現在の材木町(花巻税務署付近)に新駅「西花巻駅」を開設。「電気会社がいまさら、馬車鉄道でもあるまい」と線路の上に橋を渡し、その上を電車を走らせるという“英断”に至った経緯に合点がいった。その後、昭和40(1965)年、東北本線の複線化によって、存続は断念させられたが、当時のこ線橋はいまも車道と歩道として利用されている。「元のまちがそっくり消えてしまえば、ずっと住んでいたこの場所でも“迷子”になってしまうことがある」―。沿岸被災者がふと、つぶやいた言葉を思い出した。「たぶん、ここだよな。馬面が走っていたのは…」。私は滝のような汗をそのままにしながら、歩道を何度も行ったり来たりした。
歴史をさかのぼれば、明治23(1890)年、地元の豪商・伊藤儀兵衛(1848―1923年)が東北本線「花巻駅」開業に当たって、駅前用地を無償で提供したのが当市発展のいしずえとなった。東北初の「鉛線」を実現させたのも由緒ある温泉郷に人を呼び込むことによって、まちを繁栄させたいという地元商人たちの気概だったかもしれない。坂道にさしかかれば乗客が総出で電車の尻を押し、雪が降れば沿線住民がスコップ片手に除雪にかけつける…。毀誉褒貶(きよほうへん)があるものの、かつて「花巻魂」と呼ばれるものがあったとすれば、それがまったく感じられないのがMr.POの「JR花巻駅の東西自由通路(橋上化)」問題であろうか。
Mr.POが「(橋上化に伴う)将来ビジョンを描くことは逆に“絵にかいたモチ”になる」とうそぶき、一方の商工関係者らは“やらせ要請”のお先棒を担ぐようにして、橋上化実現の要望を出すという茶番。口を開けば「観光、観光」と繰り返す、“魂の抜け殻”みたいな連中にはぜひとも“花巻魂”のひとさじでも煎じて飲んで欲しいものである。「こ線橋を走る馬面電車」の写真をお持ちの方はご一報を。青春の記憶を呼び戻すためにと方々手を尽くして捜しましたが、見つかりませんでした。
(写真は「鉄道と花巻」のポスタ-。花巻発展のカギがあちこちに散りばめられている。展望なき「JR花巻駅橋上化」問題を考える直す絶好のタイミング)
《追記ー1》~オリンピックをめぐる不祥事で、辞任・解任ドミノ
7月18日付当ブログ(追記)で、足元に忍び寄る“五輪ファシズム”の不気味さを伝えたが、その演出を担当する本丸での不祥事が相次いでいる。前組織委員長の森喜朗元総理の女性蔑視発言を皮切りに、①開閉会式の総合総括だった佐々木宏さんがタレントを豚と見立てた「オリンピッグ」発言、②音楽担当だったミュ-ジシャンの小山田圭吾さんの「いじめ」告白、③文化プログラムに出演予定だった絵本作家、のぶみさんの不適切発言に続き、開会式を前日に控えた22日にはショ-ディレクターを務めることになっていたお笑いタレント、小林健太郎さんが「ホロコ-スト」(ユダヤ人大虐殺)を揶揄(やゆ)していたことが発覚、解任を余儀なくされる事態となった。
折しも、日本テレビの情報番組「スッキリ」(3月12日放映)でアイヌ民族を傷つける表現があった問題で、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会(小町谷育子委員長)は21日、「明らかな差別表現を含んだもの」で、放送倫理違反があったとする意見書を公表した。アイヌ女性を描くドキュメンタリ-を紹介した際、お笑い芸人が「この作品とかけまして動物を見つけた時ととく。その心は、あ、犬」と発言。民族名に「犬」という言葉をかけた、昔からある差別的表現だと批判があがっていた。差別やヘイトスピ-チなどに基づく、この国の“ファシズム化”はのっぴきならない状況に追い込まれている。
《追記―2》~“五輪ファシズム”とホロコ-スト
五輪開幕当日の7月23日、新聞各社はショ-ディレクターを務める予定だった小林賢太郎さんの解任を伝える記事を大々的に報じた。ホロコ-スト軽視に対する世界の目は厳しく、朝日新聞は「躓(つまず)きの石」(7月18日付当ブログ参照)の例を引き合いに出した。当該ブログは今回、芥川賞を受賞した石沢麻衣さんの作品『貝に続く場所にて』がこの石について言及していることに触発され、「時空間と記憶」の大切について、考察した。新聞記事の関係部分は以下の通り。
「ドイツでも戦後、ホロコ-ストなどナチスの罪をどう克服し、記憶を継承するかが重視されてきた。学校現場では、ユダヤ人の迫害の歴史やナチスの罪が重点的に教えられる。各地の路上を歩けば、約10センチ四方の金色のプレ-トが埋め込まれているのに気づく。『躓(つまず)きの石』と呼ばれ、ユダヤ人らが住んでいた家があった場所に名前や生年、いつ収容所に送られ、亡くなったかという情報が刻んである。7万5千個以上が埋められており、その数は増え続けている。ナチスに関わった人物は、強制収容所の看守といった末端の役割だったとしても、今も訴追されている。ナチスの思想を賛美するネオナチも当局から厳しく監視され、ホロコーストの否定や軽視の行為は刑法で罰せられる。オ-ストリアなど他の欧州の国でも、同様に処罰規定を持つ国は多い」(7月23日付)
《追記―3》~「原発避難者は棄民か」…かつての“同志”はいまも変わらず
「そもそも『復興五輪』なんて詭弁(きべん)です。原発避難者はまだ全国各地に避難したままで、事故処理の見通しも立たない。それなのに政権は『原発事故の被害は軽かった』と世界に発信したい。その総仕上げがこの五輪です」(7月28日付「朝日新聞」オピニオン&コラム「原発避難者は棄民か」)―。背筋をピンと伸ばし、優しさの中にも相手を射抜く鋭い眼差しは少しも変っていなかった。「あの時のまんまだな」と私は思った。
「村ちゃん」こと、村田弘さん(78)は現在、原発事故被害者団体連絡会の幹事と福島原発かながわ訴訟原告団長を務める。かつて、朝日新聞西部本社(九州)の社会部で席を並べた。そんな去る日、いまでいう「非正規」のアルバイトの青年が突然、解雇を通告されるという“事件”が起きた。ともに20代後半の血気盛り。「不当解雇は許さない」というスロ-ガンを掲げ、当時労組委員長だった村ちゃんはとつとつと、その不条理をただした。会社側は解雇を撤回した。
退職後、福島第1原発からわずか16キロしか離れていない、妻の実家の福島県南相馬市に移住し、そこで被災。次女を頼って神奈川県に避難した。村ちゃんはインタビ-をこう結んでいる。「僕たちがこの世を去っても汚染水は流れ続け、廃炉の問題もなかなか片付かないでしょう。しかしそうした状況に、社会が忍従し続けるとは思えません。今は僕たちだけが孤立してしまっているけれど、ひとごとでなくなる時がくる」―。実際、私たちはいま、その「時」のただ中に身を置いている。コロナ禍が猛威を振るう中、アスリ-トの活躍さえも“人柱”にされかねない「復興五輪」の欺瞞を暴く姿勢にいささかのぶれもない。オレもあまり変わっていないと思うけど、村ちゃんも一直線だなぁ…
《追記ー4》~ブログ休載のお知らせ
コロナ禍と猛暑、それに”五輪狂騒曲”の喧騒から逃れるため、本日(7月23日)の開会式から8月8日の閉会式までの間、当ブログを休載させていただきます。少し距離を置いた立ち位置から、これからの思考の方向性を模索していきたいと思います。皆さま方のご無事をお祈りします。