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被災者を孤立させるな!?…「ゆいっこ」OB会が支援、再開へ

  • 被災者を孤立させるな!?…「ゆいっこ」OB会が支援、再開へ

 

 「お茶っこをしながら、情報交換をしたい」、「カラオケを腹いっぱい歌いたい」―。花巻市の中心部に4月オ-プンした災害公営住宅の集会所に29日、孤立しがちな被災者の切実な声が響いた。ついの住み家を異郷の地に定めた被災者ともう一度向き合おうと、2年前にいったんは解散した支援組織「ゆいっこ花巻」の元代表、大桐啓三さんらが呼びかけた。震災直後、この組織の立ち上げに参加した私はその時の趣意書の一節にこう書いた。「この『結いの精神』(ゆいっこ)はひと言でいえば『他人の痛み』を自分自身のものとして、受け入れるということだと思います」。東日本大震災から8年余り…昨年夏に妻を失った私はその痛みをやっとのことで少し、共有できたような気持になった。たまたま、この日が妻の月命日に当たっていたのも、考えて見れば不思議なめぐり合わせである。

 

 「実家はもう住めるような状態ではなくなった。これから先のことを考えると目の前が真っ暗になる」―。福島県南相馬市から花巻市内の借家に移り住んだ泉田ユキイさん(75)にかつての元気はなかった。震災直後の3月23日、泉田さんは娘さんの嫁ぎ先である花巻に避難。住んでいた小高区が20㌔圏内の警戒区域に指定される前日の4月21日、残して来た愛犬「コロ」のことが心配になって連れに戻った。白骨化した牛の死骸や骨と皮になってヨロヨロとさ迷う牛の群れ、餓死した犬や猫…。置き去りにされた犬同士が産み落とした子犬は人間という存在さえ知らないほど狂暴になっていた。

 

 泉田さんは震災以降、「語り部」として津波と放射能禍の恐ろしさを語り続けてきた。九州・福岡の女子学生に語り伝えた言葉はまだ、私の脳裏にこびりついている。泉田さんはその時、こう語ったのだった。「東電に人の心があるかって、その気持ちは変わらない。でもね、置き去りにされた動物たちのことを考えた時、自分も含めた人間の残酷さみたいなものも感じて…」、「原発事故って、こんなにも罪深いものだとは思ってもいなかった。人間って一体何だろうか。そんな深いことを考えさせられた」。泉田さんはこう、言葉を継いだ。「東京の電力をどうして福島で作っているのか、そのことも考えてね。その根底には貧困という問題も隠されているのよ」―。そしていま、「3・11」の記憶は来年の東京五輪の喧騒にかき消されてしまった。「福島(の放射能禍)は完全にコントロールされている」という、誘致のきっかけになったフェイク発言(安倍首相)はどこかに雲散霧消してしまったかのようである。

 

 「市街地活性化の起爆剤に…」―。こんな掛け声とともに災害公営住宅は産声をあげた。「シティコート花巻中央」と命名された、仲町棟と上町棟を合わせた計31棟には現在26世帯が入居しており、うち独居世帯が10世帯である。このほか、市全体の移住者数は岩手県内の4市2町と宮城・福島両県を含めると、192世帯(362人)に及ぶ。記憶の風化とともにかつての「絆」(きずな)も薄れつつある。

 

 市民が一丸となって祝う「花巻まつり」(9月13日~15日)が近づいてきた。被災者が住む住宅前はまつりのメ-ンストリ-トである。高齢の女性入居者がポツリと言った。「花代(寄付)のお願いはあったけど、参加を促す話はまだない。なんか置いてきぼりになったみたいで、寂しい」―。被災者の「語り部」養成に乗り出した盛岡市などとは雲泥の差である。宮沢賢治のふるさと…わが「イーハトーブ」市政の体質については、《追記ー1~3》を参照していただきたい。震災の記憶を呼び戻すため、以下に最新(2019年7月31日現在)の移住者内訳を列挙する。

 

・釜石市~50世帯(92人)

・大船渡市~17世帯(27人)

・陸前高田市~12世帯(22人)

・宮古市~11世帯(20人)

・大槌町~59世帯(120人)

・山田町~18世帯(33人)

・宮城県~20世帯(37人)

・福島県~5世帯(11人)

 

 

 

(写真は「ゆいっこ」の呼びかけに17人が集まった。孤立感を募らせる声が多かった。左端が泉田さん=8月29日、花巻市上町の災害公営住宅集会所で)

 

 

 

《追記-1》~「個人情報」をタテにそっぽを向く行政

 

 今年6月7日付の岩手日報に花巻在住の無職の女性が「銃刀法違反」容疑で現行犯逮捕されたという記事が小さく載った。沿岸で被災し、花巻に避難して以降、精神的な不安を訴えていたという。約一か月半ほど前、この女性は同じ紙面に以下のような声を寄せていた。「震災直後は電気も布団もなく、不安と絶望の中で生活した。今月1日から入居した花巻市の災害公営住宅は、中心市街地にあり環境も良い。2017年に亡くなった父に見せてあげたかった。釜石道が全線開通し、便利になった。復興に携わった人たちに感謝したい。地元に戻るには、まだ心の整理ができていないが、遠くから古里を思い続けたい」

 

 この一件について、私は「事件との因果関係は分からないが、ある意味で想定内の出来事。行政として対応を協議したのか」とただしたのに対し、関係部課は「個人情報も絡んでいるので…」と言葉を濁し、こうした事態に対する認識さえ共有していないことを明らかにした。その因果を詮索することと、それ(想定内か否か)に対して、想像力をめぐらせることとは全く別次元の問題である。私自身、これまでこの事実の公表を控えてきたが、「建物だけを造って、良かれ」とする行政側の姿勢が眼に余るため、あえてこの場に掲載することにした。市議在任中に追究した「義援金流用」疑惑以来、被災者支援に対する行政の薄情さは少しも変っていないみたいである。

 

 

 

《追記―2》~「公平の原則」とは!?

 

 東日本大震災から約9ケ月後、花巻市内に避難していた男性(当時49歳)が借上げアパ-トで孤独死しているのが発見された。死後(推定)、すでに10日近くがたっていた。私は「見守り」体制のあり方などを市側にただした。その際に担当者が口にしたのも個人情報をカサにきた「公平の原則」という便法だった。以下に当時のやり取り(要旨=会議録から)を再録する。

 

増子;「実はことしの秋、花巻市内のアパ-トで男性被災者が孤独死しているのが発見されました。まず、この事実関係を把握しているかどうか」

 

総務部長;「親族から市に連絡があり、死亡されたことについては承知しているところであります。大槌町からの避難者の方ですが、個人の情報でございますので、内容については説明を差し控えさせていただきたいと思います」

 

増子;「具体的に沿岸から内陸に避難しているひとり暮らしの世帯に対して、何人体制で、どれくらいの間隔で見守り訪問を行っているのですか」

 

健康子ども部長「;保健師が巡回していますが、何回も何回も回るということはかなり、厳しい状況でございます。あくまでも市民と同じように健康相談のパンフレットを置いてきて、気軽に相談してほしいということです

 

増子;「一般市民と同じようにという『行政の公平性』もそりゃ分かりますけれども、今回の震災はケタが違います。保健師をふやすとか、沿岸被災者に特化した、もう少し手厚い見守り体制を考える必要があると思いますが…」

 

健康こども部長;「沿岸の被災者の方に特化した体制というお話でございますけれども、やはり行政としましては、市民の健康、安全、これが第一番でございます。あくまでも市民と同じように相談を受けてという形でやっていきたいと考えております」

 

増子「おそらく何回聞いても同じ答弁しか返ってこないような気がします。『公平の原則』と言えば、何か非常に耳触りがよく聞こえますが、そこに本市の行政の特色を垣間見たように思います」

 

 

 

 

《追記―3》~被災者を「語り部」に(2019年2月17日付「朝日新聞」より)。私は市議在任中に市側に同じことを提言したが、一顧だにされなかった。

 

 

 東日本大震災で、内陸避難者の支援活動を行ってきた「もりおか復興支援センター」(盛岡市内丸)が、3月11日に初めて語り部の講話会を開く。センターに通い、心の内に抱えてきた思いを手記につづって整理してきた被災者が語り部となり、被災経験を語る。震災からまもなく8年。内陸部でも震災の記憶を伝えていこうと、市もこうした活動を後押しする。

 

  語り部になるのは、宮古市、山田町、大槌町、釜石市出身の男女6人。3月11日にもりおか歴史文化館(同)で開かれる追悼行事「祈りの灯火2019」で、地震発生時の避難行動や震災後の生活を振り返る。きっかけになったのは手記集の制作だった。センターでは「何かを残したい」という避難者の声を受け、昨年7月から9月にかけて作家・斎藤純さんの文章講座を開催した。手記を書き上げ、気持ちを整理した秋ごろ、センターの職員が受講者に語り部としての活動も提案したところ、6人が手を挙げたという。

 

 震災当時、大槌町で保育園の園長をしていた釜石市出身の小笠原明子さん(71)は、園児を親に引き渡してしまったことの後悔を綴った。地震の直後、2人の母親が保育園にやってきた。「おばあちゃんが家にいるから連れていきたい」、「パパが家にいるから一緒に避難する」。小笠原さんは「津波が来るから」と引きとめたが、押し問答の末、母親たちは子どもを連れて行き、帰らぬ人となった。小笠原さんは当時の体験をあまり話さないようにしてきたという。「地元の復興に協力できずにいたことが胸にのしかかっていた。これからは、正しく怖がる大切さを伝えていきたい」と話す。

 

 3月11日の行事では他にも5人の語り部たちが、津波を生き延びた愛馬との思い出や地域で作った防災計画などをテーマに語る。もりおか復興支援センターには市内の学校や町内会などから被災者の講演依頼が来るが、これまで人前で体験を話せる人はいなかったという。金野万里センター長は「被災した人たちが教訓を伝えられる機会を増やしていきたい」と話す。

 

 内陸避難者を多く受け入れてきた盛岡市は、こうした伝承活動の支援を拡充していく考えだ。被災自治体の後方支援も行ってきたことから、内陸部でできる伝承活動を検討し、4月に更新する市の「復興推進の取組方針」に盛り込む。取組方針を議論するため1月に開かれた有識者会議では、委員から「盛岡には大震災を知る場所がない」といった意見が出た。市危機管理防災課の担当者は「例年、3月になると盛岡を訪れる人が増える。内陸でも大震災を知ることができる環境を整備したい」と話す。

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(お盆向け特別企画続編);“エアガン”騒動―余波

  • (お盆向け特別企画続編);“エアガン”騒動―余波

 

 秋の気配が少しずつ感じられるようになったが、真夏の夜に突然降ってわいた“エアガン”騒動(8月9日付当ブログ「上田城、ついに落城か!?」参照)の余波は静まる気配がない。朝日新聞全国版は「ニュ-スQ3」欄(8月15日付)で、この珍騒動の背景を分析する記事を掲載。あらためて花巻市当局の対応のお粗末ぶりが天下にさらされる結果になった。まさか頬かむりすることはあるまいとは思うが、この恥さらしの責任をどう取ろうとしているのか。木で鼻をくくったような一片の謝罪文で済される話ではない。しばらくはその動向から、目を離すことはできそうもない。以下に朝日新聞の記事を転載する。

 

 

 ふるさと納税の返礼品に地元産のエアガンを――。そんな岩手県花巻市の取り組みが、2日間で打ち切りとなった。「返礼品に銃はそぐわない」との声が庁内から噴出したためという。安全性の検査をパスした製品だが、なにがだめなのか。

 

 「私たちの商売が否定された」。花巻市のエアガンメ-カ-・KTWの和智香(わちかおる)代表取締役(69)は吐き捨てるように言った。市から、返礼品にエアガンを加えたいと要請があったのは7月8日。量産できないため、3万5千円の「ウィンチェスタ- M1873 カ-ビン」を1丁限定で認めた。市は8月1日、12万円以上のふるさと納税の返礼品として、ホ-ムペ-ジにエアガンを掲載。45分後には申し込みがあり、受け付けは終了した。

 

 状況が一変したのは翌2日、エアガンの返礼品についてメディアから問い合わせがあり、市役所の担当部門以外から問題視する声があがったという。担当者は「かわった物を返礼品にと考えたが、エアガンへの理解が庁内で十分共有されていなかった。殺傷能力はないが、対人用の武器を再現したものは、不適切と判断した」と話す。翌日、中止を公表した。申込者にも理解を得たという。

 

 和智さんは、エアガンの製造を手掛けて約30年。返礼品の機種は、映画「ラストサムライ」(2003年)にも登場する騎兵銃がモデルで、計1万丁以上も売れた人気商品だ。ル-ルを守って「本物そっくりに作る」ことが信条だけに、「危険なものだというレッテルを貼られた」と憤る。

 

 エアガンとは、プラスチック製のBB弾(直径6ミリ)をガス圧や電動で発射する玩具銃のこと。日本遊戯銃協同組合によると、1990年代にサバイバルゲ-ムを楽しむ人が増え、需要が拡大した。ビデオゲ-ム「バイオハザード」やアニメ「宇宙戦艦ヤマト」に登場する銃などが特に人気で、1千円台から手に入る。大人用エアガンの18歳未満への販売を条例で禁じている自治体もある。

 

 危険性はないのか。以前は、改造して威力を高めたエアガンで人や動物、車を狙った事件が多発。国は06年に銃刀法を改正し、一定以上の威力をもつエアガンの所持を禁じた。組合の高津昭理事長は「改正法をうけて、弾が当たったときに、皮膚が破れて血が出ない威力に抑えている。改造できないような工夫をこらし、厳しい検査が通ったものだけを市場に出している」と自信をもつ。

 

 ただ、改造できる海外製のエアガンも出回っている。猫を撃つなどの事件も後をたたない。高津さんは「おもちゃであっても、警戒する人がいるのは理解している。だからこそ、『日本製のエアガンは安全』とわかってもらえるよう努めてきた」という。

 

 ふるさと納税の趣旨からみてどうか。地方財政に詳しい一橋大の佐藤主光教授(財政学)は、「ふるさと納税は地域や自治体に共感し、応援するための制度で、本来、返礼品は必要ないはず。意味ある返礼品があるとすれば、地元の隠れた名産品を全国に紹介する場として使うべきだ」と話す。その上で、「エアガンだから悪いというわけではなく、マニアに人気で、黙っていても売れるものをあえて選ぶ必要はなかった。急きょ取り下げたことも、商品にダメ-ジを与えてしまった」と指摘する。

 

 

 

 

(写真は西部劇でおなじみのカ-ビン銃。「西部を征服した銃」とも言われ、インディアン(アメリカ先住民)を虐殺したシンボルでもあった=インタ-ネット上に公開された写真から)

 

(敗戦74年特別企画);映画「硫黄島」と海軍水兵長・山蔭光福、そして朝鮮人徴用工

  • (敗戦74年特別企画);映画「硫黄島」と海軍水兵長・山蔭光福、そして朝鮮人徴用工

 

 「戦後4年目に2名の(日本)兵が出てきたのが最後であった」―。先の大戦で日米両国が死闘を繰り広げた凄惨な全貌を記録した映画「硫黄島」(1973年、98分)の後半部分にこんなナレ-ションが挿入されている。米国防省に未公開のまま保管されていた記録フィルムを日本人の手で編集したもので、この日本兵のひとりこそが当花巻市出身の海軍水兵長・山蔭光福(故人=出征当時19歳)である。この人の数奇な運命については、知人の追跡ルポを「玉砕の島『硫黄島』秘史」というタイトルで5回(2019年3月27日~4月10日)にわたって、当ブログに転載した。詳しくはその文章を読んでいただきたい。

 

 島へ向かう米戦艦。米海兵隊の上陸。進行する米兵。自動式大砲や火炎放射器による集中砲火…。今回、この映画を初めて見て、そのすさまじさにおののいた。山蔭水兵長はなぜ、降伏後4年間も洞窟の中で生き延びることができたのか。なぜ、せっかく生き延びた命を自ら断たなければならなかったのか―。1945年2月19日から3月26日までの「硫黄島の戦い」で、総兵力約10万人(上陸部隊約6万人)の米軍が硫黄島に上陸。栗林忠道中将率いる約2万人の守備隊は地下壕に潜伏するゲリラ戦法で対抗したが、火山の地熱で灼熱状態の中、補給も受けられずに飢えと渇きに苦しみながら大半が戦死した。米軍側の戦死者も約6800人に達し、米軍死傷者が日本軍を上回った唯一の戦いとなった。追跡ルポの中にこんな記述がある。

 

 「それでも山蔭は地下5メ-トル、横穴の深さ10メ-トルの壕掘りや砲台つくりに追われた。炎天下に与えられた水はわずか1合、食料供給の輸送船は月に1、2回になって主食は4割減といった状況だった。12月になると、1日1回程度だった米軍の空襲が2回3回と増え、B24、B29機による連続爆撃は夜間30分おきとなり、一度に5キロ爆弾を数百発も落とされる事態になっていた。翌年2月になると、3つの空港のうち一つが、その2日後には島の4分の1が占領された。そこで、上陸した米軍への斬り込みが計画され、55人の砲台員は半分ほどに減り、3月12日には生存者は山蔭を含む6人だけになっていた」

 

 映画の中ではこんなナレ-ションが流れる。「運の良かったものだけが生きて帰る。これが戦(いくさ)というものであろう。誰が一体、勝ったのか。生き残った者だけが勝ったとも言えるのではないか」―。両手を頭上に掲げ、洞窟の中から出てくる兵士の姿に一瞬、虚を突かれた。本土防衛のため、「最後の一兵まで」を口にしていたのが日本軍ではなかったのか。ナレ-ションはこう続いた。

 

 「3月5日、洞窟の中から初めて、人間が姿を現わした。強制的に徴用され、飛行場や陣地の構築に使われた朝鮮人労務(働)者たちがアメリカ軍の降伏の呼びかけに応じて出てきたのである。約2000人いたというが、そのうち、何人が生き残ったのか、その正確な数は今もってわかっていない」―。この光景を目の当たりにしながら、私の脳裏には「人身御供」(ひとみごくう)という言葉がよぎった。捕虜の取り扱いに米軍がどう対応するのか…日本軍はそのことを知るために朝鮮人を米軍の前に差し出したのではないか―という思いにとらわれたのである。いま、日韓が鋭く対立している「元徴用工」問題の原風景と日本の植民地支配の原点がここにある(コメント欄の写真参照)。

 

 奇跡的な生還を果たして帰国した山蔭水兵長は昭和26年春、潜伏期間中に書き残した日記帳を取り戻すためにふたたび、硫黄島に渡った。日記帳は判読ができないほどボロボロになっていた。同行した極東空軍司令部の歴史家員、スチュア-ト・グリフィンはその様子をこう証言している(5月10日付「毎日新聞」)。「山蔭君が飛び降りたのは摺鉢山旧噴火口から約90メ-トル離れた地点であった。山蔭君は突然、両手をさしあげ『バンザイ』と叫びながら、狭いがけの突出部から身を躍らせた。そのため、落下する姿はマザマザと目撃された。険しいがけの中腹に同君の身体が最初に激突したとき、火山灰がもうもうと舞い上がった。もち論即死だったろうが、その身体は何度もがけの突出部にぶつかりゴロゴロと転がりながら、落ち込んで行った。午前10時半ごろだったろう」―

 

 山蔭水兵長はいったん、生き残ったという意味では「勝者」である。しかし、その命を自ら断ったという意味では同時に「敗者」でもある。「太平洋への〝死の跳躍〟」、「摺鉢山で硫黄島生き残りの山蔭君」、「探す〝四年の洞窟日記〟」、「ナゾ解けぬ彼の死」…。スチュア-トの記事にはこんな見出しが躍っている。いまとなっては、その死はナゾの彼方に葬り去られたままである。玉砕のもくずと消えたその「生と死」を詮索することに何ほどの意味があろうか。ただひとつ、言えることは―「戦争には勝者も敗者もない」ということであろう。映画なこんな言葉で閉じられている…「硫黄島は太平洋に浮かんだ悔恨の記念碑である」。日本は今日8月15日、74回目の敗戦記念日を迎えた。

 

 

 

(写真は硫黄島の要塞「摺鉢山」に掲げられた星条旗。米ワシントンDCにある、アーリントン国立墓地近くの海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)にこのブロンズ像は建っている=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

《追記》~いまも続く戦争の傷跡

 

 「硫黄島からのはがき/花巻出身・滝田さん遺品」―こんな大見出しの記事が8月15日付「岩手日報」に掲載された。当時、山蔭水兵長と同じ19歳だった花巻出身の滝田清吾さんは1945年3月に硫黄島で戦死した。今回、米兵の家族から返還されることになった軍事郵便には「私も変わりなく日夜、戦いに又作業に精致して居ります。故里(ふるさと)も、今や雪にとざされ、寒さ厳しき頃でせう」などと書かれている。私の手元にもシベリアで戦病死(栄養失調)した父の軍事郵便の束が残されている。戦争の傷跡は絶えることがない。作家の故菊村到は山蔭水兵長を題材に『硫黄島』を書いて芥川賞(1957年)を受賞。2年後には宇野重吉監督の下、同名のタイトルで映画化された。

 

 

 

 

 

(お盆向け特別企画);真夏の夜の“ミステリ-”………上田城、ついに落城か!?

  • (お盆向け特別企画);真夏の夜の“ミステリ-”………上田城、ついに落城か!?

 

【前座】

 

 「最後のブログを読んだよ。お盆を前に弔いイベントをやるから、出てこないか」―。世界的なサックス奏者で、ミジンコの研究者でもある盟友の坂田明さんからお誘いがかかった。妻の一周忌を終えたばかりの私はあたふたと駆けつけた。時は令和元年8月7日午後7時、場所は宮城県栗原市にある曹洞宗・通大寺…宵闇が迫った本堂から、こわ~い話がもれてきた。壇ノ浦の合戦に材を得た、おなじみの怪談「耳なし芳一」である。元NHKアナの青木裕子さんが朗読を担当、坂田さんがサックスを奏でながら、一方で芳一役も演じるという型破りの演出である。

 

 「女房に先立たれた夫は大体、2年以内に死ぬらしいぞ」―。妻の没後、坂田さんからこう忠告された。気遣いも人一倍のこの盟友らしい今回の企画はそもそも、東日本大震災の犠牲者の霊を慰めるために始められたらしい。「盆ちゅうのわな、あらゆる霊の厄を払うためのものさ。みんな、あの世で安らかに、とな」。かつて、坂田さんはアイヌのミュ-ジシャンとのコラボで、「ウエンカムイ」(悪い神)を演じたことがある。前回の当ブログで触れたいようにアイヌにとっては、人間の力の及ばないものはすべてがカムイである。だから、ウエンカムイも例外ではない。で、その悪い神さまは今度は「救いの神」として、私の目の前に立ち現れたのである。ありがたや。さ~て、これからがいよいよ、真打の登場である。

 

 

【真打登場~その1】

 

 壇ノ浦ならぬ、わが「イ-ハト-ブはなまき」界隈でいま、よりミステリアスな“エアガン”騒動が持ち上がっている。事の発端はこうである。当花巻市は8月1日、12万円以上の「ふるさと納税」の返礼品として、プラスチック製の弾(たま)を圧縮した空気で飛ばすエアソフトガン(エアガン)をリストに加えた。HP掲載後に問い合わせが殺到、45分後に申し込みがあり、受け付けを終了した。「地元で部品作りから組み立てまで行っており、自信を持って出せる品。予想以上に反響があり驚いている」(定住推進課・高橋信一郎課長補佐)と当初は鼻高々だったのだが…。この話題がテレビのワイドショ-のほか、全国紙や地方紙に報じられるに及んで事態は一変した。

 

 問題のエアガンは花巻市内のメ-カ-が製造した「ウィンチェスタ- M1873 カ-ビン」。幼いころ、西部劇ファンだった私にとっても懐かしいライフル銃である。「西部を征服した銃」とも呼ばれたが、長じてからはインディアン(アメリカ先住民)を殺戮した忌まわしい銃だという負のイメ-ジが付きまとっていた。「本物ではないにしても過去の暗い歴史を思い出させる」、「アメリカでは銃乱射事件が相次いでおり、嬉々として返礼品に加えるのは無神経すぎないか」…。当然のことながら、ネット上にはこんな意見が相次いだ。まずはこの見事なまでの想像力の欠如に驚いてしまう。騒動が受けた同市は今月8日付のHPに上田東一市長名のこんな記事が掲載し、メーカー側にも伝えた。

 

 「当該エアソフトガンは日本遊戯銃協同組合の自主規制が遵守されているものであり、その意味で安全性は確認された上で、市販されていると認識しております。しかしながら、殺傷能力のないエアソフトガンとはいえ、対人用の武器として使用した銃を再現したものであるため、当市の独自の判断として、ふるさと納税の花巻市への寄付に対する返礼品として、市が取り扱うことは不適切という結論に至りました。当市の今回の対応が一貫していなかったことについて、大変申し訳なく存じます」―。

 

  「独自の判断」でこの銃をリストに加えたのは一体、誰だったのか。盗人猛々しいとはまさにこのこと。木で鼻をくくるどころか、この思考の分裂はもはや病的とさえ言わざるを得ない。「市の担当者から是非にと懇願されたのに…。1丁だけだよ、とOKした結果がこれでした。いきなり、はしごを外されたようなもの」ー。とんだとばっちりを受けたのは、正規の法規制に基づいて製造した当のメ-カ-である。今回の対応がメ-カ-側にとっては「名誉棄損」(信用失墜)にも相当する重要な事案であることに、行政トップは思いが至らなかったのだろうか。だとすれば、「イ-ハト-ブはなまき」はもうすでに死に体であることの証左である。

 

 

【真打登場―その2】

 

 花巻市の中心市街地に人の気配がまったくない空間が広がっている。今年7月1日にオ-プンした「花巻中央広場」である。市民が気軽に足を運び、イベントにも活用できる公園として整備され、上田市長も「人が集まり、楽しめる場所にしたい。街中のにぎわい創出や活性化のための拠点としての活用が期待される」と胸を張った。陽をさえぎる木陰があるわけでもなく、蛇口がたった三つの水飲み場あるだけで、トイレもない。「まるで、上田記念公園ではないか」、「熱中症になりにいくようなもの」、「1億円近い工費も結局、ドブに捨てたようなもんではないのか」…。連日の酷暑続きの中で、こんな声がひんぱんに聞こえてくる。

 

 お盆を前にして、あの世から里帰りする霊たちもあちこちをさ迷い歩いている。旧花巻城跡で猛威を振るうやぶ蚊に追いやられた幽霊たち(7月23日付当ブログ「城跡…無惨、いまや蚊の発生源!?」からはこんな嘆きがもれ聞こえてくるような気がする。「おれ達、お化けだって、熱中症にはなりたくないからな」―。これではまるで「幽霊さえも寄り付かなくなった」―という“都市伝説”も顔負けするような光景ではないか。霊性の詩人と言われる宮沢賢治はふるさとのこんな無様なありさまを、銀河宇宙の彼方からどんな思いで眺めているのであろうか。

 

 

【真打登場―その3】

 

 上田市長も愛読しているらしい、花巻ゆかりの新渡戸稲造は『武士道』の中にこう書き記している。「真の忠義とは何であろうか?武士道は主君のために生き、そして死なねばならない。しかし、主君の気まぐれや突発的な思いつきなどの犠牲になることについては、武士道は厳しい評価を下した。無節操に主君に媚(こび)を売ってへつらい、主君の機嫌をとろうとする者は「佞臣(ねいしん)」と評された。また、奴隷のように追従するばかりで、主君に従うだけの者は「寵臣(ちょうしん)」と評された。家臣がとるべき忠節とは、主君が進むべき正しい道を説き聞かせることにある」

 

 ワンマン・上田市長が君臨する「上田城」にはいま、佞臣や寵臣たちがまるでバッタのように蝟(い)集している。今風に解釈すれば、「忖度」政治の地方版である。エアガンの発案者にしても、主君(上田市長)に取り入ろうとする哀れな家臣(職員)の姿のように映って見える。残骸をさらけ出す旧花巻城跡を追うように、上田城の落城ももはや時間の問題だという思いにとらわれる。もしかしたら、「耳なし芳一」とは聞く耳を持たない上田市長その人かもしれない。最大の被害者はこんな行政に身を任せなければならない、我われ市民である。と同時に、そんな人物をトップに選んだ責任は我われ市民の側にもある。もちろん、そのひとりは私自身である。

 

 

(写真は寺子屋ライブのひとこま。「耳なし芳一」の語りとサックスの音色が不思議なほどに調和していた=8月7日、栗原市内の寺で)

 

 

《追記》~ブログ保存について

 

 パソコン上に掲載されている当ブログについては、当分の間、そのままの状態で保存しておきたいと思います。それ以前の分はすでにUSBなどに移し替えており、現存分は2017年4月20日付から2019年8月9日付までの206回分です。激動する内外情勢や行政と議会の機能不全ぶり、妻の死に翻弄(ほんろう)された一年間のこころの動きなどを読み取っていただければ幸いです。「本質的な議論」の復活を切に望みながら…。

 

 こんな予告(ブログ閉鎖)をしていましたが、今回、市民生活と密接不可分なミステ-まがいの出来事が起きました。元市議としては黙過することはできないと考え、このような事態の発生に際してはその都度「特別企画」として、掲載したいと考えています。賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」はいま、存亡の危機に立たされています。行政と議会の動きからは一時も目を離すことはできません。

 

 まさに偶然と言えば偶然なのですが、この追記を書いていたそのさ中、沖縄の米軍基地問題での陳情(7月11日並びに同15日付当ブログ「『陳情不採択』顛末記参照)でお世話になった沖縄在住の「新しい提案・実行委員会」の安里長従代表から,「近く開く報告集会で、この資料を配布していいか。沖縄の地元紙からも問い合わせがあるかもしれないので、その時はよろしく」という電話が入りました。もちろん快諾しましたが、今回の”エアガン”騒動などを含め、当市の動向が全国的な注目を集めていることに、逆にこっちの方がびっくりしてしまいました。

 

 



 

 


 

カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム

  • カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム

 

 妻が旅立って、7月29日でちょうど1年が経った。あの日も酷暑の夏だった。抗がん剤治療を続けていた妻は見る見るうちにやせ細っていった。「神や仏はいないものなのか」…数年間にわたって、妻を苦しませ続けてきた「病魔」の前に私はなす術もなく、立ち尽くしていた。と、そんなある日、「神さまはいるんだよ」という声が遠音に聞こえたような気がした。

 

 「徘徊する神」―。その神はアイヌの世界で、こう呼ばれていた。アイヌ語訳すると「パヨカ(歩く)・カムイ(神)」となる。長いひげをたくわえたエカシ(長老)がニヤニヤしながら言った。「アイヌは人間の力の及ばないものはすべてカムイだと信じてきた。だから、コタン(集落)を全滅の危機におとしいれる『病気』もれっきとしたカムイなのさ。病気の神さまも自分の役割を果たすのに必死なんだよ。病気をまき散らすためにせっせと歩き回るから、いつも腹をすかせていてな。で、徘徊する神というわけだ。この時の魔除けにもいろいろあるぞ」

 

かつて、アイヌ民族にとっての大敵は「疱瘡(ほうそう)=天然痘」だった。流行の兆しがある時には「どうか私たちのコタンには近づかないで…。これでお腹を満たしてください」と家々から持ち寄った穀物などを火の神(アペフチカムイ)を通じて届けたり、コタンの入り口に匂いの激しいヨモギの草人形を立てたりして、この病気の退散を願った。こんな言い伝えを口にしながら、「でもな、実際にパヨカカムイに取りつかれた時にどうするかだ」とエカシは自慢のひげをもてあそびながら、続けた。「薬だけで治ると思ったら、大間違い。病気の神さまとも仲良く付き合うことが大事なのさ」

 

入退院を繰り返していた別のフチ(おばあさん)からはこんな話を聞かされた。「病気の神よ、私の体の中はそんなに住み心地がいいのかい。でも、あんまり暴れるとワシも痛いから、仲良くしようよ。こう言うのさ」。元気になって退院したフチは今度はすました顔でこう言った。「やれやれ、あの病気の神さまはよっぽど、ワシの体の住み心地が悪いと見えて逃げて行ってしまったよ」―。30年近く前のこの時の取材体験を、私は病臥(びょうが)する妻に聞かせてやりたいと思ったのだった。ウンウンとうなづいていたその表情が一瞬、微笑んだように見えた。息を引き取ったのはその数日後のことだった。刹那(せつな)、ある歌が口からもれた。

 

「若き日 はや夢と過ぎ/わが友 みな世を去りて/あの世に 楽しく眠り/かすかに 我を呼ぶ、オ-ルド ブラック ジョ-/我も行()かん、はや 老いたれば/かすかに 我を呼ぶ、オ-ルド ブラック ジョ-/我も行かん、はや 老いたれば/かすかに 我を呼ぶ、オ-ルド ブラック ジョ-」―。のちにシベリアの凍土で帰らぬ人となった父親を戦地に見送った直後から、当時まだ5歳だった私はアメリカの作曲家・フォスタ-のこの黒人霊歌をつっかえひっかえ、原語で歌うのが習い性みたいになっていた。父親との別れが子ども心にも辛かったのだと思う。その没入ぶりは母親もびっくりするほどだったらしい。

 

Gone are the days when my heart was young and gay…」―。「一周忌」前日の28日、妻と私が幼い時に見物を欠かさなかった浄土宗・勝行院如来堂(市内鍛治町)の宵宮に孫たちを連れて行った。その時に不意に口をついて出たのもこの「オ-ルド ブラック ジョ-」(黒人の老翁・ジョ-)だった。一体、何故だったのか。いまもその理由は判然としない。宵宮のたたずまいが遠い記憶を呼び起こしたのだろうか。ひょっとしたら、世代をまたぐ孫たちに何かを引き継ぎたいという切羽つまった気持ちだったのかもしれない。

 

表題に引用した言葉はアイヌ文学の「ウエペケレ」(昔話)によく出てくる表現で、パヨカカムイもそうであるように、「天から役割なしに降ろされたものはひとつもない」という意味である。妻が他界したその日は私が引退を決めた市議選の投開票日に当たっていた。結婚以来50年―この間、新聞記者や市議会議員という荒っぽい人生の同伴者として、愚痴ひとつこぼすことなくその「役割」を十分に果たしてくれた。逆に、尻込みする私にハッパをかけてくれたりもした。さて、2期8年間の市議生活の歩みと妻亡き後の苦悩の日々を包み隠さず、書き綴ってきた当ブログを今回をもって閉じたいと思う。力尽きて旅立った後、さらに1年間も道連れにしたことを許してほしい。今度こそ、カント(天空)へと真っすぐに舞い戻ってほしいと心から願う。ありがとう、そして、さようなら…。

 

最後に長い間、お付き合いをいただいた皆さま方に感謝を申し上げます。この間、タイトルは宮沢賢治にあやかって「イーハトーブ通信」から「マコトノクサ通信」をへて、現在の「ヒカリノミチ通信」に変わり、延べアクセス数は87万件を超えました。皆さま方の叱咤激励(しったげきれい)がなかったら、途中で挫折していたかもしれません。またいつか、この場でお目にかかることができるのかどうか―。いまはただ、己自身が「パヨカカムイ」にならないよう、いや、このおっかない神さまに付け回されないように自戒を込めつつ、では、お元気で。

 

 

 

(2019年7月29日、亡き妻の一周忌の日に)

 

 

 

(表表紙の写真はアイヌ文化の伝承者、川上まつ子さん(故人)の物語世界を紹介する絵本「白鳥の知らせ」より。何となく、天空を連想させる=インタ-ネット上に公開の写真から)