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夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その3)~喜劇の天才と喜劇王(和製チャプリン)

  • 夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その3)~喜劇の天才と喜劇王(和製チャプリン)

 

 宮沢賢治の詩「風林」(大正12年6月3日)の中に「あの青ざめた喜劇の天才『植物医師』の一役者」という一節がある。教え子たちと岩手山の夜間登山に挑戦した時の詩編で、ここに登場する「喜劇の天才」は私の親戚筋に当たる長坂俊雄(故人)である。寒さの中で「凍(こご)えるな」と教え子たちを励ます一方、一年前に病死した妹トシを悼む賢治の声が交錯する哀惜切々たる一篇である。

 

 27年前の賢治生誕100年の際、私は恩師・賢治との交流を記録に残そうとロングインタビュ-を試みた。当時、俊雄爺は88歳だったが、その語り口はまさに“喜劇役者”そのものだった。賢治が教鞭を取っていた花巻農学校(当時は稗貫農学校、“桑っこ大学”)に中途入学したのは大正11(1922)年。その天性ともいえる“茶目っ気”に注目した賢治は戯曲4部作のひとつ「植物医師」の主役に抜擢した。インチキ医者があの手この手で無知な農民をだますという「郷土喜劇」だったが、台本にはない即席(アドリブ)を演じるなどして喝采を浴びた。当時の賢治の惚れっぷりを示すエピソードが録音記録に残っている。

 

 「卒業した時、先生に『(坪内(逍遥)さんに紹介状を書いてやるから、役者にならんか』と言われてね。わしもその気になって、おやじに相談したら、『バカヤロ-。これでもわが家は武士の流れをくむ家柄だ。河原乞食みたいなことは許さん』と一喝された。家出しようにもどこを捜しても、家の中には一銭のゼニもなかった。一か月二円五十銭の授業料も滞納する始末で、先生の童話の原稿を一枚五銭で清書させてもらったり…」

 

 「植物医師」のほか、「饑餓陣営」「種山ヶ原の夜」「ポランの広場」の4部作が2月18~19日の両日、花巻市民劇場の公演としてお披露目された。100年以上の時空を隔てて主役を演じる現代のインチキ医者の姿が「喜劇の天才」・俊雄爺に重なった。ふいに、この天才役者を育てた賢治こそが「喜劇王」の和製「チャプリン」ではないかという想念が駆けめぐった。以下に喜劇の天才と喜劇王のダイアロ-グ(対話)のいくつかを当時の録音記録から再現する。「イ-ハト-ブ図書館」の中にこんな寸劇や映画、アニメ、朗読などをいつでも気軽に催すことができる「ミニシアタ-」ができたらなぁ…

 

 

 

 

●それでも学校は楽しかったな。わしの茶目も相当のもんだけど、先生はその上前をはねるんだよ。こんなことがあったな。養蚕当番で寄宿舎に泊ることになっていたある晩、先生が「これから肝試(きもだめ)しをするから、林の中の墓石にチョ-クで丸印をつけてこい」と。林に入っていくと遠くの方で、ピカッピカッと何かが光っている。「人魂(ひとだま)だ」と大声を上げてしまった。後ろの方から来た奴が今度は「幽霊が出たと」と叫ぶもんだから、見上げると杉の木のてっぺんで白いものがゆ-らゆら。もう一目散に逃げ帰った。すると、先生は「情けないやつらだ。今日は全員不合格。明朝、やり直しだ」と、こうきたわけだ。

 

●今度は養蚕室の二階の屋根から下の畑に飛び下りろ、と言うんだな。畑の土は柔らかいから、これは簡単。「今日は全員が合格だ」と先生はニコニコ笑っているわけよ。それにしても、クリスマスなんていうものがまだ盛んでなかったあの当時に、先生はどこでピカピカ点滅する豆電球を手に入れたもんなのかねえ。「幽霊」の正体は化学実験の時に着る白衣。前の日にでも杉の木に登って吊るしておいたんだろうけど、とにかく奇態な先生にはちがいなかったな。

 

●いつかこの借りを返そうと、寄宿舎のフトンのノミを手分けして集め、当直の日に先生の寝床に放してやった。ピヨン、ピヨンとはねまわるノミをつかまえるのが、これまた大変なんだ。マッチ箱にいっぱいだから、何十匹もだぞ。翌朝、先生はすました顔で「夕べはノミが多くてなかなか、寝つけなかったけど、諸君はどうだったかね」とこれっきりだ。

 

●今度こそは、とヘビを放したこともあったな。学校へ行く途中に一匹捕まえて、素知らぬ顔で放したら、教壇の方に這っていった。うまくいったなと思っていると、先生はそれをひょいとつかまえて、「あ、青大将だな。これは野ネズミなどを退治してくれる大切なヘビなんだよ」と得々と“ヘビの効用”について演説する、とまあ、こんな調子だったからね。あの先生にはやられっ放しだったなあ。

 

●ある時、授業が始まる前に何人かの生徒を指さし、「君たちは夕べもやったな。回復するまでには、相当の時間を要するんだぞ」と。今でいうマスタ-ベイション、自慰のことを先生は話したんだ、と後で分かった。わしは奥手だったから、その時は何のことかチンプンカンプンだった。宗教や病気など、結婚を断念せざるを得ない理由はいろいろあったと思う。だからこそ、先生は悩んだのではないか。凡人から見れば常軌を逸したようにみえる(先生の)振舞いも、持て余したエネルギ-を発散させるためだった、とわしには思えるんだな。

 

 

 

 

(写真はだまされた農民たちから抗議を受けるインチキ医者。農民たちは最後にはこの医者を許すことによって、“和解”が成立する=2月19午後、花巻市文化会館で)

 

 

 

 

《追記ー1》~東北農民管弦楽団を主宰する白取克之さん(53)

 

 考えられない。宮沢賢治なしの人生なんて。小学生のときに童話を読んで、とりこになった。中学生で「セロ弾きのゴーシュ」にあこがれてチェロを始め、賢治が教え子に「百姓になれ」と諭したと知り、農家になろうと決めた。大学の農学部を卒業後、研修で訪れた北海道の牧場主がバイオリンを弾いていた。農家の楽団で演奏しているという。「なんと豊かなことか」。農民に芸術の必要性を説いた、賢治の姿が浮かんだ。

 

 青森で教員になったが、農薬や化学肥料を使わない農業への思いを捨てきれず退職。33歳のとき、弘前市の岩木山のふもとを開墾し農場を開いた。夏の草刈りにも負けず、10年かけて収穫を安定させたころ、夢を思い出した。「東北に農民オ-ケストラをつくろう」。2013年、東北農民管弦楽団を設立した。拠点は賢治の生誕地の岩手県花巻市。農閑期の11月に練習を始め、2月に演奏会を開く。「田園」「新世界」など、賢治ゆかりの音楽に徹する。

 

 15人だった団員は、この10年で約70人に増えた。農業に関わる人たちだけで奏でる響きは「土のにおいがする」とたたえられる。演奏会は東北6県を一巡。7回目の今年は、26日に花巻で「第九」を披露する。「賢治も喜んでいると思います」。客席のどこかで聴いていると信じている(2月22日付「朝日新聞」ひと欄)

 

 

《追記―2》~「むのたけじ賞」が決定

 

 反戦を訴え続けたジャ-ナリスト、故むのたけじさんの精神を受け継ぐ「むのたけじ地域・民衆ジャ-ナリズム賞」の第5回受賞作品が22日発表され、在日外国人らへの差別を取り上げたドキュメンタリ-映画「ワタシタチハニンゲンダ!」が大賞に選ばれた。

 

 映画監督の高賛侑(コウチャニュウ)さん(75)=大阪府=の作品。戦前の植民地政策や戦後の在日朝鮮人の扱いを描き、入管収容施設で迫害された被害者へインタビューし、現代まで続く問題点を浮き彫りにした点が評価された。高さんは埼玉県内で開かれた記者会見で「外国人全体にひどい差別をしている日本の制度をなくしたい。海外でも上映を広げていく」と語った(2月22日付「東京新聞」)

 

<注>~むのさんは新聞の戦争責任を取り、敗戦の日の1945年8月15日に勤め先の朝日新聞社を退社。郷里の秋田県横手市で個人新聞「たいまつ」を発刊しながら、反戦・平和のメッセ-ジを発信し続けた。2012年、第22回「宮沢賢治賞・イ-ハト-ブ賞」を受賞。2016年8月、101歳で亡くなった。

 

 

夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その2)~「賢治」という両刃の剣

  • 夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その2)~「賢治」という両刃の剣

 

 「筑豊よ、日本を根底から変革するエネルギ-のルツボであれ、火床であれ」―。かつて、日本一の石炭産出地だった“筑豊”(福岡県)の片隅から発せられた、この虚空を切り裂くような叫びがこのところまるで、木霊(こだま)のように頭の中を行ったり、来たりしている。私自身の図書館の原像がこのメッセ-ジの中に凝縮されているからなのかもしれない。

 

 駆け出し記者時代の20代後半、私は「筑豊文庫」の看板を掲げた炭鉱住宅(炭住)に恐るおそる足を運んだ。当時、閉山炭住の一角にこの私設図書館を開設していたのは「偉大なるエゴイスト」とも呼ばれた記録作家の上野英信さん(1923~87年)だった。広島で被爆後、最底辺の労働者の声を聞きとろうと“圧政ヤマ”と恐れられていた零細炭坑に潜り込んだ。『追われゆく坑夫たち』、『地の底の笑い話』…。その金字塔のような記録文学の数々は私の記者生活の原点ともなった。自宅兼用の居間には十数人が囲むことができる大きなテ-ブルが置かれ、日夜、口角泡を飛ばす激論が繰り広げられていた。「まるで、梁山泊(りょうざんぱく)みたいだな…」と私は部屋の片隅に身をひそめて、この光景を眺めていた。

 

 「イ-ハト-ブ・ルネサンス」―。老残の私が今になって、こんな大げさなスロ-ガンを引っ提げて、「賢治ライブラリ-」(イ-ハト-ブ図書館)の実現を叫ぶようになったきっけは、冒頭の上野さんの絶筆にしたためられていた“火床”(ひどこ)がまだ、くすぶっているせいかもしれない。上野さんは戦時中、「満洲建国大学」に籍を置いたことがある。「日(日本)、韓(朝鮮)、満(満洲)、蒙(モンゴル)、漢(中国)」―この”五族協和”を謳った傀儡国家に設立された大学である。ある時、上野さんがさりげなく、つぶやいた。「君は岩手花巻の出身だったね。郷土の偉人、宮沢賢治の精神歌が建国大学の愛唱歌のひとつだったことは知ってるかね」(2月14日付当ブログ参照)

 

 虚を突かれた思いがした。美しい“賢治像”が一気に崩れ落ちるような気持になった。大分後になって、賢治研究家の故板谷栄城さんの著『賢治小景』の中にある伝聞を引用した一節を見つけた。「『精神歌』については忘れられない思い出がある。昭和12(1937)年に民族共和運動のため満洲(中国東北部)に渡った後、宮沢賢治研究会を作った。リ-ダ-は森荘已池さん(故人。賢治と親交があった直木賞作家で岩手出身)。日本語のわかるロシア人、満洲人、建国大学の学生らが集まって勉強した。(中略)会合の後、必ず全員で『精神歌』を歌った」―

 

 “玄米四合”改ざん事件―。賢治の代表的な詩「雨ニモマケズ」の中に「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」というくだりがある。戦後の学制改革に伴い、この詩篇を新しい中学用の教科書に採用する際、「四合」が「三合」に一時期、改ざんされるという出来事があった。敗戦による耐乏生活を強いるためのスロ-ガンに利用されたのである。さらに、『烏(からす)の北斗七星』に通底するある種の“自己犠牲”の精神性が特攻学生の遺書に書き残されているように、「賢治」という存在は時代に利用されやすいという“両刃の剣”の側面を持ち合わせていることも忘れてはなるまいと思う。

 

 「宮沢賢治・イ-ハト-ブ賞」(2017年)を受賞した歴史家の故色川大吉さんは「歴史家の見た宮沢賢治」と題した講演録の中で、こう述べている。「(賢治の作品は)花巻、岩手、イ-ハト-ヴォ、そしていきなり銀河系宇宙に飛んじゃうんですから…」―。賢治が自分の生きた「時代」とか、その時代が背負う「歴史」とかに向き合う際の手ごたえのなさ…。この感覚は私にも通じる。賢治生誕100年の時、私は自身の「賢治」観をこんな文章にまとめている。「賢治は銀河宇宙という広大無辺の世界を自分自身の『退路』として、準備したのではなかったのか」―

 

 私の「夢の図書館」は当然のことながら、賢治のこうした「負」の部分も含めた、一切合財のまるごと「賢治ライブラリ-」である。

 

 

 

 

(写真はありし日の上野さん(真ん中)。後ろの女性が妻の故晴子さん=福岡県鞍手町の「筑豊文庫」前で、インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その1)~イーハトーブの「ブエナ・ビスタ」、ここにあり!!

  • 夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その1)~イーハトーブの「ブエナ・ビスタ」、ここにあり!!

 

 イ-ハト-ヴ“愚民”さんの投稿をきっかけに「図書館とは何ぞや」という本質論が少しづつ語られるようになってきた。当ブログも一貫して、あらゆる“賢治もの”を一堂に集めた世界一の「イ-ハト-ブ図書館」の実現を訴え続けてきただけに、この動きを歓迎したい。

 

 旅行口コミサイト「トリップアドバイザ-」がかつて全米を沸かせた映画「バケットリスト」(棺桶リスト)にあやかって、「死ぬまでに行きたい世界の図書館15選」を公表。第1位に「ヴァスコンセロス図書館」(メキシコシティ、2006年開館)が選ばれた。本棚の飛び出し具合が浮いているようにも見える設計のため、“空中図書館”とも呼ばれる。日本では「まちとしょテラソ」(長野県小布施町立図書館)と「京都マンガミュ-ジアム」(京都市)が見事ノミネ-トされた。「イ-ハト-ブ図書館」もぜひ、この棺桶リスト入りを目指したい。”銀河宇宙図書館”っちゅうのも悪くないな。そんな妄想も膨らむ。ぜひ、みなさんの「おらが図書館」像をお寄せください。

 

 ちなみに、ヴァスコンセロス図書館はメキシコシティの中心街「ブエナ・ビスタ(Buena・Ⅴista)」地区にある。一世を風靡した音楽ドキュメンタリ-映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(1999年)で知られるようなったこの地名はスペイン語で「絶景」を意味する。この市立図書館はいまでは、観光施設としても知られるようになった。イーハトーブの「ブエナ・ビスタ」こそが霊峰・早池峰山ではないだろうか。

 

§

 

 「声なき声」を名乗る方から16日午前、「時間かけ過ぎ」という以下のようなコメントが届いた。「甲論乙駁」(こうろんおつばく)を呼びかけた結果、これまであまり表面化してこなかった貴重な提言をいただいた。手始めに届いたばかりのご意見を以下に掲載します。なお、文中の「ステークホルダ―」とは企業や行政、NPOなどの”利害関係者”を意味する言葉で、図書館などの文化施設を論じる場合はよほど慎重に対処する必要がある。

 

 

 

 いつもブログ拝読しております。最近は新花巻図書館が大きなテ-マとなっているようで、なるほどなぁと思いながら読ませていただいておりました。今回のイ-ハト-ヴ“愚民”さんの意見を、ある種、共感をもって読ませていただきました。因みに私は“親”市長派でも“反”市長派でもありません。

 

 そもそもは「図書館の中身をどうするか」といったことだと思いますが、どうも立地場所に焦点が当たり過ぎている感にもどかしさを抱いています。個人的には、現時点で総合的に判断して駅前立地に賛成の立場ですが、だからといってそこに固執するつもりはありません。それぞれメリット、デメリットがあり、さらに立地場所によって(主たる)ステ-クホルダ-も異なってくる話なので単純に多数決で決められる話でもないと思います。

 

 先日たまたま地域住民の方と話をしたとき「病院跡地には人が住んでほしい。街なかに住みたいという人は一定数いるがその用地がない。街なか人口を増やさないと地域づくりができない。」という意見もありました。それがどうのこうのではなく、こういう話を一つひとつ聞いていくとどうしても判断が難しくなるだろうな、という話です。

 

 それより思うのは、図書館一つ建てるのに時間かけ過ぎというところです。もちろん都市としての図書館の大切さ、市民にとっての関心の高さを考えればある程度のプロセスは必要だともいますが、あまりにも…。声高に主張する動きも声なき声もあることがこれだけ明確な状況ですので、あとは首長判断なんだと思います。その是非は選挙で問われるのでしょう。

 

 最近の街なかは古い建物の解体が進み、民間主導での再生の動きが見られ始めています。行政がこの動きの足を引っ張っている状況、市民の一人として残念でなりません。つまらない意見を書き込んでしまい恐縮ですが、これも声なき声の一つとしてお伝えしたいと思った次第です。駄文、失礼いたしました。

 

 

 

 

 

(写真は「死ぬまで行きたい」図書館のグランプリに輝いた「ヴァスコンセロス図書館」=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

「まぁ読んでみろよ」…イ-ハト-ヴ”愚民”からの伝言!?~甲論乙駁、大歓迎

  • 「まぁ読んでみろよ」…イ-ハト-ヴ”愚民”からの伝言!?~甲論乙駁、大歓迎

 

 「イ-ハト-ヴ愚民」(笑いマ-ク付き)を名乗る人物から14日、「まぁ読んでみろよ」という一言とともに長文の文章がパソコンのコメント欄に届いた。新花巻図書館の立地場所をめぐり、市側が主張する「JR花巻駅前」に賛成する立場の内容で、両論が議論を尽くし合うという観点からは貴重な資料提供と言える。個人的な見解は除き、総論部分を以下に転載する。今回も“覆面”投稿だったのは残念であるが、私はいつでも「聞く耳」だけは開いているつもりである。今後とも、できれば“素顔”での意見開陳を願いたい。「民主主義国」ニッポンーその理想郷・イーハトーブに住まう隣人として…

 

 感想をひと言―「ありがたく読ませていただきました。”坊主憎けりゃ袈裟までも”とか、”反市長派”などという言葉を安易に口にするようでは、あなたの立ち位置を自ら白状するようなもんですよ。図書館問題で市長を擁護したいのなら、もう少し上品で論理的な文章を公表なさってはいかがですか」

 

 

 

 

《今後整備する予定の新図書館の建築場所について》

 

 花巻駅前希望派と総合花巻病院跡地派に2分されている。なんとなく客観的に俯瞰でその構図を眺めると若者意見が駅前派、シニア世代意見が病院跡地派という感じ。駅前派の理由は・車がなくても行きやすい・電車待ちの時間に利用できる・賢治案内コ-ナ-設置により観光客の利用も見込めるなど、具体的な「利用しやすさ」を訴える。

 

 一方の病院跡地派は・早池峰山を一望できる景勝・旧稗貫農学校、旧花巻女学校など賢治ゆかりの地・花巻城の痕跡も残る歴史的な場所という、比較的情緒的な理由だ。現状、市側は駅前優先で検討し、第2候補地として病院跡地を検討していると聞く。当然のことながら、病院跡地派はその方針を覆すべく有志で任意団体を作り、会合を開いたり市政懇談会の場に手分けして参加し、持論を主張する。その結果「意見は病院跡地派が多数」のように見えることになる。なにしろ病院跡地派しか意見を言わないからだ。

 

 まずは、そのことを持ってして「病院跡地を望む市民の声は多数派」という認識は間違っているといえよう。それでは彼らが主張する「市民の声を」という訴えにはサイレントマジョリティが含まれないことになるから。「どっち派か」という問いの前にその点はきちんと認識すべきと考える。事実、高校生、大学生たちから市当局に対して「新図書館を駅前に」という要望書や意見が寄せられている。決して病院跡地派が「市民の総意」ではない。

 

 もうひとつ、病院跡地派は反市長派が中心になっているように見受けられる。「坊主憎けりゃ袈裟までも」になってはいないか?是は是、非は非で考えるべきことと思うのが。そして若者たちの意見に対して「どうせ集まって騒ぐ場所が欲しいだけだろう」という、話が病院跡地派から出されたということも耳にした。それは間違っている。若い世代は真摯に考えている。じゃなければわざわざ要望書を出すなんて面倒なことはしない。若者の声に耳を傾けない姿勢こそが当地の少子化、人口減にも繋がっていると気付いて欲しい。大人だけで何でも決めてしまうまちに若者は魅力を感じるだろうか。

 

 ちなみに、病院跡地派の理由のひとつとして駅前は新たな土地購入により余計に予算が必要というものもあるが病院跡地に建てたとしても、歩道すらまともにない駅前からのアクセスを考えると道路用地買収→整備が必要となるだろう。金がかかるという意味ではどっちもどっちかと思う。

 

 

 

 

(写真は覆面イラスト。最近、こんな仮面をかぶった人間が多いと思う=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記ー1》~図書館問題の賛否で市民アンケ-トを

 

 15日付「岩手日報」論壇欄に「花巻図書館新設案に疑問符」と題する市内のパ-ト女性(67)の投稿が掲載された。市側が第一候補に挙げる「JR花巻駅前」への立地に反対する立場を強調しつつ、賢治ゆかりの花巻農学校跡地(14日付当ブログ「『跡地』今昔物語」参照)に建つ現図書館への立地も検討すべきだと主張。最終的には全市民を対象にしたアンケ-ト実施の必要性も呼びかけている。これまでの市側主導の“立地”論争に一石を投じる貴重な提言である。

 

 

《追記―2》~場所なんて正直どうでもいい

 

 イ-ハト-ヴ“愚民”(笑マ-クさん)から15日午前、以下のような連投があった。図書館問題に熱心なお方のようである。

 

 「思うに立地場所の選定に囚われすぎてないですかね?どこに建てるかもそうだけど、どんな図書館にするかの方がもっと大事。だってそこに魅力がなきゃどれだけいい場所に建てたって人は集まらないでしょ。早池峰山を一望できるから花巻病院跡地?(笑)だったら図書館じゃなくて展望台でも作ればよくね?ってか今の更地のままでいいじゃん(笑)。早池峰山を眺めるために図書館に行かないでしょ(笑)。議論の焦点が全然的外れなんだよな~」

 

 

 

 

 

 

 

 

賢治ゆかり…「跡地」今昔物語~「旧花農」跡地を文教地区に!!

  • 賢治ゆかり…「跡地」今昔物語~「旧花農」跡地を文教地区に!!

 

 「日ハ君臨シ カガヤキハ/白金ノアメ ソソギタリ/ワレラハ黒キ ツチニ俯シ/マコトノクサノ タネマケリ」…。流れ落ちる涙をこぶしで拭いながら、”放歌高吟”する行列を私はまるで、天から降臨した尊きものに接するような面持ちで眺めていた。幼少時、私は旧花巻農学校近くの“農学校通り”に住んでいた。卒業式を終えた花農生たちは宮沢賢治が作詞したこの歌を大声で歌いながら、学び舎を去っていった。

 

 賢治は大正10(1921)年から4年余り、同校で教鞭を取った。当時、校歌を持たなかった生徒たちのために作ったのが冒頭の「花巻農学校精神歌」で、いまでは市民歌としても定着している。同校は昭和44(1969)年に閉鎖になり、現在地に移転した。当時の市長は「旧花農」跡地を宅地として分譲する計画を打ち出した。反対ののろしを上げたのは同窓会長で賢治研究者でもあった故照井謹二郎さんだった。「賢治の里にユネスコの火を灯そう」―。当時、花巻ユネスコ協会の立ち上げに尽力した同校教員の押切郁さん(93)らも加わり、「賢治ゆかりの地を文教地区」へという市民運動が燎原の火のように広がった。

 

 「10以上の各種団体が賛同してくれた。当時の趣意書は大事に取ってある」―。まだ、矍鑠(かくしゃく)たる押切さんはこう続けた。「新図書館の立地問題が迷走するのを見てもう、黙ってはおられなくなった。旧病院跡地も賢治ゆかりの地という意味では同じ。あの時の市民が一致団結した熱気を伝えたい。私にはもうあまり、時間が残されていないのよ」―。押切さんたちの粘り強い運動が実り、閉鎖から4年後に旧花農跡地は現花巻市立図書館と文化会館、それに「ぎんどろ公園」を併設した一大文教地区に生まれ変わった。

 

 「JR花巻駅前か旧花巻病院跡地か」―。あれから、ちょうど半世紀を迎えたいま、目の前ではどこに建てるかという“立地”論争が迷走の極を迎えている。「イ-ハト-ブ図書館をつくる会」などの市民グル-プが旧病院跡地への立地を上田東一市長に対して要望するなどの新しい市民の動きも出てきた。押切さんが力を込めて言った。「私はもう、何時あの世に呼ばれたっておかしくない。だから毎日、手紙を書いたり、電話をしたり、時には出かけて行って直接、話をしたりと忙しいの。でもね、あの時の高揚した気持ちが背中を押してくれるんだよね」

 

 「イ-ハト-ブ高校」―。かつて、学校名をめぐってこんな“校名”論争があった。20年前の2003年、花巻農高と北上農高とが統合された際に起きたのがこの論争である。北上側のこの提案に対し、「やはり、賢治さんの息づかいが聞こえる今のままで…」と主張する花巻側に軍配が上がった。そしていま、「イ-ハト-ブ図書館」の建設を望む声が日増しにふえつづけている。100年ぶりに旧病院跡地の背後から霊峰・早池峰山がその雄姿を現したと思ったら、50年ぶりに移転するその移転先に急浮上したのがこの跡地…。それにしても「歴史は繰り返す」というのか、「歴史の縁(えにし)」の不思議に驚愕(きょうがく)さえ覚えてしまう。

 

 久しぶりに賢治が愛したぎんどろの木が植えられた「ぎんどろ公園」を散策した。「風の又三郎」の石像群や詩碑などが点在する園内で風雪に耐えた木塔に再会した。精神歌の一節が刻まれた野太い筆字が目に飛び込んできた。「我等は黒き土ニフシ/マコトノ草ノ種マケリ」―。その精神歌はこう閉じられる。「日ハ君臨シ カガヤキノ/太陽系ハ マヒルナリ/ケハシキタビノ ナカニシテ/ワレラヒカリノ ミチヲフム」。当ブログのタイトル「ヒカリノミチ通信」はその精神を大切にしたいという思いから、賢治さんから勝手に借用して命名したものである。

 

 

 

 

(写真は賢治が教鞭を取った時代の旧花巻農学校の玄関口。この桜の木は私の記憶にも残っている=インタ-ネット上に公開の写真から)