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映画「PLAN(プラン)75」…現代の“楢山節考”!?~訃報、森崎和江さん

  • 映画「PLAN(プラン)75」…現代の“楢山節考”!?~訃報、森崎和江さん

 

 「いままさに目の前で起きている現実。現代の“姥捨て伝説”ではないのか」―。第75回カンヌ国際映画祭で新人監督賞に該当する特別表彰(スペシャル・メンション)を受賞した「プラン75」(早川千絵脚本・監督)を見ながら、私は約40年前に同じ映画祭で最高賞のパルムド-ルに輝いた「楢山節考」(原作・深沢七郎)をまなうらに重ねていた。「生死の判別が国家の手にゆだねられる」―そんな悪夢がひたひたと足元に忍び寄ってくる予感に気圧(けお)されながら…

 

 “姥捨て伝説”はかつて、日本の各地にあった。いわゆる、食い扶持を減らすための棄老策で、たとえば『遠野物語』(111話)にはこんな話が採録されている。「山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺及火渡、青笹の字中沢並に土渕村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相対して必ず連台野(れんだいの)と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習(ならい)ありき。老人は徒に死んで了(しま)ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。その為に今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出づるをハカダチと云ひ、夕方野らより帰ることをハカアガリと云ふと云へり」

 

 少子高齢化が急速に進む日本。国はこの解決策として、75歳以上の高齢者に自らの生死を選ぶ権利を与え、それを支援する「プラン75」を制定する。「生きていることが罪ですか」―。この映画は人間存在の根本にぐいぐいと迫っていく。後期高齢者(75歳)の主人公「桃子」さんの軽やかな老後を描いて、芥川賞(『おらおらでひとりいぐも』)を受賞した遠野出身の若竹千佐子さんはこの映画に敏感に反応し、こう話している。

 

 「慄然とした。これは現代の『楢山節考』だ。あながちないとは言い切れない世界。人がモノ化している。人の情や思いやりよりも、まず損得。貧困化、高齢化で生産性のない老人は死を選ぶことも可能ですという。ここでも自己責任が幅を利かせている。非正規化、孤立、貧困、今、問題はいっぱい。いいかげん立ち上がって、人の尊厳を取り戻す戦いを始めないと大変なことになると、改めて思った」

 

 「ハカダチ」と「ハカアガリ」―。遠野物語の世界には死に至るまでの間、老い先の短い老人たちにも“働き口”を与えるという人間的なあたたかみがあった。しかし、「プラン75」には高齢者を死へと誘導する露骨なたくらみ(国家意志)が透けて見えてくるだけである。

 

 そういえば、今年1月の花巻市長選で3選を果たした上田東一市長の公約は「子ども達の未来/はなまきの未来を創る」―だった。そして、乱戦気味になりつつある今夏の市議選(26の定数に対し、31人が出馬予定)では「世代交代」を声高に主張する若手も散見される。この主張自体は正論であるが、コインの片方しか見ない偏頗(へんぱ)な考えだともいえる。「2025年問題」(超高齢化社会)への視点がすっぽりと抜け落ちているからである。

 

 主演の倍賞千恵子さんは現在80歳で、私とわずか2歳しか違わない。この名女優が体を張って、国の不条理と闘う姿に勇気と元気をもらった。ありがとう、同輩のチコちゃんよ!?関係諸氏にはぜひとも「現代版」楢山節考の評価が高いこの映画を鑑賞してもらいたいものである。高齢化するノ-ベル賞受賞者を支えるのは周囲を固める若手研究者の軍団である。社会が正常に機能するためにはこうした「若さ」と「老い」の”世代ミックス”こそが肝要なのである。

 

 いったんはプランを申請したものの「強制された死」を拒否した角谷ミチ(倍賞)は結局、自らの意志で(自)死を選択する(画面にはその場面は出てこないが、私にはそう思えた)。人間の「生と死」の線引きはあらゆる他者から自由であらなければならない。私はこの映画から、そのことの大切さを学んだような気がする。不肖、”叛逆老人”もその自由を貴(たっと)んでいるが故にそう簡単に死ぬわけにはいかない。

 

 

 

 

 

(写真は高齢者の尊厳を見事に演じた倍賞千恵子さん=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

《追記》~「生」を生き切った詩人の森崎さんが逝去

 

 「相手の目をじっと見つめ、口からこぼれ落ちる言葉を一つひとつ、耳に聞き取るのよ。それがとっても大事」―。筑豊や大牟田の炭鉱地帯の取材に随行してくれた森崎さんはさりげない口調で、ルポの心得を指し示してくれた。私自身の記者としての原点はここにある。スランプのたびの相談相手として、いつでもニコニコ応対してくれた。未熟な記者の卵が心配だったのだろうか、東北の転勤先にまで泊りがけで足を運んでくれた。ある時、福岡・宗像のご自宅で大皿に盛られたフグをご馳走になったことがある。あんな美味しいフグを口にしたことはあれ以来ない。私はいま、夏の市議選に向けたまっただ中にいる。「相手の目を…」―。あの時の言葉を反芻しながら、全力疾走しようと思う。「森崎さん、あの時の記者の卵はいっぱしの叛逆老人に成長しましたよ。ありがとうございました」。合掌

 

 

 詩人でノンフィクション作家の森崎和江(もりさき・かずえ)さんが15日、急性呼吸不全で死去した。95歳だった。葬儀は18日に近親者で営んだ。旧朝鮮・大邱府生まれ。敗戦直前に17歳で単身日本に帰国した。旧福岡県立女子専門学校(現・福岡女子大)卒業。詩誌「母音」の同人を経て1958年、谷川雁、上野英信らと「サークル村」を創刊した。同誌には石牟礼道子も参加した。女性の交流誌「無名通信」を主宰した。植民地時代の朝鮮で育ち、閉山で荒れる筑豊で生活した経験から、搾取・差別される人たちの視点を重視。独自の文化論やエロス論を展開し続けた。女性炭鉱員からの聞き書き「まっくら」や「からゆきさん」「闘いとエロス」などを発表した(6月19日付「朝日新聞」)

 

 

 



 

 

「いざ、出陣!?」…辻立ち、スタ-ト~そして、”連れ立ち“の妙と海の向こうからのメッセージと!?

  • 「いざ、出陣!?」…辻立ち、スタ-ト~そして、”連れ立ち“の妙と海の向こうからのメッセージと!?

 

 「下校途中の高校生の皆さん、図書館構想や駅橋上化構想などによって、この駅前が大きく変貌することを知っていますか。未来を創造するまちづくりに皆さんの知恵を結集しようではありませんか」―。花巻市議会6月定例会の一般質問がスタ-トした13日昼下がり、JR花巻駅前にしわがれ声が響き渡った。「叛逆老人」を自称する私が「さらば、おまかせ民主主義」を掲げた“辻立ち”の第一声。時折、足を止める高校生がいるものの、ほとんどはスマホに熱中している。

 

 「さっき、議会中継をのぞいてみたが、居眠り議員が相変わらず。ある議会改革度ランキング調査で、奥州市は第3位に入ったが、当市議会はなんと523位。当局と議会とが互いに監視し合う“二元代表制”も崩壊の寸前だ」―。ほど近い広場の一角で、過激な雄叫びを上げる男性の姿が目に入った。つられて、こっちにも力(りき)が入る。こんな“競演”がしばらく続いた。

 

 私が着用するポロシャツに「Long Live The King」という英文字が印刷されている。この日、もう一人の“叛逆老人”に挑発されて興奮したせいか、上っ張りを脱いだ時にこのプリントに初めて気が付いた。直訳すれば「長生きこそが王様」ということになろうが、私は若干謙遜を込めて「早起き」ならぬ「長生きは三文の得」と勝手に解釈することにした。7月17日告示、24日投開票の「夏の陣」(次期市議選)への幕が切って落とされた。どこかで出合い頭に遭遇することがあったら、少しでも耳を傾けていただけたらと思う。

 

 

 

 

 

(写真は“辻立ち”の第一声を上げる、“元祖”叛逆老人(の私)=6月13日正午すぎ、JR花巻駅前の広場で)

 

 

 

《追記ー1》~“連れ立ち”の妙

 

 「NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を毎週、手に汗を握りながら見ている。この夏には26の議席をめぐって、31人が争う“陣取り合戦”(市議選)が繰り広げられる。こちらもお見逃しなく」―。例の中年“叛逆老人”がこの日(15日)も花巻駅前で絶叫していた。このドッキングに双方のボルテ-ジも上がりっぱなし。「東北駅百選に選ばれているこの駅舎が橋上化(東西自由通路)によって、撤去させることになっている。ところが、上田(東一)市長は議会答弁で『百選なんて、どこにでもある。大した価値はない』と歯牙にもかけない。こんな市政って、許せますか」と私。“連れ立ち”の妙が思わぬ波及効果を生み出しつつある。

 

 

 

《追記―2》~海外の“叛逆老人”からも連帯のメッセ-ジ

 

 在独(ベルリン)48年の友人、梶村太一郎さん(76)から久しぶりに連帯のメッセ-ジが届いた。作家の故小田実さんらと「日独平和フォ-ラム」を立ち上げた梶村さんは以来、世界平和に向けた発信を続けている。以下にその要旨を転載させていただく。

 

 

 コロナがまだくすぶり続け、気候変動はますます亢進し、それに加えてウクライナの戦争までが急速にグローバルな危機をもたらしている、穏やかならぬ昨今ですが、お元気でしょうか。そんな中、日本では参院選が迫り、ベルリンで反核運動を続けているSNBの若い方から、「爺さんも話せ」とばかり、ネットラジオで先週の木曜日にインタヴュ-を受け昨日から公開されています。

 

 聴いてみてすっかりダミ声になっているのでびっくり、あらためて重なる馬齢を実感した次第です。それはともかくここでは訊かれるままに、これまであまり公言しなかった、わたしの生家や学生時代についても初めて述べています。ラジオでは訊かれなかったので話していませんが、ウクライナ戦争はベルリンの壁崩壊の33年後の揺り戻しで、影響は当時よりももっと激しく広範なものになるのではないかと考えています。

 

●SNBときどきラジオ★選挙に行こう!シリーズ No.7 ゲスト 梶村太一郎さん(ジャーナリスト)    https://www.youtube.com/watch?v=ZntC4QPz0Kg

 

 

 

 

実録「湯の町エレジ―」…「町なかに銭湯がほしい!?」~片や、”叛逆”老人は青春のまっただ中

  • 実録「湯の町エレジ―」…「町なかに銭湯がほしい!?」~片や、”叛逆”老人は青春のまっただ中

 

 「これから猛暑の夏に向かうのにお風呂にも入れない。まちの中に銭湯がほしい」…。一瞬、耳を疑った。古賀メロデイ-の大ヒット曲「湯の町エレジ-」ではないが、有数の温泉郷として知られる当花巻市でまさか、こんな嘆き節(エレジ-)を聞くとは思ってもみなかったからである。

 

 午後3時すぎ、中心市街地の入り口、「上町通り」の一角の商店にお年寄りたちが三々五々、集まってくる。中国・上海出身の源健さんが営む中国物産店の店内にはテ-ブルが置かれ、常連たちの際限ないおしゃべりが続く。以前は7代も続いた魚問屋「熊新」として、店先には客足が絶えなかった。その後、大型店の進出が相次ぎ、中心市街地はシャッタ-通りと化した。家主の熊谷和子は当年90歳になるが、まだかくしゃくたるもの。「店を閉めようとしていた時、ちょうど源さんが商売をしたいと。まちなかにはひとり暮らしの年寄りも多い。片隅を憩いの場として開放してほしいというのがその時の条件。源さんもすぐOK。あの震災の少し前だからもう10年以上になるね」

 

 5月末のうだるような暑さの午後、私は吸い込まれるような感じで店内へ。男性一人のほかはみんな女性。歩いて来れる距離に住む小原シメ子さん(81)が汗をぬぐいながら、ため息をついた。「湯のまちホット交流サ-ビスとかもあるらしいけれど、そこまで行く足がない。アパ-トの風呂は古くなって使えない。修理するお金もないし」。一緒にいた数人がうなずいた。「そう、まず銭湯だね。近くにあった惣菜店も6月いっぱいで閉めるらしい。これじゃ、まるで兵糧攻め。この一帯は“姥捨て山”ならぬ、“姥捨て町”だよ」。ここに集まるお年寄りたちはそれぞれの事情で、世間から孤立して人が多いらしい。そのせいか、歯に衣着せぬパワフルな発言が目立つ。

 

 店の前の車道には時間制限のパ-キングエリアが何か所か設置されている。熊谷さんが怒った口調で言った。「近くにはちゃんとした駐車場もない。これじゃ、まるで“陸の孤島”だと当時の市長に直訴状を書いた。それでやっとこさ。その後、目の前に公園もどきの広場ができたが、今度はトイレもない。こっちも直訴してやっと、設置させた。このまちは口先では老人に優しいなどと言っているが、実際は逆。それに比べれば、源さんは…」。その源さんが目をぱちくりさせた。「こっちだって、コロナで商売、大変だよ。でも、ここは賢治さんのふるさと。追い出すわけ、いかないしょ」

 

 「店の休憩テ-ブルは皆様が仲良く楽しく、自由に交流する場所です。これを有効に活用するために以下のことをご協力お願い申し上げます。(1)1時間以上利用する人は300円の飲み物を注文(2)明るい雰囲気になるには悪口禁止。悪口で心がよごれる」―。店内の壁にはこんな「お願い」と地元の小学生が“まちなか探検”に訪れた際の感謝状が張られている。

 

 

 

 

(写真は午後のひと時、談笑に興じるお年寄りたち=5月末、花巻市上町で)

 

 

 

《追記》~“叛逆”老人の快挙!!…吹けば飛ぶような“世代交代”論

 

 ヨットによる世界最高齢での単独無寄港の太平洋横断に挑んでいた海洋冒険家、堀江謙一さん(83)が4日、母港がある兵庫県西宮市に帰還した。米サンフランシスコから丸69日間をかけて、約8500キロを航海した。実は私が市議選出馬を決意した背景には1歳年上の堀江さんのこの勇気に発奮させられた部分が大きい。「いまはちょっと休みたいですね。2,3時間でも休めば、また元気になりますよ。精神と肉体を完全燃焼させた。僕はいま青春のまっただ中」(5日、6日付「朝日新聞」)と堀江さん。今夏の市議選には(ひっくり返せば、“姥捨て”論にもつながりかねない)安直な「世代交代」を叫ぶ立候補予定者もいるようだが、堀江さんの快挙や上記のお年寄りたちの“パワフル”発言にも耳を傾けてほしいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」…「くらしと政治の勉強会」Part3

  • 「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」…「くらしと政治の勉強会」Part3

 

 フェアトレ-ド商品などを販売する「おいものせなか」(新田史実子代表)で28日、第3回目となる「くらしと政治の勉強会」が開かれた。新田代表を含め参加者はわずか5人だったが、逆にまちづくりをめぐるフリ-ト-クが盛り上がり、熱のこもった議論は3時間に及んだ。

 

 花巻人の「はなまき」知らずがまちづくりの最大のネック―。参加者のこの発言がきっかけをつくった。「市役所新館に隣接する体育館はかつて、“アパ中”と呼ばれていたんだよ」と郷土史に詳しいその男性が説明すると、女性参加者はキョトンとした表情。解説が続いた。「戦後、外地から引揚者が続々と帰国したため、住宅事情がひっ迫した。窮余の一策、当時中学校だった空き教室を引揚者に開放した。それで、アパ中(アパート中学校)と呼ばれるようになった」―。合併前の当時の花巻町長は「道理主義」(ドウリズム)を貫いた故北山愛郎さん。“道理”市長の型破りはこんなもんでは終わらない。「とにかく、発想が大胆で奇想天外。全国の老人ホ-ムに馬券売り場をつくったらどうか。ただ、掛け金は千円まで。老人が元気になるぞ」と…

 

 「いまの市政からは想像もできない」と女性参加者のひとりが口を開いた。「たとえば、震災でふるさとを追われた被災者向けの災害公営住宅をまちの中心部に造ったまでは評価するが、買い物をする店も近くにはない。まるで、“陸の孤島”みたい。一方で、行政側は定住人口の増加で、中心市街地の活性化に寄与したともっぱらその数値だけを強調する。表現はきついが、被災者を“人質”に取った市政運営にしか見えない。“アパ中”の思想とは雲泥の差…」

 

 引きこもりがちな被災者のひとりが2年前、近くを流れる大堰川で数匹のホタルを見つけた。「ホタル発見」が地元の人ではなく、見知らぬ土地へ移住を強いられた外部の人の目にとまったことに私は胸が震えた。「妻に先立たれたやもめ暮らしにとっては、健康維持のための散歩が欠かせない。だから、じっと佇んで川を観察するんです。昨年は12匹、今年はもっと、増えていればいいですね…」。この話を紹介すると、参加者全員の顔がほころんだ。「そうだ、まちの真ん中でホタルが乱舞するイ-ハト-ブ(賢治の夢の国)づくり。まちづくりの第1歩はこれで決まりだね」

 

 私はいま、このまちの路地裏を徘徊しながら、来し方行く末に思いを巡らすのをとても楽しみにしている。以前、酒屋を営んでいた同級生の栄君は元気だろうか。いくら声をかけても返事がない。父親は宮沢賢治の教え子で、賢治劇の名優のほまれが高かった。だから、しょっちゅう話を聞きに訪ねた。「最近、耳がずいぶん遠くなったが、元気だよ」と近所の人。「スナック・リンダ」の名前がかすかに読み取れる看板。飲酒が禁止されていた高校時代、こっそりとトリスのストレ-トをあおった懐かしい思い出がまだ残っている。「な~に、酒は隠れて飲むから、うまいんだよ」と挑発が巧みなマスタ-はとっくの昔にこの世を去った。「はなまき」知らずの花巻人の放浪めいた徘徊はまだまだ、続く。

 

 「汝(なんじ)の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」(沖縄学の父、伊波普猷=いはふゆう)ーー

 

 

 

 

 

(写真は少人数ながら、盛り上がった勉強会=5月28日午前、花巻市上小舟渡の「おいものせなか」で)

 

 

 

《追記》~謎かけ問答「私はわれわれに食べられる」(石倉敏明)

 

 

 「わたしといふ現象は…風景やみんなといっしょに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈のひとつの青い照明です」(『春と修羅』序)―。宮沢賢治の謎めいた文章をひも解くヒントになるようなコラムに出会ったので、以下に引用する。それにしても、「芸術人類学」という研究分野があったとは!?

 

 

 「食べることは『食べる/食べられる』の二項関係ではない。人体内や土中での微生物による分解や動植物のプロセスを考えると、人はまぎれもなく『われわれ』たる自然の一部であり『食べられるもの』だといえると、芸術人類学者は言う。その自明の事実を見ないことと『開発』の思想は連動していると。奥野克巳ほか編『モア・ザ・ヒュ-マン』でのインタビュ-から」(5月26日付「朝日新聞」、鷲田清一の「折々のことば」から)

 

 

 

 

 

観光船沈没事故と「近くて遠い島」北方領土・国後島

  • 観光船沈没事故と「近くて遠い島」北方領土・国後島

 

 「知床事故、国後の遺体は甲板員か」(22日付「朝日新聞」)―。北海道・知床半島沖で乗客・乗員26人が乗った観光船沈没事故の関係者とみられる遺体が北方領土・国後島西岸で発見されたというニュ-スに接し、“国境の海”の厳しい実態をまざまざと思い出した。もう、40年近くも前になる。当時、私はこの海域を股にかけて暗躍する密漁グル-プの取材を続けていた。日本最東端の根室・納沙布岬の北東約3・7キロ先に傾きかけた灯台がぽつんと立っている。日ロ間の中間ライン(実質的な国境線)のすぐ近くに位置する北方領土・貝殻島である。

 

 「貝殻島の近くの海底にコンブに絡まった人の頭があるんだよ」―。ある日、親しくなったグル-プのひとりが耳打ちしてくれた。時を同じくして、知床半島のとある港町でバラバラ殺人事件が発生していた。「すわぁ、被害者の身元か!」と警察も色めき立った。町で一番豪華なすし屋に警察暑長から御座敷が掛かったのは、事件の迷宮入りが取り沙汰され始めた時だった。「さ、いっぱい」と署長は徳利を手におもむろに口を開いた。「ところで、あなたの筋であの骸骨をこっちに持って来てもらうわけにはいかないだろうか。ご存じのようにあの海域には日本の警察権力が及ばないもんで…」

 

 土台、“商談”がまとまる話ではないと分かったうえで、グル-プのリ-ダにこの話を伝えた。暴力団筋のこの男はニヤニヤしながら、条件を出してきた。「あの辺りはウニの宝庫なんだよ。1週間だけ密漁を黙認してくれるなら、考えて見てもいいぞ」―。当然のことながら、警察側が刑法犯の“密漁”を認めるわけにはいかない。いつしか、唯一の「ブツ」(証拠)は流氷とともに消え去り、事件は未解決のまま捜査を終了した。

 

 「飲んで騒いで丘にのぼれば/はるかクナシリに白夜は明ける…」―。森繁久彌が「知床旅情」で歌うように、国後島は今回事故が発生した知床半島突端から「白夜」を眺望できる指呼(しこ)の間である。しかし、ロシアによるウクライナへの侵略とそれに対する日本側の制裁措置で「近くて遠い島」はますます遠くなりつつある。

 

 

 

(写真は知床半島から望む国後島=インタ-ネット上に公開の写真から)