HOME > 記事一覧

議会が市民に背を向けた日…「活性化」陳情が一転、否決へ~”死亡宣告”!!??

  • 議会が市民に背を向けた日…「活性化」陳情が一転、否決へ~”死亡宣告”!!??

 

 つい4日前の花巻市議会議会運営委員会(佐藤峰樹委員長ら8人)で採択された「議会活性化」を求める陳情(3月13日付当ブログ参照)が16日開催の3月定例会最終日で一転して否決された。「数の論理」から見れば、この結果は当然予想されたことではあったが、その強引な手法の背後に議員としての使命を放棄した「資質の劣化」を見せつけられた思いがした。単なる陳情の否決という手続きを超えたその光景は互いに監視し合うという「二元代表制」を自ら葬り去った“死亡宣告”の瞬間でもあった。

 

 たとえば、喫緊の懸案である新花巻図書館について、私は陳情の中でこう主張した。「図書館の立地場所については市側が第一候補地に挙げている駅前のJR用地に対し、旧花巻病院跡地を希望する市民が日を追うごとに増え続け、過日の議会報告会でもそのことが示された。さらにこの二つの案件に関し、市側はそれぞれが別々の構想であると主張する一方で、議会側の一般質問では実はワンセットではないかという”疑念“が浮上するなど市民の間に混乱を生じさせている。市民の正常な判断を促すためにも『二元代表制』の一方を担う議会側に対し、可及的すみやかに議員相互間の議論を尽くすことを求めるものである」

 

 「図書館については過去の『新花巻図書館整備特別委員会』の場において、全議員が参加する形で議論が尽くされ、市有地への立地などの提言がなされている。市側もこの提言をきちんと受け止め、今後の方向性もはっきり示している。自由討議の必要性ない」―。滔々と反対討論を述べる及川恒雄議員(明和会)の顔を私はあっけにとられた気持ちで見つめていた。当時まだ、議員職にないこの人がなぜ、図書館特別委の経過説明に立たなければならないのか。反対討論を展開するのなら、当時その任にあった現職議員が当たるのが最低限のルールではないのか。余りにも市民をバカにした振る舞いではないないか。

 

 及川議員ら8人は昨年夏の市議選で当選した新人議員。図書館特別委はそれ以前の令和2(2020)年の12月定例会をもって解散、すでに2年以上が経過している。当選以降、図書館問題を一般質問で取り上げた新人議員はたった一人で、及川議員に至っては今回の3月定例会で初めて登壇し、その際もこの一件に言及はなかった。新人議員ならなおさらのこと、図書館特別委の存続を望むのが普通の感覚ではないのか。「見てきたようなウソをつき」…これではまるで、詐欺師の口上ではないかとざわッととした。

 

 一方、図書館に関連して提出されていた「新花巻図書館整備事業の所管事務調査を求める」陳情について、所管の文教福祉常任委員会(照井省三委員長ら8人)は及川議員と同じ理由で「その必要はない」という報告をした。実は当該陳情については所管委員会の審査の段階でも不採択になった経緯がある。この日の質疑で照井委員長が今後の調査に含みを持たせる発言をしたため、「採択することによって、逆に図書館本体の進捗に支障が出る」というこれまた、訳の分からない理由でいったんは不採択に同意した共産党市議団もこの日の採決では採択に回った。

 

 いずれにせよ、“密室”でのこの迷走ぶりを理解できる市民はほとんどおるまいと思う。ことはいとも単純である。この陳情に賛成討論をした伊藤盛幸議員(はなまき市民クラブ)の次の発言を全議員は肝に銘じるべきであろう。「このような陳情が議会に出されたということ自体について、議会も議員も反省すべきではないか」。そしてまた、「おまかせ民主主義」のツケもブーメランのようにはね返ってくるということを我われ市民の側も学ばなけれなならない。二つの陳情に対するこの日の賛否(議長を除く)は反対14VS賛成11。以下に会派別の内訳を記す。

 

 

反対(不採択)~明和会(8人)、社民クラブ(3人)、無会派(公明党、2人)、無会派(無所属、1人)

 

賛成(採択)~はなまき市民クラブ(7人)、日本共産党花巻市議団議員団(3人)、無会派(無所属、1人)

 

 

 

 

(写真は議会”改革”を求める陳情2件が否決された議会の光景。起立しているのが賛成議員=3月16日、花巻市議会議場で。インタ-ネットによる議会中継の画面から)

 

薄氷の採択…崖っぷちの花巻市議会~「議会活性化」陳情と二つの”護憲”

  • 薄氷の採択…崖っぷちの花巻市議会~「議会活性化」陳情と二つの”護憲”

 

 「不採択にする理由が見当たらない」―。花巻市議会3月定例会に提出していた「議会の活性化」を求める陳情(2月9日付当ブログに陳情書の全文)の審査が13日開会の議会運営委委員会(佐藤峰樹委員長ら8人)で行われ、賛成4VS反対3の僅差で採択された。参考人として出席した私はむしろ、不採択を主張した委員が3人もいたことに当議会の機能不全ぶりを見た思いがした。迷走を続ける新花巻図書館やJR花巻駅橋上化(東西自由通路)などの懸案について、合意形成に向けて議員間で討議を尽くすべきではないか―「花巻市議会基本条例」(2010年6月制定)に規定する「自由討議による合意形成」(第16条)を求める陳情趣旨の冒頭、私は条例の前文をあえて引用した。

 

 「地方分権の時代にあって、自治体の自主的な意思決定と責任の範囲が拡大した今日、議会の果たすべき役割は確実に増してきており、自治体政策を審議する場合において、その論点、争点を市民に明らかにし、持てる権能を十分に駆使し、議決機関としての責務を果たさなければならない。このような使命を達成するため、議会は主権者である市民の代表機関であることを常に自覚し、市民との関係、市長その他の執行機関との関係、議会の活動原則及び議員の活動原則等を定め、市民の信託に全力で応えていくことを決意し、議会の最高規範としてこの条例を制定する」

 

 これに対し、たとえば新図書館問題については「全議員で組織した『新花巻図書館整備特別委員会』で議論を尽くしたと思っている。この時点で合意形成はできているのではないか」(高橋修議員、明和会)などと不採択の理由を述べた。一方当時、特別委員会の委員長だった伊藤盛幸議員(はなまき市民クラブ)はこう反論した。「当委員会は2年以上も前に解散され、その後、立地場所の有力候補地として花巻病院跡地が浮上するなど立地環境が一変した。市側が第1候補に挙げるJR花巻駅前の土地譲渡交渉も遅々として進まず、市民の間には先行きに不安を訴える声も大きい。だからこそ、条例の理念にのっとり、問題点を整理して市民に示すのが議会の責務ではないか」

 

 「議会基本条例」は議会側が自らを律するために自らが定めた「最高規範」―言ってみれば「憲法」にも相当する。その憲法第99条は議員も含めたすべての公務員に対して「遵守義務」を課している。そもそも、「お願いですから、その“憲法”を守ってください」という陳情を出させる側の倒錯ぶりにこそ、仰天すべきである。市長与党を自認する「明和会」(自民党系、8人)は最初から「員数外」としても、”護憲”政党・社民党傘下の「社民クラブ」(3人)がその戦列に名を連ねていることは、“イ-ハト-ブ”議会の七不思議のひとつとして記憶にとどめておきたい。なお、同会派に籍を置く照井省三議員は上田東一市長の後援会事務局長の肩書を持っているが、そのことを恬(てん)として恥じる気配は全く感じられない。

 

 以下に今回の陳情審査の賛否者(委員長を除く)の氏名を記す(敬称略)

 

不採択者~高橋修、横田忍(明和会)、若柳良明(社民クラブ)

採択者~伊藤盛幸、佐藤現、羽山るみ子(はなまき市民クラブ、7人)、櫻井肇(日本共産党花巻市議会議員団、3人)

 

 

 

(写真は4人の挙手で陳情が辛うじて採択された瞬間=3月13日午後、花巻市議会委員会室で)

 

 

 

《追記》~”護憲”作家の大江健三郎さんが死去

 

 ノ-ベル文学賞を受賞した作家で、護憲の立場から言論活動を展開した大江健三郎さんが3日未明、老衰のため死去した。88歳。講談社が13日午後、発表した。同社によると、大江さんは愛媛県生まれ。1958年、23歳のときに「飼育」で芥川賞を受賞するなど数々の文学賞を受賞し、94年にはノ-ベル文学賞を受賞した。68年の川端康成に次いで日本人として2人目だった。2004年には「九条の会」、福島第一原発事故後には脱原発を訴える「さようなら原発1000万人アクション」の呼びかけ人の一人となり、集会やデモなどで活動してきた(13日付「東京新聞」デジタル版)

 

 

東日本大震災から12年…「その後」のいま、被災者は~そして、私のこと

  • 東日本大震災から12年…「その後」のいま、被災者は~そして、私のこと

 

 東日本大震災から12年(13回忌)のこの日、私は83歳の誕生日を迎えた。「3・11」というこの日付の符合が単なる偶然ではなく、「忘れるな」という“必然”の理(ことわり)のような気がする。私たち有志は震災直後に支援組織「ぼくらの復興支援―ゆいっこ花巻」を立ち上げた。その設立趣旨書はこう結ばれている。「何をやるべきか、何をやらなければならないか。走りながら考え、みんなで知恵を出し合おうではありませんか。試されているのは私たち自身の側なのです」

 

 午後2時46分―。花巻市内の妙円寺では12年前のこの時刻に合わせ、被災者や支援者が鐘を突きながら、手を合わせた。福島第一原発に近接する南相馬市小高地区から移住した泉田ユキイさん(79)の姿もあった。「愛犬のコロを残したまま、避難してきたことが悔やまれて…。で、避難が一時解除された約1か月後に連れ帰った。放射能まみれの体に熱湯をかけて洗い流したけど、1年後に死んでしまった」―。12年前の会話が昨日のことのようによみがえった。「白骨化した牛の死骸、骨と皮になってヨロヨロとさ迷う牛の群れ、餓死した犬や猫…。置き去りにされた犬同士が産み落とした子犬は人間という存在さえ知らないらしいの。原発事故は許せないけど、人間の業(ごう)みたいなものも感じてしまって…」

 「震災その後」はある意味で、記憶の風化との抗(あらが)いの時空である。「『あの日』に何があったかも大切かもしれないけれど、『その後』どうしていくかが文学的には大切だろうと思っていた。大事なのは戦争文学ではなく戦後文学、震災文学ではなく震災後文学であろうと」(3月10日付「朝日新聞」木村朗子・津田塾大教授)―。12年の節目を前にして、今年の芥川賞受賞作『荒地の家族』(佐藤厚志著)とベルリン国際映画祭に参加して注目されたアニメ映画『すずめの戸締り』(新海誠監督)と向き合った。「『その後』に終わりはない。それは永遠に続く」というメッセ-ジに深く納得した。

 

 私の身辺の「その後」にも当然ながら、色んなことがあった。妻と死別し、多くの友人・知人に別れを告げた。そして、母親と妻、一人娘を津波に奪われ、行方不明のままだった大槌町の知人、白銀照男さん(享年73歳)が3人の”帰還”を待ちくたびれたかのようにして、昨年12月21日に旅立った。さらに、この日の震災追悼式の祭主を務めるはずだった同寺の住職、林正文さん(享年87歳)も先月15日、鬼籍の人となった。生々流転(せいせいるてん)…。月並みながら、こんな言葉が去来する。「3・11」が巡りくるたびに私はそっと、「死その後」ものぞいてみたくなる。そして、思う。「そこにはきっと、再生の光も見えるはずだ」―と

 

 

 

 

(写真は梵鐘を突く泉田さん=3月11日午後、花巻市愛宕町の妙円寺境内で)

「JR花巻駅橋上化」戦争が終結…“ワンセット”疑惑など真相は闇の中

  • 「JR花巻駅橋上化」戦争が終結…“ワンセット”疑惑など真相は闇の中

 

 「JR花巻駅橋上化」にかかる関連予算が9日開会の花巻市議会予算特別委員会の最終日で可決され、2年間にわたった“橋上化”戦争の攻防に終止符が打たれた。この日上程された「JR花巻駅東西自由通路等整備事業」(3,178千円)については、櫻井肇議員(共産党花巻市議団)と本舘憲一議員(はなまき市民クラブ)が「実質的な新駅建設で、投資効果上も疑義がある。さらに、その手法に透明性が欠ける。受益のほとんどがJRなのに市が事業主体になっているのは納得できない」などとして反対討論をした。採決の結果、賛成18VS反対6で、当初予算は原案通り可決された。昨年夏の市議選で市長与党と目される「明和会」(8人)が議員数の一番多い“第1会派”となったことも今回の逆転劇を後押ししたと言える。

 

 この案件については2年前の3月定例会(2021年)で、整備にかかる調査費(2,603万円)が「より多くの市民の意見を聞くべきだ」として、14対11の賛成多数で否決された経緯がある。その直後、各種団体から橋上化推進の要望が相次ぎ、“やらせ要望”ではないかなどと迷走を繰り返した。こんな中、市側は6月定例会に同額の予算を再上程し、議会側は①花巻駅利用者を含め、より多くの市民の意見聴取を図りながら、調査実施に努めること、②調査結果は速やかに市民や議会に公表し、事業実施の際は市民参画を図りながら進めること、③JR東日本との協議においては、応分の負担を強く求める等、事業費の圧縮に努めること―の3項目の付帯決議を付して、可決した。

 

 「(JR所有の)駅前の土地については、購入するためにJR本社の社長の許可が必要となる。現在でも盛岡支社と話し合いをしているが、花巻市としてJRの社長が許可を出した際には図書館を建設するという決定に近い話がなければ社長に話せないと言われている。JRは花巻駅の橋上化をやりたいと思っており、橋上化の話が進めば、土地の売買について真剣に話をしてくれる可能性はある。橋上化がなくなった際には、駅前に図書館を建設することについてもどうなるか分からない」(2022年6月28日開催の松園地区の市政懇談会での市長発言)―。こうした中で突然浮上したのが、橋上化と新花巻図書館の駅前立地との“ワンセット”疑惑だった。

 

 昨年の9月定例会で伊藤盛幸議員(はなまき市民クラブ)がこの点をただしたのに対し、上田東一市長は「反問権」を振りかざしながら、こう抗弁した。「言葉尻をとらえるのでなく、互いに前向きに検討していこうではありませんか。仮に図書館が駅前のJR所有地に立地できなかったとしても、駅周辺の活性化のため、橋上化は着実に進めていきたい」―。この日の予算審議で橋上化路線に急発進の舵を切った一方で、逆に注目を浴びるのは“ワンセット”とのもうひとつのプロジェクトである新花巻図書館の行方である。

 

 その立地場所としては市側が第1候補に挙げるJR所有の駅前スポ-ツ店用地に代わって、旧総合花巻病院跡地が有力候補地として市民の関心を集めている。この日の委員会でも久保田彰孝議員(共産党花巻市議団)はこう力説した。「市民の健康を守ってきた花巻病院の創立から今年がちょうど100周年。眼下に町並みを望み、背後に霊峰・早池峰を背負うこの景観こそが図書館立地の最適地。この光景を実際に見た市民の多くが、ここしかないと言っている。市長の決断を促したい」―。“別物”論を掲げる上田市長がどう決断するのか。さらに立地場所について、駅前と病院跡地とに分かれた市民の意見集約を今後、どのような方法で集約しようとするのか―その一挙手一投足から目が離せない。

 

 

 

 

 

(写真は橋上化“戦争”に終結を告げた瞬間。最上段の右端が高橋議員。今後の市民の関心は新図書館の立地場所に=3月9日午前、花巻市議会議場で。インタ-ネットの議会中継の画面から)

 

 

 

《追記》~“二枚舌”議員の矜持とは!?

 

 「巨額な予算を要する公共施設の事業実施可否は、市民参画ガイドラインの中でも示されているとおり、建設の趣旨が市全域に関わり、多くの市民が等しく利用できる施設であるか否かについて、その必要性、将来性を、今後の財政状況を見据えながら、この本会議場で採決されるべきものであります」―。2年前の3月定例会一般質問でこう述べ、橋上化関連予算案に反対の意思表示をした高橋修議員(明和会、当時は「市民クラブ」所属)がこの日は一転、賛成に回った。状況に応じて考えが変わるのはあり得ることであるし、あってしかるべきことでもあるが、こう大見えを切った以上は堂々と”賛成”討論を披歴するのが、議員たるものの最低限の矜持(きょうじ=たしなみ)というものであろう。

 

 

 

 

夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その5)~キラ星の〝賢治人脈図〟

  • 夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その5)~キラ星の〝賢治人脈図〟

 

 「ぼくの好きな宮沢さんの『雨ニモマケズ』という詩が学校の天井に貼ってありました。ぼくはいつでもその下でそれを眺めていました。これはどういう人で、どういうことを考えていたかということを、毎日のように思っていました。こんな人に俺もなれるんじゃないかと思ったこと自体が、もうお話にならない。ばかげた青春のいたずらだと思います」―。評論家、吉本隆明さん(1924-2012年)の開口一番に私は思わず、腰を抜かしそうになった。戦後最大の思想家ともいわれた“巨人”はこう、続けた。「ぼくはこれまで、いろんな人の悪口を言ってきましたが、言わなかった人っていうのは、宮沢賢治ぐらいです」

 

 自著に『宮沢賢治』(1989年)や『宮沢賢治の世界』(2012年、没後刊)を持つこの巨人は、私たちの世代にとっては思想界の旗手ともてはやされていた。とくに、「遠野物語」や「古事記」に光を当てた代表作『共同幻想論』(1968年)はまるでバイブル視されて、回し読みされた。車いすに身を沈めたその人が目の前で自在な“賢治論”をぶっている。時はさかのぼること14年前の「宮沢賢治賞・イ-ハト-ブ賞」の授賞式…吉本さんは2009年、第19回賢治賞を受賞した。

 

 「宮沢さんははじめっから、関係は横に求めることよりも縦に求めようじゃないか。つまり、自分は銀河系の一員である。銀河系の、地球をめぐらしている太陽系の中の陸中のイ-ハト-ブなんていうふうに宮沢さんは言っている。となりの人と関係してというよりも真っ先に、人は天の星と関係していると考えている。宮沢さんの思想というのはそこから生まれてきたんです」―。受賞あいさつを聞きながら、この巨人をしてこう言わしめる「賢治」という存在の大きさに逆に圧倒されそうになった。

 

 「この土地で『なぜ20年も働いてきたのか。その原動力は何か』と、しばしば人に尋ねられます。人類愛というのも面映(おもはゆ)いし、道楽だと呼ぶのは余りに露悪的だし、自分にさしたる信念や宗教的信仰がある訳でもありません。良く分からないのです。でも返答に窮したときに思い出すのは、賢治の『セロ弾きのゴ-シュ』の話です」―。3年前、アフガニスタンでテロの凶弾に倒れた医師の中村哲さん(享年73)は2004年、第14回イ-ハト-ブ賞を受賞。現地から「わが内なるゴーシュ、愚直さが踏みとどまらせた現地」と題したこんなメッセ-ジを寄せた。

 

 中村さんの母方の伯父は作家の火野葦平で、外祖父は日本有数の炭鉱地帯・筑豊の荷役を一手に請け負ったヤクザ(任侠)の血を引く玉井金五郎である。火野の長編小説『花と竜』は父親の玉井をモデルにした作品で、映画化もされた。受賞後、中村さんが講演のために当地を訪れたことがあった。質問の段になって、私は手をあげた。「中村さんの中にはヤクザの血が流れているんじゃないですか。ぶれることのない姿勢を見ているとそうとしか思えないんですが…」―。内心、ぶしつけな質問かと思ったが、ひげ面の中村さんはニャッと笑って答えた。「実は私もそう思っているんですよ」

 

 「荒野に希望の灯をともす」―。井戸や用水路を掘り、アフガンの荒地に緑をよみがえらせた中村さんの35年間の記録が昨年、映画化された。絶筆となった『わたしは「セロ弾きのゴ-シュ」』(2021年10月、没後刊)は自らをゴ-シュの“愚直さ”と重ねた自画像ともいえる。それにしても、賢治が蒔(ま)いた「マコトノクサノタネ」(「花巻農学校精神歌」)が人知を凌駕する幾多の人材を生み出してきた事実に瞠目させられる。キラ星のような「賢治人脈」の一端を「宮澤賢治賞・イ-ハト-ブ賞」の受賞者の中から、以下に紹介する。たとえば、”銀河鉄道始発駅”みたいな人脈コーナーを設置すれば、「イ-ハト-ブ図書館」の売りになること請け合いである。

 

 1991年に創設された二つの賞の受賞者は奨励賞を含めると、賢治賞が68個人・団体、イーハトーブ賞が65個人・団体の計133に上る。

 

 

・高木仁三郎(物理学者)~1995年第5回イ-ハト-ブ賞

・井上ひさし(作家)~1999年第9回同賞

・池澤夏樹(作家)~2003年第13回賢治賞

・中村哲(医師)~2004年第14回イ-ハト-ブ賞

・高橋源一郎(作家)~2006年第16回賢治賞

・ロジャ-・パルバ-ス(作家、翻訳家)~2008年第18回同賞

・吉本隆明(評論家)~2009年第19回同賞

・むの たけじ(ジャ-ナリスト)~2012年第22回イ-ハト-ブ賞

・冨田勲(シンセサイザ-奏者)~2013年第23回賢治賞

・藤城清治(影絵作家)~2014年第24回同賞

・高畑勲(アニメ作家)~2015年第25回イ-ハト-ブ賞

・色川大吉(歴史家)~2017年第27回同賞

・北川フラム(ア-トディレクタ-)~2019年第29回賢治賞

・今福龍太(文化人類学者)~2020年第30回同賞

・毛利衛(宇宙飛行士)~2021年第31回イ-ハト-ブ賞

 

 

 

 

(写真は故中村哲さんの足跡を記録した映画ポスタ-=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~人生の羅針盤

 

 私が新聞記者として初めて遭遇した最大の出来事は「三池炭鉱炭じん爆発事故」(1963年=福岡県大牟田市)で被災し、重篤な後遺症に苦しむ患者たちの取材だった。458人が死亡し、839人が不治の病と言われた「一酸化炭素(CO)中毒」に侵された。九州大学医学部を卒業した中村さんがその時、若き精神科医の研修生として、患者の治療に奔走していたことをあとで知った。当時、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の現場で、互いにすれ違っていたかもしれない。いま思えば、その時の運命的な”出会い”が6歳年下ながら、私が彼を人生の師と仰ぐきっかけだったように思う。故中村医師のそれが賢治、いやゴ-シュであったように…