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美しい距離

  • 美しい距離

 

 「神さまたちが降り立ったみたいだよ」―。亡き妻の居室ごしに遠望できる霊峰・早池峰山(1917㍍)の初冠雪はこうやって、私に告げられるのが常だった。「山はもう冬だがね」という来訪者の言葉にハッとした。振り向くと、てっぺんは真っ白だった。10月末にうっすらと積もったという。ご託宣(たくせん)役だった妻の死から今日11月5日でちょうど「百ヶ日」を迎えた。仏教ではこの日を「嘆き悲しむことを終わらせる」という意味で「卒哭忌」(そっこくき)と呼ぶのだという。「仏式というやつは随分と押しつけがましい」(9月25日付当ブログ「サンゴ礁の海へ」参照)と悪態をついたのはつい1ケ月余り前のことだった。そして、あっちへこっちへの右往左往の日々…。

 

 「人は死んだらお山に還っていくんだよ」―。『遠野物語』の遠野に暮らしていた祖母は北上山地の最高峰である早池峰山を仰ぎながら、幼い私にそう語って聞かせたものだった。妻がそのお山をながめ暮らした部屋に座してみる。人家がまばらに点在する平野部から里山へ、さらに幾重かに前後する奥山をたどっていくと、霊峰はそのさらに上でキラキラと輝いていた。この光景はやはり「神々しい」としか表現のしようがない。「そうか、妻はこの道筋を逆にたどりながら、きっと神々の領域に行きついたということなのかもしれない」。素直にそんな気持ちになれたような気がした。私はずっと「喪失感」という独りよがりな言葉で、妻の死を語り続けてきたのではなかったのか。

 

 そんな折、沖縄・石垣島に住む娘から「死んだ人との関係?が私はなるほどな~と思いました」と一冊の本が送られてきた。『美しい距離』(2016年7月刊)―。作者は小説家の山崎ナオコ-ラさん(40)。名前を知っている程度でもちろん読んだことはない。2年前に芥川賞候補になり、昨年は島清恋愛文学賞を受賞した。末期がんにおかされた妻と看護にあたる夫やその周辺との「距離感」を描いている。主人公の夫婦はともに40代初めで、年齢差を除いては私たち夫婦の場合と似通っている。こんな一節にぎくりとした。

 

 「ビジネスバッグから爪切りとビニ-ルテ-プを取り出し、爪切りの両脇にビニ-ルテ-プを貼る。爪が爪切りの横から飛ばないように留めるのだ。細い右手を取る。ぷちんぷちんと白い部分に刃を入れていく。三日月形がビニ-ルテ-プのべたべたした面にくっ付いていく。ぷちんぷちんという音に夢中になる。ぎょっとするほど楽しい。この愉悦はなんだろう。好きな人の爪を切るというのは、こんなにも面白いことだったのか」―。二人は爪切りの前段で、こんな会話を交わしている。●~「…ツ、爪を切ってあげようか?」。勇気を振り絞って言ってみた。少しだけ、声が掠(かす)れた。「うん、頼むわ」。にこにこと答える。言ってしまえば、簡単な遣り取りになった。それなら、もっと早く言えば良かった~●

 

 死の1カ月ほど前から、私の妻はほとんど寝たっきりの状態になった。ヘルパ-の力も借りたが、入浴だけは他人じゃイヤだと言った。全身をきれいに洗い流す介助役をやった。やらざるを得なかったというのが本音だった。結婚して初めての経験だった。「お母さんには羞恥心(しゅうちしん)がなくなったの」とさりげなく聞いてみた。「ほかの男にはあるわよ。でもね、あんたになんかはとっくに」…。顔を見合わせながら、大笑いをした、距離がぐんと近くなったような気がした。息を引き取ったのはその数日後のことだった。作中の夫婦との会話にうなずきながら、その近似性になんだかホッとさせられた。

 

 妻の死を語る時、私は「喪失感」というある種、安易な常とう句に身をゆだねすぎてはいなかったか。生き残された自分の都合だけを語り、逝(ゆ)きしものについては実は何も語っていなかったのではないか―。『美しい距離』はこんな文章で結ばれている。

 

 「1年が過ぎ、墓を建てて納骨し、どんどん妻と離れていく。…墓の前で手を合わせると、尊敬語も謙譲語も出てくるようになった。出会ってから急速に近づいて、敬語を使わなくなり、ざっくばらんな言葉で会話し始めたとき、妻との間が縮まったように感じられて嬉しかった。でも、関係が遠くなるのも乙(おつ)なものだ。淡いのも濃いのも近いのも遠いのも、すべての関係が光っている。遠くても、関係さえあればいい。宇宙は膨張を続けている。エントロピ-は常に増大している。だから、人と人との距離はいつも離れ続ける。離れよう、離れようとする動きが、明るい線を描いていく」―

 

 霊峰の峰々に反射する雪はやがては消え、そして、、ふたたび降り積もる。一度、姿を隠した神々はまた、同じ姿で戻ってくる。このようにして「降臨」は永遠に繰り返される。この小説は死を描きながら、一方で「死して生きる」という往還の不滅を暗示した物語でもあるのだと思う。神々が宿る霊山―「早池峰」は今日も頭上でキラキラと輝いている。この道筋こそが私にとっての文字通りの「美しい距離」なのかもしれない。

 

 

 

(写真は天空高く光り輝く霊峰・早池峰=11月2日朝、花巻市桜町3丁目の自宅から)

 

“三無主義”と散骨の風景

  • “三無主義”と散骨の風景

 

 

 「ア-・マイ・ティ-チャ-」(a My Teacher)、やめましょう」―。私の中学時代のことだから、もう60年以上も前のことになる。旧花巻市内の中心部にある寺の本堂から、こんな場違いな声が流れていた。「所有格(My)の前に冠詞(a)をつけたら間違いですよ」―。読経ならぬ英語学習の“寺子屋”が開かれていたのは浄土真宗(本願寺派)の専念寺。私も塾生の一人だったが、この寺の長男だった山折哲雄さんが時折、ピンチヒッタ-で教壇に立つのが何よりの楽しみだった。当時は東北大学でインド哲学を学ぶ学生だったが、その型破りな講義は鮮明な記憶として残っている。そういえば、花巻の中学生の英語力が県内で群を抜いていることが話題になったのもこの頃のことだった。

 

 大分遠回りをして、この“恩師”との再会を果たしたのは新聞社を定年退職した後である。当時の山折さんは著名な宗教学者として、すでに名を成していた。2002年、秋田を拠点に活動している劇団「わらび座」が蝦夷(えみし)の英雄・アテルイをミュ-ジカルに仕立てた公演を企画した。仲間と相談し、当時、国際日本文化研究センタ-所長だった山折さんを引っ張り出すことした。わらび座の公演(11月14日、花巻市文化会館)の前後に全5回の「アテルイ没後1200年企画・連続公開講座」を開催し、そのメ-ンに山折さんの講演会を据えた。タイトルは「いま、なぜアテルイなのか」―。

 

 「ブ-ム先行のきらいがある中で、その背景に広がる精神史を浮き彫りにする。宮沢賢治の詩『原体剣舞連』の中になぜ、『悪路王』(アテルイ)が登場するのか。その分析を通して、縄文から古代東北、さらには現代へとつながる東北の原像に迫る」―。事務局長役だった私はチラシにこう書いた。いま考えれば、随分と力の入った文章だと思うが、大ホ-ルに立ち見が出るほどの盛況だった。縄文ブ-ムの相乗効果が思わぬ形で実証されたのかもしれなかった。その後も東日本大震災をきっかけに講師を依頼したり(2018年9月1日付当ブログ「ヒカリノミチ」参照)、「死生観」を語る諸著作に刺激を受け続けてきた。その山折さんに“異変”を感じたのはいつ頃のことだったろうか。

 

 「葬式はしない。お墓は作らない。遺骨は散骨する(残さない)」―。僧職の資格を有する山折さんがこうした“三無主義”を公に口にするようになった時は正直、面食らった。「兄貴があっちこっちで吹いて回るもんだから…」と現住職の弟さんも苦笑いを隠さなかった。そりゃ、そう。「檀家追放」宣言に等しいからである。でも、私はいつしかこのしなやかな「型破り」に賛同したくなっていた。英語教師だったころの恩師の面影がよみがえったのである。『わたしが死について語るなら』と題する著作の中で、山折さんは宮沢賢治の文章の一節「われら、まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」(『農民芸術概論綱要』)―を引用して、こう記している。

 

 「死んだときは、私は故郷の寺(専念寺)の墓に入るのではなく、『散骨』(さんこつ)にしてほしいと望んでいます。散骨というのは自分の遺体が、焼かれたあと、その骨灰を粉にして自然の中にまくということです。海や山や川にすこしずつまいてもらえればそれでいいと思っているのです。…妻と私のどちらか生き残った方が、ゆかりの場所をたずね歩き、灰にしたのを一握りずつまいて歩く。遺灰(いはい)になったものはじつに浄(きよ)らなものです。やがて土に帰っていくことでしょう」―。児童向けと、山折さんが好んで使う「末期高齢者」(年長者)向けに書かれたこの本は87歳になる宗教学者の文字通り、型破りの”遺言状”なのかもしれない。

 

 亡き妻は孫たちが住む沖縄・石垣島を訪れるたびに沖縄伝統の魔除けの「シ-サ-」を買い集め、わが家のウッドデッキはそのオンパレ-ドである。大きな口をあいて豪傑笑いをするもの、茶目っ気たっぷりにウインクするもの…。こんなシ-サ-たちに見守られ、妻は12月1日、石垣島沖のサンゴ礁の海に旅立つ。大勢の“護衛”を従えての別離だから、もう心配は無用である。妻も私もいつの間にか、“三無主義”の信奉者になっていたのだった。

 

 ついでにひと言…山折さんは今秋、花巻市の名誉市民の第1号に選ばれた。常識にとらわれない破天荒な理論を展開してきたこの老学者の今回の栄誉を喜びたい。が一方で、個人情報を理由に選考委員会は非公開とされ、選考理由についても詳細は市民に知らされていない。「この条例は、市勢の発展又は市の名誉・名声の高揚に著しく貢献した者に対して、花巻市名誉市民の称号を贈り、その功労に報いるとともに後世までその功績を顕彰することを目的とする」(平成30年6月制定「花巻名誉市民条例」)―。6人の選考委員がたとえば、この異端ともいえる“三無主義”にいかなる意見を開陳したのか、小生などは興味が引かれる部分である。

 

 

(写真はユ-モアたっぷりの表情のシ-サ-たち。亡き妻の先導役をよろしく=花巻市桜町の自宅で)

 

 

 

 

 

 

「アラセブ」軍団の解散と”敗北者”宣言

  • 「アラセブ」軍団の解散と”敗北者”宣言

 

 

 「アラセブ」(70歳)、最期の決断→「アレセブ」(74歳)、再度の挑戦……。2期8年間の議員生活を支えてくれた「増子義久を支える会」(小田島剛三会長)の解散式を兼ねた引退パーティが今月(10月)25日に行われた。会場には改選市議選の投開票日の今年7月29日に急逝した妻の遺影と2回の当選証書が飾られた。「お世話になった人たちにきちんとお礼をしなければ…」と妻は秘かにこの日のために洋服を新調していたが、それもかなわずに小さな写真に納まった姿だけの参加になった。亡き妻の視線を背後に感じながら、私は「最終的には私の全面敗北でした」とお礼のあいさつを“家出・置手紙”事件から切り出した。

 

 「記者とは別の世界でもう一度、自分を試してみたい。市議出馬にご理解を…」―。こんな置手紙を書いて、私は数日間、家を留守にした。立候補断念のたいていの理由は家族の理解が得られないということだと聞いていた。告示日まであと1週間余りに迫っていた。“家出”の際、ス-ツの上着とネクタイをバックに隠し持ち、当時、勤めていた知的障害者施設のパン工房の片隅で職員に写真を撮影してもらった。選挙ポスタ-用の写真である。そして、数日後―、ぴしゃりと拒絶されるだろうと思いながら、恐るおそるドアを開けた。「あんたって、案外、ケチな男ね。こんな大事な話をどうして私の前でできなかったの」。言葉はきつかったが、顔は笑っていた。こうして、第二の人生の“開かずの門”は意外にもあっけなく、開いたのだった。

 

 「面食らったのはこっちだったよ」と小田島会長が言葉を引き取った。「告示直前、オレ出るから、よろしく。いきなりだよ。40年以上もふるさとを留守にしていたのだから、泡沫(ほうまつ)候補もいいとこ。最初はとても無理だと思った」―。当然、地盤などはない。頼りは小学校から高校までの同級生しかいなかった。ずっと一緒だった剛ちゃん(小田島会長)がすぐ、周りに声をかけてくれた。意外な声が返ってきた。「そういえば、オレたちの同級生には議員がひとりもいねじゃな。みんな第一線を退いて、暇を持て余している。老化防止のつもりでやってみっか」。当時、「アラウンド70」(アラセブ)―、つまり、古希(こき)を迎えた70歳前後の世代の活躍が注目を集めていた。私たち同級生はちょうど、そのトップバッタ-の位置にいた。1119票。定数34人中30位、大方の予想をくつがえした“大勝利”だった。

 

 70年の人生そのままの「生身の自分」を未知の世界に置いてみたいと思った。だから、どこにも属さない「無所属・無会派」…いわば“増子党”を押し通した。こんな一匹オオカミに襲いかかったのが、お化けや妖怪の仮面をかぶった議員集団…魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちだった。これを迎え撃ったのが、わが「アラセブ」軍団である。定例会のたびに2階の傍聴席からにらみを利かせた。計32回の定例会に皆勤した老兵もいた。初当選の約7ケ月後の2011年3月11日、私の71歳の誕生日のその日に東日本大震災が発生した。

 

 全国から集まった義援金を市の歳入に計上するという「義援金流用」疑惑、傍聴に訪れた被災者に向けられた「さっさと帰れ」発言、この暴言の真相究明に立ち上がった私に対する集団リンチさながらのバッシング、締めくくりは「議会の品位を汚した」という理由で科せられた、花巻市議会はじまって以来の「懲戒」(戒告)処分…。私は被災者(地)支援に走り回る一方で、足元の議会からの攻撃にも対峙しなければならなかった。内陸に避難している被災者や卑劣な中傷を見かねた地元の有志などが”参戦”してくれた。同級生を主体にした「アラセブ」軍団はその輪を広げていった。この日の解散式には30人以上が集まった。「増子を応援しているというだけで、村八分に合いそうになった」、「支援にかけた超人力に舌を巻いた」―。アラセブの猛者(もさ)たちがニコニコしながら、“秘話”を披露してくれた。

 

 「ある人から、『あなたは何時から猛獣使いになったのか』と皮肉っぽく言われたことがあった」―。「支える会」事務局長の神山征夫さんが「いまだから…」といって、締めのあいさつをした。「オオカミだかライオンだかは分からないが、確かに増子議員は正論を掲げて、議会内で暴れまくった。しかし、私の任は今日をもって終わる」と話し、ニヤリと笑って続けた。「今後、この猛獣が議会の外でどんな風に振る舞うのか。私はそこまでの責任は負えない」―。

 

 私の妻は2期目の出馬の直前に「ステ-ジ4」(末期)の肺がんを宣告された。「1期だけで辞めたら、応援してくれたアラセブの人たちに失礼じゃないの」―。躊躇する私の背中を押したのは逆に病身の妻の方だった。冒頭のあいさつで私が「全面敗北」と言ったのはそういう意味からである。1期目に比べて8人減の定数26人中、最後から2番目という薄氷の当選だったが、それでもわずかではあるが55票の上積みができた。「それにしても…」と思う。妻が他界したその日が改選市議選の投開票日だったという、余りにも劇的すぎる「偶然」は依然として、私の謎である。この偶然が「野に放たれた野獣たれ」という妻の“遺言”だったとすれば、敗北者の身としてはそれに従うしかないと思っている。勘違いされたら困るので、最後につけ加えておきたい。私の「敗北」は魑魅魍魎たるあなたたちに対してではなく、妻に対してであるということを…。

 

 

 

(写真は「アラセブ」軍団の重鎮たち。左から神山事務局長、北湯口晴志幹事、小田島会長、長沼健司幹事。美しい花々に囲まれ、遺影の妻は微笑んでいるようだったた=10月25日、花巻市内のホテルで)

妻と娘と原新監督の「豚骨ラ-メン」物語

  • 妻と娘と原新監督の「豚骨ラ-メン」物語
  • 妻と娘と原新監督の「豚骨ラ-メン」物語

 「バンバンバン、ゴキッ…」―。今から50年近く前、夕闇が迫ると同時に転勤先の新聞社の支局の庭先から耳慣れない音が聞こえてきた。1963(昭和38)年11月9日、死者458人という戦後最大の炭鉱事故(炭じん爆発)を起こした三池炭鉱を有する炭都―福岡県大牟田市は東北生まれの妻にとっては、“異界”にまぎれこんだような気持だったのかもしれない。加えて、産後間もない身にとって、この不気味な音は心身にこたえたようだった。すぐ隣がラ-メン店だった。夫婦二人で切り盛りする店は行列ができるほどの繁盛ぶりだった。妻がのちに「九州のお母さん」と呼ぶようになる奥さんに恐るおそる尋ねてみた。「ああ、あれは骨割りの音たい。そういえば、東北には豚骨ラ-メンはなかもんね」

 

 一人娘は1年半が過ぎても足が立たなかった。信心深い奥さんが一生に一度、願いごとがかなうという高塚愛宕地蔵尊(大分県日田市)に連れて行ってくれた。お参りをし、近くの土産物店で一休みしていた時だった。娘が突然、おもちゃの陳列棚に向かってとことこと歩み寄った。「歩いたばい。願いごとばかなったばい」―。店内は大騒ぎになり、妻は娘に頬ずりをしながら、大粒の涙を流した。以来、娘は見違えるように元気になった。出前のドンブリを回収する軽自動車の隣にちょこんと座り、店に戻ると豚骨のあぶらが浮いたラ-メンのス-プをのどを鳴らしながら、飲み干すようになった。

 

 店の名前は「福竜軒」―。炭じん爆発事故の約1か月半前にオ-プンした。爆発があった三川鉱からは随分離れていたが、店の窓ガラスががたがた揺れた。「恐ろしかったとよ。ガスを吸った人もたくさんおらした」。私が赴任した当時、爆発事故で一酸化炭素(CO)中毒という不治の病を背負わされた患者・家族が絶望的な闘病生活と補償要求の運動を続けていた。労災認定された患者だけで、839人に上った。炭住街をくまなく回り、患者の訴えを聞く日々。疲れた体を直してくれるのも一杯の豚骨ラ-メンとごま塩を振りかけたおにぎりだった。

 

 1965(昭和40)年の夏の甲子園大会で、政治犯などを収容した「三池集治監」跡に建つ県立三池工業高校が初出場で全国優勝を果たすという偉業を打ち立てた。この時、チ-ムを率いたのが名将の誉れ高い故・原貢監督。子息の辰徳さん(60)は今回、3度目の巨人軍の監督に就任することが決まった。この野球親子がここの豚骨ラ-メンをすすり、当時まだ小学校低学年だった辰徳さんが野球練習の球拾いをしていた姿を懐かしく思い出す。娘が大学を卒業後、50CCバイクを乗り継いで、沖縄・九州、四国を1周したことがあった。その途次、電話がかかってきた。「久しぶりに食べたちゅより、飲んだよ。うまかった」。娘が現在に至るまで病気知らずでいられるのも、そして、原新監督を誕生させたエネルギ-源も元をただせば、福竜軒の豚骨ラーメンと何よりも年季の入った「骨割り」ス-プだったにちがいない。

 

 「まだ、信じられなかと。線香を上げるまでは信じられんと」―。今月中旬、「九州のお母さん」こと、池田ツナ子さん(77)から電話があった。空港に出迎えると、保育士で一人娘の祥子さん(50)も一緒だった。手土産に妻の好物だった地元の菓子「草木饅頭」と亡くなるまで欠かさなかった福岡産の「八女茶」を携えていた。「たった二つしか違わないとにお母さんって。でも、うれしか。ずっと、身内みたいだった。そういえば、美恵子さん(妻)は濃うかお茶ば好いとらしたけん…」。ツヤ子さんはこう言って、入れたてのお茶を仏壇に供えて手を合わせた。並んで座った祥子さんが口を添えた。「ラ-メンが繁盛したのは良かばってん、私のご飯を作る暇もなくって…。だから、いつもおばちゃんの家で。おばちゃんの、手作りのババロア(洋菓子)の味がいまでも忘れられない」

 

 私は今どきは希薄になりつつある「人間のきずな」の太さに胸が熱くなる思いがした。「いつだったか、スリランカの王様もお忍びで食べに来らしたことがあっとよ」とツル子さんが別れ際に行った。腹がぐぐ~っと鳴った。沖縄・石垣島での妻の散骨が終わった帰途に必ず、立ち寄ると約束した。「待っとってね」。いつの間にか、舌になじんだ九州弁になっていた。

 

 

(宮沢賢治が好きだという二人を「雨ニモマケズ」詩碑に案内した=10月22日、花巻市桜町4丁目で。右は名物の福竜軒の豚骨ラ-メン)

時を隔て、いまに結ぶ…現代の「神謡」

  • 時を隔て、いまに結ぶ…現代の「神謡」
  • 時を隔て、いまに結ぶ…現代の「神謡」

 「これは今という時代に息づく神謡ではないのか」―。今年の沖縄全戦没者追悼式(沖縄慰霊の日=6月23日)で朗読された平和の詩「生きる」を口ずさんでいるうちに、ふとそんな思いにとらわれた。まるで通奏低音のように、それは遠い太古からのもうひとつの詩と共鳴し合っている。最近になってそのことに心づいた。96年前、詩才を惜しまれながら19歳で世を去ったアイヌ女性、知里(ちり)幸恵が死の前年に編訳した『アイヌ神謡集』の、それが「序」だったということに。「私は、生きている。マントルの熱を伝える大地を踏みしめ…」。そして、相良倫子さん(浦添市立港川中学3年)の「生きる」をその上に重ねてみる。すう~っと、溶けあっていくような、そんな感じ。

 

 「シロカニペ/ランラン/ピシカン」(銀のしずく、降る降るまわりに)、「コンカニペ/ランラン/ピシカン」(金のしずく、降る降るまわりに)…。こんな語りで始まる梟(ふくろう)神の物語や狐、兎、獺(かわうそ)、蛙などなど『アイヌ神謡集』には自然界に住まう神々(カムイ)が一人称で語る13篇の「神謡」(カムイユカラ)が収められている。重ね詠むうちに、相良さんの詩も神に仮託した壮大な叙事詩ではないかという思いを強くした。約100年という時空を隔ててもなお、ともに10代の女性が紡ぎ出した詩文が心を揺さぶる。片や「アイヌモシリ」(人間の静かな大地=北海道)から、片や「ニライカナイ」(常世の国=沖縄)から…。この列島の南と北から聞こえてくる二つ叙事詩に私はいま、耳をそばだたせている。

 

 

 

 《アイヌ神謡集(序)》~知里幸恵

 

 その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。

 

 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝(かがり)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円(まど)かな月に夢を結ぶ。

 

 嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
 

 その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮(あけくれ)祈っている事で御座います。
 

 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

 

 

 

《生きる》~相良倫子

 

 私は、生きている。マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、草の匂いを鼻孔に感じ、遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。私は今、生きている。私の生きるこの島は、何と美しい島だろう。青く輝く海、岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、山羊の嘶き、小川のせせらぎ、畑に続く小道、萌え出づる山の緑、優しい三線の響き、照りつける太陽の光。

 

 私はなんと美しい島に、生まれ育ったのだろう。ありったけの私の感覚器で、感受性で、島を感じる。心がじわりと熱くなる。私はこの瞬間を、生きている。この瞬間の素晴らしさが、この瞬間の愛おしさが、今と言う安らぎとなり、私の中に広がりゆく。たまらなく込み上げるこの気持ちをどう表現しよう。大切な今よ、かけがえのない今よ、私の生きる、この今よ。

 

 七十三年前、私の愛する島が、死の島と化したあの日。小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。草の匂いは死臭で濁り、光り輝いていた海の水面は、戦艦で埋め尽くされた。火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、燃え尽くされた民家、火薬の匂い。着弾に揺れる大地。血に染まった海。魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

 

 みんな、生きていたのだ。私と何も変わらない、懸命に生きる命だったのだ。彼らの人生を、それぞれの未来を。疑うことなく、思い描いていたんだ。家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。仕事があった。生きがいがあった。日々の小さな幸せを喜んだ。手を取り合って生きてきた、私と同じ、人間だった。それなのに。壊されて、奪われた。生きた時代が違う。ただ、それだけで。無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。

 

 摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。私は手を強く握り、誓う。奪われた命に想いを馳せて、心から、誓う。私が生きている限り、こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。もう二度と過去を未来にしないこと。全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を超え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。生きる事、命を大切にできることを、誰からも侵されない世界を創ること。平和を創造する努力を、厭わないことを。

 

 あなたも、感じるだろう。この島の美しさを。あなたも、知っているだろう。この島の悲しみを。そして、あなたも、私と同じこの瞬間(とき)を一緒に生きているのだ。今を一緒に、生きているのだ。だから、きっとわかるはずなんだ。戦争の無意味さを。本当の平和を。頭じゃなくて、その心で。戦力という愚かな力を持つことで、得られる平和など、本当は無いことを。平和とは、あたり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きることだということを。

 

 私は、今を生きている。みんなと一緒に。そして、これからも生きていく。一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。なぜなら、未来は、この瞬間の延長線上にあるからだ。つまり、未来は、今なんだ。大好きな、私の島。誇り高き、みんなの島。そして、この島に生きる、すべての命。私と共に今を生きる、私の友。私の家族。これからも、共に生きてゆこう。この青に囲まれた美しい故郷から。真の平和を発進しよう。一人一人が立ち上がって、みんなで未来を歩んでいこう。

 

 摩文仁の丘の風に吹かれ、私の命が鳴っている。過去と現在、未来の共鳴。鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。命よ響け。生きゆく未来に。私は今を、生きていく。

 

 

 

(写真は死の2ケ月前の知里幸恵(左)と詩を朗読する相良倫子さん=インターネット上に公開の写真から)