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「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」…「くらしと政治の勉強会」Part3

  • 「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」…「くらしと政治の勉強会」Part3

 

 フェアトレ-ド商品などを販売する「おいものせなか」(新田史実子代表)で28日、第3回目となる「くらしと政治の勉強会」が開かれた。新田代表を含め参加者はわずか5人だったが、逆にまちづくりをめぐるフリ-ト-クが盛り上がり、熱のこもった議論は3時間に及んだ。

 

 花巻人の「はなまき」知らずがまちづくりの最大のネック―。参加者のこの発言がきっかけをつくった。「市役所新館に隣接する体育館はかつて、“アパ中”と呼ばれていたんだよ」と郷土史に詳しいその男性が説明すると、女性参加者はキョトンとした表情。解説が続いた。「戦後、外地から引揚者が続々と帰国したため、住宅事情がひっ迫した。窮余の一策、当時中学校だった空き教室を引揚者に開放した。それで、アパ中(アパート中学校)と呼ばれるようになった」―。合併前の当時の花巻町長は「道理主義」(ドウリズム)を貫いた故北山愛郎さん。“道理”市長の型破りはこんなもんでは終わらない。「とにかく、発想が大胆で奇想天外。全国の老人ホ-ムに馬券売り場をつくったらどうか。ただ、掛け金は千円まで。老人が元気になるぞ」と…

 

 「いまの市政からは想像もできない」と女性参加者のひとりが口を開いた。「たとえば、震災でふるさとを追われた被災者向けの災害公営住宅をまちの中心部に造ったまでは評価するが、買い物をする店も近くにはない。まるで、“陸の孤島”みたい。一方で、行政側は定住人口の増加で、中心市街地の活性化に寄与したともっぱらその数値だけを強調する。表現はきついが、被災者を“人質”に取った市政運営にしか見えない。“アパ中”の思想とは雲泥の差…」

 

 引きこもりがちな被災者のひとりが2年前、近くを流れる大堰川で数匹のホタルを見つけた。「ホタル発見」が地元の人ではなく、見知らぬ土地へ移住を強いられた外部の人の目にとまったことに私は胸が震えた。「妻に先立たれたやもめ暮らしにとっては、健康維持のための散歩が欠かせない。だから、じっと佇んで川を観察するんです。昨年は12匹、今年はもっと、増えていればいいですね…」。この話を紹介すると、参加者全員の顔がほころんだ。「そうだ、まちの真ん中でホタルが乱舞するイ-ハト-ブ(賢治の夢の国)づくり。まちづくりの第1歩はこれで決まりだね」

 

 私はいま、このまちの路地裏を徘徊しながら、来し方行く末に思いを巡らすのをとても楽しみにしている。以前、酒屋を営んでいた同級生の栄君は元気だろうか。いくら声をかけても返事がない。父親は宮沢賢治の教え子で、賢治劇の名優のほまれが高かった。だから、しょっちゅう話を聞きに訪ねた。「最近、耳がずいぶん遠くなったが、元気だよ」と近所の人。「スナック・リンダ」の名前がかすかに読み取れる看板。飲酒が禁止されていた高校時代、こっそりとトリスのストレ-トをあおった懐かしい思い出がまだ残っている。「な~に、酒は隠れて飲むから、うまいんだよ」と挑発が巧みなマスタ-はとっくの昔にこの世を去った。「はなまき」知らずの花巻人の放浪めいた徘徊はまだまだ、続く。

 

 「汝(なんじ)の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」(沖縄学の父、伊波普猷=いはふゆう)ーー

 

 

 

 

 

(写真は少人数ながら、盛り上がった勉強会=5月28日午前、花巻市上小舟渡の「おいものせなか」で)

 

 

 

《追記》~謎かけ問答「私はわれわれに食べられる」(石倉敏明)

 

 

 「わたしといふ現象は…風景やみんなといっしょに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈のひとつの青い照明です」(『春と修羅』序)―。宮沢賢治の謎めいた文章をひも解くヒントになるようなコラムに出会ったので、以下に引用する。それにしても、「芸術人類学」という研究分野があったとは!?

 

 

 「食べることは『食べる/食べられる』の二項関係ではない。人体内や土中での微生物による分解や動植物のプロセスを考えると、人はまぎれもなく『われわれ』たる自然の一部であり『食べられるもの』だといえると、芸術人類学者は言う。その自明の事実を見ないことと『開発』の思想は連動していると。奥野克巳ほか編『モア・ザ・ヒュ-マン』でのインタビュ-から」(5月26日付「朝日新聞」、鷲田清一の「折々のことば」から)

 

 

 

 

 

観光船沈没事故と「近くて遠い島」北方領土・国後島

  • 観光船沈没事故と「近くて遠い島」北方領土・国後島

 

 「知床事故、国後の遺体は甲板員か」(22日付「朝日新聞」)―。北海道・知床半島沖で乗客・乗員26人が乗った観光船沈没事故の関係者とみられる遺体が北方領土・国後島西岸で発見されたというニュ-スに接し、“国境の海”の厳しい実態をまざまざと思い出した。もう、40年近くも前になる。当時、私はこの海域を股にかけて暗躍する密漁グル-プの取材を続けていた。日本最東端の根室・納沙布岬の北東約3・7キロ先に傾きかけた灯台がぽつんと立っている。日ロ間の中間ライン(実質的な国境線)のすぐ近くに位置する北方領土・貝殻島である。

 

 「貝殻島の近くの海底にコンブに絡まった人の頭があるんだよ」―。ある日、親しくなったグル-プのひとりが耳打ちしてくれた。時を同じくして、知床半島のとある港町でバラバラ殺人事件が発生していた。「すわぁ、被害者の身元か!」と警察も色めき立った。町で一番豪華なすし屋に警察暑長から御座敷が掛かったのは、事件の迷宮入りが取り沙汰され始めた時だった。「さ、いっぱい」と署長は徳利を手におもむろに口を開いた。「ところで、あなたの筋であの骸骨をこっちに持って来てもらうわけにはいかないだろうか。ご存じのようにあの海域には日本の警察権力が及ばないもんで…」

 

 土台、“商談”がまとまる話ではないと分かったうえで、グル-プのリ-ダにこの話を伝えた。暴力団筋のこの男はニヤニヤしながら、条件を出してきた。「あの辺りはウニの宝庫なんだよ。1週間だけ密漁を黙認してくれるなら、考えて見てもいいぞ」―。当然のことながら、警察側が刑法犯の“密漁”を認めるわけにはいかない。いつしか、唯一の「ブツ」(証拠)は流氷とともに消え去り、事件は未解決のまま捜査を終了した。

 

 「飲んで騒いで丘にのぼれば/はるかクナシリに白夜は明ける…」―。森繁久彌が「知床旅情」で歌うように、国後島は今回事故が発生した知床半島突端から「白夜」を眺望できる指呼(しこ)の間である。しかし、ロシアによるウクライナへの侵略とそれに対する日本側の制裁措置で「近くて遠い島」はますます遠くなりつつある。

 

 

 

(写真は知床半島から望む国後島=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

沖縄復帰50年と「イ-ハト-ブ」、そして天皇のお言葉

  • 沖縄復帰50年と「イ-ハト-ブ」、そして天皇のお言葉

 

 「5年前の東日本大震災の際も賢治の詩『雨ニモマケズ』に背中を押されるようにして、世界中から支援の手が差し伸べられました。私自身、宮城県気仙沼市で被災しましたが、賢治精神のその善意に支えられてこれまで頑張ってくることができました。現在は当市に居を移してお世話になっていますが、賢治精神の大切さを改めて実感させられる毎日です」―。沖縄の日本復帰50年の15日、私は「3・11」でふるさとを追われた日出忠英さん(80)の基地削減を訴える切々たる請願書の文面を身を引き締めて読み直した。

 

 沖縄はこの日、戦後27年間に及ぶ米国の統治下から復帰して50年の節目を迎えた。しかし、先の大戦で唯一地上戦の舞台となった沖縄では県民の4人に1人が犠牲となり、現在もなお米軍基地の約7割が集中している。こうした現状を憂えた日出さんは平成28(2016)年6月、花巻市議会に対し「(基地の根拠規定になっている)日米地位協定の抜本的な見直し」―を求める請願書を提出した。「基地を一方的に押しつけられ、日々犯罪の恐怖におびえ続けなければならない沖縄県民の心に寄り添い…」と日出さんは訴えたが、議会側は国の“専管事項”を盾に門前払いをした。

 

 それにしても「雨ニモマケズ」の神通力にはかなわない。何しろ「東西南北」の全方位に不幸や災いがあったら、そこに「行ッテ」寄り添えとそそのかす。私自身、この“挑発”に乗せられて何度、沖縄の地に足を運んだことか。沖縄通いを続けてきた私は市議になりたての平成22(2010)年12月定例会で「賢治精神をまちづくりのスロ-ガンに掲げる当市として、沖縄の米軍基地の訓練の一部を肩代わりする考えはないか」と問うた。本来ななら、この種の議論を先導するはずだと思い込んでいた、あさっての方向から矢玉が飛んできた。

 

 「(沖縄における)女性暴行などの米兵による犯罪と騒音被害は想像を絶しており、花巻市民がそれを受け入れなければならない理由などありません」(共産党市議の議会報告から)。この気の遠くなる認識の乖離に腰を抜かした私は折り返し、公開質問状を送った。「沖縄の痛みを自分自身の問題としてとらえ、1人ひとりが真剣に沖縄の現実に向き合うべきではないのか―。こともあろうに革新を標榜する公党がわたしの言いたかったことの趣旨を理解できなかったのだとすれば、それはもはや驚くべきほどの『想像力の欠如』と言わざるを得ない」―

 

 「他人事」から「自分事」へ―。賢治の「行ッテ」精神の真髄はここにあるという考えに変わりはない。それどころか、収束の見通しも立たないコロナ禍や残酷無比なウクライナ戦争を目の当たりにする今こそ、この精神の大切さを思い起こす必要があるのではないか。しかし、賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」はどうも真逆な道行きを辿っているように思えてならない。「雨ニモマケズ」をもじった「弾ニモマケズ」などという大政翼賛的な愚劣なパロディが(上田)市長周辺でもてはやされたと思ったら、「ロシア侵攻」に反対する市議会決議(3月4日)の原文から、賢治の代表的な平和メッセ-ジ…「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)という一節がいつの間にか消えてなくなるという“椿事”も起きている。

 

  この日の復帰50年記念式典で、天皇陛下は以下のようなお言葉を披露した(要旨)。「大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は『ぬちどぅたから』、命こそ宝の思いを深められたとうかがっていますが、その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いをいたしつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます。沖縄には今なお様々な課題が残されています。今後、若い世代を含め広く国民の沖縄に対する理解がさらに深まることを希望するとともに、今後ともこれまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています」

 

 お言葉の中の「課題」とは「過重な米軍基地の存在」などを指すものと思われ、”政治的な発言”を避けるための言い回しだと専門家は指摘。さらに「課題」に触れられたのは初めてのことだという。とまれイ-ハト-ブはいま、深刻な根腐れ病に犯されているのは間違いなさそうである。

 

 

 

(写真が住宅地に接するようにオスプレイが駐機する米軍普天間飛行場(宜野湾市)。辺野古(名護市)への移設工事が進んでいる=インタ-ネット上に公開の写真から)

「“出馬”宣言」余話…ガンバレコ-ル、そして…

  • 「“出馬”宣言」余話…ガンバレコ-ル、そして…

 

 「素晴らしき怒りの愛に花巻の輝きを見る思いです。この街に隠れている光はまだたくさん衣をかぶっていることでしょう。咳をすれば眼を覚ます」―。東和町田瀬在住の造形美術家、菅沼緑さん(73)からこんなガンバレコ-ルが届いた。4月27日付当ブログ(尾崎放哉の「咳をしても一人」に仮託した一文)に対する励ましのメ-ルで、「アラエイ(80代)の気概」のタイトルが付けられていた。嬉しくなって、会いに出かけた。今月3~4の両日、同町で開催された「花巻・土澤ア-トクラフトフェア」で、緑(ろく)さんはストリ-トピアノの担当をしていた。“文化談議”に花が咲いた。

 

 緑さんは幼少時、東京・池袋周辺にあった「アトリエ村」(貸し住居付きアトリエ)で育った。通称「池袋モンパルナス」と呼ばれた芸術村で、小熊秀雄や熊谷守一など著名な作家が出入りした。「俺たちはパルテノンと言っていた。長屋は15畳ほどのアトリエと4畳半の居間、それに半畳ばかりの台所だけで、水道は共同。おやじの話だと、戦時中でもジャズレコ-ドのパ-ティが開かれるなど別世界だったという。20~30軒はあったかなぁ」…。緑さんは目を細めるようにして、当時の思い出を話した。当地に移住したのは約20年前。今では全国的に知られる「街かど美術館」の立ち上げにもかかわり、パルテノン時代の経験が生かされた。「年なんか関係ないぞ。イ-ハト-ブの将来はお前さんにかかっている」と緑さんに肩をたたかれた。

 

 コロナ禍で3年ぶりの開催となったクラフトフェアはごった返す人波にあふれていた。途次、旧知の地元の女性(80代)とバッタリ出会った。世間話に興じたまでは良かったが、選挙のことに触れた途端、「若い人に道を譲るのが年寄りの役割。花巻の恥をさらすのは止めてくれ」とものすごい形相で一喝された。そういえば、“出馬”宣言(4月1日付当ブログ参照)をしたその日のうちに「みっともないから、おやめなさい」という”忠告“がメ-ルで寄せられたことを思い出した。生前、賢治が石を投げつけられたというこの町の排他性を目の当たりにした気持ちになり、ざわッとした。同時に俄然、やる気がわいてきた。そうしたら、また励ましの言葉が飛んできた。

 

「“好奇心を失った時、人は老いる”と有りますが、チャレンジ精神は好奇心より高いレベルと思います。むしろ情熱を失わずに在ることが、精神の若さのバロメ-タ-と実感します。“変えねばならぬの意欲”は、真に青年の飢餓感そのものでしょう」―。身に余る言葉に逆にこっちがかしこまってしまった。「『若気の至り』も『年寄りの冷や水』も社会の成長のためにはどちらも必要だと考えます」と返信し、心の平静を保った。千々に乱れるそんなある日、「人を殺すのは『災害』ではない。いつだって『忘却』なのだ」というキャッチコピ-の本を久しぶりに一気読みした。

 

 現役の朝日新聞記者、三浦英之さんの『災害特派員』(朝日新聞出版)。記者経験のある私自身に照らせば、新聞記事に個人の喜怒哀楽を文章表現するのはご法度。ところが、本書は滂沱(ぼうだ)の涙のオンパレ-ドである。個人的な震災取材(東日本大震災)の体験を綴った「手記」ゆえにそれが許されたのである。「新しい命」という一節がある。

 

 結婚したばかりの夫が津波で亡くなった。妻のお腹の中には新しい命が宿っていた。夫の母も両親と子どもを亡くした。婚姻届はその日3月11日に出す予定だったが、それを果たすことはできなかった。書類が夫の懐にしのばせたあったからである。三浦記者は出産の場の写真撮影を願い出て、許される。遺族たちとの間に築かれたそれまでの信頼関係がそれを可能とした。その場面の描写に私も大声を上げてもらい泣きしてしまった。

 

 …余りにも凄絶な出産風景だった。エリカ(妻)は新婚七日で無念のうちに亡くなった新郎の遺影を見つめながら、この世に新しい命を産み落としたのだ。まるで「死」と「生」を交換するように。江利子(夫の母親)とエリカ。血のつながっていない二人の女性が今、この小さな命を通じて一つの新しい「家族」になろうとしている。思わずファインダ-が涙で曇った。私は必死でそれをカメラで隠そうとしたが、わずかに江利子に見つかってしまった。「おっ、カメラマン、また泣いているの?」。江利子は乳児を優しく抱きながら、「私、嬉しいわあ」と誰かに聞かせるように言った…

 

 私も市議時代にあの大震災に遭遇した。支援活動に没頭した当時、果たしてこの目に涙のしずくはあったのかどうか。「アラエイの気概」(緑さん)に背中を押されながら、私は人生最後の挑戦に挑もうと思う。「老残」がなお”青雲の志”を抱いたとしても、まさか罰(ばち)が当たることはあるまい。

 

 

 

 

 

(写真は三浦さんの新著の表紙)

 

 

 

同級生各位、そして親しい友人、知人の皆さまへ

  • 同級生各位、そして親しい友人、知人の皆さまへ

 

 次期市議選(7月24日)への立候補予定者説明会が6月2日に迫る中、巷では10人以上の新人の出馬がうわさされるなど早くも選挙モ-ドが高まりつつある。「イ-ハト-ブはなまき」の実現を目指す私もその一角に参入するべく、このほど話し合いの場づくりのための討議資料(リ-フレット)を作成した。「同級生各位、そして親しい友人、知人の皆さまへ」というタイトルの以下の文章にその思いを込めた(上掲写真がリ-フレット)

 

 コロナ禍という未曽有のパンデミックに襲われて、早や2年の歳月が過ぎました。そして私たちはいま、ウクライナ戦争という残酷無比な歴史のただ中に放り出されてしまいました。まさに、自分自身の人生の無為を思い知らされる日々です。

 

 先の市長選で、市政刷新を訴えた候補者の敗北がこれに追い打ちをかけました。「咳をしても一人」―。長いトンネルの中で自由律俳人、尾崎放哉のこの句が何度も口をついて出ました。やがて雪がとけ、トンネルの向うに桜の花びらが目に入った途端、生来の”持病“がむくむくと頭をもたげてきました。捨てる神あれば、拾う神も。

 

 「どうせ一人なら、冥途のみやげに人生最後のお祭り騒ぎをしようではないか」―。というわけで、今年夏の市議選に「叛逆老人は死なず」というノロシを掲げて、出馬することにしました。「老残の身、みっともないから止めろ」という冷やかしの声も聞こえてきます。しかし、私は1歳年上の冒険家、堀江謙一さん(83)がたった一人で太平洋をヨットで横断中というニュ-スに勇気をもらいました。

 

 宮沢賢治が夢見た理想郷「イ-ハト-ブ」ではいま、息が詰まるような強権支配がまかり通っています。私はみたび議場に舞い戻り、上田東一市長に対し、不退転の論戦を挑みたいと考えています。

 

 こんな“叛逆老人”ですが、皆さまの心からのご支援をお願い申し上げます。

 

2022年、過ぎにし桜花の季節に

 

 

 

 

《追記》~「咳(せき)をしても一人」

 

 4年前の今日5月1日、哲学者・鷲田清一さんの名物コラム「折々のことば」(朝日新聞)にこの一句が登場した。自分の今の心境と重ね合わせ、思わずこっちも苦笑いをしてしまった。

 

 

 順調だった人生路から外れ放浪の旅に出た俳人が、最後に辿(たど)り着いた小豆島の庵(いおり)で詠んだ句。肺を病んでぜえぜえ咳(せ)き込むも、音は虚空に響くのみ。「一人」とつぶやくのも、打ち棄(す)てられているとの思いを断ち切れずしてか、あるいは未(いま)だ「一人」と意識する未練がましさを笑ってか。「入れものが無い両手で受ける」という句の切迫にもたぶん同じ苦笑いが。『尾崎放哉句集』から。