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「アラセブ」軍団の解散と”敗北者”宣言

  • 「アラセブ」軍団の解散と”敗北者”宣言

 

 

 「アラセブ」(70歳)、最期の決断→「アレセブ」(74歳)、再度の挑戦……。2期8年間の議員生活を支えてくれた「増子義久を支える会」(小田島剛三会長)の解散式を兼ねた引退パーティが今月(10月)25日に行われた。会場には改選市議選の投開票日の今年7月29日に急逝した妻の遺影と2回の当選証書が飾られた。「お世話になった人たちにきちんとお礼をしなければ…」と妻は秘かにこの日のために洋服を新調していたが、それもかなわずに小さな写真に納まった姿だけの参加になった。亡き妻の視線を背後に感じながら、私は「最終的には私の全面敗北でした」とお礼のあいさつを“家出・置手紙”事件から切り出した。

 

 「記者とは別の世界でもう一度、自分を試してみたい。市議出馬にご理解を…」―。こんな置手紙を書いて、私は数日間、家を留守にした。立候補断念のたいていの理由は家族の理解が得られないということだと聞いていた。告示日まであと1週間余りに迫っていた。“家出”の際、ス-ツの上着とネクタイをバックに隠し持ち、当時、勤めていた知的障害者施設のパン工房の片隅で職員に写真を撮影してもらった。選挙ポスタ-用の写真である。そして、数日後―、ぴしゃりと拒絶されるだろうと思いながら、恐るおそるドアを開けた。「あんたって、案外、ケチな男ね。こんな大事な話をどうして私の前でできなかったの」。言葉はきつかったが、顔は笑っていた。こうして、第二の人生の“開かずの門”は意外にもあっけなく、開いたのだった。

 

 「面食らったのはこっちだったよ」と小田島会長が言葉を引き取った。「告示直前、オレ出るから、よろしく。いきなりだよ。40年以上もふるさとを留守にしていたのだから、泡沫(ほうまつ)候補もいいとこ。最初はとても無理だと思った」―。当然、地盤などはない。頼りは小学校から高校までの同級生しかいなかった。ずっと一緒だった剛ちゃん(小田島会長)がすぐ、周りに声をかけてくれた。意外な声が返ってきた。「そういえば、オレたちの同級生には議員がひとりもいねじゃな。みんな第一線を退いて、暇を持て余している。老化防止のつもりでやってみっか」。当時、「アラウンド70」(アラセブ)―、つまり、古希(こき)を迎えた70歳前後の世代の活躍が注目を集めていた。私たち同級生はちょうど、そのトップバッタ-の位置にいた。1119票。定数34人中30位、大方の予想をくつがえした“大勝利”だった。

 

 70年の人生そのままの「生身の自分」を未知の世界に置いてみたいと思った。だから、どこにも属さない「無所属・無会派」…いわば“増子党”を押し通した。こんな一匹オオカミに襲いかかったのが、お化けや妖怪の仮面をかぶった議員集団…魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちだった。これを迎え撃ったのが、わが「アラセブ」軍団である。定例会のたびに2階の傍聴席からにらみを利かせた。計32回の定例会に皆勤した老兵もいた。初当選の約7ケ月後の2011年3月11日、私の71歳の誕生日のその日に東日本大震災が発生した。

 

 全国から集まった義援金を市の歳入に計上するという「義援金流用」疑惑、傍聴に訪れた被災者に向けられた「さっさと帰れ」発言、この暴言の真相究明に立ち上がった私に対する集団リンチさながらのバッシング、締めくくりは「議会の品位を汚した」という理由で科せられた、花巻市議会はじまって以来の「懲戒」(戒告)処分…。私は被災者(地)支援に走り回る一方で、足元の議会からの攻撃にも対峙しなければならなかった。内陸に避難している被災者や卑劣な中傷を見かねた地元の有志などが”参戦”してくれた。同級生を主体にした「アラセブ」軍団はその輪を広げていった。この日の解散式には30人以上が集まった。「増子を応援しているというだけで、村八分に合いそうになった」、「支援にかけた超人力に舌を巻いた」―。アラセブの猛者(もさ)たちがニコニコしながら、“秘話”を披露してくれた。

 

 「ある人から、『あなたは何時から猛獣使いになったのか』と皮肉っぽく言われたことがあった」―。「支える会」事務局長の神山征夫さんが「いまだから…」といって、締めのあいさつをした。「オオカミだかライオンだかは分からないが、確かに増子議員は正論を掲げて、議会内で暴れまくった。しかし、私の任は今日をもって終わる」と話し、ニヤリと笑って続けた。「今後、この猛獣が議会の外でどんな風に振る舞うのか。私はそこまでの責任は負えない」―。

 

 私の妻は2期目の出馬の直前に「ステ-ジ4」(末期)の肺がんを宣告された。「1期だけで辞めたら、応援してくれたアラセブの人たちに失礼じゃないの」―。躊躇する私の背中を押したのは逆に病身の妻の方だった。冒頭のあいさつで私が「全面敗北」と言ったのはそういう意味からである。1期目に比べて8人減の定数26人中、最後から2番目という薄氷の当選だったが、それでもわずかではあるが55票の上積みができた。「それにしても…」と思う。妻が他界したその日が改選市議選の投開票日だったという、余りにも劇的すぎる「偶然」は依然として、私の謎である。この偶然が「野に放たれた野獣たれ」という妻の“遺言”だったとすれば、敗北者の身としてはそれに従うしかないと思っている。勘違いされたら困るので、最後につけ加えておきたい。私の「敗北」は魑魅魍魎たるあなたたちに対してではなく、妻に対してであるということを…。

 

 

 

(写真は「アラセブ」軍団の重鎮たち。左から神山事務局長、北湯口晴志幹事、小田島会長、長沼健司幹事。美しい花々に囲まれ、遺影の妻は微笑んでいるようだったた=10月25日、花巻市内のホテルで)

妻と娘と原新監督の「豚骨ラ-メン」物語

  • 妻と娘と原新監督の「豚骨ラ-メン」物語
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 「バンバンバン、ゴキッ…」―。今から50年近く前、夕闇が迫ると同時に転勤先の新聞社の支局の庭先から耳慣れない音が聞こえてきた。1963(昭和38)年11月9日、死者458人という戦後最大の炭鉱事故(炭じん爆発)を起こした三池炭鉱を有する炭都―福岡県大牟田市は東北生まれの妻にとっては、“異界”にまぎれこんだような気持だったのかもしれない。加えて、産後間もない身にとって、この不気味な音は心身にこたえたようだった。すぐ隣がラ-メン店だった。夫婦二人で切り盛りする店は行列ができるほどの繁盛ぶりだった。妻がのちに「九州のお母さん」と呼ぶようになる奥さんに恐るおそる尋ねてみた。「ああ、あれは骨割りの音たい。そういえば、東北には豚骨ラ-メンはなかもんね」

 

 一人娘は1年半が過ぎても足が立たなかった。信心深い奥さんが一生に一度、願いごとがかなうという高塚愛宕地蔵尊(大分県日田市)に連れて行ってくれた。お参りをし、近くの土産物店で一休みしていた時だった。娘が突然、おもちゃの陳列棚に向かってとことこと歩み寄った。「歩いたばい。願いごとばかなったばい」―。店内は大騒ぎになり、妻は娘に頬ずりをしながら、大粒の涙を流した。以来、娘は見違えるように元気になった。出前のドンブリを回収する軽自動車の隣にちょこんと座り、店に戻ると豚骨のあぶらが浮いたラ-メンのス-プをのどを鳴らしながら、飲み干すようになった。

 

 店の名前は「福竜軒」―。炭じん爆発事故の約1か月半前にオ-プンした。爆発があった三川鉱からは随分離れていたが、店の窓ガラスががたがた揺れた。「恐ろしかったとよ。ガスを吸った人もたくさんおらした」。私が赴任した当時、爆発事故で一酸化炭素(CO)中毒という不治の病を背負わされた患者・家族が絶望的な闘病生活と補償要求の運動を続けていた。労災認定された患者だけで、839人に上った。炭住街をくまなく回り、患者の訴えを聞く日々。疲れた体を直してくれるのも一杯の豚骨ラ-メンとごま塩を振りかけたおにぎりだった。

 

 1965(昭和40)年の夏の甲子園大会で、政治犯などを収容した「三池集治監」跡に建つ県立三池工業高校が初出場で全国優勝を果たすという偉業を打ち立てた。この時、チ-ムを率いたのが名将の誉れ高い故・原貢監督。子息の辰徳さん(60)は今回、3度目の巨人軍の監督に就任することが決まった。この野球親子がここの豚骨ラ-メンをすすり、当時まだ小学校低学年だった辰徳さんが野球練習の球拾いをしていた姿を懐かしく思い出す。娘が大学を卒業後、50CCバイクを乗り継いで、沖縄・九州、四国を1周したことがあった。その途次、電話がかかってきた。「久しぶりに食べたちゅより、飲んだよ。うまかった」。娘が現在に至るまで病気知らずでいられるのも、そして、原新監督を誕生させたエネルギ-源も元をただせば、福竜軒の豚骨ラーメンと何よりも年季の入った「骨割り」ス-プだったにちがいない。

 

 「まだ、信じられなかと。線香を上げるまでは信じられんと」―。今月中旬、「九州のお母さん」こと、池田ツナ子さん(77)から電話があった。空港に出迎えると、保育士で一人娘の祥子さん(50)も一緒だった。手土産に妻の好物だった地元の菓子「草木饅頭」と亡くなるまで欠かさなかった福岡産の「八女茶」を携えていた。「たった二つしか違わないとにお母さんって。でも、うれしか。ずっと、身内みたいだった。そういえば、美恵子さん(妻)は濃うかお茶ば好いとらしたけん…」。ツヤ子さんはこう言って、入れたてのお茶を仏壇に供えて手を合わせた。並んで座った祥子さんが口を添えた。「ラ-メンが繁盛したのは良かばってん、私のご飯を作る暇もなくって…。だから、いつもおばちゃんの家で。おばちゃんの、手作りのババロア(洋菓子)の味がいまでも忘れられない」

 

 私は今どきは希薄になりつつある「人間のきずな」の太さに胸が熱くなる思いがした。「いつだったか、スリランカの王様もお忍びで食べに来らしたことがあっとよ」とツル子さんが別れ際に行った。腹がぐぐ~っと鳴った。沖縄・石垣島での妻の散骨が終わった帰途に必ず、立ち寄ると約束した。「待っとってね」。いつの間にか、舌になじんだ九州弁になっていた。

 

 

(宮沢賢治が好きだという二人を「雨ニモマケズ」詩碑に案内した=10月22日、花巻市桜町4丁目で。右は名物の福竜軒の豚骨ラ-メン)

時を隔て、いまに結ぶ…現代の「神謡」

  • 時を隔て、いまに結ぶ…現代の「神謡」
  • 時を隔て、いまに結ぶ…現代の「神謡」

 「これは今という時代に息づく神謡ではないのか」―。今年の沖縄全戦没者追悼式(沖縄慰霊の日=6月23日)で朗読された平和の詩「生きる」を口ずさんでいるうちに、ふとそんな思いにとらわれた。まるで通奏低音のように、それは遠い太古からのもうひとつの詩と共鳴し合っている。最近になってそのことに心づいた。96年前、詩才を惜しまれながら19歳で世を去ったアイヌ女性、知里(ちり)幸恵が死の前年に編訳した『アイヌ神謡集』の、それが「序」だったということに。「私は、生きている。マントルの熱を伝える大地を踏みしめ…」。そして、相良倫子さん(浦添市立港川中学3年)の「生きる」をその上に重ねてみる。すう~っと、溶けあっていくような、そんな感じ。

 

 「シロカニペ/ランラン/ピシカン」(銀のしずく、降る降るまわりに)、「コンカニペ/ランラン/ピシカン」(金のしずく、降る降るまわりに)…。こんな語りで始まる梟(ふくろう)神の物語や狐、兎、獺(かわうそ)、蛙などなど『アイヌ神謡集』には自然界に住まう神々(カムイ)が一人称で語る13篇の「神謡」(カムイユカラ)が収められている。重ね詠むうちに、相良さんの詩も神に仮託した壮大な叙事詩ではないかという思いを強くした。約100年という時空を隔ててもなお、ともに10代の女性が紡ぎ出した詩文が心を揺さぶる。片や「アイヌモシリ」(人間の静かな大地=北海道)から、片や「ニライカナイ」(常世の国=沖縄)から…。この列島の南と北から聞こえてくる二つ叙事詩に私はいま、耳をそばだたせている。

 

 

 

 《アイヌ神謡集(序)》~知里幸恵

 

 その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。

 

 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝(かがり)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円(まど)かな月に夢を結ぶ。

 

 嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
 

 その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮(あけくれ)祈っている事で御座います。
 

 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

 

 

 

《生きる》~相良倫子

 

 私は、生きている。マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、草の匂いを鼻孔に感じ、遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。私は今、生きている。私の生きるこの島は、何と美しい島だろう。青く輝く海、岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、山羊の嘶き、小川のせせらぎ、畑に続く小道、萌え出づる山の緑、優しい三線の響き、照りつける太陽の光。

 

 私はなんと美しい島に、生まれ育ったのだろう。ありったけの私の感覚器で、感受性で、島を感じる。心がじわりと熱くなる。私はこの瞬間を、生きている。この瞬間の素晴らしさが、この瞬間の愛おしさが、今と言う安らぎとなり、私の中に広がりゆく。たまらなく込み上げるこの気持ちをどう表現しよう。大切な今よ、かけがえのない今よ、私の生きる、この今よ。

 

 七十三年前、私の愛する島が、死の島と化したあの日。小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。草の匂いは死臭で濁り、光り輝いていた海の水面は、戦艦で埋め尽くされた。火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、燃え尽くされた民家、火薬の匂い。着弾に揺れる大地。血に染まった海。魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

 

 みんな、生きていたのだ。私と何も変わらない、懸命に生きる命だったのだ。彼らの人生を、それぞれの未来を。疑うことなく、思い描いていたんだ。家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。仕事があった。生きがいがあった。日々の小さな幸せを喜んだ。手を取り合って生きてきた、私と同じ、人間だった。それなのに。壊されて、奪われた。生きた時代が違う。ただ、それだけで。無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。

 

 摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。私は手を強く握り、誓う。奪われた命に想いを馳せて、心から、誓う。私が生きている限り、こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。もう二度と過去を未来にしないこと。全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を超え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。生きる事、命を大切にできることを、誰からも侵されない世界を創ること。平和を創造する努力を、厭わないことを。

 

 あなたも、感じるだろう。この島の美しさを。あなたも、知っているだろう。この島の悲しみを。そして、あなたも、私と同じこの瞬間(とき)を一緒に生きているのだ。今を一緒に、生きているのだ。だから、きっとわかるはずなんだ。戦争の無意味さを。本当の平和を。頭じゃなくて、その心で。戦力という愚かな力を持つことで、得られる平和など、本当は無いことを。平和とは、あたり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きることだということを。

 

 私は、今を生きている。みんなと一緒に。そして、これからも生きていく。一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。なぜなら、未来は、この瞬間の延長線上にあるからだ。つまり、未来は、今なんだ。大好きな、私の島。誇り高き、みんなの島。そして、この島に生きる、すべての命。私と共に今を生きる、私の友。私の家族。これからも、共に生きてゆこう。この青に囲まれた美しい故郷から。真の平和を発進しよう。一人一人が立ち上がって、みんなで未来を歩んでいこう。

 

 摩文仁の丘の風に吹かれ、私の命が鳴っている。過去と現在、未来の共鳴。鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。命よ響け。生きゆく未来に。私は今を、生きていく。

 

 

 

(写真は死の2ケ月前の知里幸恵(左)と詩を朗読する相良倫子さん=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

 

共産党のダッチロ-ル…どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞー国はふたたび、強権発動

  • 共産党のダッチロ-ル…どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞー国はふたたび、強権発動

 

 市議在任中、沖縄の米軍基地問題に対する日本共産党花巻市議団(2人)の無知蒙昧(もうまい)ぶりに驚かされたが、今度は東京都の小金井市議会(定数24)で、同じ共産党市議団(4人)が同問題の「国民的な議論」の必要性を求めた陳情にいったんは賛成したものの、意見書採択の段階で一転して、反対に回るという前代未聞の出来事が起きた。一枚岩の政治団体と思われてきた公党の“ダッチロ-ル”は目をおおうばかり。その背景にはいわゆる「保守系」だけでなく、「革新」を標榜する地方議員の資質の劣化と一党支配の限界も垣間見えてくる。

 

 発端は小金井市議会の9月定例会に提出された「米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の代替施設(「辺野古」新基地)が必要かどうかを広く国民的に議論し、必要となれば本土で民主的に建設地を決めるよう求める」―という内容の陳情。共産党会派のほか、国政政党とつながりがない会派などの13人が賛成して採択された。自民党会派など6人が反対。公明党会派4人は退席した。これを受け、10月5日の本会議最終日で意見書を採択する段取りになっていたが、共産党市議団は態度を一変させ、以下のような反対論を展開した。このため、採択は見送られる結果になった。

 

 「共産党の米軍基地問題と沖縄の普天間基地、辺野古新基地建設についての態度は、在日米軍基地の全面撤去、基地のない平和な日本を目指す、そして普天間基地の即時閉鎖・無条件撤去、辺野古新基地建設を許さないというものだ。(陳情が)辺野古新基地建設中止を求める内容となっている点で賛成できるものと判断した。しかし、普天間基地の代替施設について、沖縄以外の全国全ての自治体を等しく候補地とすることが明記され、日本国内に米軍基地を移設することを容認する内容となっている。この点でわが党の基本的な立場と異なり、日本共産党が日本国内に米軍基地を造り強化することを容認しているとの誤解を与えるものとなっている」―。

 

 これが党本部の統一見解なら、最初からそう主張すればいいだけの話である。そうでないなら、党本部に抗(あらが)ってでも自説を堂々と押し通せばよい。それにしても、”教条主義”の教科書みたいな主張ではないか。在日米軍は「日米安保条約」とそれに付随する「日米地位協定」に存在規定がある。だからこそ、「安保廃棄・全基地撤去」が共産党の基本的なテ-ゼ(綱領)なのはある意味で当然である。私はむしろ、今回の“椿事”の背景には自党のテ-ゼにさえ「無知」であるばかりではなく、米軍基地を含む沖縄総体に対する「無関心」のなせるわざではないかとにらんでいる。これをひと言でいえば「沖縄差別」ということになろうか。

 

 その良い見本が花巻市議会での共産党市議団の振る舞いだった。当ブログで何度も言及してきたが、せっかくだからざっとおさらいをしておきたい。私は1期目の2010年12月定例会で今回の陳情と同じような趣旨で、「普天間飛行場の訓練の一部を受け入れる考えはないか」と当局の見解をただした。共産党市議団から意想外の反論が浴びせられた。「女性暴行など米兵による犯罪と騒音被害は想像を絶しており、花巻市民がそれを受け入れなければならない理由などない」―。ファシストまがいの物言いに仰天したことを覚えている。さらに、新人議員の私に向かって、慇懃無礼(いんぎんぶれい)にこうのたまわって見せた。

 

 「議員となられて半年を経過したいま、貴議員もすでに理解しておられると存じますが、議会とは市民の願いを実現するために市政に働きかけるのが仕事であり、抽象的な理念や文芸論を披歴する場ではございません。議会の権能と役割、住民の願い向上のための方策への研鑽をさらに深められ、ご活躍されることを願ってやみません」―。今年7月の市議会議員選挙で同党は議席をひとつ増やして、会派結成(3人以上)の栄誉に浴したらしい。この機会に小金井市議会の同僚議員の轍(てつ)を踏まないよう、「研鑽をさらに深められ、ご活躍されることを願ってやみません」―という有難いお言葉をそのまま、お返ししておきたい。

 

 そういえば、2年前の6月定例会に私が紹介議員になって、「日米地位協定」の抜本的な見直しを求める請願が出された際も政府側の常とう手段である「(国の)専管事項」論をタテに反対の旗を振ったのも共産党を含む、いわゆる「革新」側だった。全国市議会議長会が2年前、協定の抜本改定の議案を可決し、全国知事会も今年8月、同じ趣旨の提言を全会一致で採択し、日米両政府に提出した。こうした動きについてもこの人たちは多分、無知・無関心を決め込んでいるのだろう。もっとも、共産党本部自体も野党連立政権「国民連合政府」が実現した場合、「安保廃棄」の凍結を表明するなど立ち位置が定まっていない。沖縄の米軍基地をめぐっては「中央」も「地方」も腰の定まらないダッチロ-ルを続けている。

 

 

 

(写真は辺野古新基地(名護市)の建設が進む大浦湾の海底。スズキ目科の熱帯魚が群生する、“クマノミ城”と名づけられた光景はまるで竜宮城を思わせる=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記ー1》~沖縄からの視座

 

 共産党の変心が「残念で悔しい」という。沖縄出身で東京に住む米須清真(きよさね)さん(30)。地元の小金井市議会に出した陳情に「全面賛同」してくれた議員団が10日後に「間違っていた」と撤回した

 

▼辺野古新基地建設をやめ、普天間飛行場の代替施設が本当に必要かどうか、本土の議論を求める内容。議員から謝罪された米須さんは「公平な政策論争を求めているだけ。謝られても困る」

 

▼代替施設が必要という結論になれば本土の全自治体を候補地にする。ここがまずかった、と共産党は釈明する。日米安保反対の党方針に反するから

 

▼しかし、沖縄では安保を容認する玉城デニ-知事の当選を支えた。最終目標と現時点の選択を区別してのことだろう。とすれば、小金井でも賛成する余地はある

 

▼陳情に反対した自民党、退席した公明党も議論自体は否定できないし、していない。各党が主張を競うのがいい。どういう結論でも当事者として引き受ける責任、米軍占領下で議論の機会もなく本土の基地を押し付けられた沖縄をまた犠牲にしない公正さ。陳情の訴えはシンプルだ

 

▼論点がはっきりしたこと、東京の議員が悩んでいること自体が最初の効果と言えそうだ。同じ陳情は県議会などにも出されている。本土世論をさらに高められるか。沖縄の議員の姿勢も、大きく影響するだろう【10月10日付沖縄タイムス「大弦小弦」】

 

 

《追記ー2》~東京都文京区議会は同趣旨の請願採択

 

 文京区議会(定数34)は今年6月定例会で「沖縄の『辺野古新基地』建設の中止を国に求める」―請願を共産党区議(6人)を含めた賛成多数(自民・公明は反対)で採択、安倍晋三首相らに意見書を提出した。請願者は「文京9条連絡会」。以下に請願の内容を掲載する。花巻、小金井両市議会の共産党議員との、この天と地ほどの乖離は一体、どうすれば生じるのか。大方のご意見を伺えればと思う。

 

 

 沖縄にある米軍基地の大部分は、米軍占領下で造られたものです。米軍基地の集中に伴い、婦女暴行などの刑事犯罪が頻発し、加えてヘリコプタ-の墜落事故なども続発しており、沖縄県民の生活・安全が脅かされています。このような状況下で、沖縄県民は辺野古の新基地建設に反対しています。
 

 理由は、①沖縄にとって命の源ともいえる海を埋め立てることは認められない、②米軍基地は日本の防衛のためのものであり、その負担は全国で平等に負うべきである。沖縄だけへの押し付けは差別である、③辺野古新基地は普天間基地の代替だと政府は言っているが、強襲揚陸船の係船護岸や弾薬庫などを備えた新基地であって代替基地ではない、などです。
 

 わたしたちは、この沖縄県民の辺野古新基地建設反対の理由に賛同いたします。また、沖縄県民の反対を押し切っての新基地建設は、地方自治・民主主義の精神にも反すると考えます。これらの理由から、辺野古新基地建設は中止されるべきだと考えます。わたしたちのこのような請願の理由にご賛同いただき、下記請願を採択され、政府並びに関係省庁に対して要望書を提出していただけるよう要請いたします。

 

 

《特記―3》~東京都武蔵野市議会も

 

 武蔵野市議会は平成15年の9月定例会で、「地方自治の尊重を政府に求める意見書」を可決し、沖縄の米軍基地について、以下のように述べた。

 


 

 日本全土の0.6%の面積しかない沖縄に、在日米軍の専用施設の74%が集中しています。先日も起きた米軍機の墜落や繰り返し発生する米兵の女性に対する暴行事件など、沖縄県民はこの米軍基地に苦しめられ続けています。沖縄が、第二次世界大戦において本土防衛の捨て石とされ、総人口の5分のlにあたる12万・人の民間人が地上戦で犠牲となり、戦争終結後も1972年の本土復帰まで27年間、米軍の軍政下に置かれてきたことを考え合わせれば、これ以上の犠牲を沖縄県民に押しつけることは許されません。

 ところが、日本政府は、「世界一危険な基地」である普天間基地の返還のかわりであるとして、辺野古に新基地建設を決め、昨年11月の沖縄県知事選挙や暮れの衆議院議員選挙で、沖縄県民から、はっきりとした基地建設反対の声が示されたにもかかわらず、その建設を強行しようとしています。普天間基地も、もともと沖縄県民の土地を一方的に取り上げて作られたものです。それを返還するからと言って、どうして、ジュゴンやアオサンゴ、260種以上の絶滅危倶種を含む多様な海洋生物が生息する辺野古・大浦湾を埋め立て、環境を無残にも破壊して、辺野古に新基地を建設しなければならないのでしょう。

 
沖縄戦の最大の教訓は、「軍隊のいるところで住民は戦争に巻き込まれて死ぬ」というものです。新基地建設による基地強化は、沖縄県民を再び戦争の惨禍に巻き込む危険性を高めます。また、繰り返し示された沖縄の民意を踏みにじって、辺野古基地建設を強行することは、地方自治の侵害と言わざるを得ません。よって、武蔵野市議会は、貴職に対し、地方自治を尊重し、辺野古新基地の建設を強行しないことを求めます。以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出します。

 

 

《追記ー4》~「辺野古」、国が対抗措置

 

 【東京】岩屋毅防衛相は17日午後、名護市辺野古の新基地建設に伴う県の埋め立て承認撤回を受け、行政不服審査法に基づく対抗措置を取ったと表明した。防衛省で記者団に対し「(同法は)できるだけ迅速に問題に答えを出すために用意されている法律だ。迅速に当面の問題を解決し、目的達成に向かって進みたい」と強調し、辺野古移設を一日も早く進める考えを示した。

 防衛省は同日、石井啓一国土交通相に対して行政不服審査法に基づく審査請求と、処分が出るまで撤回の効果を止める執行停止を申し立てた。執行停止が認められば、工事は再開される見通し。行政不服審査法に基づく対抗措置を巡っては、国が「私人」になりすまして同じ政府内の省庁に救済を申し立てることへの批判がある。岩屋氏は「一般私人だけでなく、国や地方公共団体に対する処分も、審査請求ができるものになっている」と説明した。

 9月の知事選で新基地建設に反対する民意が示されたことに関しては「真摯に受け止めなければいけない」としつつ、「大きな目標を達成するために前に進ませていただきたい」と辺野古移設の必要性を語った。【10月17日付琉球新報電子版】

 

 

《追記―5》~沖縄在住の芥川賞作家、目取真俊さんのブログ「海鳴りの島から」

 

 安倍政権が辺野古新基地建設工事の再開に向けて動き出した。〈石井啓一国土交通省に対して行政不服審査法に基づく審査を請求し、処分が出るまで撤回の効果を止める執行停止を求めた〉(2018年10月18日付琉球新報)。安倍首相と玉城知事の面会が行われたのは12日だ。1週間も経たずして…、というより、1度は会っておいた、というアリバイ作りだったわけだ。

 

 県知事選挙で示された8万票の大差という民意を踏みにじるだけではない。沖縄では今日から那覇市長選挙が3日攻防に入り、県議会では県民投票についての論議がなされている。そんなのどうでもいい、という姿勢をあえて示すことで、安倍政権の「本気度」を強調したということだ。なりふり構わないその姿勢は、機動隊や海保という暴力装置を前面に出して、これからも工事を強行するという宣言でもある。

 

 沖縄が憲法や民主主義の番外地に置かれている状況は、いまに始まったことではない。選挙でどういう結果を出しても政府は一顧だにしない。そういう姿勢を示すことで、沖縄県民を無力感と絶望感に陥らせ、何をやっても国には勝てない、という諦めを植えつける。これまでもくり返されてきた日本政府の手法だが、では、安倍政権の沖縄に対する凶暴な姿勢を許しているのは誰なのか。

 

 安倍首相も管官房長官も分かっているのだ。沖縄からどれだけ怒りと反発の声が上がっても、大半の日本人=ヤマトゥンチュ-が呼応して行動を起こすことはなく、政権への支持率が低下することもない。だから平気で沖縄に基地を押しつけ、暴力を行使することができる。沖縄県知事選挙から元気や希望をもらったというなら、全国各地で辺野古の工事再開を止める行動を起こしてもらいたい。行政不服審査制度を国が使う問題は、多くの専門家から批判されてきた。にもかかわらず再度その手法を使う。専門家も市民もそこまで安倍政権になめられているのだ。行動しなければ何も変わらない(10月18日付)

 

 

《特記―6》~県都・那覇市長も「辺野古」反対

 

 任期満了に伴う那覇市長選は21日投開票され、無所属現職の城間幹子氏(67)が、無所属現職で前県議の翁長政俊氏(69)=自民、公明、維新、希望推薦=を破り、2期目の当選が確実となった。城間氏は9月30日の知事選で勝利した玉城デニ-知事と同じ「オ-ル沖縄」の組織体制を維持して盤石の選挙運動を展開し、労組や企業などの組織票に加え、無党派層にも支持を広げた。

 

 「オ-ル沖縄」勢は、宜野湾市長選は落としたが、知事選、豊見城市長選に続く勝利となった。選挙結果は玉城デニ-知事の県政運営に追い風となりそうだ。那覇市長選は、子育て施策や街づくりなどを争点に論戦が繰り広げられたほか、1期4年の城間市政への評価も問われた。城間氏が当選したことで、市民は市政運営を信任した形だ。認可保育園の増設による待機児童数の減少など、安定的な市政運営が評価された(10月21日付「琉球新報」電子版)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 


 

 

Tomorrow Never Comes

  • Tomorrow Never Comes

 

 ハ-ドカバ-のその可愛らしい詩集は妻が母親から譲り受けた、古ぼけた岩谷堂タンスの一番下にまるで隠すようにしてあった。表題の原作が『最後だとわかっていたなら』(佐川睦訳)というタイトルで翻訳されたのは11年前。米国人女性のノ-マ・コ-ネット・マレックさんが亡き息子に捧げた詩で、1989年に発表された。「9・11」(2001年)の米国の同時多発テロを機にチェ-ンメ-ルで世界中に広がり、日本では「3・11」(2011年)の東日本大震災後のわずか半年間で16刷を重ねるヒット作となった。さらに、震災6周年の昨年の3月11日、地元紙「岩手日報」が詩の全文を掲載するなど犠牲者の死を悼(いた)む詩として、その輪はさらに広がった。

 

 「あなたが眠りにつくのを見るのが、最後だとわかっていたら/わたしはもっとちゃんとカバ-をかけて/神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう」―。詩集はこんな書き出しで始まる。あの日の光景が目の前によみがえった。妻はベットから転げ落ちるようにして死んでいた。私が発見したのは死後4時間もたってからだった。「最後だとわかっていたら」…そばにいてやれなかったことを今さらのように悔(く)いた。それにしても妻はなぜ、この本を秘かに手に入れ、タンスの奥にしまい込んでいたのか。作者のマレックさんは末期がんをわずらい、2004年に64歳で他界している。当然、震災犠牲者への鎮魂がまず、あったのだと思う、と同時に、同じ病を抱える妻が死期を悟った時の気持ちをこの詩に重ねたのではないのか。そして、私に心配をかけまいと…

 

 「お元気ですか。おばあちゃんがいなくても、ぼくたちがついてます。げんきに長生きしてください。フレ-、フレ-、がんばれ」―。敬老の日、沖縄・石垣島に住む二人の孫から葉書が届いた。妻が亡くなった時、孫たちは7歳と9歳だった。この「死」の現実に対し、どう向き合わせたらよいのか…母親である娘にも私自身にも少しの迷いがあった。私はそっと、二人の背中を押した。「おばあちゃん…」と小声で呼びかけ、二人は冷たくなった妻のひたいに手を当てた。口を真一文字に結んだ頬に、ポロリと涙のひとしずくが伝って流れていた。ひとつの「儀式」が終わったのだと私は思った。翌日の収骨の際、二人は競うようにして、骨を拾っていた。「おばあちゃんがいなくても…」―、孫たちがそのことの意味に自分たちなりに折り合いをつけ、納得してくれたと思った。

 

 妻の死の約3週間前の7月6日、オウム真理教の元代表、松本智津夫(教祖名、麻原彰晃)死刑囚ら7人の元教団幹部に対する死刑が執行された。死刑前夜でしかも豪雨災害のさ中、安倍晋三首相や執行責任者の上川陽子・法相(当時)ら自民党議員がにこやかに乾杯している写真がネット上に出回った(7月7日付当ブログ参照)。この狂乱じみた光景について、作家の辺見庸さんは「祝祭」になぞらえて、こう書いた。

 

 「死刑の光景は日本において不可視であるがゆえに、かえって幻想のスペクタクル(見世物)となり、無意識のうさ晴らし(娯楽)と化してはいないだろうか。だとすれば、この国はすでに人間の『つつしみ』というものがなにかを忘れ、倫理の根源に悖(もと)るゾ-ンに足をふみいれつつある。すなわち、日本はみように晴れやかに危うい一線をこえたのだ。…サッカ-の試合後、日本人サポ-タ-たちがみんなで会場のゴミ拾いをしたという公徳心の高さと、絞首刑の国民的受容にはどのような道徳的なバランスがたもたれているのか。不可思議である」(7月14日付「岩手日報」)

 

 「『ごめんね』や『許してね』や『ありがとう』や『気にしないで』を伝える時を持とう/そうすれば、もし明日が来ないとしても/あなたは今日を後悔しないだろうから」―。マレックさんの詩はこう結ばれている。考えて見れば、私は妻の生前にこうした言葉のひとかけらでも口にしたことがあったろうか。おそらく、なかった。「後悔、先に立たず」―を地で行くような人生だったとつくづく思う。私はこの詩集を「おばあちゃんの遺品」として、孫たちに送ろうと思っている。「死」がだんだんと遠ざけられ、あろうことか「祝祭」にまつり上げられるという狂気の時代を、これから先、生きていかなければならない幼い孫たちの「転ばぬ先の杖」として…。

 

 

(写真は妻の遺影の前に立つ、向かって右が長男の主水(=もんど、現在10歳)と次男のるん太(8歳)=2018年8月1日、花巻市内の斎場で)