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断捨離の彼方に

  • 断捨離の彼方に

 

 妻の死去と議員引退をきっけに初めて、“断捨離”(だんしゃり)なるものを手がけてみた。未練も容赦もない「断・捨・離」という語法に抵抗感があったが、そう長くはない将来を見据えると、ある程度の身の回りの整理はやむを得ない。猿芝居に終始した2期8年間に及ぶ議会資料はバッサリと廃棄処分に…。さて、積読も含めて約3千冊の蔵書が多いのか少ないのかは分からないが、その本の山を前にしてハタと手が止まってしまった。

 

 7年半前の東日本大震災の際、本棚はすべて倒壊し、上掲写真のようにベットの上に総崩れになった。「3・11」のこの日は私の誕生日に当たっており、妻は八戸の魚市場「八食」まで祝宴用の買い出しに行っていた。私の方はちょうど、予算特別委員会の開会中で難を逃れた。就寝中の発生だったら、命を奪われていたかもしれない。大量の魚介類を抱えた妻も数時間かけて無事帰り着いたが、全戸停電の中でせっかくの71歳の誕生祝はお流れとなった。その妻もいまはなく、わずかに我が人生の“地層”ともいうべき蔵書の中にその思い出の片鱗を見つけ出すことができる。

 

 「東北ルネサンス」―。なんとも心が躍るスロ-ガンではないか。私が新聞社を定年退職したのは2000年3月。当時、民俗学者の赤坂憲雄さんらが中心になって、「東北学」の必要性を提唱していた。大都市中心主義の限界を訴え、東北から変革を―という呼びかけに心が動かされた。同郷(花巻)の妻は一方で逡巡(しゅんじゅん)しつつも、次第に軸足をふるさとへ向けるようになっていた。さっそく、宮沢賢治全集を買い求め、生まれ故郷に居を移した。ともに40数年ぶりのUタ-ンだった。「ふるさと再発見」を気取りながら、ふたりで小旅行を続けた。賢治の物語世界をもっと知りたい―と、久慈市の琥珀の採掘現場(地下坑道)を案内してもらった時の感動は忘れられない。「幻想的ねぇ」と妻は歓声を上げた。

 

 花田清輝全集、鶴見俊輔座談集、辻潤著作集、昭和史発掘…。蔵書の“発掘”作業を続けるうちに茶褐色に色変わりした各種全集類に交じって、アイヌ関連本が比較的多いのに気が付いた。「日本列島の中に異言語を話す民族がいる」―ということに興味を持ったことが端緒だった。念願がかなって北海道勤務になり、アイヌ古老の聞き書きに没頭した。こんな姿を見て、妻もアイヌ刺繍を習い覚えるようになっていた。娘夫婦が沖縄・石垣島に移住してからは沖縄関連本が増えていった。妻の沖縄行きも年数回に及んだ。孫に会いに行くのが第一の楽しみだったが、記者時代から続いた「東北」を起点とした「北」と「南」への道行きにも満足そうだった。妻が異様な空咳(からせき)を発するようになったのは、東日本大震災の直後からだった。この時にがんの前兆が始まっていたのかもしれない。そんな体調に鞭打つようにして、妻は被災者支援に打ち込んでいった。

 

 ふるさとに移住した直後、1枚の紙片がFAXで送られてきた。「あなたはこの静かなまちを破壊するために帰って来たのか」―。差出人不明の不気味なメッセ-ジだった。70歳にして市議会議員になって以来、このことの意味が実感させられた。議会改革を叫ぶたびに、不思議なことに革新系を含む“抵抗勢力”に包囲された。石川啄木は「石をもて追わるるごとく」に故郷を追われ、室生犀星はこう詠んだ。「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや…」

 

 強烈な排他性を突き付けられたのも同じ「ふるさと」からだった。理解ある同行者を失った今、この先、「ヒカリノミチ」をどう歩み続けたら良いものか。果たして、ひと筋でもヒカリの輝きが差し込むことはあるのか―。「ケハシキタビ」(賢治「精神歌」)を旅する、手探りのひとり旅はこれから先も続きそうである。

 

 

(写真は本棚が倒れ、周囲には本が散乱した=2011年3月11日、花巻市桜町の自宅で)
 

 

 

 

「四十九日」と魂の行方

  • 「四十九日」と魂の行方

 

 「そんなに急がなくたっていいんじゃないの」―。妻が旅立って早くも「四十九日」(9月15日)を迎えた。仏教ではこの日、魂があの世に向かう日だとされている。遺影に向かって思わず、こんなことを口走ったのは『呼び覚まされる「霊性の震災学」』なる本を読みかけていたせいかもしれない。東北学院大学「震災の記録」プロジェクト(金菱清ゼミ=災害社会学)の編集で、7人の学生が卒業論文としてまとめた内容になっている。読み進むうちに、魂に立ち去られることの寂しさがにわかに募ってきたのである。同書には“幽霊”たちとの出会いが例えば、こんな風に紹介されている。東日本大震災で娘さんを亡くした男性のタクシ-ドライバ-(56)の体験談である。

 

 「震災から3ヵ月位くらいたったある日の深夜、石巻駅周辺で乗客の乗車を待っていると、初夏にもかかわらずファ-のついたコ-トを着た30代くらいの女性が乗車してきたという。目的地を尋ねると、『南浜まで』と返答。不審に思い、『あそこはもうほとんど更地ですけど構いませんか?どうして南浜まで?コ-トは暑くないですか?』と尋ねたところ、『私は死んだのですか?』―震えた声で応えてきたため、驚いたドライバ-が『えっ』とミラ-から後部座席に目をやると、そこには誰も座っていなかった」―。この男性は学生たちにこう語ったという。「東日本大震災でたくさんの人が亡くなったじゃない?この世に未練がある人だっていて当然だもの。あれ(乗客)はきっと、そう(幽霊)だったんだろうろうな~」

 

 酷暑に続いた台風被害や北海道大地震…。真夜中に屋根を叩く雨風やコツコツとドアをノックするような音にハッと、目を覚ますことがたびたびあった。以前はこんなことはなかったが、「これが霊性というものだと言われれば、そうなのかもしれない」と思うようになった。当ブログ「『喪失』という物語」(9月4日付)に登場する被災者の白銀照男さん(69)はあの大震災以来、”浮かばれない魂“との交信を続けている。いまも行方不明の母親と妻、それに愛娘の3人が夢枕に現れるのはしょっちゅうで、「あの時は浦島太郎になったような気持ちだった」とこんな話をしてくれたことがあった。

 

 「避難所に戻る途中、がれきの陰から一匹のカメが現われ、車の前を横切ろうとした。とっさにブレ-キをかけて捕まえ、水槽で飼うことにした。カメは長寿のシンボル。3人がどこかで生きているって…。カメの背中に乗って、竜宮城に連れて行ってもらい、3人に再会できるのではないかって…」―。カメの出現にも驚かされたが、よもや浦島太郎にまで話が及ぶとは思ってもみなかった。妻を亡くした今、白銀さんのあの時の真剣なまなざしが脳裏によみがえってくる。「このことこそが、霊性のなせるわざなのかもしれない」ーと。学生たちは幽霊(霊性)たちとの遭遇を以下のように総括している。

 

 「津波や原発によって文化の虚構性が暴かれた社会において、一足飛びに天に向かう動きに飛躍するのではなく、眼の高さを起点とする天と地の間の往復運動によって、身体性を伴う言語以前の、コミュニケ-ションの場を設定しうる可能性が示される。生者と死者が呼び合い、交換し、現世と他界が共存する両義性の世界が、すなわち“霊性”である」(同書)。昨年2月、ノンフィクション作家の奥野修司さんが「3・11後の霊体験」をルポした際のタイトルも『魂でもいいから、そばにいて』ーだった。

 

 若い感性の到達点の深みに今さらながら、驚愕(きょうがく)させられる。そして、私は遺影に向かい直して、ひとりつぶやく。「そう、急がなくてもいいんだよ」―

 

 

(写真はカメの出現にびっくりしたのは当の白銀さん自身だった=2011年6月、岩手県大槌町で)

 

 

ふたたび、「喪失」ということについて

  • ふたたび、「喪失」ということについて

 

 以前ならスル-していたはずだが、妻に先立たれたせいなのか、こんな本の広告が目に止まるようになった。例えばその一冊、『妻が願った最期の「七日間」』は朝日新聞の投稿欄(3月9日付)に掲載された投書がきっかけで、SNSで19万人以上がシェアするなどの大反響を呼び、単行本化された後も重版を重ねているという。「(今年)1月中旬、妻容子が他界しました。入院ベッドの枕元のノ-トに『七日間』と題した詩を残して」という書き出しで始まる投書はこう続く。「神様お願い この病室から抜け出して 七日間の元気な時間をください 一日目には台所に立って 料理をいっぱい作りたい…そして七日目。あなたと二人きり  静かに部屋で過ごしましょ 大塚博堂のCDかけて ふたりの長いお話しましょう」

 

 この約半年後、私の妻が旅立った。訃報を知らせる葉書にこう書いた。「妻、増子美恵子儀が7月29日未明、他界しました。ここ数年間、がんを患っていましたが、直接の死因は消化器出血による”突然死“でした」―。妻容子さんとの交換日記などを加筆した著者の宮本英司さんは投書をこう締めくくっている。「妻の願いは届きませんでした。死の最後の場面を除いて」。この落差に打ちのめされた。一階のベットから転げ落ちるようにして、妻は死んでいた。2階から降りてきて、この異変に気が付いたのは死後4時間もたってからだった。英司さんのように手を握りながら、看取ってやることができなかったという悔恨(かいこん)が今も付きまとう。

 

 私より7歳ほど若い宮本夫妻は早稲田大学の同窓で、妻の容子さんは宮沢賢治を、英司さんは石川啄木を卒業論文に選んでいる。本書の中で英司さんはこう書いている。「盛岡で石川啄木記念館に行って、花巻で(賢治の弟の)の宮沢清六さんにお会いして,平泉の中尊寺に泊ったね」―。容子さんにステ-ジ4の小腸がんが見つかったのは2015年8月。私の妻も前年の6月に同じステ-ジ4の肺がんと診断された。卒論のテーマにそろって、わが郷土・岩手の文学者を取り上げていることにも驚いたが、死に至る病歴もあまりにも似通っている。急に2人の存在が近しくなったような気がした。

 

 「人が亡くなった後の喪失感が、これほどまでに激しいものだとは、体験するまでわかりませんでした。まるで自分の半身が亡くなってしまうような感覚です」と英司さんは妻を病魔に奪われた時の気持ちを記している。私にもぴったりくる言葉である。宮本さんはがんとの闘病記を”夫婦愛“として世に語りかける形で、この喪失感から脱しつつあるようだ。私にはまだまだ、時間が必要である。死の1カ月ほど前から、妻はほとんど寝たっきりの状態になった。ヘルパ-の力も借りたが、入浴だけは他人じゃイヤだと言った。妻の全身をきれいに洗い流す介助役を始めてやった。人生の初体験である。この程度の私だった。背中に石けんを塗りながら、さりげなく聞いてみた。「お母さんに羞恥心(しゅうちしん)はなくなったの」―。その応答に互いに大笑いした。夫婦のきずなが一番、縮まった瞬間だったのかもしれない。

 

 「ほかの男には羞恥心はあるわよ。でもね、あんたになんか、とっくにないわよ」―。息を引き取ったのはその数日後のことである。妻が最後に残してくれたこの言葉をいつまでも大切にしたいと思っている。この日(9月11日)、気の遠くなるような「喪失」をもたらした東日本大震災から7年半目の弔いの日を迎えた。

 

 

(写真は大きな反響を呼んでいる宮本さんの本)

 

2018.09.11:masuko:コメント(0):[マスコラム]

北海道大地震とアイヌ民族

  • 北海道大地震とアイヌ民族

 

 「国造神が天から降りてきて島をつくった。いい場所を選んだつもりが、アメマスという大きな魚の背中だった。島を背負わされた魚は怒って暴れ出し、地震を引き起こすようになった」(9月7日付「朝日新聞」)―。今回の北海道大地震(平成30年北海道胆振東部地震)について、天声人語氏はアイヌ研究者、更科源蔵の『アイヌ民話集』を引用して、こう書いている。たまたま、今年は幕末の探検家、松浦武四郎(1818~88年)が名付け親になって、それまで「蝦夷地」と呼ばれていたこの大地が「北海道」と命名されて150年の節目に当たる。なぎ倒された木々とむき出しの土砂崩れの惨状を目の当たりにしながら、私は23年前の阪神・淡路大震災の光景を目に浮かべていた。

 

 当時、現地ルポのために西宮市に入った私は倒壊した建物群にではなく、その倒壊を防ぐように家々を支えている街路樹の並木に目を奪われた。被災者たちは公園の中の巨木に下に身を寄せ合っていた。足元には地中深くまるでタコの足のように太い根が張り巡らされていた。「木はただ、地面に突っ立っているんじゃない。逆に地面を下から支え持っているのさ」―。ふと唐突に、アイヌのフチ(おばあさん)の言葉を思い出した。樹木のことをアイヌ語で「シリ(大地を)・コロ(持つ)・カムイ(神)」という。「逆立ちしてごらん。そうすれば、あんたも木の神様になれるっていうわけさ」とフチはその時、ニヤニヤしながらそう続けた。

 

 連日、テレビが映し出す北海道の大地は樹木の神々が悲痛な悲鳴を上げているようにさえ見える。アイヌの人々はかつて、北海道のことを「アイヌモシリ」と呼んだ。「人間が住む静かな大地」という意味である。つまり、この大地は誰の所有にも属さない「無主地」だったのである。明治政府は古代律令制以来の五畿七道にならい、東海道や南海道と同じように日本国の領土として組み入れた。アイヌ民族は「旧土人」と蔑(さげす)まれ、無主地だった広大な大地は「官有地」として、入植した和人(本土人)に次々に払い下げられた。当時は富国強兵下で木材の需要は高かった。アイヌ民族が守り続けてきた"自然林”はあっという間に伐採され、はげ山と化した山肌は人工林に姿を変えていった。

 

 「開拓判官」に任じられた武四郎はアイヌ民族を搾取する場所請負制度の廃止を明治政府に進言したが、これが拒否されたために位階を返上して辞任した。現在、国土交通省の管轄下に「北海道開発局」がある。北海道は現在に至るまで「開発」の対象として存在し続けているのである。アイヌ語地名にはその土地の特長(記憶)が刻み込まれている。例えば、トイ(崩れる)やペルケ(裂ける)などを冠した地名はがけ崩れや山腹の崩壊が起こりやすい場所(崖地や山)であることを示唆している。地名研究者によると、トイ・パケ(崩れた・出岬=枝幸町「問牧」)やトイ・ピラ(崩れた・崖=札幌市「豊平」)、ペルケ・ヌプリ(裂けた・山=弟子屈町「美留和山」)などその命名は至るところに及ぶという。

 

 「神戸」という和名も考えてみれば、不思議な命名である。最大の被害(犠牲者4500人以上)を記録した23年前のあの大災害の際、あるアイヌの友人がしみじみと語った言葉が頭の片隅に残っている。「『神戸』を字面通りに読めば、神々の出入り口ということだよな。その出入り口をコンクリ-トで塗り固めてしまっては、神々は窒息してしまうじゃないか」―。アイヌ民族は森羅万象(自然)を「カムイ」(神)と敬い、自然災害は神々の怒りと考えてきた。だからこそ、危険な場所は地名の中でそのことを教え、畏敬の念をもって折り合いをつけてきたのであろう。

 

 まるで「山津波」ように崩れ落ちた光景を目の前に見る時、そこには「シリコロカムイ」の姿はもはやない。人の手で整然と植え込まれた細々とした木々たちは神々の怒りを一身に受けているたようにさえ映る。「平成30年北海道胆振東部地震」は、言葉の本来の意味での「人災」ではなかったのか―。

 

 

(写真は一瞬のうちになぎ倒され、褐色の地肌をあらわにした山肌=9月6日、北海道・厚真町で=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

《追記》~「北海道旧土人保護法」

 

 悪名高いこの法律は1898(明治32)年に制定され、1997年7月に「アイヌ文化振興法」(略称)が制定されるまで約100年間、続いた。一方的に官有地に編入した土地を逆に「保護」名目で貸し与えるという歴史的にもまれにみる“愚民政策”として記憶されている。土地関係の規定は以下の通り。

 

第一条 北海道旧土人ニシテ農業ニ従事スル者又ハ従事セムト欲スル者ニハ一戸ニ付土地一万五千坪以内ヲ限リ無償下付スルコトヲ得

 

第三条 第一条ニ依リ下付シタル土地ニシテ其ノ下付ノ年ヨリ起算シテ十五箇年ヲ経ルモ尚開墾セサル部分ハ之ヲ没収ス

 

 

 

 

 

 

2018.09.08:masuko:コメント(0):[マスコラム]

「喪失」という物語

  • 「喪失」という物語

 

 「大いなる喪失は自死を招き寄せるということなのだろうか」―。妻を失って、最初に手にした本がその死(7月29日)の直前に刊行された『原民喜―死と愛と孤独の肖像』(梯久美子著)だった。月並みな表現だが、ぽっかりと穴の開いたような喪失感がこの本を手に取らせたような気がする。広島で被爆した体験を詩や小説などに表現した原(1905年―1951年3月13日)は原爆の前年に精神的な支柱だった妻を病気で失い、疎開先で自ら被爆した6年後、東京都内で鉄道自殺した。46歳の若さだった。代表作『夏の花』(晶文社版)の中に原爆の惨状を描いたこんな一節がある。

 

 「河岸に懸つてゐる梯子に手をかけながら、その儘硬直してゐる三つの死骸があつた。バスを待つ行列の死骸は立つたまま、前の人の肩に爪を立てて死んでゐた」―。原は同書の少し前でそんな光景を「どうも、超現実派の画の世界ではないかと思へるのである」と書き、あえて片仮名書きで「スベテアツタコトカ/アリエタコトナノカ/パツト剥ギトツテシマツタ/アトノセカイ」と続けている。東日本大震災で母親と妻、そして愛娘を失った知り合いの被災者が津波に襲われたがれきの荒野を被爆地と重ねて語ったことがある。身近な肉親の喪失と膨大な死者の群れ…。「そのことについて、自分の中でどう折り合いをつけたらいいものなのか」と―。

 

 『夏の花』は亡き妻の墓参の場面から始まる。著者の梯さんは原の気持ちを次のような文章からすくい取っている。「さうだ、僕はあの無数の死を目撃しながら、絶えず心に叫びつづけてゐたのだ。これらは『死』ではない、このやうな慌ただしい無造作な死が『死』と云へるだろうか、と。それに較べれば、お前の死はもつと重々しく、一つの纏(まと)まりのある世界として、とにかく、静かな屋根の下でゆつくり営まれたのだ」(『夢と人生』)―。この文章を紹介しながら、梯さんは「妻を看取ったその目で見たからこそ、広島の死者の無残さは原を打ちのめしたのである」と書いている。

 

 前述の被災者の肉親は7年たったいまも行方不明のままである。この人にとっては「慌ただしい無造作な死」さえまだ、訪れてはいない。「奥さんを大事にしてね」と逆に病弱な私の妻をいつも気遣ってくれた。その妻が旅立ったいまこそ、私は原民喜のように「無造作な死」の陰に隠された本当の「死」の意味をもう一度、確かめる旅に赴かなくてはならないのかもしれない。

 

 原は『鎮魂歌』(1949年8月)に中に絶叫するように書き付けている。「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけに生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だった。お前たちは花だった。久しい久しい昔から僕が知つているものだった」―。原が自死するのはこのわずか1年半後のことである。葬儀委員長の思想家、埴谷雄高(はにやゆたか=故人)は「あなたは死によって生きていた作家でした」と弔辞を述べたという。

 

 「喪失」とはもうひとつの「生」を生き直すための里程標(りていひょう)なのだろうか―。

 

 

(写真は生前の原民喜=インターネット上に公開の写真から)

 

 

2018.09.04:masuko:コメント(0):[マスコラム]