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花巻版「歴史秘話ヒストリア」―その2の1(玉砕の島「硫黄島」秘史)…「昭和」から「令和」へ

  • 花巻版「歴史秘話ヒストリア」―その2の1(玉砕の島「硫黄島」秘史)…「昭和」から「令和」へ

 

 もうかれこれ、1年も前のことになる。朝日新聞の先輩で政治部長や局長職、代表職などを歴任した羽原清雅さんから「花巻出身の兵士の数奇な運命について調べている。力を貸してほしい」というメ-ルが届いた。概略を聞いて驚いた。その兵士は「玉砕の島」と言われた硫黄島から奇跡の生還を果たしたものの、島にふたたび戻った末に自害した―という顛末(てんまつ)だった。関係者の消息捜しの手伝いをしながら、私は足元に転がる戦争の記憶が封印される形でひっそりと、歴史の闇に姿を消そうとしていることにショックを受けた。

 

 羽原さんはそのいきさつを「ある兵士の二重の不幸」というタイトルで、メ-ルマガジン「オルタ広場」4号(2018年8月20日発行、通算175号)に掲載した。当時、私は妻を亡くした直後で、きちんと目を通すいとまもなく時を過ごしてしまった。いま、読み進むうちに慄然(りつぜん)たる思いになる。そこには先の大戦の悲劇の極限が凝縮されていた。「アジア太平洋戦争とは一体、なんであったのか」―。新しい元号へと時代をまたぐ前に、その”歴史秘話“に目を凝らさねばならないと思った。中村草田男にならえば、「降る雪や/昭和は遠くなりにけり」。筆者の許しを得て、5回にわけて転載したい。

 

 

《前文》

 

 戦争というものは残酷である。一過性のものではなく、その残酷は悲しみとなって、尾を引き続ける。「時」は悲しみを癒してくれる、というが、本当にそうなのだろうか。古い新聞をめくるうち、ひとつの記事に目を引かれた。一兵士として激戦の硫黄島に動員された若者が、全島壊滅のなか、岩穴に逃げ込み、米軍の目を逃れて4年近く生き延びる。昭和24年、ついに投降し、帰国する。だが、島に埋めた日記を掘り出そうと一時の帰島を望み、認められた。同26年春、久しぶりの硫黄島に戻る。そこに、不幸が生まれる。その兵士の心のうちは、推測はできても、真実はわからない。

 

 小笠原諸島にあるその島はいま、東京都に属しながら、相変わらずの戦争の名残を残して、自衛隊が駐屯する。一般人は立ち入れない。太平洋戦争の遺体はまだまだ多く残され、戦争はいまも終わってはいない。

 

●《第1話》~海軍水兵長・山蔭光福

 

 その19歳の若者は、岩手県花巻市出身の山蔭光福という。1925(大正14)年6月生まれ。終戦まで1年足らずの1944年9月、横須賀の海軍砲術学校で3ヵ月の厳しい訓練を受け、浦賀防備隊から硫黄島増援に志願する。この年6月には、米軍の空襲と艦砲射撃を受け、この島の命運はすでに尽きかけているときの増派だった。
 

 それでも山蔭は、地下5メ-トル、横穴の深さ10メ-トルの壕掘りや砲台つくりに追われた。炎天下に与えられた水はわずか1合、食料供給の輸送船は月に1、2回になって主食は4割減といった状況だった。12月になると、1日1回程度だった米軍の空襲が2回3回と増え、B24、B29機による連続爆撃は夜間30分おきとなり、一度に5キロ爆弾を数百発も落とされる事態になっていた。翌年2月になると、3つの空港のうち一つが、その2日後には島の4分の1が占領された。そこで、上陸した米軍への斬り込みが計画され、55人の砲台員は半分ほどに減り、3月12日には生存者は山蔭を含む6人だけになっていた。

 

 3月17日は硫黄島全滅の日。166メ-トルの摺鉢山に米兵が星条旗を立てる姿の写真は大きな話題になった。この戦闘は、クリント・イ-ストウッド監督の『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』でもよく知られている。ちなみに、この旗を掲げた米兵6人のうち3人がその後の戦闘で亡くなっている。

 

 

(写真は硫黄島の摺鉢山頂上に星条旗を掲げる6人の米兵。1945年2月23日、報道写真家のジョ-・ロ-ゼンタ-ルが撮影。同年のピュ-リッツア-賞に選ばれた=インタ-ネット上に公開の写真より)

 

 

《追記》~「IWO JIMA」と「いおうとう」

 

 「史実を見れば、約1200人の島民の多くが「強制疎開」させられ、一部は軍務に動員された。戦後も米軍による島の占領は続き、1968年の日本返還後は自衛隊の基地に。島民の帰郷はいまだに実現していない。74年前のきょう3月17日、栗林(忠道)中将は総反撃を期して、『訣別(けつべつ)の電文』を大本営に打電した。『玉砕の島』は米国では『IWO JIMA』だが、島民には『いおうとう』。これだけの時が過ぎても、異なる悲しみは続いている」(2019年3月17日付朝日新聞「天声人語」から、要旨)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「伝説」のクイーンから元祖「クイ-ン」へ

  • 「伝説」のクイーンから元祖「クイ-ン」へ

 

 URGENT(緊急)!!!URGENT(緊急)!!!」―。こんな切羽詰まった呼びかけで始まる、その公式ツイッタ-には「米軍基地の拡張により脅かされている美しいサンゴの海と、かけがえのない生態系を守ろう」と記されていた。今年1月7日未明のことである。発信者は英国の人気ロックバンド「クイ-ン」のギタリストで、天文学者でもあるブライアン・メイさん(71)。米軍普天間飛行場名護市辺野古への移設工事(新基地建設)をめぐり、米トランプ大統領に対して、埋め立ての賛否を問う沖縄県民投票(2月24日)まで工事を止めるよう求めていた。ブライアンさんの発信はホワイトハウスへの嘆願署名の締め切り直前。クイ-ンを題材にした映画「ボヘミアン・ラプソディ」(2018年、米映画)の異例の大ヒットと重なった相乗効果もあり、全世界からの署名は20万筆を超えた。

 

 この映画はクイ-ンのリ-ドボ-カルで、エイズをわずらって1991年に45歳の若さでこの世を去ったフレディ・マ-キュリ-を描いた伝記ドラマである。現メンバ-であるブライアンさんとロジャ-・テイラ-(ドラムス)が音楽総指揮を手がけた。第76回ゴ-ルデングロ-ブ賞では最優秀作品賞(映画・ドラマ部門)と最優秀主演男優賞(ラミ・マレック)を受賞。第91回アカデミ-賞でも主演男優賞など最多4部門に輝き、日本でも”クイーン現象”と呼ばれる大ヒットとなった。待望久しいこの映画に最近やっと、めぐり合えた。その内容のすばらしさは当然のこととして、私は「クイ-ン」という命名をめぐる”偶然の一致”が以前から気になっていた。

 

 岩手最古のジャズ喫茶「クイ-ン」については、1月21日付と3月4日付の当ブログで紹介した。思い込みとは恐ろしいものである。私はかの伝説のロックバンドが店名の由来だと信じ込んでいた。映画を見てまちがいに気が付いた。フレディらがクイ-ンを結成したのは1970年。昨年夏に鬼籍に入ったオ-ナ-の佐々木賢一さん(享年76)が三陸沿岸の大槌町に同名の喫茶店を開業したのはその6年前の1964年、東京オリンピックが開かれた年の9月10日である。元祖は賢ちゃんの方だったのである。「で、そもそも、その名の由来は?」と聞こうとしてもその人はもういない。

 

 目の前のスクリ-ンでは20世紀最大のチャリティコンサ-トと言われた「ライヴエイド」が再現されていた。1985年7月、「1億人の飢餓を救う」というスロ-ガンを掲げ、アフリカ難民救済を目的として開催された。クイ-ンは「ボヘミアン・ラプソディ」(1975年)など全出演陣中、最多の6曲を披露した。「ラスト21分間のパ-フォ-マンス」と呼ばれる名場面がある。バンドメンバ-と大観衆とが一体化する感動の一瞬である。マイクをゴルフクラブのように操るフレディ(演じるのは主演男優賞のラミ・マレック)…。刹那(せつな)、ジャズ喫茶「クイ-ン」のたたずまいがすう~と、背後から浮かび上がってくるような錯覚を覚えた。

 

 8年前、東日本大震災の大津波はこの老舗スポットをひと飲みし、妻と約1万2千枚に及ぶレコ-ドコレクションを海の無辺に流し去った。一方で、二度目となる東京オリンピックを来年に控え、「3・11」の記憶は忘却の彼方に押しやられつつある。この映画はこうした風潮に異議申し立てをしているのではないか、とふと思った。「居場所のない者、悩める者、弱き者、名もなき者」―に捧げる音楽こそが「クイ-ン」精神なのだと、パンフレットにある。その通りだと思う。ブライアンさんが「沖縄」に寄せるまなざしもその精神の体現なのだろう。

 

「伝説」のクイーンから元祖「クイ-ン」へ………映画「ボヘミアン・ラプソディ」は海の藻くずと消えた“元祖”へのレクイエム(鎮魂歌)ではないかと、私はひとり合点したのだった。”伝説”の日本公演は6回をかぞえた。クイーンよ、永遠(とわ)なれ……

 

 

(写真はありし日のフレディとブライアンさん(右)のライブのひとこま=インタ-ネット上に公開の写真より)

「日米地位協定」抜本見直しの陳情、賛成多数で可決…反対論の薄弱さを露呈

  • 「日米地位協定」抜本見直しの陳情、賛成多数で可決…反対論の薄弱さを露呈

 

 花巻市議会3月定例会に提出していた「日米地位協定」の抜本見直しを求める陳情が3月19日開催の本会議最終日に賛成多数で可決された。この陳情をめぐっては先の総務常任委員会(3月8日付当ブログ参照)で採択され、内閣総理大臣や関係大臣への意見書の送付が決まっていた。採決は議長を除く25人で行われ、賛成19対反対6。3年前、同趣旨の請願が否決された経緯があったが、今回の可決によってこれまで“他人事”として無関心を装ってきた地方議会の間にもようやく、変化の兆しが見えてきたようだ。今後は「沖縄」問題に“自分事”として向き合うことが求められることになる。

 

反対討論をした公明党所属の菅原ゆかり議員(2期目)はその根拠として、①防衛や安全保障などの外交問題は国の「専管事項」であり、日米地位協定については国家間で協議を進めるべきだ、②基地を有する自治体は犯罪や騒音に悩まされているが、当市には米軍基地はなく、地方自治法が定める「公益」が侵害されるということはない、③地方議員は地域課題に取り組むべきだ―などと主張した。余りの稚拙さに驚いた。日米地位協定の是非をめぐる県民投票(1996年)では89%以上の沖縄県民が見直しを求め、今年2月に行われた「辺野古」新基地建設に伴う埋め立て工事の県民投票でも反対が70%以上に及んだ。こうした沖縄の「民意」を一顧だにしない姿勢にもびっくりしたが、事実認識の貧困さにさらにのけぞってしまった。

 

 たとえば、日米地位協定は米軍基地だけではなく、日本全国に網羅的に適用されている。その基地の7割以上が沖縄県に偏在していることによって、米兵らによる凶悪犯罪や米軍機の墜落事故、騒音被害などがこの地域に集中しているのは周知の事実である。つまり、当地花巻の「公益」(市民の安心・安全)も現行の日米安保体制下においては実は、沖縄を含むこうした米軍基地によって、担保されているという“想像力”の欠如が今回、白日の下にさらされた。さらに、オスプレイ(垂直離着陸輸送機)の飛行訓練は岩手県を含む東北地方でも展開されており、低空飛行による騒音被害が出ているほか、過去においては花巻空港が日米地位協定第5条(米軍関係者の移動の自由)の規定に基づき、日米共同訓練の際に米軍機や軍人の出入りに利用されたケ-スもある。

 

 一方で、「専管事項」を取り決めた法令は一切なく、逆に憲法は第92条から第95条にわたって、地方自治のあるべき姿(地方自治の本旨)を定めている。地方議員がよって立つべきはまず、憲法のこの規定である。こうした事実には一切触れないまま、菅原議員は「当市の市民が日米地位協定によって、直接の影響を受けているわけではない」とも言い放った。これこそが”他人事”(つまりはこの人の信じがたい無知・無関心ぶり)の真骨頂というべきであろう。沖縄の「民意」に寄り添うと口では言いながら、真逆の強権支配を続ける「安倍一強」にぴったりと“寄り添って”いる「平和の党」の姿がそこにある。こうした低劣な議論がまかり通るようでは「議会の危機」や「議員の知的劣化」が叫ばれてもいたし方あるまい。そして、私は何よりもその羞恥心(しゅうちしん)のなさに二の句が継げない。

 

 ところで、県内14の市議会のうち、奥州市議会と二戸市議会が3月定例会で議員発議によって、同趣旨の意見書を採択したほか、北上市議会では市外からの陳情を審査対象とし、3月22日の議会最終日で採択する方向で調整している。花巻市議会の意見書(案)は以下の通り。

 

 

 日米地位協定は1960年、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の締結に伴い、従来の日米行政協定にかわって双方で合意されました。しかし、公務中に犯罪を起こした場合、米国側の裁判権が優先されるなどその不平等性が以前から指摘されてきました。日本政府は運用の改善を主張するにとどまっていますが、最近になって、地方自治体や地方議会において協定の抜本的な見直しを求める声が急速に広がりつつあります。

 

 例えば、当花巻市議会もその一員である全国市議会議長会は2016年5月、日米地位協定の抜本的な見直しを求める部会提出決議を採択し、この前年には全国町村議長会も同じ趣旨の特別決議を採択しています。さらに、2018年7月には全国知事会が抜本見直しの提言書をまとめ、日米両政府に提出しました。提言書はこの中で米軍基地は防衛に関する事項であることは十分認識しつつも、各自治体住民の生活に直結する重要な問題であると指摘し、その必要性を訴えています。

 

 よって、日米地位協定の抜本的な見直しを求めます。以上、地方自治法第99条に規定により、意見書を提出します。

 

 

(写真は3年前、米軍属によって引き起こされた「女性暴行殺人」事件の現場。手を合わせる人が絶えなかったが、3回忌を機に祭壇は撤去された。私も二度、この現場に足を運んだ=沖縄県恩納村で、インターネット上に公開の写真より)

 

 

 

《追記―1》~宮沢賢治が泣いている

 

 花巻市は宮沢賢治の精神をまちづくりの基本にすえ、将来都市像として「イ-ハト-ブはなまき」の実現を掲げている。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)という賢治のメッセ-ジや、詩「雨ニモマケズ」の中で繰り返される「行ッテ」精神はそのまま、沖縄に寄り添うことの大切さを教えている。日米地位協定の抜本見直しに反対の論陣を張った公明党所属の菅原ゆかり議員が実は「賢治精神」の発露の場であり、賢治自身も一時期教壇に立ったことがある「花巻農学校」(当時、稗貫農学校)の卒業生であったことをふと、思い出した。

 

《追記―2》~目取真さんが勝訴

 

 2016年4月、名護市辺野古の新基地建設への抗議活動中に米軍に拘束された芥川賞作家の目取真俊さんが、米軍の約8時間に及ぶ拘束や中城海上保安部の緊急逮捕は人権侵害や憲法違反に当たるなどとして、国を相手に損害賠償を求めた訴訟の判決で、那覇地裁(平山馨裁判長)は19日午前、中城海上保安部の身柄引き受けの遅延に合理的な理由はなく、緊急逮捕にも違法性があると判断した。目取真さんが勝訴した。【3月19日付「琉球新報」電子版】

 

 

《追記―3》~ジュゴンの死骸、見つかる

 

 国の天然記念物で絶滅の恐れがあるジュゴン1体の死骸が18日、沖縄本島北部の西海岸の沖合で見つかった。本島周辺に生息する3頭のうちの1頭とみられ、沖縄県などが確認している。今帰仁(なきじん)漁協によると、18日午後5時ごろ、今帰仁村の運天漁港沖の防波堤付近で死骸が浮いているのを、組合員が見つけた。死骸は回収し、漁港内で保管している。体長約3メートルで、頭部や顔、胸びれに傷があり、出血もしているという。防衛省沖縄防衛局の調査では、ジュゴンは本島周辺に3頭しか確認されておらず、そのうちの1頭とみられる。3頭のうち、西海岸の古宇利島(こうりじま)沖に生息する「個体B」の可能性があり、県や国が特定作業を進める(3月19日付「朝日新聞」デジタル)

 

 

 

 

 

 

 

 

花巻版「歴史秘話ヒストリア」ーその1(「新花巻駅」誕生秘史)

  • 花巻版「歴史秘話ヒストリア」ーその1(「新花巻駅」誕生秘史)

 

 韓国映画「朴烈(パクヨル)/植民地からのアナキスト」(2017年、イ・ジュンイク監督)を改題した日本語版「金子文子と朴烈」が日本に上陸。折しも「3・1」独立運動100周年(2月28日付当ブログ)と重なったこともあり、注目の輪が広がっている。1923(大正12)年9月3日、関東大震災の3日後に朝鮮人アナ-キストの朴烈と内縁の妻、金子文子が大逆罪容疑で逮捕された。3年後、文子は恩赦を拒否して獄中で縊死(いし)した。23歳の若さだった。映画のラストショットに使われているのが、ここに掲げた写真である。実は今回の当ブログの主題はこの映画ではなく、“怪写真”事件と呼ばれた、上掲写真にまつわるエピソ-ドについてである。

 

 二人が戯れているようなこのツ-ショットは東京・市ヶ谷刑務所に服役中に撮影されたとされる。何者かによって外部に持ち出され、野党の立憲政友会が政府批判を展開するなど政界を巻き込む一大スキャンダルに発展した。松本清張の『昭和史発掘1』の中にこんな記述がある。「朴烈の隣の房にいた石黒鋭一郎という者が高田保馬著『社会学原理』の中にはさみこんで、(保釈に際し、私物を持ち帰る)宅下げしたもので…」―。ちなみに、高田(1883-1972年)は当時を代表する社会・経済学者だった。一方、無政府主義者として社会運動に関わり、その世界では名の知れた存在だった「石黒」は先の戦争末期、中央の舞台から忽然と姿を消した。

 

 花巻温泉からさらに奥まった谷あいにホロホロ鳥を飼育・販売する「石黒農場」がある。この創業者こそがあの“怪写真”を房外に持ち出したその人である。長野県出身の石黒鋭一郎は戦後、縁あって当地花巻に疎開し、この農場を開いた。戦後復興の波に乗った石黒は東京・有楽町で材木商を開業、さらにフグやホロホロ鳥料理の専門料亭「大雅」を東京のど真ん中にオ-プンさせるなど文字通り、華麗なる転身をとげた。いまはもう、そのビルも解体されてしまったが、一時期、在京花巻人会の事務所が居候していたこともある。その数奇な人生を知りたいと思い、ある日、長男の晋治郎さん(81)を訪ねたことがあった。意外な話を聞か聞かせてくれた。

 

 「激動の過去は余り口にしなかった。しかし、新幹線を花巻に停車させるため、当時、鉄道建設審議会長を兼務していた鈴木善幸・自民党総務会長(元首相)に密かに働きかけるなど陰で動いていた。表に出ることはなかったが、かつての人脈を生かして地元のためには尽くしていたようだ」―。新幹線開通の陰の功労者が“怪写真”事件の首謀者だったことにある種の感慨を覚えた。もうひとり、忘れてはならない人物がいる。その名は「横川省三」(1865-1904年)。映画「二百三高地」(1980年)の冒頭で、横川ら二人がロシア軍によって処刑されるシ-ンを記憶している人も多いかもしれない。

 

 盛岡藩士の子に生まれ、のちに現花巻市東和町の横川家の婿養子に。自由民権運動に投じ、加波山事件に連座して禁錮刑になった。明治23年に東京朝日新聞社に入社。明治三陸大津波(1896年=明治29年)の際はいち早く現地入りし、生々しいルポを発信した。日清戦争に記者として従軍した後、日露戦争前に軍事探偵(スパイ)として諜報活動に従事。日露戦争(明治37年)勃発後、沖禎介らとともに満洲に入り、鉄道爆破を図ったがロシア軍に捕らえられ、ハルビン郊外で銃殺…。日本の裏面史を生きたという点では石黒鋭一郎と瓜二つである。

 

 「ネクタイを締めた百姓一揆」(河野ジベ太監督)というタイトルの映画が3年前に公開された。いったんは「花巻停車」を見送られた、東北新幹線の新花巻駅誘致に立ち上がった地元民たちの連帯を描いた映画である。「昭和という、激動の時代。当時の人々のインフラ整備・広く街づくりにかける熱い思いは、当該駅設置のみならず、現代においても通じる、あるいはむしろ輝き増して心に響く内容だと考えております」と謳い文句にある。開業医だった渡辺勤さんは当時の動きを『新花巻駅物語り―甚之助と万之助』(昭和60年)という冊子にまとめている。甚之助とは「一揆の頭領」…小原甚之助、万之助とは「住民の総代」…開業時の市長、藤田万之助(いずれも故人)のことである。映画の台本はこの本に拠(よ)っている。

 

 「俺達の隣町の横川省三を知らないか。日露戦争の時、シベリヤ鉄道(正しくは東清鉄道)を爆破した男だ。あなたがそう云うなら、我われにも考えがある」、「なにしたど、もう一度云って見ろ。岩手135万県民を馬鹿にする気か」―。甚之助が国鉄(当時)の常務理事のネクタイをつかんで詰め寄る場面が文中に出てくる。映画にとってはこのセリフこそがまさに肝(きも)である。ところが、映画にこのシ-ンは登場しない。「金子文子と朴烈」に深みを持たせているのが、石黒の手になるあの“怪写真”なのとは段違いである。この映画が何となく、のっぺらぼうに見えるのはそのせいかもしれない。

 

 全国初の請願駅―「新花巻」の誕生劇には実は「石黒鋭一郎」と「横川省三」という傑出した黒幕がいたのだった。私は花巻版「歴史秘話ヒストリア」を思い浮かべながら、何となく愉快な気分になった。

 

 

(写真は石黒が秘かに外に持ち出した金子文子と朴烈のツ-ショット写真=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

震災8年―「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」…そして、「3・12」へ

  • 震災8年―「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」…そして、「3・12」へ

 

 あの日から8年が経った。冷たい雨がそぼ降る中、花巻に避難している被災者や支援者が寺の鐘を打ち鳴らし、犠牲者やいまだに行方のわからない人たちの冥福を祈った。ここ数日間、USBメモリに記録された数千枚の震災写真を見続けた。あのがれきの荒野が長編映画のコマ送りのようにまぶたに映った。容赦なく押し寄せる”記憶の風化”をぴしゃりと拒絶するかのように。この日は私の79歳の誕生日にぶつかっていた。「忘れようとしたって、忘れるわけにはいかない。この因果なめぐり合わせに感謝しなくては…」―。

 

 唐突に宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の一節が口の端に浮かんだ。「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」―。震災3日後に「ぼくらの復興支援―いわてゆいっこ花巻」が産声を上げた。あの時に一気に書き上げた「設立趣意書」を声を上げて読んでみた。昨年夏に旅立った妻の死と「3・11」のそれとが初めて重なり合ったような気がした。正直、「震災死」に身内がいないことにホットしていた気持ちがあったのかもしれない。人の「死」の意味がようやく少し、わかったように思った。この日、生前の妻も参加していた、一年前に活動を停止した「ゆいっこ花巻」の再立ち上げが有志の間で決まった。

 

 平成31年1月31日現在で、花巻に避難している被災者の方は195世帯373人。内訳は―。大槌町(60世帯・126人)/釜石市(51世帯・92人)/山田町(19世帯・35人)/大船渡市(17世帯 28人)/陸前高田市(12世帯・21人)/宮古市(11世帯・21人)/宮城県(20世帯・39人)/福島県(5世帯・11人)。…時をまたぎ「3・12」を迎えた日本列島にはまるで満を持していたかのように、「五輪まであと500日」のファンファーレが響き渡った。「『復興五輪』の上の二文字を削ってほしい。いまだにわが家に戻れない私にとって、何が復興なのか」―。福島からの避難者のうめくような言葉がこびりついて離れない。

 

 

【設立趣意書】

 

 

 肉親の名前を叫びながら、瓦礫(がれき)の山をさ迷う人の群れ。着のみ着のままのその体に無情の雪が降り積もる。未曾有の大地震と大津波に追い打ちをかけるようにして発生した原発事故…。辛うじて一命を取りとめた被災者の身に今度は餓死と凍死の危機が迫りつつあります。もう、一刻の猶予(ゆうよ)も許されません。 「なぜ、いつも東北の地が」―。飢餓地獄の遠い記憶に重なるようにして、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の光景が眼前に広がっています。そして、茫然自失からハッとわれに返ったいま、わたしたちは苦難の歴史から学んだ「いのちの尊厳」という言葉を思い出しています。

 

 平泉・中尊寺を建立した藤原清衡は生きとし生けるものすべての極楽往生を願い、岩手・花巻が生んだ宮沢賢治は人間のおごりを戒め、「いのち」のありようを見続けました。昨年発刊百年を迎えた『遠野物語』は人間も動物も植物も…つまり森羅万象(しんらばんしょう)はすべてがつながっていることを教えてくれました。

 

 この「結いの精神」(ゆいっこ)はひと言でいえば「他人の痛み」を自分自身のものとして受け入れるということだと思います。いまこそ、都市と農村、沿岸部と内陸部との関係を結(ゆ)い直し、共に支え合う国づくりに立ち上がらなければなりません。16年前の阪神大震災の際、岩手県東和町(現花巻市)は全国で初めて、被災住民を町ぐるみで受け入れる「友好都市等被災住民緊急受け入れ条例」を制定しました。「海外から受け入れの申し出がきているのに、日本人がそっぽを向いていてよいのか」と当時の町長(故人)は語っています。
 

 温泉に一緒に浸かって背中を流してあげたい。暖かいみそ汁とご飯を口元に運んであげたい。こんな思いを共有する多くの人たちとわたしたちは走り出そうと思います。何をやるべきか、何をやらなければならないか―。走りながら考え、みんなで知恵を出し合おうではありませんか。

 

 試されているのはわたしたち自身の側なのです―

 

 

 

(写真は津波に飲まれた旧大槌町役場。保存の是非をめぐって裁判闘争にまで発展したが、震災8年を前に解体された=2011年春、岩手県大槌町で)