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公開質問状「新図書館は花巻城址へ」…百年の計を見すえて

  • 公開質問状「新図書館は花巻城址へ」…百年の計を見すえて

 

 新花巻図書館の立地場所などをめぐる、市民を対象にした説明会が11日、笹間振興センタ-を皮切りに始まり、約20人の市民が集まった。今月27日まで17か所で開催される(うち21日と27日はZoomによるオンライン方式)。冒頭、市川清志・生涯学習部長が「第1候補地のJR花巻駅について、まず相手側と土地譲渡交渉に臨みたい」とあいさつ。質疑では「旧花巻病院の解体が進んだ結果、遠く北上山地を望むことができるようになった。この場所こそが生涯学習の場にふさわしい。100年先を見据えた決断を」、「人の集まる場所に立地するのか、本を求める人のために建てるのか。そもそも、図書館とは何ぞやという議論がすっぽり、抜けている」、「駅前立地に誘導しようという意図がミエミエ」…

 

 図書館問題を論議する会議(新花巻図書館整備基本計画試案検討会議)では駅前立地派が多かったという報告があったが、この日はそれを支持する発言はゼロ。これまでの図書館論議とは打って変わった雰囲気にひょっとしたら、”風向き”が変わりつつあるのかも……。私は席上、下記のような公開質問状を読み上げ、上田市長あてに提出した。回答があり次第、当ブログを通じて報告します。

 

 

 

 

花巻市長 上田 東一 様     

2022年10月11日

花巻市桜町3-57-11 増子義久

 

 

公開質問状―新花巻図書館は花巻城址へ

 

 

 新花巻図書館の立地候補地がJR花巻駅前に絞られつつある中、本日11日から17回にわたる市民説明会が始まりました。折しも総合花巻病院の移転に伴って、旧病棟の解体工事が進んだ結果、私たち市民は約100年ぶりに由緒ある花巻城址のおもかげに接するという幸運に恵まれました。晴れた日には高台の城跡から霊峰・早池峰など北上山地の雄大な姿を望むことができます。そして、ぽっかりと目の前に現れた“空間”に身を置く時、歴史の息づかいが周囲から立ちのぼるような気配を感じます。私はこのようなロケ-ションこそが図書館の建設場所にふさわしいと考え、その理由を添えてここに「新花巻図書館の立地を旧花巻病院跡地(花巻城址)」に求めるものです。回答は文書にて10月26日までにお願いいたします。

 

 

1)当該地はまなび学園(生涯学園都市会館)と花巻小学校に挟まれており、新図書館をここに立地することによって、周辺一帯を「文教地域」として形成することができる。また市庁舎も近距離にあり、城跡をまちづくりの生命線と位置づけるという点でも意義がある。

 

2)「花巻城跡調査保存委員会」は解体工事で全貌を現した「濁堀」について、「一級品の貴重な遺構。現状保存が望ましい」と答申した。将来は原形を維持したまま、“歴史公園”などとして活用することも検討する。

 

3)当該地は来年3月(予定)に更地になった段階で、市側が取得することが決まっている。市議会側も「市有地への立地」を求めており、JR所有の駅前用地の譲渡交渉が不透明な今、病院跡地の方が立地の確実性を担保できる。

 

4)花巻城址は賢治作品にも登場する、いわば”賢治精神“が凝縮されたホ-ムグランドでもある。将来都市像として「イ-ハト-ブはなまき」の実現を掲げる当市にとっても「うってつけ」の場所と言える。

 

5)当該地は長い間、人々のいのちを守る医療拠点として貢献してきた。「愛は人を癒(いや)し、誠は病を治す」とその病訓にある。さらに当市ゆかりの山室民子は「図書館法」の生みの親として知られる。賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」のこの地にこそ、そんな夢の図書館を誕生させたい。「魂の癒しの場」―。世界最古の図書館といわれるアレキサンドリア図書館(エジプト)のドアにはこう記されているという。

 

 

 

(写真はトップを切って開催された市民説明会=10月11日午後7時すぎ、花巻市の笹間振興センターで)

 

 

 

《追記ー1》~ある「図書館」問答(9月28日開催の「教育委員会議」議事録から)

 

 「立地はもちろん大事ですが、プロセスとか説明が悪かったとか、どっちが後先だったとか、そのような議論になってしてしまっていることは、あまり幸せなことではないと感じております。改めてお伺いしますが、こういう図書館であるべきではないかというビジョン、構想、一番大事なコンセプトはこの答弁(市川清志・生涯学習部長)からは探せていないのですが、検討会議(新花巻図書館整備基本計画試案検討会議)での意見を受けて、市として今どのように考えているということでしょうか。…立地以前の、市としてどのような構想やビジョンをお持ちなのかということを、今さらですがお聞きしたいと思います」(役重眞喜子委員)―。市のHPに10月12日付で掲載されている新図書館に関するやり取りが結構、核心に迫っている。ぜひ、読んで欲しい。

 

 

《追記ー2》~ありし日の「賢治」問答

 

 高校教師をしながら、地に足が着いた賢治研究に長年取り組んできた吉見正信さんが亡くなった。享年93歳。私はこの日(11日)の市民説明会に臨む直前にこの訃報を知った。市長への公開質問状を読み上げていた時、60年以上前の記憶が突然よみがえった。高校時代、吉見さんは漢文の教師だった。そんなある日、「君にとって、賢治とはどんな存在か」と問われた。とっさに「今世紀最大の”詐欺師”じゃないですか」と答えた。恩師は「そうだな」と言ってニヤッと笑った。新図書館の立地を賢治ゆかりの花巻城址にしたい。そんな気持ちが遠い記憶を呼び戻したのかもしれない。合掌

 

 

 

 

ベ-ト-ベンと賢治と…そして、隆房さん

  • ベ-ト-ベンと賢治と…そして、隆房さん

 

 「…それにおれはおれの創造力に充分な自信があった。けだし音楽を図形に直すことは自由であるし、おれはそこへ花でBeethovenのFantasyを描くこともできる。さう考へた」(宮沢賢治『花壇工作』)―。旧花巻総合病院の中庭にかつて「Fantasia of Beethoven」という標識を掲げた花壇があった。この病院の創立者で賢治の主治医だった故佐藤隆房さん(1890~1981年)が大正13年春、賢治に設計を依頼して作った花壇の復元で、命名の由来が冒頭の作品である。賢治の詩「病院の花壇」には当時の光景を彷彿(ほうふつ)させる描写がある。

 

 「…今朝は截(た)って/春の水を湛(たた)えたコップにさし/各科と事務所へ三っづつ/院長室へ一本配り/こゝへは白いキャンデタフトを播(ま)きつけやう/つめくさの芽もいちめんそろってのびだしたし/廊下の向ふで七面鳥は/もいちどゴブルゴブルといふ/女学校ではピアノの音/にはかにかっと陽がさしてくる/鋏(はさみ)とコップをとりに行かう」

 


 総合花巻病院の前身は大正6(1917)年、ロシア革命が勃発したその年に佐藤さんが開業した「佐藤外科医院」にさかのぼる。その後、花巻共立病院を経てざっと1世紀の長きにわたって、花巻の地に近代医療の礎(いしずえ)を築いてきた。それだけではない。佐藤さんは主治医の立場で賢治と間近に接した研究者としても知られ、名著『宮沢賢治―素顔のわが友』を著わしたほか、親交のあった詩人で彫刻家の高村光太郎を顕彰する「高村記念会」を創設するなど医療だけではなく、文化の啓蒙にも計り知れない貢献をした。

 この由緒ある病院は2年前に旧県立花巻厚生病院跡地へ移転・新築された。その跡地の整地作業がいま急ピッチで進められ、歴史の“素顔”(花巻城址)が次々に目の前に現れつつある。詩「病院の花壇」に出てくる「女学校ではピアノの音…」とは妹トシが通い、後に教鞭も取った花巻高等女学校(後の花巻南高校、現「まなび学園」)を指している。ポッカリ開けた空き地に立つと、ピアノの音律が耳元に聞こえるような錯覚さえ覚える。そのトシも今年没後100年を迎えた。『花壇工作』の中に賢治と佐藤さんの意見が衝突する場面が出てくる。賢治いわく。

 「おれはびっくりしてその顔を見た。それからまわりの窓を見た。そこの窓にはたくさんの顔がみな一様な表情を浮べてゐた。愚かな愚かな表情を、院長さんとその園芸家とどっちが頭がうごくだらうといった風の――えい糞考へても胸が悪くなる。だめだだめだ。これではどこにも音楽がない。おれの考へてゐるのは対称はとりながらごく不規則なモザイクにしてその境を一尺のみちに煉瓦(れんが)をジグザグに埋めてそこへまっ白な石灰をつめこむ。日がまはるたびに煉瓦のジグザグな影も青く移る。あとは石炭からと鋸屑(おがくず)で花がなくてもひとつの模様をこさえこむ。それなのだ」

 この時の一件について、佐藤さんは『素顔のわが友』の中にこう記している。「お互いにチクチクやり合って喜んだり、悲しんだりする間柄です。この後で間もなく賢治さんは私のために実にすばらしい花壇設計図を書いて来ました。そして二人は仲よく、香り高い春の土の上に立ちました」…。「愛は人を癒(いや)し、誠は病を治す」―。この病院が掲げる基本理念には“賢治精神”が見事に体現されているように思える。

 

 「Fantasia of Beethoven」は現在、移転先の新病院の病棟にそのミニチュア版が展示されている。「イ-ハト-ブ図書館」が完成した暁(あかつき)には原寸大の花壇を新図書館の入り口にぜひ、復元してほしいと願う。

 



 

(写真は賢治が設計した花壇(復元)。この由来を知る人は年々、少なくなってきた=花巻市花城町の解体前の旧総合花巻病院で)

 

 

《追記》~日本三大偉人としての賢治

 

 作家の夢枕獏さんがアントニオ猪木の死を悼む寄稿文の中で、「ぼくは、かねてから、日本が世界に誇る三大偉人というのを考えていて、まずは空海、そして宮沢賢治、三人目がA・猪木であると発言してきた」と書いていた(10月10日付「朝日新聞」)。タイトルは「ファンタジ-に捧げた肉体」―。「この三人、日本のいつの時代、どの地域に生まれても、それぞれ空海となり、宮沢賢治となり、A・猪木となった人であろうということだ」と夢枕さん。私自身、いつどこにでも「やぁ、こんちわ」と背中をポンと叩いて現れる、そんな変幻自在な人が賢治だとかねがね思っていたので、この偉人説に得心した。

 

 


 

 

 

 

「イ-ハト-ブ図書館」の実現を目指して…「つぶやき」語録

  • 「イ-ハト-ブ図書館」の実現を目指して…「つぶやき」語録

 

 旧総合花巻病院の解体工事が進むにしたがって、約100年間、周囲の目から遮断されてきた光景がこつ然と目の前に現れてきた(9月17日付当ブログ「いま、よみがえる歴史の記憶」参照)。以来、”夢見る男”の口をついて出てきた「つぶやき」語録のいくつか…

 

 

●花巻城跡地という立地条件も文教地区にぴったり。宮澤賢治が学んだ現花巻小学校と自らが教鞭を取った、“桑つこ大学”とも呼ばれた旧稗貫農学校(現まなび学園周辺)に挟まれたロケーションもまさに最適地。約100年ぶりに目の前に開けた光景に歴史の”息づかい”を感じながら「図書館はもう、ここしかない」とひらめいた

 

●約100年間にわたって、イ-ハト-ブ住人のいのちを守り続けてきた旧総合花卷病院…その創設者が賢治の主治医の故佐藤隆房氏だったということも考えてみれば、なんとも不思議な歴史の巡り合わせだと思う

 

●旧総合花巻病院跡地は来年3月(予定)に更地になった後、市が取得することが決まっており、市有地への立地を求めている議会側の意向とも合致する。市が立地の第1候補に挙げる駅前のJR所有地の譲渡交渉が不透明な中、前向きに検討すべきではないか

 

●元をただせば、現在のJR花巻駅は明治23年、地元の豪商・伊藤儀兵衛の土地寄進で開業した経緯がある。病院跡地問題は図らずも、こんな歴史の記憶も呼び戻してくれた。因果はめぐるということか

 

●日本初の”文化立法”といわれた「図書館法」(昭和25年4月)の立案に関わった人物に花巻ゆかりの山室民子がいる。慈善団体「救世軍」の創設者・山室軍平の妻で、花巻の素封家に生まれた旧姓・佐藤機恵子が民子の母である。民子は図書館法を起案するに当たって「今は文化を以て立つ外はない。それにつけても、教育の重要であることを思わざるを得ない」と述べている。図書館法の生みの親―山室民子の”遺訓”を生かすためにも花病跡地の花巻城址を新図書館を中心にした「一大文教地区(文化拠点)」に

 

●「Fantasia of Beethoven」と賢治が命名した花壇がかつて、旧総合花卷病院の中庭にあった。創設者の佐藤隆房医師と賢治との心温まるエピソ-ドがこの花壇には刻まれている。花病跡地はこんな゙賢治秘話゙の宝庫でもある。病棟の解体工事に伴い、この花壇のミニチュア版が新病院の病棟テラスに移転した。いずれ、「ベ-ト-ベンの想い」という謎めいた花壇の成り立ちについては拙ブログ「ヒカリノミチ通信」で触れたい。いっそのこと、花病跡地に建つ新図書館は賢治を偲んで「イ-ハト-ブ図書館」とでも名づけたらどうだろう。夢は膨らむばかりである

 

●新花卷図書館とJR花巻駅橋上化との「ワンセット」論議がかまびすしい昨今、「花病跡地」と「新興跡地」こそがまさにワンセットにふさわしい構図ではないか。なにせ、この二つの跡地はいずれも花巻城址に位置しているから。「城址(しろあと)の/あれ草に臥(ね)てこゝろむなし/のこぎりの音まじり来(く)」―。賢治はかつて「東公園」(旧三の丸)の高台に寝ころびながら、こう詠んだ。童話『四又(よまた)の百合』にこんな一節がある。「…すきとほった風といっしょに、ハ-ムキャの城の家々にしみわたりました」―。”ハ-ムキャの城”とはすぐ、花巻城址と察しがつくではないか。あぁ、「イ-ハト-ブ図書館」の夢がどうにも止まらない

 

●新興跡地」(花巻城址)の取得に頑強に反対してきた上田東一市長が9月定例市議会で、取得に”含み”を持たせる発言をするなど微妙に変化してきた。なぜなのか?上田市長の先祖に当たる上田弥四郎氏は江戸後期の文化6(1809)年、花巻城の大改修工事の総指揮をとり、”造作文士”と呼ばれた。その後長い間、城址一帯は工場と病院の建設によって、人びとの目前から遮断され、歴史の記憶も風化を続けてきた。建物群が撤去された今、遠望には霊峰・早池峰など北上山地の山並みがキラキラと輝いている。忘却の彼方に置き忘れてきた”記憶”の覚醒……。まるで、厚い雲間から顔をのぞかせた満月を見る思いである。先祖に想いを馳せる上田市長の気持ちもわかるような気がする。みんなで「城跡探訪」に出かけよう

 

 

 

 

 

(写真は病棟の解体工事によって、ほぼ原形を維持したまま現れた花巻城址「濁堀」の基底部。将来はこの一帯を”歴史公園“へと夢が広がる=花巻市花城町の花巻小学校

 

「市民参画」という名の虚構…ワ-クショップの罠

  • 「市民参画」という名の虚構…ワ-クショップの罠

 

 「この手のワ-クショップに参加するたびに、多様なメンバ-間での対話や議論の可能性と同時に難しさを感じます。…くれぐれも『市民の声をきいて作りました』というアリバイとして使われるだけの時間となりませんように…」―。現在、策定が進められている「第2次花巻市まちづくり総合計画」に際し、市民の声を反映させるための「まちづくり市民ワ-クショップ(WS)」に団体推薦枠で参加している委員のひとりが冒頭のような“危機感”をSNS上で発信している。今回のWSでは最初から公募枠を廃止するなどその人選方法に批判が挙がっていた(9月7日付当ブログ「“異論”排除のWS」参照)。そして今度は当事者の推薦委員から、そのあり方についての認識が示されたことになり、今後「WSのあり方」論議に拍車がかかりそうだ。

 

●「たとえば付箋にアイデアを書いて貼り出すという手法も、『なんとなくやった気にはなる』ものの、その結果として出てきたものに主催者・参加者は本当に満足しているでしょうか。まず、往々にして起こりうるのが『ワ-クショップという名のヒアリングをおこなったにすぎない』という状況です。図書館関係者だけではなく、社会の多くの人がこのワ-クショップの罠に陥っていると思うのですが、『何十、何百ものアイデアが出てよかった!』、『活発な議論が展開されてよかった!』といったワ-クショップは、基本的には失敗していると思っていいでしょう」

 

 

●「ワ-クショップでのアイデア創造で大切なのは、集団の中でアイデアが構造化され、集約されること。つまり、一人のアイデアが全員のものとなっていくワ-クショップの過程のなかで『一人ひとりが意見を出し合ったからこそ多様化したアイデア』と『一人では考えつかなかった、まさに求めていた唯一のアイデア』を同時に達成することに意味があるのです」(岡本真/森旭彦著『未来の図書館、はじめませんか?』)

 

 図書館問題のスペシャリストである岡本さん(編集者&キュレ-タ-)のこの言葉をまざまざと思い出した。冒頭の委員はこうもつぶやいている。「そもそも現行計画はおろか、市政の現状の理解もバラバラのメンバ-でやるので難しいですね。ワ-クショップの前に研修を通じて正しい知識を共有してからじゃないと建設的な議論にならないような気がして、本気でリタイアしようかとも…」

 

 昨年、新花巻図書館に関わるWSに公募枠で参加し、散々、煮え湯を飲まされた経験者としてはこの発言に無関心を装うわけにはいかない。そして紆余曲折を経た末、上田東一市長がJR花巻駅前を立地の第1候補に挙げた「新花巻図書館」構想の市民への説明会が10月11日から26日まで、笹間振興センタ-を皮切りに市内16か所(うち、21日はZoomによるオンライン説明会)で開催される。市民の皆さまの「声なき声」を届けるおそらく最後の機会になると思うので、ぜひ足を運んでいただきたい。詳しい日程は近く、広報はなまきや市HPで告知される予定。

 

 

 

 

 

(写真は1昨年秋に開かれた図書館WSのひとこま=花巻市葛の市交流会館で)

 

 

「イ-ハト-ブ葬送曲」…組曲~“村八分”(作詞作曲・宮沢賢治)

  • 「イ-ハト-ブ葬送曲」…組曲~“村八分”(作詞作曲・宮沢賢治)

 

 「まず最初に確認しておきたいのですけれども、これは選挙公報が未配布であったことに対する個人的な苦情を述べたものではありません。公共の利益を思って陳情いたした次第です」―。先の市議選(7月24日)の際、選挙公報が未配布だったとして、花巻市内在住の翻訳家、菊池賞(ほまれ)さんが地方自治法第199条第6項に規定に基づき、その原因と実態の監査を首長に求めた陳情の採決が9月定例会最終日の21日に行われた。議長を除く25人が不採択を支持し、採択すべきとしたのはひとりだった。

 

 「これこそが村八分の典型ではないか」―。陳情の成り行きを見守ってきた私は取材ノ-トの速記録を詳細に点検しながら、現代版“村八分”がまさに宮沢賢治が名づけた「イ-ハト-ブ」(夢の国=理想郷)の中でまかり通っている事実に驚愕した。不採択を一貫して主導してきた共産党花巻市議団の櫻井肇議員の発言要旨(9日開催の総務常任委員会)をできるだけ、忠実に以下に再現したい。

 

①「要するにこういう場合、(選挙)公報が来ていないということになれば、区長や配布者に対して問い合わせをするわけですね、普通は。その方々にお確かめになったでしょうか」

 

②「未配布と言いますが、私は一方的に未配布であると断定できる根拠を持ち合わせていません。区長の方は配布したと言っているわけですよね。真っ向から意見が対立するわけです。そうした場合に客観的かつ公平に見て、一方的に未配布であったというふうに断定するのはいかがなものか」

 

③「陳情者の言う地方自治法の第199条第6項ですが。これに基づいて、監査を市長はしないだろうと…。推測して申し訳ないのですが。なぜなら説明の中で陳情者は、この件によって、私は不利益を被っていないと言っている。そうである以上、監査を請求するという理由はないと思います。したがって、否決する以外にはないというのが私の主張です」(共産党員が市長の”内心”を忖度するという驚天動地!そして、「公益」という主張をあえて、”私益”なるイメージにでっち上げようとする薄汚さよ!)

 

 総務常任委に出席した市選管側が、菊池さんへの未配布の事実と過去にも同じミスがあったことを認めたにもかかわらず、まるで意図的に陳情者側の“自己責任”に問題をすり替え、陳情趣旨をねじ曲げようという底意が透けて見えるではないか。コロナ禍の中でも散見された現代版“村八分”事件が目の前に去来した。ウキペデァはこう説明している。「村落(村社会)の中で、掟(おきて)や慣習を破った者に対して課される制裁行為であり、一定の地域に居住する住民が結束して交際を絶つことである。転じて、地域社会から特定の住民を排斥したり、集団の中で特定のメンバ-を排斥(いじめ)したりする行為を指して用いられる」

 

 では、残りの「2分」とは何か―。火事の消火活動と葬式の世話を指し、この二つは共同体に累(るい)が及んだり、祟(たた)りを恐れるために除外しただけのことで、逆に“村八分”という排他性の恐ろしさを強調している。そういえば、賢治自身も寒行修行中にまちの人たちから石を投げつけられたというエピソ-ドが語り継がれている。本日「9・21」は賢治没後88年の命日にあたる(生年なら、縁起の良い米寿)。陳情審査の経過報告を議会中継で聞きながら、私は賢治に仮託した「イ-ハト-ブ葬送曲」をひとり口ずさんでいた。最後に総務常任委員会で、採択賛成の意見陳述をした羽山るみ子議員(はなまき市民クラブ)の発言(要旨)を、後世に伝え残すべき”告別の辞”として、ここに再録しておく。(陳情審査の詳しい経過については、9月9日付当ブログ参照)

 

 

 「今回、選挙公報の未配布がはっきりとしている方は1名だということですが、わずか1名であっても未配布はあってはならないことであり、だからこそ選挙の公平性を担保するために、公職選挙法にも『全戸配布』が明記されているわけです。『たった1名』という数に矮小化せず、逆にその1名の方の権利を守るという認識こそが、民主主義の原則だと思います。さらに、今回の陳情の趣旨は現場で実際に公報の配布に携わった人の責任を問うというものではなく、逆によくありがちな、末端の現場に責任を押し付けるといういわば、“トカゲの尻尾切り”を避けるため、陳情者は『内部統制』という言葉で、危機管理の必要を訴えたものだと理解します」

 

 

 

 

(写真は陳情にたったひとり賛成の起立をした羽山議員。上段左端が櫻井議員=9月21日午前、花巻市議会議場で。インターネットの議会中継の画面から)

 

 

 

 

《追記》~「三無主義と散骨の風景」

 

 賢治の命日の21日、ウエブマガジンプロメテウスを主宰する方から、花巻出身の宗教学者、山折哲雄さんの著書に言及した私のブログ記事を引用したという連絡があった。忘れていた記憶がふと、よみがえった。賢治忌に思いをはせながら、その記事を以下に再録したい。

 

 

 葬式はしない。お墓は作らない。遺骨は散骨する(残さない)」―。僧職の資格を有する山折さんがこうした“三無主義”を公に口にするようになった時は正直、面食らった。「兄貴があっちこっちで吹いて回るもんだから…」と現住職の弟さんも苦笑いを隠さなかった。そりゃ、そう。「檀家追放」宣言に等しいからである。でも、私はいつしかこのしなやかな「型破り」に賛同したくなっていた。英語教師だったころの恩師の面影がよみがえったのである。『わたしが死について語るなら』と題する著作の中で、山折さんは宮沢賢治の文章の一節「われら、まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」(『農民芸術概論綱要』)―を引用して、こう記している。 

 

 「死んだときは、私は故郷の寺(専念寺)の墓に入るのではなく、『散骨』(さんこつ)にしてほしいと望んでいます。散骨というのは自分の遺体が、焼かれたあと、その骨灰を粉にして自然の中にまくということです。海や山や川にすこしずつまいてもらえればそれでいいと思っているのです。…妻と私のどちらか生き残った方が、ゆかりの場所をたずね歩き、灰にしたのを一握りずつまいて歩く。遺灰(いはい)になったものはじつに浄(きよ)らなものです。やがて土に帰っていくことでしょう」―。児童向けと、山折さんが好んで使う「末期高齢者」(年長者)向けに書かれたこの本は87歳になる宗教学者の文字通り、型破りの”遺言状”なのかもしれない。