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城跡…無惨、いまや蚊の発生源に!?

  • 城跡…無惨、いまや蚊の発生源に!?

 

 “お化け街道”と秘かに名づけていた県道298号(山の神西宮野目線=旧国道4号)―その歩道を占拠し続けていた大量の雑草がある日突然、きれいさっぱり除去された。この一帯は「城内」の地名が示すように明治期まで南部藩下の花巻城があった由緒ある土地で、市の中心部に位置する一等地である。戦後、デ-タ通信の先駆けをつくった谷村新興製作所が立地し、現在は宮城県内の不動産業者の所有になっている。梅雨入りした直後から雑草は猛威を振るい始め、周囲の景観を損なうだけではなく、歩行の邪魔になるなどの苦情が私の所にも相次いでいた。

 

 こんな時には「新興跡地」問題を舌鋒鋭く追及し続けてきた本舘憲一議員(花巻クラブ)の力を借りるのが一番手っ取り早い。「ボウフラもわくなど衛生上も問題だ。いまのところ、行政も動く気配がないようだ。この際、市民の代表である議員たちが率先して、草刈ボランティアを立ち上げてはどうか」―。「グッド・アイデア」と本舘さんも大いに乗り気だった。ところが、証拠写真を撮影した2日後の78日、現場付近を通ってみたら、あら不思議(!?)、跡地からはみ出していた大量の雑草がみんな消えてしまっていたという次第。県道を管理する花巻土木センタ-に問い合わせると、「スケジュ-ル通りの除去です」とのこと。「声なき声」が届き、一件落着と喜びたいところだったが、その発生源に目をやって、腰を抜かした。

 

 「城跡、無惨。幽霊屋敷とはこのことか」―。県道を境にした花巻城址のたたずまいは雑草におおい尽くされ、かつてのシンボルの面影さえうかがい知ることはできない。スギナやドクダミなどはその根が地獄の底までつながっていると言われる。そう、まさにこの雑草たちのように、跡地問題の「根」も実に深い。忘れもしない、あれは「あっと、驚く」クリスマスプレゼントだった。

 

 事の発端は5年近く前の平成26(2014)年12月17日にさかのぼる。新興跡地の民間業者への売却計画が浮上し、「公有地の拡大の推進に関する法律」(公拡法)に基づき、花巻市側に取得の優先権が与えられた。譲渡予定価格は敷地内の建物解体費用を含めて約7億7千万と試算されたが、この費用を相殺した結果、実売却額は100万円に設定された。この土地取引について、上田東一市長は「利用目的のはっきりしない案件に市民の大切な税金を投入するわけにはいかない」として、最終的にその年のクリスマスのまさにその日に「拒否」回答をした。この間、私を含む一部の議員の間からは「譲渡先とされる不動産業者は実態が不透明。土地の転売(土地ころがし)などのリスクはないか」などの懸念が出され、当の上田市長自身も「実はその点が心配だ」との認識を示していた。

 

 その後の経過は懸念された通りに展開した。土地を格安で購入した不動産業者はその一部をパチンコ店用地として転売し、ホ-ムセンタ-の建設計画も華々しく打ち上げた。驚くなかれ、「パチンコ万々歳」と市側をバックアップしたのは革新系会派を中心とした議員たちだった。あれから5年―。お化け屋敷と化した新興跡地をめぐっては不動産業者と解体業者の間で契約金不払いの裁判沙汰が起きるなど収拾のつかない状態が続いており、競売にも買い手がつかない“塩漬け”のまま。解体された建物のガラは放置され、付近の住民は蚊の大量発生にも戦々恐々(せんせんきょうきょう)しなければならない。

 

 ふと、「政治決断」とは何か―ということを考えてしまう。5年前のクリスマスの際、「もうひとつのプレゼント」(所有権移転)を市民が手にしていたなら…、そして、将来の利用計画については広く市民に問いかけるという選択をしていたなら……。「たら・れば」が許されるなら、いまの無残な城跡を市民は目にすることはなかったはずである。上田市長の先祖は花巻城の大改修工事(文化6年)の際に指揮をとった上田弥四郎氏(1768―1840)だと伝えられる。儒者としても知られたが、建築関係にも造詣が深く、「造作文士」とも呼ばれた。

 

 「政治家とは将来のリスクまで含めて、時には大胆な決断を強いられる存在ではないのか」―。上田市長は無惨な城跡の光景を日々、どんな気持ちで眺めているのであろうか。後事を託した先祖に対し、どんな思いを巡らせているのだろうか。あるいは「市側もある意味では被害者である」という説得力のない弁明をこれからも続けるつもりなのであろうか……。参議院選挙が終わった荒れ野には無責任政治の残骸があちこちに転がっている。

 

 

(写真は私有地だという理由だけで放置されたままの城跡の雑草。景観だけでなく、衛生上の問題も浮上している=7月8日、花巻市御田屋町で)

 

力(りき)さん、おめでとうございました…そして、本当にお疲れさまでした

  • 力(りき)さん、おめでとうございました…そして、本当にお疲れさまでした

 

 「長い隔離政策の中で培われた予断と偏見、無知的な状況を放置してきた国家の責任、そのことを改めて私たちは問いたい」―。力(りき)さんの、いささかもぶれない凛(りん)とした声は50年前と少しも変っていなかった。国側の控訴断念・勝訴確定を喜ぶハンセン病家族訴訟の原告団長として、困難なたたかいを率いてきた林力(ちから)さん(94)…。親しみをこめて、ずっと「りきさん」と呼んできた兄貴分との久しぶりのテレビでの対面に私は胸にこみあげるものを感じた。半世紀もの時を隔ててなお、私を陰で支え続けてくれている野武士のようなその存在がいま、満面の笑みを浮かべてわが眼前に立っているではないか―。

 

 りきさんが40代半ば、私が20代の後半だった時に2人は初めて出会った。当時、初任地の九州・福岡ではいわれなき差別からの解放を求める「部落解放」運動が各地で盛り上がっていた。東北出身の私にとっては「同和地区」と呼ばれる“部落”はなじみの薄い存在だった。そんなある日、高校教師だったりきさんが福岡県同和教育研究協議会を立ち上げ、その会長職にあることを知った。「差別と貧困のために就学の機会を奪われたおばちゃんたちがいま一生懸命、『あ・い・う・え・お』の勉強をしとるんよ。一緒に行ってみないか」と誘われた。

 

 日本一の産炭地・筑豊の同和地区の片隅で「識字学級」が開かれていることをその時、知った。当時の光景が目にこびりついている。ミカン箱を机代わりにしたお年寄りたちが鉛筆を舐めなめ、紙に向かっていた。「文字を自分の手に取り戻した時、人は生きる喜びを得るのだと思う」と言って、りきさんは一枚の手紙のコピ-を見せてくれた。たどたどしい文字で「夕やけがうつくしい」と書かれていた。「このおばちゃんはね、この手紙を書いて以来、夕焼けが本当に美しく見える…てね。そう言っているんだよ」とりきさん。知り合って数年後、りきさんは同和教育の総括を『解放を問われつづけて』と題する本にまとめた。ペ-ジをめくって驚いた。

 

 「差別にあらがう人たちの突き抜けるような不思議な明るさを見て、父の存在を隠し続ける自分を恥じた。差別された経験がなければ同和問題に取り組むこともなかった」―。文中には父親がハンセン病患者であった赤裸々な告白が記してあった。『「癩者(らいしゃ)」の息子として』、『父からの手紙・再び「癩者」の息子として』、『山中捨五郎記・宿業をこえて』…。私の書棚には茶色に変色した、りきさんの著作が大切に保管されている。本名の馬場広蔵のほか、偽名を含めて林広蔵、山中捨五郎、山中五郎などと名前を隠して生きなければならなかったハンセン病患者の苦難の歴史がこれらの本にはびっしり、詰まっている。

 

 りきさんの人生は13歳になった年の夏、父親がハンセン病療養所「星塚敬愛園」(鹿児島県)に入所したことで一変した。父を見送った数日後、白い服に帽子をかぶった長靴姿の男性たちが家に上がり込み、「消毒」と称して白い粉をまいた。近所の人は窓を閉め切って家にこもり、翌日から口をきいてくれなくなった。周囲の子に「くされの子」と指をさされ、母と一時親類を頼って上京。名字も変えた。だが、父の存在はその後もつきまとった。小学校教師になった20代の頃、同僚の女性を好きになった。だがある日を境に、彼女は目も合わせてくれなくなった。結婚し、生まれた娘にもその存在を隠し、父は孫娘を一目見ることもなく、1962年に星塚敬愛園で亡くなった。

 家族訴訟の判決は6月28日熊本地裁で言い渡され、国の責任を認めた上で元患者家族561人のうち、20人を除いて総額3億7675万円の支払いを命じた。一連のニュ-スを聞きながら、私のまなうらには当時の光景が早送りのコマのように去来した。しり込みする私の首根っこをつかまえて、「差別」の原点へと引っ張り出してくれたりきさんに心からの感謝の気持ちを伝えたいと思った。りきさんは『父からの手紙・再び「癩者」の息子として』のあとがきの中にこう書いている。

 「『売れない、らいの本』を引き受ける出版社はざらにあるものではない。そのうえ、部落問題(同和問題)と重なっていることが出版社をたじろがせた。そのことをはっきり口にしたところもあった。こうして出版社さがしに多くの月日を要した。…増子義久さん(朝日新聞東京本社)などが奔走してくれた」―。いささかなりともお役に立ったかと思えば、今回の「勝利」も自分のことのようにうれしい。ちなみに、この本の出版元は被差別少数者に寄り添う多くの本を刊行してきた内川千裕さん(故人)が立ち上げた旧草風館(東京・神田)である。

 

(写真は勝利の喜びを分かち合う「りきさん」(右端)=7月12日、国会内で。インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

「陳情不採択」顛末記―会議録から(下)

  • 「陳情不採択」顛末記―会議録から(下)

 

 「辺野古移設が唯一の解決策」―。世界一危険と言われる米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の返還について、政府は一貫してこう主張している。つまり、この危険性を除去するためには辺野古新基地(名護市辺野古)を建設し、そこへ普天間基地を移設すしかないという「表裏一体論」である。ところが、今回の審査では「(陳情者が求める)辺野古新基地建設の中止と普天間の運用停止は矛盾する内容になっている」という珍妙な議論が展開された。たとえば、櫻井肇委員(共産党)や阿部一男委員(平和環境社民クラブ)は「この(矛盾)論にも一理がある。辺野古と普天間は一体的に捉えるべきだ」などとして、国が主張する「表裏一体論」に見事にはまり込むという体たらくを演じた。結果として、「普天間の固定化につながる」という国の“恫喝”(どうかつ)に屈したとさえいえる。その先に行き着くところは結局は沖縄総体に対する「無知・無関心」である。

 

 基地の増強につながる辺野古新基地の建設中止と普天間基地の運用停止を同時に求めることは何ら矛盾するものではない。むしろ、沖縄の民意が反映された当然の要求でさえある。「世界一危険な普天間基地の今後のあり方について、日米安保の恩恵を等しく受け入れている日本全体として、国民的な議論を盛り上げてほしい」―沖縄からのこうした究極の問いかけは結局、委員たちには届くことはなかった。米海兵隊が駐留する普天間基地も元をただせば、1960年代に本土の反対運動で沖縄に移駐してきたという歴史認識も持ち合わせていなかったようである。一体全体、何のための陳情審査であったのか。「!?」印は意味不明の質疑や意見表明に絶句した際の私のシグナルである。

 

 

【質疑応答】

 

●阿部一男委員(平和環境社民クラブ=社民党系)

 この陳情内容ですが、国民的な議論を通じて、沖縄の基地を全国でも持つべきだ、その負担を肩代わりするような覚悟を持つべきだ(!?)という意味にもなりますか。

●増子

 そういうことじゃありません。実は小金井市議会でもその点が問題になり、内部で議論を重ねた結果「この意見書は米軍基地の国内移設を容認するものではない」という文言を入れることで、採択にこぎつけた経緯があります。つまり、肩代わりが前提ではなく、まず議論をしようではないか、と。沖縄の米軍基地問題を「自分事」として、まず向き合おうじゃないかということです。

●櫻井肇委員(共産党)

 陳情というのは、あなたの個人的な発想で行うものではありません(!?)。議会としては誰に対して責任もって、どういう内容の意見書を提出するのか。そのことに責任を持たなければなりません。地方自治体(地方議会の誤りか!?)がどこに、どういう内容の意見書を出すのか、さっぱり分からないのですが…。

●増子

 どうも話が伝わっていないようですね。(国民的な議論という)沖縄の民意を私は本土に向けられた問いかけであると理解しています。本土に住む一人の人間として、その問いかけに応えるべく、陳情内容を意見書の形にして総理大臣など関係者に提出すべきである、と。桜井さんはどうも誤解しているようですね。

●内館桂委員(市民クラブ)

 沖縄の問題について、私は議員という立場ではなく(!?)、個人として非常に関心を持っています。ただ、当市議会にこの陳情が出されたということは、花巻市民にとってどのような問題を抱えていることになるのか―具体的に説明いただきたい。陳情者に対して、どれだけの花巻市民の賛同が得られているのか、(!!??)、詳しく教えていただきたい。

●増子

 沖縄の民意というのは当然、ご存じのはずだと思います。これは本土の我われに向けられた問いかけであると私は受け止めています。それでさっきの「公益」(当ブログの上を参照)にからんでくるんですけれども…。いわゆる、花巻市民の安心・安全にとって、沖縄の米軍基地はどんな風にかかわりがあるのか、と…。ちょっと、質問の趣旨が分かりません。

●藤原伸委員長(総務常任委員会委員長、明和会)

 参考人からの質問は許されませんので、了承願います。

●増子

 質問の意味が分からないから、聞いたんです。さっき言ったように、日米安全保障条約は日本の全国民の安心・安全を担保するために日米両政府が結んだものです。そういう意味では、花巻市民もこの条約の恩恵に浴している。このことが議論の根幹です。市民の賛同ということに関して、私は知る立場にありません。逆に陳情の趣旨を市民に分かるように説明するのが、議会側の責任、使命ではないでしょうか。

●藤原委員長

 他に参考人への質疑はありませんか。ないようですので、これで質疑は終わります。

 

 

【陳情審査】

●櫻井委員

 辺野古新基地の建設中止と普天間基地の運用停止は矛盾するものではないかという意見が大勢を占めているようで、これも一理あります(!?!?)。この件については、沖縄県と国が誠意をもって協議を行うという意見書を提出するということではどうか。

●鎌田幸也委員(市民クラブ)

 私も矛盾するように思います。ただ、沖縄県民の民意を尊重するという観点から、櫻井委員の意見書提出に賛同します。

●近村晴男委員(花巻クラブ)

 辺野古新基地の建設中止という沖縄県民の民意は理解できます。ただ、普天間基地の運用停止ということまで踏み込めば、日米安保全体の問題になってきます。私たちがちょっと、口を出せない範囲かな(!?)、と思います。

●阿部委員

 辺野古新基地の建設中止と普天間の運用停止ということは、一体的(!?)に考えることもできます。だから、これについては否決ということでも意味は分かると思います。

●内館委員

 この陳情については不採択でいくべきだと思います。地方自治体の自決権など自治体の本旨はどうあるべきなのか―など花巻市民に丁寧に説明していく必要があると思います。私はこの基地問題についてはよく分かりませんが(!?)、市民にとって分かりやすい議論をしながら、これを決めていかなければならないと考えます。

●藤原委員長

 他によろしいですか。盛岡(耕市、明和会)委員、横田(忍、市民クラブ)委員、菅原(ゆかり、公明党)委員もよろしいですね(異議なしの声あり)。これより、採決します。陳情を不採択にすることに賛成の諸君の挙手を求めます。全員、挙手でございます。よって、本陳情は不採択に決しました。

 

 

(写真は東日本大震災直後の議会傍聴席。議員たちがどう対応するのか―に内陸避難者の関心が集まった。満席だった傍聴席はいま閑古鳥。沖縄と同様、震災の記憶もいずこにか…=2011年6月定例会の際の議会傍聴席)

 

 

「陳情不採択」顛末記―会議録から(上)

  • 「陳情不採択」顛末記―会議録から(上)

 

 花巻市議会6月定例会に提出していた「辺野古・普天間」問題に関する陳情が付託先の総務常任委員会に引き続き、本会議最終日でも委員長や議長を除く全員の反対で不採択になった経緯については当ブログでその都度、取り上げてきた(5月13日、6月7日、6月13日)。今回、文書開示請求に基づき、不採択の根拠とされた総務常任委員会の会議録を入手した。この陳情に関しては今年3月、ほぼ同趣旨の内容が東京都小金井市議会で可決採択され、意見書がすでに内閣総理大臣など関係先に送付されている。なぜ、同じ地方議会の間でこんなにも天と地ほどの乖離(かいり)が生じたのか―。

 

 以下に陳情審査に際しての私の参考人陳述や質疑応答、各委員の意見表明などを趣旨を損なわない範囲で簡略に採録する。何回、読み返しても私にはその真意が伝わって来ない。ひょっとすると、審査に臨んだ各委員は陳情内容をよく理解しないまま、結論を急いだのではないか。だとすれば、憲法で保障された「請願(陳情)権」に対する明らかな冒涜(ぼうとく)であり、議会の自殺行為である。いや、待てよ。それ以前の議員の資質あるいは能力、そして議員としての使命感の欠如にこそ、問題の根源が潜んでいるのではないか。まずは小金井市議会の意見書を目を皿にして読んでいただきたい。この内容に異議を唱える人は余りいないと思う。ところが、わがイ-ハト-ブ議会の議員諸賢は全員がこぞって、異議を申し立てたのだった。!?!?

 

【参考資料】~小金井市議会の意見書全文

 

 沖縄県名護市辺野古において、新たな基地の建設工事が進められていることは、日本国憲法が規定する民主主義、地方自治、基本的人権、法の下の平等の各理念からして看過することの出来ない重大な問題である。

 

 普天間基地の海兵隊について、沖縄駐留を正当化する軍事的な理由や地政学的理由が根拠薄弱であることは既に指摘されており、沖縄県議会はこれまで何度も政府に対して「在沖海兵隊を国外・県外に移転すること」―を要求する決議を可決採択している。「0・6%に70%以上の米軍専用施設が集中する」という沖縄の訴えには、「8割を超える国民が日米安全保障条約を支持しておきながら、沖縄にのみその負担を強いるのは『差別』ではないか」という問いが含まれている。

 

 名護市辺野古に新基地を建設する国内法的な根拠としては、内閣による閣議決定があるのみである。沖縄の米軍基地の不均衡な集中、本土との圧倒的な格差を是正するため、沖縄県内への新たな基地建設を許すべきではなく、工事は直ちに中止すべきである。

 

 また、普天間基地の代替地について、沖縄県外・国外移転を、当事者意識を持った国民的な議論に決定すべきである。安全保障の問題は日本全体の問題であり、普天間基地の代替施設が国内に必要な否かは、国民全体で議論すべき問題である。そして、国民的な議論において、普天間基地の代替施設が国内に必要だという世論が多数を占めるのなら、民主主義及び憲法の精神にのっとり、一地域への一方的な押付けとならないよう、公正で民主的な手続きにより決定することを求めるものである。なお、この意見書は米軍基地の国内移設を容認するものではない。

 

 よって、小金井市議会は国会及び政府に対し、以下の事項(略)の解決を強く求めるものである。以上、地方自治法第99条の規定により、意見書を提出する。

 

 

【参考人陳述】(要旨)

 

 今回の陳情の大きな背景には新聞やテレビで報じられている、いわゆる普天間飛行場(普天間基地)の辺野古移設問題があります。この問題を通じて、民主主義とは何か、あるいは地方自治はどうあるべきかということを根本的に議論していただければと思います。若干、論点整理をしたいと考えます。この種の問題に関して、地方議会でいつも持ち出されるのが国の「専管事項論」です。安全保障や軍事、防衛に関する事項はもっぱら、国にゆだねられるべきで、地方議会にはその権限はないという論法です。

 

 ところがよく調べてみると、専管事項を定めている法的な根拠は一切ありません。国が一方的にそう言っているだけで、逆に憲法上では地方自治に関する規定が4項目にわたって明記されています。とくに、重要なのは第95条です。これは一つの地方自治体に関わる“特別法”を制定する場合には、当該自治体の住民投票で過半数の賛成を得なければならない、と規定されています。法哲学者の井上達夫さんや憲法学者の木村草太さんらは「辺野古への移設は実質的な新基地建設に相当するので、第95条が適用されるべきだ」と主張しています。

 

 そろそろ、この専管事項論の“呪縛”から抜け出すべきだと考えます。もうひとつ、これに関連して、地方自治法第99条は「普通地方公共団体の議会は、当該普通地方公共団体の公益に関する事件につき意見書を国会又は関係行政庁に提出することができる」と規定しています。この場合の「公益」と沖縄の米軍基地との関係もしばしば、論議の中心になります。ご存じのように、日米安全保障条約は日本全体の防衛義務(安心・安全)を定めた条約です。世論調査では国民の約8割がこの条約の必要性を認めています。つまり、花巻市民の安心・安全も沖縄県にその7割以上が偏在する米軍基地によって支えられている。この認識が非常に重要です。

 

 今回の陳情については、東京都の小金井、小平両市議会が同趣旨の意見書を採択しています。私自身を含め、「沖縄」問題へのかかわりを遠ざけている根っこには、実は沖縄への差別意識があるのではないかと感じています。その入り口に私たちはいま、立たされているのではないかと思います。

 

 

(写真は現職時代の質問光景。議会の外に出てみて、その閉鎖性が逆によく見えるようになった=花巻市議会議場で)

 

 

 

「見えない涙」と「涙ぐむ目」

  • 「見えない涙」と「涙ぐむ目」

 

 『見えない涙』というタイトルの詩集が知人から送られてきた。作者は敬愛する批評家で随筆家でもある若松英輔さん(51)である。「奥さまのご命日(7月29日)を控え、この詩集を送ります」という一筆が添えられてあった。26篇が収められた詩集のあとがきで、若松さんは宮沢賢治の詩「無声慟哭」(『春と修羅』所収)を取り上げ、その詩の内容についてというより、題名そのものに関して以下のように書いていた。

 

 「『慟』は『いたむ』と読む。それは『悼む』と同義だが、『慟』の文字の方が、心の揺れ動くさまがいっそうはっきりと示されている。『哭』は『犬』の文字があるように、人が獣のように哭(な)くことを指す。こうした行為に賢治は『無声』という言葉を重ねる。本来ならば、天地を揺るがすような声で哭くはずなのに、声が出ない。哭くことが極まったとき、人は声を失うというのである。同質の現象は声ばかりではなく、涙においても起こる。悲しみの極点に達したとき、目に見える涙は涸れ、その心を見えない涙が流れることがある。悲しみの底を生きている人はしばしば、声に出して哭かず、涙を見せず暮らしている」

 

 わが家からほど近い、北上川河畔に賢治が自耕したといわれる「下の畑」があり、その中央に「涙ぐむ目」という木製の標識が立っている。賢治は生前、8枚の花壇の設計図を残しており、そのひとつが「tearfuleye」(涙ぐむ目)である。設計原画ではひとみは黒色系のパンジ-、その周辺に青系のブラキコメ(姫コスモス)を配し、花壇の目尻と目頭に白い睡蓮(スイレン)の水がめを置いて、この花が開くと涙ぐむ目のように工夫が凝らされている。12年前、「下の畑」を管理する地元有志の手で模型が造られた。約130平方メ-トルの花壇には色とりどりの季節の花が絶えることがない。

 

 「下の畑」のわきに、賢治が農作業の疲れをいやすために腰を下ろしたと伝えられる大きな石がごろんと転がっている。私も散歩のたびにその石を拝借して、しばしの瞑想にふけることがある。梅雨の合間のある日、いただいた詩集を手に散策に出かけた。川面を渡る風が肌に心地よい。遠方の高台に見えるのが、賢治が農民芸術などを講義した羅須地人協会の跡地である。ふいに、「涙ぐむ目」から「見えない涙」のひとしずくがこぼれ落ちたように思った。たとえば、以下のような詩篇である。妻が旅立って、もうすぐ一年になる。「声に出して哭かず、涙を見せず暮らしている」―そんな自分の姿を私はいま、見ているのかもしれない。

 

《旧い友》

あたらしい友達で

日常をいっぱいにしてはならない

苦しいときも

じっと

かたわらにいてくれた

旧友の席がなくなってしまう

 

あたらしい言葉で

こころを一杯にしてはならない

困難なときも

ずっと

寄り添ってきた

旧(ふる)い言葉の居場所がなくなってしまう

 

言葉は

思いを伝える道具ではなく

共に生きる

命あるもの

 

だから人間は

試練があるとき

もっとも大切な何かを求めるように

たった一つの言葉を探す

 

たしかな光明をもとめ

わが身を賭して

伴侶となるべき一語を

希求する

 

 

《悲しさを語るな》

 

悲しさを語るな

悲しみを語れ

 

悲しさの度合いではなく

お前が背負った

世にただ一つの

悲しみを語れ

それだけが

還らぬ者への呼びかけになる

 

苦しさを語るな

苦しみを語れ

強き光を放つ

苦痛を語れ

その営みは

生きる意味の顕(あら)われとなる

 

愛を語るな

愛する人を語れ

お前よりも お前の魂に近い

その人を語れ

それは未知なる

お前自身を語ることになる

 

 

(写真は「下の畑」の中にある「涙ぐむ目」の花壇=花巻市桜町の北上川河畔で)