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陳情不採択―実質的な門前払い…議会改革、凋落の一途

  • 陳情不採択―実質的な門前払い…議会改革、凋落の一途

 

 花巻市議会6月定例会に提出していた「辺野古・普天間」問題に関する陳情(5月13日と6月7日付当ブログ参照)の採決が13日開催の本会議で行われ、付託先の総務常任委員会に続いて、議長を除く25人全員の反対で否決された。一方、議員発議で提出された「辺野古埋め立て反対の沖縄県民の民意を尊重すべきだとする」―意見書(案)は賛成16、反対9で可決された。

 

 陳情不採択の理由について、同委員会の藤原伸委員長は「陳情者が求めている辺野古新基地建設の中止と普天間基地の運用停止は論理的に矛盾している」という珍妙かつ支離滅裂な経過説明を披歴。受け止め方によっては、「世界一危険」と言われる普天間基地の固定化にあえて手を貸すような乱暴な論理を展開した。さらに、「国民的議論」の要求については、その理由を明示しないまま、実質的な審査拒否―門前払いによる不採択という前代未聞の醜態(しゅうたい)をさらけ出した。最近、耳目を集めたステルス戦闘機F35Aの墜落原因と言われる「空間識失調」を思わせる迷走ぶりである。

 

 一方、折衷案のような形で提出された前掲「沖縄県民投票の結果を尊重し、辺野古埋め立て工事を中止し、沖縄県と誠意をもって協議を行うことを求める」―意見書案は岩手県議会が今年3月に可決した同趣旨の意見書のほぼコピペ(引き写し)。また、私の陳情と同趣旨の意見書を可決した先行の東京都小金井市議会や小平市議会の経緯についてもほとんどの議員がその無知さ加減をさらした。さらに、陳情審査に当たっての対応について、議会事務局サイドは「議会側から要求があった場合は資料提供するが、それ以外は賛否の誘導につながりかねないので、当方から提供することはない」とした。たとえば、先行事例に賛否両論があるのであれば、活発な議論を促すためにもその双方を提供すればいいだけの話である。考えて見れば、いや考えるまでもなく、これも己の立場を正当化しようとする子どもじみた屁理屈である。

 

かくして、憲法第16条で保障された「請願(陳情)権」や地方自治法第99条に定められた「意見書」提出など国民に付与された神聖な権利行使はまさにそのことに真正面から取り組むべき立場にある地方議会と議会事務局のタッグによって、封殺されてしまったのだった

 

 全国で初めて、「辺野古・普天間」問題の意見書を可決した小金井市議会はそこに至るまで紆余曲折の議論を重ねた。共産党会派の議員は当初「国民的議論」について、「米軍基地の国内移設を容認するものと受け止められかねない」と反対したが、議員間討議を通して、この部分を意見書に追記することで合意に達した。同市議会の水上洋志議員(共産党)は「国内移設を前提するものではなく、あくまでも国民的議論を求めるもの。つまり、辺野古新基地の建設中止と普天間基地の運用停止を求めるため、国民的な議論を提起していることに賛同した」と述べた。また、片山薫議員(市民といっしょにカエル会)も「意見書の提出は第一歩であり、この間に喚起された市民の関心をさらに広げる必要がある」と強調するなど、当花巻市議会と真逆の対応を見せた。

 

わがイ-ハト-ブ議会の議員たちは、「辺野古」(移設)と「普天間」(返還)とが表裏一体の関係にあるという基本的認識さえ持ち合わせていないらしい。また、議員発議の意見書案に反対の討論をした菅原ゆかり議員(公明党)は「防衛や軍事、安全保障などは国の専管事項であり、地方議会は市民の公益に関する議論に集中すべきだ」と相変わらず、陳腐で幼稚な意見を開陳してはばかることがなかった。

 

 ところで、早稲田大学マニフェスト研究所(議会改革調査部会)がまとめた「議会改革度調査」によると、当花巻市議会は2011年、前年に制定された「議会基本条例」が評価されて全国第39位に輝いた。しかしその後は、断崖絶壁からダイビングするような凋落ぶりで、2018年はなんと第491位にまで陥落した。開かれた議会や議員間の自由討議を通じた合意形成、住民参加などを高らかに謳った議会基本条例が実は絵に描いたモチであったことが今回の陳情審査でも白日の下にさらされる結果になった。ちなみに隣の北上市議会は第26位である。あぁ、無情……

 

 

 

(写真は生物多様性の宝庫と言われる沖縄県名護市辺野古の大浦湾。この美(ちゅ)ら海の上では連日、土砂の投入が行われている=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 《追記》~市議会議長会表彰の怪

 

 本日の本会議の冒頭、小原雅道議長と藤原晶幸副議長がその職に4年以上在籍した功績が認められ、全国市議会議長会の表彰を受けた。慣例だかどうかは分らないが、この両名が在籍期間内に一般質問や他の質疑で発言した姿を見たことがない。ちなみに他の地方議会では議長や副議長が一般質問に立つ例は多々ある。へそ曲がりから見れば、無言の行を押し通したことに対する”論功行賞”ではないのかと皮肉りたくもなる。宮沢賢治のふるさと―イ-ハト-ブ議会では何から何までが逆さま。賢治の号泣が聞こえてくるようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えんとこ」―本物の言葉たちが飛び交う場

  • 「えんとこ」―本物の言葉たちが飛び交う場

 

 「えんとこの歌」(2019年、96分)と題するドキュメンタリ-映画を見た。すごいのひと言。「寝たきり歌人・遠藤滋」というサブタイトルが付いている。障がい者の「生き方」に向き合い続けてきた映画監督の伊勢真一さん(71)が前作の「えんとこ」(1999年)を受けて制作した最新作。「遠藤滋のいるトコ、縁のあるトコ、ありのままのいのちを生かし合いながら、生きる…トコ」―。「えんとこ」にはこんな思いが込められている。2017年夏、神奈川県相模原市で起きた「障がい者大量殺人」事件をきっかけに、20年ぶりに続編の制作に取り組んだ。

 

 遠藤滋さん(71)は仮死状態で生まれ、1歳のころ、脳性小児マヒと診断された。大学を卒業後、重度障がい者として初めて、母校の養護学校(当時)で国語教師となった。しかしその後、障がいは進行し、寝たきりの状態になってすでに34年になる。学生時代の友人だった伊勢さんの背中を押したのは、遠藤さんの「微動だにしないまっさらな生き方」だったのかもしれない。

 

 東京・世田谷のマンションの一室が遠藤さんの根城である。2DKの部屋に若者たちの明るい声がはね返っている。女子高生や腕にタトゥを施したバンドマン、海外からの留学生、悩みを持つ中学生…。「重度訪問介護」事業の認定を受けた介助の仕事に、この34年間で2千人以上の若者たちが関わってきた。1日24時間3交代の介助が必要な遠藤さんは介助者の前にすべてをさらけ出すことでしか「生」を維持することはできない。排泄介助を受け持つ女性が一瞬、戸惑いを見せる場面がある。「遠藤さんには何の隠し事もない。なのに自分の方がためらっている。これはおかしい」―。汚物処理を終えた女性がニッコリ笑って言った。「出たよ。バナナの半分くらい」

 

 映画の主人公は言うまでもなく遠藤さんである。しかし、場面が進むにつれ「もうひとりの主人公は介助に当たる若者たちではないか」と思えてきた。いや、こっちの若者たち方が実は本当の主役ではないのか、と。タトゥのバンドマンが何ごとか独りごちている。「『寄り添う』っちゅうのとはちょっと違うんだよな。『寄り合う』っう方がピンとくるな」―。互いが互いをさらけ出すこの空間に飛び交う言葉たちに虚を突かれる思いがした。漂白されたような薄っぺらな言葉が浮遊するいまの世の中、この狭い空間の中で久しぶりに「本物の言葉」と出会えたような気がした。そう、「えんとこ」とは「ここに集まる若者たちのいるトコ(居場所)」だったということに…

 

 遠藤さんは50代から短歌を詠むようになったが、最近では発声も困難になってきた。口元に耳を寄せ、上唇をつまむようにして話してもらう。辛うじて聞き取れた無声音を一語一語、パソコンに打ち込んでいく。そこにはたとえば、こんな歌が映し出される。

 

●激しくもわが拠り所探りきて/障害も持つ身に「いのちにありがたう」

●自らを他人と比ぶることなかれ/同じいのちは他に一つなし

●手も足も動かぬ身にていまさらに/何をせむとや恋の告白

●恐ろしき事件ならずや十九人/元職員に刺殺さるとは

 

 

 今回の上映は「はなまき映像祭2019」(5月8~9日)の一環として、花巻市内のイベント会場「ブドリ舎」で開催された。宣伝が行き届いていなかったとはいえ、9日に訪れた観客はわずか10人足らず。関係者を除くと、地元住民の姿はほとんどなかった。7月から東京・新宿の「ケイズシネマ」を皮切りに全国各地で劇場公開される。自主上映も呼び掛けており、問い合わせは-TEL03-3406-9455;FAX03-3406-9460(いせフィルム)

 

 「自分の足で歩こうという思いを諦めない遠藤のように、私は生きようとしているだろうか。ありのままのいのちを生かし合いながら生きる…ということを私は遠藤から学んだ」と伊勢さんは語っている。

 

 

(写真は「えんとこの歌」のポスタ-)

陳情不採択―沖縄の米軍基地と「『全国』という国」

  • 陳情不採択―沖縄の米軍基地と「『全国』という国」

 

 花巻市議会6月定例会に提出していた「辺野古・普天間」問題の陳情(5月13日付当ブログ参照)の審査が7日、総務常任委員会(藤原伸委員長ら9人)で行われ、委員長を除く全員の反対で不採択となった。一方、一部の委員から「辺野古の埋め立てに反対する民意は尊重すべきだ」という動議が出され、沖縄県と国がこの件について、誠意をもって協議することを求める意見書を提出することが賛成多数で可決された。これに対し、盛岡耕市委員(明和会「辺野古反対だけが民意ではない」)と菅原ゆかり委員(公明党「陳情内容は地方議会にはなじまない」)の二人はこの意見書提出にも反対した。東京都の小金井・小平両市議会はすでに私の陳情と同趣旨の意見書を採択しているが、この日の審査は沖縄の米軍基地問題の内部に踏み込むには至らなかった。

 

 私は冒頭の意見陳述で「安全保障や防衛、軍事は国の専管事項だという法的根拠のない呪縛(じゅばく)からそろそろ抜け出し、民主主義の実践と地方自治の本旨にのっとった真摯な議論を望みたい」と述べた。陳情の以下の部分に議論が集中した。「全国民が責任をもって、米軍基地が必要か否か、普天間基地の代替施設が日本国内に必要か否か当事者意識をもった国民的議論を行うこと。国民的議論において、普天間基地の代替施設が国内に必要だという結論になるのなら、沖縄の歴史及び米軍基地の偏在にかんがみ、沖縄以外の全国のすべての自治体を等しく候補地とし、民主主義及び憲法の規定に基づき、一地域への一方的な押し付けとならないよう、公正で民主的な手続きにより解決すること」―

 

 「この内容では普天間飛行場を本土側で肩代わりすることになりかねない」「基地の重圧の苦しんできた沖縄県民が本土への移設を望むはずはない」…。こんな意見が相次いだ。世界一危険と言われる普天間飛行場(普天間基地)の返還について、国は「辺野古移設(新基地建設)が唯一の解決策」という態度を崩していない。つまり、(普天間)返還と(辺野古)移設は対の関係にある。だから、議論の筋道としては「移設(埋め立て)反対」を主張する際は同時に「普天間」問題も射程に乗せなくてはならない。今回の陳情はこうした議論の必要性を促したつもりだったが、委員たちには伝わらなかったようだ。それどころか、「(陳情内容が)花巻市民の公益(安心・安全)にどう結びつくのか」といった意見も。このように「安全保障は日本全体の問題である」という”安保論”のイロハに無知をさらけ出す一幕もあり、「自分事」として沖縄に向き合う姿勢は見られなかった。

 

 つい最近、沖縄・石垣島在住の知人で歌人の松村由利子さんから第4集の歌集『光のアラベスク』が届いた。この島もいま、自衛隊の配備計画で揺れている。「『全国』という国」と題する連歌があった。この日の審査を聞きながら、「沖縄」と「全国」の距離の遠さに打ちのめされた。歌の中の「土人」表記は2016年10月18日、沖縄県東村(ひがしそん)高江地区で新型輸送機オスプレイの離着陸帯(ヘリパッド)建設をめぐり、大阪府警の機動隊員が反対する住民に対し「土人」と暴言を吐いた出来事を指している。

 

 

●本島のその先にある島なれば先島諸島と括られており

●全国紙の配達されぬわが家なり沖縄タイムスも昼ごろ届く

●10月の夏日の新聞白抜きの「土人」の見出し目に刺さり来る

●フライデ-にキリスト教を押しつけた無邪気か「土人」という蔑みは

●椅子とりゲ-ム何度やっても一人だけ残され続けている沖縄

●椅子ひとつ足りぬル-ルを押しつけて仲間だよねとまた押しつける

●メディアとは太鼓叩いて笛吹いてその場限りの祭りを好む

●一年の半分以上が夏の島「全国」という国は遠かり

●首都の雪ばかり報道するテレビ南の抗議行動続く

 

 

 

(写真は松村さんの歌集『光のアラベスク』。いまは亡き妻が残したリ-スと組み合わせてみた)

根室再訪―追憶の旅(2)

  • 根室再訪―追憶の旅(2)

 

 棟梁格の絵描きの邦ちゃん夫婦、ひげの征三、風呂屋のひろしちゃん…。その名の由来は忘れてしまったが、根室勤務時代の悪童連のサ-クル「ガムツリ-」の仲間たちがいまや遅しと待ち構えていた。記者生活の原点でもある“国境の街”の33年ぶりの再訪に胸が高鳴った。根室駅前の老舗のすし屋の一角…まるで「あの男」に生き写しのような中年男が目の前に座っていた。

 

 かつて、終生の友情を誓った「平野禎邦(よしくに)」というフリ-カメラマンがいた。朝鮮の血を引くこのカメラマンと私は根室の地で遭遇した。一目見て、運命的な出会いを感じた。憂いの中に怒気を含んだエネルギ-に圧倒された。この男とならば、何でもできると思った。ソ連国境警備隊の追尾を交わしながらの密漁船の同乗取材、サハリン・北方領土での潜入ルポ、相次ぐ炭鉱災害の現場取材…。その都度、悲しみの中に人間味あふれる写真を写しとってきた。着氷してバランスを崩しそうになる小型密漁船の中で、毛ガニや花咲ガニ、タラバガニの踊り食いを堪能した日々を昨日のことのように思い出す。

 

 「ぼくの北洋は、北の辺境に流れ着き棲(す)むものたちの、海もひとも魚も、すべてが一体となった風景のなかにあった」(あとがき)―。「ていほう」(と私は彼のことを呼んでいた)はその集大成を『北洋―おれたちの海』(1983年4月、小学館)と題して刊行した。比類なき写真集として大きな注目を集めた。贈られたその写真集の裏表紙には骨太の字でこう書かれている。「地の底に這(は)う闇も、空と海の狭間(はざま)に漂う明も、人の生活に非ず。人が人として唯一、生を享受できるのは、この大地の上」―。あらゆる現場に身を挺してきた男ならでは実感のこもった言葉だった。

 

 「ちょうど、父が生きた人生に達しました」と目の前の中年男が口を開いた。長男の朋光君(48)だった。「ていほう」は写真集を世に問うた9年後の1992年10月、48歳の若さでがんで旅立った。当時、東京勤務だった私も急きょ、「しのぶ会」にかけつけた。彼の活動を陰で支え続けた「ガムツリ-」や物心両面で援助してきた人たちなど数十人が集まった。「彼がそばにいなかったら、闇の世界に足を踏み入れることはできなかったと思う。これほどの喪失感を感じた男はいなかった」と私は不覚にも涙を流しながら、別れの言葉を述べた。

 

 北方領土をめぐる国会議員の「戦争」発言に批判が集中しているが、いつの時代でも“国境の街”はそこに住む住民や零細漁民などを「人質」にとった政治問題として、存在し続けてきた。だから、その地を取材する者にとっては、人質たちの“落とし前”の付け方が最大の興味の対象になる。つまり、国の政策に翻弄(ほんろう)される者たちの生きざまを直視しなければ、何も見ないことになってしまう。根室に赴任した私はまず、闇の世界にうごめく人脈探しから始めた。嗅覚の鋭い「ていほう」がいつも同行した。国境警備隊側に情報を提供する見返りにカニの密漁を見逃してもらう「レポ船」の暗躍、高速エンジンを搭載して違法操業を繰り返す「特攻船」…。

 

 ある密漁船の船主と密漁カニを卸す業者との間に不思議な“信頼”関係ができていった。取材に回るたびに、警察や海上保安部の尾行が付いていることは先刻承知していた。ある時、警察署長からお座敷が掛かった。当時、知床半島の付け根で、遺体なき殺人事件が起きていた。北方領土の貝殻島周辺のコンブ群生地に頭部が絡まっているという噂があった。「あそこには日本の警察権が及ばない。あなたの筋(密漁者)で、あのガイコツを日本側に持って来てもらうことはできまいか」と署長は言った。「1週間、密漁に目をつぶってもらえれば…」と私は条件を出した。さすがに、警察側が密漁を見て見ぬふりすることはできない。この“商談”が不調に終わったのは当然である。いつしか、ガイコツも流氷とともにいずこにか流れ去り、この事件は未解決のままにピリオドを打った。

 

 有島武郎の『生れ出づる悩み』のモデルは北海道岩内町出身の画家、木田金次郎(1893~1962年)と言われる。漁業のかたわら、画業に没頭した。イニシャルが同じ根室の「K・K」は暴力団の流れをくむ密漁業者で、私の重要な情報源だった。ある時、この男がポツリともらした。「オレはいま、裏街道の人間だが、おじちゃんは有名な画家なんだぞ」―。その誇らしげな表情がいまも忘れられない。金次郎の血脈に当たることにちょっと驚いたが、それっきり忘れていた。

 

 今回の長旅のハンドルを握ってくれた後輩記者の菅谷誠君(70)はイタリア文学の翻訳をするかたわら、画家「木田」の業績を検証するなどの地道な仕事を続けている。だから、「K・K」との面談も根室再訪の大きな目的のひとつだった。「ひと足、遅れてしまったな。K・Kは3ケ月ほど前にがんで亡くなったよ」とすし屋の宴席で絵描きの邦ちゃんが言った。妻に先立たれ、一人息子も交通事故の後遺症を苦にして自死したことをその場で知った。情報を得るお返しに家庭教師をしていた美男の中学生だった。プツンと糸が切れたような気がした。

 

 酔いが回った宴席では耳慣れないロシア語が飛び交っていた。「エカシ」(長老)を自称するひげの征三と10日ほど前に朝日新聞根室支局に着任した大野正美記者が「オ-チンハラショ-」とかなんとかやっている。ロシアと国境を接するこの地ではロシア語の日常会話を話す住民は結構いる。大野記者はモスクワ支局長も務めたロシア語の達人である。「何でもありのごった煮。だから、国境の街は面白いんだよな」ともう一人の記者がちょび髭をいじりながら、ニヤニヤしている。19年前、旧石器をねつ造し、世紀の発見を自作自演した「ゴットハンド(神の手)」事件をスク-プした毎日新聞根室支局長の本間浩昭記者である。根室に骨を埋めるつもりでいる。敵ながら、あっぱれ…よだれが出るような見事なスク-プだった。

 

 密漁船の船主だった「Y・T」に会いたいと思った。「ていほう」と乗り込んだのはこの男の持ち船だった。レポ活動をしながら、世界中を股にかけたと豪語していた。記憶が薄れた道順を辿ってやっと行き着くと、遊び仲間と山菜取りに出かけるところだった。「おやじ、海じゃなくて山なの?」と声をかけると、破顔一笑した表情が次の瞬間、泣きべそになった。「よく、来てくれたのう。密漁の時代はとっくに終わったよ。わしの武勇伝は(毎日)の本間記者に伝えるから…。母ちゃんには逃げられ、いまはやもめさ」と86歳になる老密漁者は力なくつぶやいた。

 

 「天国と地獄が同居する」―根室のまちは霧に包まれ、つかの間の晴れ間に列島最後の千島桜が満開の花を咲かせていた。国境を目指した人間模様が織りなす「人生劇場」がそこに広がっていた。

 

 

 

(写真は満開の千島桜に抱かれながら…=5月17日、根室市役所前で)

 

 

 

 

夕張再訪―追憶の旅(1)

  • 夕張再訪―追憶の旅(1)

 

 「国策がまちを生み、国策がまちを消す」―。こんな表現がぴったりのまちがかつての炭都・夕張(北海道)である。30数年ぶりになる再訪でその思いをさらに強くした。4月17日付当ブログ「『改元』恩赦と夕張放火殺人事件」で言及した「夕張再訪」が5月16日にやっと、実現した。同行者はこの旅のきっかけを作ってくれた札幌在住の元高校教師、菊池慶一さん(86)と夕張の取材経験のある後輩記者…菅谷誠(70)と秋野禎木(61)の両君である。記憶の糸口を探るため、私たちはまずあの大惨劇の現場へと向かった。

 

 笹の葉が風に揺れ、遅咲きの山桜がいまが盛りと咲き誇っていた。ウグイスが鳴き渡るその先に赤さびたトンネルの入り口がかすかに見えた。ヤマの男たちが地底の坑道に向かう際に使った人道である。私自身、何度、この人道を行き来したことか。ある時、男たちの腰に弁当がふたつ、ぶら下がっているのに気が付いた。「ひとつはネズ公のもんだよ」とぶっきらぼうに言った。坑内にすみついたネズミはガスや火災などの異常をいち早く感知すると言われていた。38年前の1981(昭和56)年11月16日、北炭夕張新鉱でガス突出事故が発生。北海道では戦後最悪となる93人が犠牲になった。脱出しようとして、息絶えたネズミの死骸が坑口近くで大量に見つかった。

 

 この事故で当時、42歳だった坑内員の須磨寛さんが亡くなった。ひとりっ子の小学6年生、貢君と妻の和子さんが残された。貢君は寂しさを紛らわすため、鉄道写真や切符集めに没頭するようになった。和子さんは生活を支えるために炭住街の近くにスナック「和(かず)」を開いた。取材のたびに足を運んだ。手土産に鉄道関係のコレクションを携えるのを忘れなかった。今回、訪れたのはちょうど「月命日」の16日だった。スナックのシャッタ-は下ろされ、営業している気配はなかった。最盛期、酔っ払いのケンカが絶えなかった炭住街には人の気配すらなかった。テクテクと歩き回り、やっと表札のある家にたどり着いた。不審げに顔をのぞかせた女性がニッコリ笑って言った。「店は数年目に閉めたけれど、和ちゃんは店と棟続きの住宅で元気にしているよ」

 

 「あの時の朝日の記者さんの…、マスコさん?」―。お互いに顔を見合わせ、しばらくして和子さんがスナックのママ時代と変わらないやさしい表情になった。焼香をさせてもらっている間、和子さんは堰(せき)を切ったように話し続けた。菅原文太似の貢君は中学卒業後、俳優を目指して上京した。東京で一度、食事をともにしたことがある。いまは父親の生年を超えて50歳になり、3人の子どもも立派に成長した。「俳優の夢は叶えられなかったけれど、営業関係で走り回っているらしい。夫が生きていれば80歳。私はいま75歳だから、あと5年たったら迎えに来てって言っているの…」―。俳優になりそこなった50歳の「菅原文太」に急に会いたくなった。人間のきずなの大切さに胸が熱くなった。

 

 「ぜひ、案内したい場所があるんです」と夕張取材の長い秋野君が言った。彼は「墓歩き」の異名を持っていた。強制連行された朝鮮人や中国人、タコ部屋の下請け労働者…。夕張のあちこちには地底(じぞこ)に絶命したいのちを慰霊する石碑が林立している。「炭鉱取材の原点はまず、死者の前に立つことから始めなければ…。この地を訪れると自然と足がそっちに向くんですよね」

 

 鹿島東小学校、夕張東高等学校、鹿島小学校、鹿島中学校…。秋野君に連れて行かれた光景に思わず、息をのんだ。目の前には総貯水量が全国で第4位という日本屈指の人造湖「シューパロ湖」が広がっていた。高台の眺望公園には湖底に沈んだ学校の記念碑がずらりと並んでいた。かつて、この一帯は三菱資本の一大産炭地として栄華を極めた。私の耳元にも当時の喧騒(けんそう)が残響のように響いている。「例の夕張保険金殺人事件の現場もとっくの昔に湖の下です」と墓歩きがぼそっと言った。湖底に没した学校の記念碑が墓石のように見えてきた。「じゃ、もっと生々しい現場へ」と秋野君が促した。

 

 「日高商事」などの看板を掲げたコンクリ-ト造りの2階建ては少し傾き加減になりながらも、まだ当時の場所にあった。35年前の1984(昭和59)年5月5日の子どもの日、ここを拠点に炭鉱の下請けをしていた暴力団夫婦が保険金目当ての放火殺人の疑いで逮捕され、戦後初の夫婦同時死刑に処せられたことについては、前掲ブログに書いた。7人の犠牲者の中に幼友達がいたことを知った菊池さんはその足跡を辿ったルポを上梓し、菅谷君は放火で焼け落ちた従業員寮を写真に収めた。そして、秋野君は現役を退く今に至るまで夕張通いを続けている。

 

 「立ち入り禁止」の北海道警の黄色いテ-プが半分、ちぎれている。その奥をのぞいて、一瞬、ひるんでしまった。足の踏み場もない室内に大型金庫がごろんと転がっていた。分厚い扉を重機か何かでこじ開けようとした形跡がある。妄想が広がった。「死刑の後、保険金がまだあるかもしれないと誰かが物色したのではないか」―。ふいに「ラクダ」事件を思い出した。北炭夕張新鉱が事故の末に閉山に追い込まれた直後、作家の故五味康祐の縁者を名乗る男がふらりと現れた。「町おこしの観光資源として、ラクダはどうか」と言って、実際に一頭のラクダを飼い始めた。北海道の寒さに砂漠のラクダは耐えることはできない。ほどなく、ラクダは死んだと噂された。「ラクダ肉料理」の看板が街角に出現した。その看板を残したまま、男はいずこともなく、姿をくらました。全国の地方自治体を渡り歩くペテン師だということが後でわかった。ある種の愛着を込めて、かつて私はこのたたずまいを「夕張人外境」と呼んだことがあった。

 

 私は前掲ブログをこう結んでいる。「日本の繁栄の捨て石にされた苦海のたたずまいをもう一度、まぶたによみがえらせたいと思う。記憶の風化に抗(あらが)うためにも」―。「国策がまちを生み、国策がまちを消す」という冒頭の言葉をもう一度、口ずさんでみた。妄想がますます、膨らんだ。「国策とはいつの時代でもある種の“悪意”をはらむものではないのか。子どもたちの生きた証しを湖底に沈める一方で、まるで見せしめのように放置された死刑夫婦の事務所の残骸…。そのどちらにもどす黒い“悪意”がひそんでいる」と―。

 

 ホテルに戻って、テレビをひねるとどの番組でも新しい時代を奉祝する「令和」狂騒曲が奏でられていた。頭がくらくらした。繁栄の人柱になった数知れないヤマの男たち、そしてネズミやあのラクダの幻影が走馬灯のように頭の中を駆けめぐった。「スクラップ・アンド・ビルド」という名の石炭政策に翻弄された炭都の盛衰がコマ送りのように目の前に去来した。おそらく、この虚実の逆転に私自身が圧倒されたのだったのだろう

 

 

 

(写真は北炭夕張新鉱に通じるかつての人道トンネルの入り口。すっかり赤さびて出入り禁止になっていた=5月16日、北海道夕張市清陵町で)