HOME > 記事一覧

もうひとつの「難民」物語…ボルガ大演芸団とスタルヒン

  • もうひとつの「難民」物語…ボルガ大演芸団とスタルヒン

 

 105年前、さかのぼれば現プ-チン政権の生みの親でもある「ロシア革命」(1917年)で、祖国を追われた難民の群れがあった。その数ざっと200万人。日本に亡命した“白系ロシア人”のひとりが不世出の大投手と呼ばれたヴィクトル・スタルヒン(1916―57年)である。昭和9年、結成されたばかりの大日本野球倶楽部 (巨人軍の前身)に入団。303勝176敗の生涯記録のうち、83の完封はいまだに破られていない。そのスタルヒンの墓が秋田県横手市雄物川の崇念寺(高橋大我住職)にある。今回のテ-マはスタルヒンその人ではなく、高橋家をめぐる数奇な運命についてである。

 

 革命軍と白軍(皇帝派)の激しい衝突が続く中、特務機関で通訳として働く一人の日本人がいた。大我さんの父親、義雄である。軍務を離れた義雄は「哈爾浜(ハルビン)奉仕同盟会」を立ち上げ、その目的に「露国飢民救済援助の件」を掲げた。僧職を弟にゆだね、画家を目指して出奔(しゅっぽん)した人生の転機だった。難民救済に心を砕く義雄は大正8年、家族と生き別れとなって放浪していた「アントニ-ナ」(愛称、ト-シャ)と結婚した。バレリ-ナやバイオリニスト、歌手、曲芸師…。大正12年に日本へ戻る時、義雄は20人以上の亡命者と一緒だった。「ボルガ大演芸団」を組織した義雄は帰国後、九州や関西の巡業を続けたが、昭和43年に病没した。

 

 30年以上も前、私は“青い目”の住職、大我さん(現在88歳)にお会いしたことがある。「なぜ、ここにスタルヒンが眠っているのか」という素朴な疑問からだった。両親の義雄・ト-シャさんの間には6人の子どもがいた。大我さんは四男で、長女の久仁恵さん(ロシア名、タ-ニャ)がスタルヒンの再婚の相手だった。「至誠院釈完闘不退位」という戒名を刻んだ墓石の上には白球をかたどった石が置かれていた。大我さんの言葉がまだ、脳裏にこびりついている。

 

 「母が寺の近くの雄物川のほとりにたたずむようになったのは、父(義雄)を亡くしてからです。母の生家のすぐそばにはボルガ河が流れていたそうです。ロシア語を決して口にしなかった母でしたが、いつしか哀調をおびたロシア民謡を、祖国の言葉で口ずさむようになっていました。息を引き取った時、枕もとには小さなマリア像が置かれていました」―。母親のト-シャさんが旅立ったのは昭和54年だが、姉のターニャさんは父親が没した3年後に自らの命を絶っている。

 

 ト-シャ、タ-ニャ…そして、生涯、無国籍だったスタルヒンは引退後の昭和32年、不慮の交通事故で死んだ。40歳の若さだった。そしていま、ロシア人の血を引く日本人住職が歴史に翻弄(ほんろう)された人たちの弔いを続けている。ウクライナ難民が300万人を超えたと伝えられる。ロシア革命の時、着のみ着のままで祖国を後にした当時のウクライナ人はいままた、新しい祖国を追われつつある。1世紀以上も前のもうひとつの「難民」物語がその光景に重なる。

 

 

 

(写真はスタルヒンとタ-ニャが眠る墓。台座には「栄光の名投手」と刻まれている=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

ウクライナ危機と東日本大震災―そして、82歳の老残と…、一方では「弾に もマケズ」の愚劣パロディも~懸念される言語中枢の崩壊!?

  • ウクライナ危機と東日本大震災―そして、82歳の老残と…、一方では「弾に もマケズ」の愚劣パロディも~懸念される言語中枢の崩壊!?

 

 ジェノサイド(大虐殺)の予感さえ漂うウクライナ危機の中で、日本は東日本大震災(3・11)の大災厄から11年目を迎えた。82年前のこの日、私はあの大戦へと向かう暗い時代のただ中で「生」を受けた。まるで、呪(のろ)われたような”出自”に時折、ハッとすることも。その面影さえ記憶にない父は結局、戦地(ロシア領シベリアの捕虜収容所)から戻ることはなかった。そして今、私はテレビが伝える海の向こうの戦禍の惨状を目で追いながら、瓦礫(がれき)の荒野と化した沿岸被災地の写真を繰っている。すっぽりと重なり合うその光景に改めて、おののいてしまう。

 

 世紀末のような今の時代をこれから、どうやって生きていったらよいのか…。逡巡(しゅんじゅん)する気持ちが行ったり来たりする。「な~に、これまで生かされてきたんだから、今さら死に急ぐ必要はないさ」―。老友のささやきを背中に聞いたような気がした。

 

 「戦争に傾斜するグロテスクな時代を招くに至ったのは、われわれ老人が、平和の恩恵のなかに安閑(あんかん)と暮らしてきたからだ。その罪を思えば、すこしくらい身体にむりをさせても、若者不在の空白を埋めなければならない。広場や街頭に若者たちがまた姿をあらわすまで、それまでが叛逆老人の役割なのだ。いのちの未来のために、老人たちは今日も行く」―。老友にして畏友のルポライター、鎌田慧(83)は『叛逆老人は死なず』の中にこう書いている。

 

 大国による軍事侵攻(戦争)や感染症パンデミック、地球温暖化と猛威を振るい続ける自然災害……。「もう少し、生き抜いてみようじゃないか」。82年前と何が変わったというのか。何も変っていないではないか。いや、むしろ醜悪に、だから……

 

 

 

 

 

(写真は11年前の東日本大震災の被災現場。ウクライナの今と見まごう光景である=2011年3月、岩手県大槌町で)

 

 

 

《追記ー1》~「3・11」に合わせ、花巻市議会がウクライナへ支援金

 

 

 発議第1号として、今月4日に「ロシアのウクライナへの軍事侵攻に断固反対する」―決議を可決した花巻市議会は予算特別委員会最終日の11日、ウクライナ大使館を通じて、支援金を送ることを代表者会議で決めた。議員のひとりは「複雑な心境で迎えた震災11年目」として、その気持ちをフェイスブックに投稿した。

 

 「東日本大震災の際には世界各国から支援金・義援金をたくさん、いただいた。毎日のウクライナ侵攻の報道にはただただ、怒りと涙が止まらない。だけど、怒りの矛先は”ロシア人”であってはならない。ロシア人の中にも、ウクライナのために活動している人もいる。ロシア軍の中にも、侵攻しながらウクライナ人を助けようとして、仲間のロシア軍人に射殺された人もいる。過去と現在進行形の、色々な形で失われた命…」

 

 

 

《追記―2》~「弾にもマケズ」…なにが「良いですね」―だって!!??

 

 

 当地花巻が生んだ詩人で童話作家の宮沢賢治の有名な詩「雨ニモマケズ」はパロディに改作されるなど今でも引っ張りだこ。たとえば、数年前に話題になった、受験地獄をもじった「雨にもアテズ」には思わず、クスッとしてしまうウイットがある。

 

 「立派な自分の部屋にとじこもっていて/東に病人あれば、医者が悪いといい/西に疲れた母あれば、養老院に行けといい/南に死にそうな人あれば、寿命だといい/北にけんかや訴訟あれば、ながめて関わらず/日照りの時は冷房を付け/みんなに勉強勉強といわれ/叱られもせず、怖いもの知らず/こんな現代っ子に誰がした」(詠み人知らず)

 

 ウクライナ危機が予断を許さない今月8日付で市HPに「人道危機救援金」の募金告示が掲載された。さっそく、「素晴らしいイニシアテイブ!宮沢賢治にならって、『弾にもマケズ』救援基金と名付けたらいかが?」というコメントが寄せられた。上田東一市長は自らのフェイスブックで「それも良いですね」と応答した。日々、人命が失われていく戦禍の中、この無神経きわまりない語呂合わせに体が震えた。賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」の首長の、これが素顔である。「北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」…。賢治は詩の中でこう叫んでいる。

 

 

 

《追記―3》~“コロナ”会食の副市長が退任、後任は「職員皆」発言??

 

 

  岩手県緊急事態宣言下の昨年8月、親族らと外食したとして減給処分を受けた藤原忠雅・副市長が任期を1年残し、3月31日付で退任することが花巻市議会3月定例会最終日(16日)で了承された。藤原副市長は「一身上の都合」としただけで、例の一件には触れなかった。後任の副市長には松田英基・総合政策部長が昇格する。「上田(東一)市長を支え、職員皆と協力し…」という松田部長のあいさつにびっくり(もう、トップにならって”上から目線”?)。後期高齢者の私などにとっては「国民皆」とは“皇室言葉”として刷り込まれているからである。「弾にもマケズ」発言に無邪気に「いいね」を押す上田市長を筆頭に、上層部の言語中枢はメルトダウン(崩壊)しつつあるのではないか。

 

 

《追記―4》~「聞く耳を持たない」と副市長が退任

 

 滋賀県野洲市は17日、川口逸司副市長(72)が任期途中の31日付で退任すると発表した。川口氏は17日の市議会会派代表者会議で「体力的な衰えを感じた」と理由にふれたが、市民病院整備計画を中断している栢木進市長との不和が背景にあるとみられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「イ-ハト-ブはなまき」の不気味な沈黙…宮古市がウクライナ難民の受け入れ表明!?

  • 「イ-ハト-ブはなまき」の不気味な沈黙…宮古市がウクライナ難民の受け入れ表明!?

 

 原発が砲撃対象になるなどウクライナ危機が緊迫化する中、花巻市議会3月定例会の予算特別委員会が9日から3日間の日程で始まった。まちづくりや医療、福祉、教育、コロナ対策…市民の「安心・安全」を審議する議会中継が流れる中、かたわらのテレビはウクライナ難民がすでに200万人を超えたというニュ-スを流していた。この光景の隔たりに一瞬、たじろいだ。市民生活に直結する予算審議が最大の優先課題であることは言を待たない。私が戸惑いを感じたのは「イ-ハト-ブはなまき」の実現を掲げる「上田(東一)」市政が海の向こうの悲劇に“無言の行”を続ける、その不気味さに対してである。

 

 今回の非常事態に対する国内の地方議会や地方自治体の反応は早かった。当花巻市議会はいち早く3月4日開催の本会議で「ウクライナへのロシアの軍事侵攻に断固反対する」―決議を全会一致で可決。その際、宮沢賢治が理想郷と名づけた「イ-ハト-ブ」からのメッセ-ジ性の重要性が指摘された。たとえば、賢治は『農民芸術概論綱要』の中で「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と訴え、さらに人口に膾炙(かいしゃ)している詩「雨ニモマケズ」の中では、苦難に寄り添う姿を直截(ちょくせつ)に「行ッテ」と表現していることなど「賢治の地」ならではの議論が交わされた。

 

 一方、近隣では同じ日、平成18年に「非核平和都市」宣言をした遠野市が「一刻も早いロシア軍の撤退、及び各国政府の外交努力による平和的解決が実現することを強く求める」という市長メッセ-ジを発信し、多田一彦市長自らが「こんな時こそ、日本の米をウクライナや周辺支援国へ」と呼びかけた。当然のことながら、被爆地は即応した。広島市の松井一実市長と長崎市の田上富久市長は2月28日、プ-チン大統領宛ての連名の抗議文をロシア大使館に送付し、こう訴えた。「『二度と同じ体験をさせてはならない』と懸命に訴えてきた被爆者の思いを踏みにじるもので、憤りを感じる。広島、長崎に続く第三の戦争被爆地を生んではならない」―

 

 今年5月、復帰50年を迎える沖縄県では一段と大きな抗議の声が挙がった。かつて、アフガン戦争やイラク戦争の出撃拠点となった米軍基地の7割以上がこの狭い沖縄の地に集中している。「辺野古」新基地建設に揺れる地元名護市議会は3日開催の3月定例会で、ロシアの軍事侵攻の犠牲になったウクライナの人たちに全員で黙とうを捧げたあと、決議文と意見書を同時に可決し、プ-チン大統領と駐日ロシア大使、岸田首相などに送付した。両案はこう訴えた。「一切の戦争を否定し、日本国憲法の恒久平和の理念に基づき、戦争に反対することを宣言する。さらに日本政府に対し、ウクライナ在留邦人の安全確保に尽くすことや国際社会と連携し、制裁措置を含む迅速で厳格な対応を行うことも求める」

 

 一方、全国で唯一固有名詞を冠した「賢治まちづくり課」を設置する当市は、将来都市像として「市民パワ-をひとつに歴史と文化で拓く笑顔の花咲く温(あった)か都市(まち)イ-ハト-ブはなまき」―を掲げ、「イ-ハト-ブはなまき」の実現を目指している。しかし今のところ、首長による「メッセ-ジ」発信など他自治体のような主体的な動きはなく、日本赤十字社が募る「ウクライナ人道危機救援金」の受付窓口を庁内に設けた程度である。

 

 これに関連し、高橋修議員(市民クラブ)がこの日の審議で「非核平和都市宣言をしている当市のトップとして、今回の事態をどう認識しているか」と問うた。これに対し、上田市長は「日本のマスコミは軍事侵攻という表現を使っているが、私は明らかに『侵略』だと認識しており、強い怒りを覚えている。募金の窓口を設けるなど難民支援に力を入れたい」と明言したが、具体的なメッセ-ジの発信などへの言及はなかった。今後の対応に注目したい。イーハトーブの盟主として、今回の「侵略」発言をぜひとも内外に発信してほしいと切に願いたい。

 

 当市の財政を底支えする「イ-ハト-ブ応援寄付金」(ふるさと納税)が1月末現在で41億円に達し、過去最高を記録した。その多くが返礼品の「牛タン」が占めている。賢治は動物を撲殺(ぼくさつ)する悲しみについて、「一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ」と書いている(『フランドン農学校の豚』=2月25日付当ブログ参照)。ことさらに「賢治精神」を言い募るつもりはないが、このチグハグな“音なしの構え”にはやはり、言い知れない不気味さを感じざるを得ない。 

 

 予算委最終日の11日は「東日本大震災」から11年の節目を迎える。福島原発の廃炉の見通しが見えないまま、ロシアによる「原発」攻撃という狂気がまかり通っている。ちなみに本日10日はアメリカ軍による無差別攻撃で、10万人以上の無辜(むこ)の市民が犠牲になった「東京大空襲」から丸77年…ふたたび、「ホロコースト」(大虐殺)の悪夢が!!??

 

 

 

 

《追記ー1》~当初予算案に8年ぶりに反対論

 

 花巻市議会3月定例会の予算特別委員会で10日、櫻井肇議員(日本共産党花巻市議団)が令和4年度当初予算案に反対する討論を行い、同市議団の3人が採決で否決の意思表示をした。櫻井議員は「個別の政策では評価すべき点も多いが、(上田市長の)政治姿勢にはなお、問題がある」とした。当初予算案に反対論が出されたのは8年ぶり。

 

 

《追記ー2》~宮古市がウクライナ難民の受け入れを表明

 

 宮古市の山本正徳市長は10日、着のみ着のままで祖国を追われたウクライナ難民を受け入れる方針を記者会見で明らかにした。ロシアの軍事侵攻で国外に逃れる難民は増え続け、同日現在で215万人を超えた。「明日で震災11年。逃げ惑う難民の姿があの大震災の光景と重なる。ホテルや災害公営住宅などを開放したい」と山本市長。阪神淡路大震災の際、花巻市の旧東和町が「被災者受け入れ条例」を制定したが、国外からの受け入れは初めて。

 

 

《追記ー3》~災害公営住宅の「天国」と「地獄」と

 

 此方の我がイーハトーブ首長、上田東一市長が災害公営住宅に入居する被災者に共益費の一部を肩代わりさせていた(3月1日付当ブログ「相変わらずの”上から目線”と”責任転嫁”」参照)ーと思ったら、彼方の被災地宮古の首長、山本正徳市長は同じその住宅をウクライナ難民に開放するのだという。まさに、天国と地獄…もう、卒倒するしかないない。テレビのアナウンサーがプーチンを称して「聞く耳を持たない”裸の王様”」と話している。あれっ、同じような人物が足元にも!?

 

 

 

 

 

(写真は予算審議に出席した課長級以上の市職員=3月9日、花巻市市議会議場で。インタ-ネットの議会中継の画面から)

 

 

 

 

 

イーハトーブの地からロシアのウクライナ侵攻に抗議……花巻市議会

  • イーハトーブの地からロシアのウクライナ侵攻に抗議……花巻市議会

 

 花巻市議会は4日開催の3月定例会本会議で、ウクライナに対するロシアの軍事侵攻に対し、厳重に抗議する声明文を全員一致で可決した。5人の発議で提出された文章には「国際社会の平和と安全を著しく損なう、断じて容認することができない暴挙である。武力を背景とした現状変更への行為は明白な国際法違反であり、国際秩序の根幹を揺るがすもので看過することができない」と強い意志が示された。

 

 質疑の中で「当地は世界平和を願った宮沢賢治のふるさと。たとえば、世界中で知られる賢治の言葉(『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない』など)を入れた方がウクライナへの連帯をより強く、訴えることができたのではないか」などという意見が出た。これを受けた形で、羽山るみ子議員(花巻クラブ)は賢治の『雨ニモマケズ』の一節…「北ニケンクワヤソシヨウガアレバ/
ツマラナイカラヤメロトイヒ」という部分を引用した上で、こう賛成討論をした。

 

 「賢治はこの詩の中で、苦難に寄り添う姿をあえて『行ッテ』と表現している。遠いウクライナの地には簡単には行くことはできないが、せめて心だけでも飛んでいきたい。非核平和都市を宣言しているイーハトーブ(賢治の理想郷)から、一刻も早い平和的解決を…」

 

 感動的な光景を議会中継の画面で見ながら、私はまもなく11年目を迎える「3・11」(東日本大震災)のことを考えていた。目の前に広がる瓦礫(がれき)の荒野は今まさにウクライナの地で繰り広げられている悲劇の惨状と重なっていた。福島原発事故の発生を1週間後に控えたいま、今度はロシアによって人為的に原発が砲撃されるという人類史上、初めての蛮行が行われている。人類は滅亡に向かって歩みを始めているのかもしれない。

 

 刹那(せつな)、思った。あの時も賢治に背中を押されるようにして、世界中からボランティアが駆けつけた。ワシントンやロンドンでは英訳された『雨ニモマケズ』が朗読された。そして、ハタと心づいた。「そう、戦争から平和への橋渡しをするのが賢治だったのだ」と―。そんな地に生かされている自分の幸せを思うと同時に、その責任の重さがのしかかってきた。

 

 

 

(写真は時折声を詰まらせながら、ウクライナへの連帯を呼びかける羽山議員=3月4日午後、花巻市議会議場で、インタ-ネット中継の画像から)

 

 

 

 

 この日発議案第1号として、可決された「ロシアによるウクライナ軍事侵攻に断固反対する決議」の全文は以下の通り(市HPから)

 

 ロシアは2022年2月24日、ウクライナへ軍事侵攻を行った。これは、国際社会の平和と安全を著しく損なう、断じて容認することができない暴挙である。武力を背景とした現状変更への行為は明白な国際法違反であり、国際秩序の根幹を揺るがすもので看過することができない。よって、ロシアに対し、ウクライナへの軍による攻撃や主権侵害、核兵器の使用を示唆する発言に断固として抗議するとともに、軍を即時無条件で撤退させるよう強く求める。いま、緊急に求められるのは、ウクライナの人々の命と主権を守ることである。花巻市議会は、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻に強く反対する。以上、決議する。

 

令和4年3月4日 岩手県花巻市議会

 

 

 

《追記ー1》~ホロコ-ストの悪夢!!??

 

 ロシアによる軍事進攻によって、祖国を追われたウクライナ難民は6日現在、136万人にのぼっていると伝えられるが、その一部は隣国ポ-ランドの古都・クラクフに向かっているという。第2次世界大戦中、ナチス・ドイツによって、ホロコ-スト(ユダヤ大虐殺)が行われたこの地こそが、人類の“負の記憶”―アウシュビッツである。かつて、敵国としてドイツと相対峙したロシヤが今度は同じ蛮行を繰り返そうとしている。歴史はくり返すのか。

 

 

《追記-2》~オーエルの予言が現実に!!??

 

 1950年代、核戦争に発展した“第3次世界大戦”後の超大国の分割統治を予言した、英国の作家、ジョ-ジ・オ-エルのディストピア小説『1984』(1949年刊)がロシアによるウクライナに対する軍事侵攻でまさに、現実のものになりつつある。

 

 オ-エルは全体主義国家の支配原理について、「二重思考」(ダブルシンク)という語法を用いてこう記した。「戦争は平和なり/自由は隷従なり/無知は力なり」―。独裁者・プ-チンの口を借りればこうなるのだろう。「今回の侵攻は”平和“をもたらすための自衛の”戦争”である。私に付き従うことこそが“自由”なのであり、何事にも無関心でいることが“力”の源泉である」―。世界はいま、「第3次世界大戦」の瀬戸際に立たされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上田3選「市政」語録……一般質問が閉幕。そして、宿怨ふたたび!?

  • 上田3選「市政」語録……一般質問が閉幕。そして、宿怨ふたたび!?

 

 花巻市の上田東一市長が3選を果たした後の初めての市議会定例会の一般質問が3日、3日間の日程を終えた。激戦だった選挙戦の余韻を引きずる中、複数の議員から僅差(1884票)の勝利や初当選時に比べた大幅な減票(9073票)、さらに投票率の急落(前回比8・65%減)などの要因について、市長自らの認識をただす質問が相次いだ。その中から、印象に残った言葉を「上田」語録として採録したい。

 

 「投票率が極端に低かったことについては、市政への関心度の低さの反映だと思う。それは私だけではなく、相手候補にも共通することだ。いずれ、信頼度を高める努力をしたい」、「(“パワハラ”疑惑や職員の病気休職など争点が多様化した点について)ご指摘のことは謙虚に反省しなければならない」、「私自身、冗談も言えない質(たち)で、かた苦しい性格だと自覚している。つまり、短気。職員に厳しく当たったとすれば、そうだったと思う。重く受け止めたい」、「その一方で、職員の創意工夫は8年前(前市政時代)より、格段に向上していると思う。その証拠に前市政では本音を言いにくかったが、上田さんになってからは胸襟を開いて話ができる。そういってくれる職員もいる」(すかさず、質問者が「その逆もあるということではないか」と反論)…

 

 こんな丁々発止が繰り返されたが、すでに触れたように「強気」一辺倒の市政運営は今後ますます、加速しそうな気配である。一方、「さらば、おまかせ民主主義」(花巻版「見張り番」)の設立を呼びかけたが、3日間の傍聴者数は延べ30人に止まり、こちらの先行きもそう簡単ではなさそう。

 

 

 

(写真は投票率の低さを取り上げた大原健議員(無所属)=3月3日午後、花巻市議会議場の再質問席で、インタ-ネット中継の画面から)

 

 

 

《追記》~宿怨!!??

 

 個人的な人間関係を言挙げするのは本意ではないが、この人物だけは例外である。2日付当ブログで言及した花巻市議の照井省三議員(平和環境社民クラブ=社民党系)のことである。上田市長の“パワハラ”疑惑について、本来ならその真相解明の先頭に立つべき”革新”政党に身を置きながら、あえて見て見ぬふりをし、なかんずく後援会事務局長として、獅子奮迅の働きをしたこの人の振る舞いを見せつけられているうちに、忘れかけていた往時の光景が突然、脳裏によみがえった。

 

 18年前のちょうど今ごろ、私は市内の障害者施設の理事長をしている有力者の来訪を受けた。会社定年後にふるさとに戻り、ひなが一日、読書三昧に耽っていた私に対し、初対面のその人は深刻な表情でこう話した。「実はいま、施設の入所者と職員の間がうまくいっていない。虐待まがいのことも起きており、親たちが心配している。ひとつ力を貸してもらえないだろうか」―。まったく未知の分野だったが、“現場病”という新聞記者の性(さが)がむっくりと頭をもたげた。「自信はないが、やってみましょう」

 

 2004(平成16)年3月1日、園長の辞令を受けた私は若干、緊張した面持ちで施設に向かった。玄関先で数人の男性が待ち受けていた。「本日付でここの施設職員で労働組合を結成することになった」―。当時、組合専従の書記だった照井議員はこう言って、結成通知書を手渡した。「入所者の人権保護に組合も立ち上がってくれた」と私は胸が熱くなったが、それはぬか喜びだった。職員の賃金などの労働条件を確保するための組合結成だったのである。それ自体は正当な行為である。だが、「人権闘争」という観点からは双方の立ち位置はまるで、天と地だった。

 

 上田市長が初当選を果たした2014年、今度はこの人も市議会議員として登場した。2期目だった私と議席が隣り合わせだったというのも不思議なめぐり合わせだった。新聞記者時代、私は「三池と安保」と言われた60年代の時代に立ち会った。当時、「総資本対総労働」と呼ばれたこの大争議は日本の変革を予言するものでもあった。しかし、「泣く子も黙る」と言われた三池労組の幹部が銀座で豪遊していることを私はある時、取材で知った。以来、私はトラウマのように”労働貴族”を忌み嫌うようになり、この記憶を忘却の彼方に遺棄してきたつもりだった。今回の市長選で遭遇したのが、まるで“亡霊”のように目の前に立ち現れたこの人物だった。18年前と少しも変わっていなかった。