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陳情不採択―沖縄の米軍基地と「『全国』という国」

  • 陳情不採択―沖縄の米軍基地と「『全国』という国」

 

 花巻市議会6月定例会に提出していた「辺野古・普天間」問題の陳情(5月13日付当ブログ参照)の審査が7日、総務常任委員会(藤原伸委員長ら9人)で行われ、委員長を除く全員の反対で不採択となった。一方、一部の委員から「辺野古の埋め立てに反対する民意は尊重すべきだ」という動議が出され、沖縄県と国がこの件について、誠意をもって協議することを求める意見書を提出することが賛成多数で可決された。これに対し、盛岡耕市委員(明和会「辺野古反対だけが民意ではない」)と菅原ゆかり委員(公明党「陳情内容は地方議会にはなじまない」)の二人はこの意見書提出にも反対した。東京都の小金井・小平両市議会はすでに私の陳情と同趣旨の意見書を採択しているが、この日の審査は沖縄の米軍基地問題の内部に踏み込むには至らなかった。

 

 私は冒頭の意見陳述で「安全保障や防衛、軍事は国の専管事項だという法的根拠のない呪縛(じゅばく)からそろそろ抜け出し、民主主義の実践と地方自治の本旨にのっとった真摯な議論を望みたい」と述べた。陳情の以下の部分に議論が集中した。「全国民が責任をもって、米軍基地が必要か否か、普天間基地の代替施設が日本国内に必要か否か当事者意識をもった国民的議論を行うこと。国民的議論において、普天間基地の代替施設が国内に必要だという結論になるのなら、沖縄の歴史及び米軍基地の偏在にかんがみ、沖縄以外の全国のすべての自治体を等しく候補地とし、民主主義及び憲法の規定に基づき、一地域への一方的な押し付けとならないよう、公正で民主的な手続きにより解決すること」―

 

 「この内容では普天間飛行場を本土側で肩代わりすることになりかねない」「基地の重圧の苦しんできた沖縄県民が本土への移設を望むはずはない」…。こんな意見が相次いだ。世界一危険と言われる普天間飛行場(普天間基地)の返還について、国は「辺野古移設(新基地建設)が唯一の解決策」という態度を崩していない。つまり、(普天間)返還と(辺野古)移設は対の関係にある。だから、議論の筋道としては「移設(埋め立て)反対」を主張する際は同時に「普天間」問題も射程に乗せなくてはならない。今回の陳情はこうした議論の必要性を促したつもりだったが、委員たちには伝わらなかったようだ。それどころか、「(陳情内容が)花巻市民の公益(安心・安全)にどう結びつくのか」といった意見も。このように「安全保障は日本全体の問題である」という”安保論”のイロハに無知をさらけ出す一幕もあり、「自分事」として沖縄に向き合う姿勢は見られなかった。

 

 つい最近、沖縄・石垣島在住の知人で歌人の松村由利子さんから第4集の歌集『光のアラベスク』が届いた。この島もいま、自衛隊の配備計画で揺れている。「『全国』という国」と題する連歌があった。この日の審査を聞きながら、「沖縄」と「全国」の距離の遠さに打ちのめされた。歌の中の「土人」表記は2016年10月18日、沖縄県東村(ひがしそん)高江地区で新型輸送機オスプレイの離着陸帯(ヘリパッド)建設をめぐり、大阪府警の機動隊員が反対する住民に対し「土人」と暴言を吐いた出来事を指している。

 

 

●本島のその先にある島なれば先島諸島と括られており

●全国紙の配達されぬわが家なり沖縄タイムスも昼ごろ届く

●10月の夏日の新聞白抜きの「土人」の見出し目に刺さり来る

●フライデ-にキリスト教を押しつけた無邪気か「土人」という蔑みは

●椅子とりゲ-ム何度やっても一人だけ残され続けている沖縄

●椅子ひとつ足りぬル-ルを押しつけて仲間だよねとまた押しつける

●メディアとは太鼓叩いて笛吹いてその場限りの祭りを好む

●一年の半分以上が夏の島「全国」という国は遠かり

●首都の雪ばかり報道するテレビ南の抗議行動続く

 

 

 

(写真は松村さんの歌集『光のアラベスク』。いまは亡き妻が残したリ-スと組み合わせてみた)

根室再訪―追憶の旅(2)

  • 根室再訪―追憶の旅(2)

 

 棟梁格の絵描きの邦ちゃん夫婦、ひげの征三、風呂屋のひろしちゃん…。その名の由来は忘れてしまったが、根室勤務時代の悪童連のサ-クル「ガムツリ-」の仲間たちがいまや遅しと待ち構えていた。記者生活の原点でもある“国境の街”の33年ぶりの再訪に胸が高鳴った。根室駅前の老舗のすし屋の一角…まるで「あの男」に生き写しのような中年男が目の前に座っていた。

 

 かつて、終生の友情を誓った「平野禎邦(よしくに)」というフリ-カメラマンがいた。朝鮮の血を引くこのカメラマンと私は根室の地で遭遇した。一目見て、運命的な出会いを感じた。憂いの中に怒気を含んだエネルギ-に圧倒された。この男とならば、何でもできると思った。ソ連国境警備隊の追尾を交わしながらの密漁船の同乗取材、サハリン・北方領土での潜入ルポ、相次ぐ炭鉱災害の現場取材…。その都度、悲しみの中に人間味あふれる写真を写しとってきた。着氷してバランスを崩しそうになる小型密漁船の中で、毛ガニや花咲ガニ、タラバガニの踊り食いを堪能した日々を昨日のことのように思い出す。

 

 「ぼくの北洋は、北の辺境に流れ着き棲(す)むものたちの、海もひとも魚も、すべてが一体となった風景のなかにあった」(あとがき)―。「ていほう」(と私は彼のことを呼んでいた)はその集大成を『北洋―おれたちの海』(1983年4月、小学館)と題して刊行した。比類なき写真集として大きな注目を集めた。贈られたその写真集の裏表紙には骨太の字でこう書かれている。「地の底に這(は)う闇も、空と海の狭間(はざま)に漂う明も、人の生活に非ず。人が人として唯一、生を享受できるのは、この大地の上」―。あらゆる現場に身を挺してきた男ならでは実感のこもった言葉だった。

 

 「ちょうど、父が生きた人生に達しました」と目の前の中年男が口を開いた。長男の朋光君(48)だった。「ていほう」は写真集を世に問うた9年後の1992年10月、48歳の若さでがんで旅立った。当時、東京勤務だった私も急きょ、「しのぶ会」にかけつけた。彼の活動を陰で支え続けた「ガムツリ-」や物心両面で援助してきた人たちなど数十人が集まった。「彼がそばにいなかったら、闇の世界に足を踏み入れることはできなかったと思う。これほどの喪失感を感じた男はいなかった」と私は不覚にも涙を流しながら、別れの言葉を述べた。

 

 北方領土をめぐる国会議員の「戦争」発言に批判が集中しているが、いつの時代でも“国境の街”はそこに住む住民や零細漁民などを「人質」にとった政治問題として、存在し続けてきた。だから、その地を取材する者にとっては、人質たちの“落とし前”の付け方が最大の興味の対象になる。つまり、国の政策に翻弄(ほんろう)される者たちの生きざまを直視しなければ、何も見ないことになってしまう。根室に赴任した私はまず、闇の世界にうごめく人脈探しから始めた。嗅覚の鋭い「ていほう」がいつも同行した。国境警備隊側に情報を提供する見返りにカニの密漁を見逃してもらう「レポ船」の暗躍、高速エンジンを搭載して違法操業を繰り返す「特攻船」…。

 

 ある密漁船の船主と密漁カニを卸す業者との間に不思議な“信頼”関係ができていった。取材に回るたびに、警察や海上保安部の尾行が付いていることは先刻承知していた。ある時、警察署長からお座敷が掛かった。当時、知床半島の付け根で、遺体なき殺人事件が起きていた。北方領土の貝殻島周辺のコンブ群生地に頭部が絡まっているという噂があった。「あそこには日本の警察権が及ばない。あなたの筋(密漁者)で、あのガイコツを日本側に持って来てもらうことはできまいか」と署長は言った。「1週間、密漁に目をつぶってもらえれば…」と私は条件を出した。さすがに、警察側が密漁を見て見ぬふりすることはできない。この“商談”が不調に終わったのは当然である。いつしか、ガイコツも流氷とともにいずこにか流れ去り、この事件は未解決のままにピリオドを打った。

 

 有島武郎の『生れ出づる悩み』のモデルは北海道岩内町出身の画家、木田金次郎(1893~1962年)と言われる。漁業のかたわら、画業に没頭した。イニシャルが同じ根室の「K・K」は暴力団の流れをくむ密漁業者で、私の重要な情報源だった。ある時、この男がポツリともらした。「オレはいま、裏街道の人間だが、おじちゃんは有名な画家なんだぞ」―。その誇らしげな表情がいまも忘れられない。金次郎の血脈に当たることにちょっと驚いたが、それっきり忘れていた。

 

 今回の長旅のハンドルを握ってくれた後輩記者の菅谷誠君(70)はイタリア文学の翻訳をするかたわら、画家「木田」の業績を検証するなどの地道な仕事を続けている。だから、「K・K」との面談も根室再訪の大きな目的のひとつだった。「ひと足、遅れてしまったな。K・Kは3ケ月ほど前にがんで亡くなったよ」とすし屋の宴席で絵描きの邦ちゃんが言った。妻に先立たれ、一人息子も交通事故の後遺症を苦にして自死したことをその場で知った。情報を得るお返しに家庭教師をしていた美男の中学生だった。プツンと糸が切れたような気がした。

 

 酔いが回った宴席では耳慣れないロシア語が飛び交っていた。「エカシ」(長老)を自称するひげの征三と10日ほど前に朝日新聞根室支局に着任した大野正美記者が「オ-チンハラショ-」とかなんとかやっている。ロシアと国境を接するこの地ではロシア語の日常会話を話す住民は結構いる。大野記者はモスクワ支局長も務めたロシア語の達人である。「何でもありのごった煮。だから、国境の街は面白いんだよな」ともう一人の記者がちょび髭をいじりながら、ニヤニヤしている。19年前、旧石器をねつ造し、世紀の発見を自作自演した「ゴットハンド(神の手)」事件をスク-プした毎日新聞根室支局長の本間浩昭記者である。根室に骨を埋めるつもりでいる。敵ながら、あっぱれ…よだれが出るような見事なスク-プだった。

 

 密漁船の船主だった「Y・T」に会いたいと思った。「ていほう」と乗り込んだのはこの男の持ち船だった。レポ活動をしながら、世界中を股にかけたと豪語していた。記憶が薄れた道順を辿ってやっと行き着くと、遊び仲間と山菜取りに出かけるところだった。「おやじ、海じゃなくて山なの?」と声をかけると、破顔一笑した表情が次の瞬間、泣きべそになった。「よく、来てくれたのう。密漁の時代はとっくに終わったよ。わしの武勇伝は(毎日)の本間記者に伝えるから…。母ちゃんには逃げられ、いまはやもめさ」と86歳になる老密漁者は力なくつぶやいた。

 

 「天国と地獄が同居する」―根室のまちは霧に包まれ、つかの間の晴れ間に列島最後の千島桜が満開の花を咲かせていた。国境を目指した人間模様が織りなす「人生劇場」がそこに広がっていた。

 

 

 

(写真は満開の千島桜に抱かれながら…=5月17日、根室市役所前で)

 

 

 

 

夕張再訪―追憶の旅(1)

  • 夕張再訪―追憶の旅(1)

 

 「国策がまちを生み、国策がまちを消す」―。こんな表現がぴったりのまちがかつての炭都・夕張(北海道)である。30数年ぶりになる再訪でその思いをさらに強くした。4月17日付当ブログ「『改元』恩赦と夕張放火殺人事件」で言及した「夕張再訪」が5月16日にやっと、実現した。同行者はこの旅のきっかけを作ってくれた札幌在住の元高校教師、菊池慶一さん(86)と夕張の取材経験のある後輩記者…菅谷誠(70)と秋野禎木(61)の両君である。記憶の糸口を探るため、私たちはまずあの大惨劇の現場へと向かった。

 

 笹の葉が風に揺れ、遅咲きの山桜がいまが盛りと咲き誇っていた。ウグイスが鳴き渡るその先に赤さびたトンネルの入り口がかすかに見えた。ヤマの男たちが地底の坑道に向かう際に使った人道である。私自身、何度、この人道を行き来したことか。ある時、男たちの腰に弁当がふたつ、ぶら下がっているのに気が付いた。「ひとつはネズ公のもんだよ」とぶっきらぼうに言った。坑内にすみついたネズミはガスや火災などの異常をいち早く感知すると言われていた。38年前の1981(昭和56)年11月16日、北炭夕張新鉱でガス突出事故が発生。北海道では戦後最悪となる93人が犠牲になった。脱出しようとして、息絶えたネズミの死骸が坑口近くで大量に見つかった。

 

 この事故で当時、42歳だった坑内員の須磨寛さんが亡くなった。ひとりっ子の小学6年生、貢君と妻の和子さんが残された。貢君は寂しさを紛らわすため、鉄道写真や切符集めに没頭するようになった。和子さんは生活を支えるために炭住街の近くにスナック「和(かず)」を開いた。取材のたびに足を運んだ。手土産に鉄道関係のコレクションを携えるのを忘れなかった。今回、訪れたのはちょうど「月命日」の16日だった。スナックのシャッタ-は下ろされ、営業している気配はなかった。最盛期、酔っ払いのケンカが絶えなかった炭住街には人の気配すらなかった。テクテクと歩き回り、やっと表札のある家にたどり着いた。不審げに顔をのぞかせた女性がニッコリ笑って言った。「店は数年目に閉めたけれど、和ちゃんは店と棟続きの住宅で元気にしているよ」

 

 「あの時の朝日の記者さんの…、マスコさん?」―。お互いに顔を見合わせ、しばらくして和子さんがスナックのママ時代と変わらないやさしい表情になった。焼香をさせてもらっている間、和子さんは堰(せき)を切ったように話し続けた。菅原文太似の貢君は中学卒業後、俳優を目指して上京した。東京で一度、食事をともにしたことがある。いまは父親の生年を超えて50歳になり、3人の子どもも立派に成長した。「俳優の夢は叶えられなかったけれど、営業関係で走り回っているらしい。夫が生きていれば80歳。私はいま75歳だから、あと5年たったら迎えに来てって言っているの…」―。俳優になりそこなった50歳の「菅原文太」に急に会いたくなった。人間のきずなの大切さに胸が熱くなった。

 

 「ぜひ、案内したい場所があるんです」と夕張取材の長い秋野君が言った。彼は「墓歩き」の異名を持っていた。強制連行された朝鮮人や中国人、タコ部屋の下請け労働者…。夕張のあちこちには地底(じぞこ)に絶命したいのちを慰霊する石碑が林立している。「炭鉱取材の原点はまず、死者の前に立つことから始めなければ…。この地を訪れると自然と足がそっちに向くんですよね」

 

 鹿島東小学校、夕張東高等学校、鹿島小学校、鹿島中学校…。秋野君に連れて行かれた光景に思わず、息をのんだ。目の前には総貯水量が全国で第4位という日本屈指の人造湖「シューパロ湖」が広がっていた。高台の眺望公園には湖底に沈んだ学校の記念碑がずらりと並んでいた。かつて、この一帯は三菱資本の一大産炭地として栄華を極めた。私の耳元にも当時の喧騒(けんそう)が残響のように響いている。「例の夕張保険金殺人事件の現場もとっくの昔に湖の下です」と墓歩きがぼそっと言った。湖底に没した学校の記念碑が墓石のように見えてきた。「じゃ、もっと生々しい現場へ」と秋野君が促した。

 

 「日高商事」などの看板を掲げたコンクリ-ト造りの2階建ては少し傾き加減になりながらも、まだ当時の場所にあった。35年前の1984(昭和59)年5月5日の子どもの日、ここを拠点に炭鉱の下請けをしていた暴力団夫婦が保険金目当ての放火殺人の疑いで逮捕され、戦後初の夫婦同時死刑に処せられたことについては、前掲ブログに書いた。7人の犠牲者の中に幼友達がいたことを知った菊池さんはその足跡を辿ったルポを上梓し、菅谷君は放火で焼け落ちた従業員寮を写真に収めた。そして、秋野君は現役を退く今に至るまで夕張通いを続けている。

 

 「立ち入り禁止」の北海道警の黄色いテ-プが半分、ちぎれている。その奥をのぞいて、一瞬、ひるんでしまった。足の踏み場もない室内に大型金庫がごろんと転がっていた。分厚い扉を重機か何かでこじ開けようとした形跡がある。妄想が広がった。「死刑の後、保険金がまだあるかもしれないと誰かが物色したのではないか」―。ふいに「ラクダ」事件を思い出した。北炭夕張新鉱が事故の末に閉山に追い込まれた直後、作家の故五味康祐の縁者を名乗る男がふらりと現れた。「町おこしの観光資源として、ラクダはどうか」と言って、実際に一頭のラクダを飼い始めた。北海道の寒さに砂漠のラクダは耐えることはできない。ほどなく、ラクダは死んだと噂された。「ラクダ肉料理」の看板が街角に出現した。その看板を残したまま、男はいずこともなく、姿をくらました。全国の地方自治体を渡り歩くペテン師だということが後でわかった。ある種の愛着を込めて、かつて私はこのたたずまいを「夕張人外境」と呼んだことがあった。

 

 私は前掲ブログをこう結んでいる。「日本の繁栄の捨て石にされた苦海のたたずまいをもう一度、まぶたによみがえらせたいと思う。記憶の風化に抗(あらが)うためにも」―。「国策がまちを生み、国策がまちを消す」という冒頭の言葉をもう一度、口ずさんでみた。妄想がますます、膨らんだ。「国策とはいつの時代でもある種の“悪意”をはらむものではないのか。子どもたちの生きた証しを湖底に沈める一方で、まるで見せしめのように放置された死刑夫婦の事務所の残骸…。そのどちらにもどす黒い“悪意”がひそんでいる」と―。

 

 ホテルに戻って、テレビをひねるとどの番組でも新しい時代を奉祝する「令和」狂騒曲が奏でられていた。頭がくらくらした。繁栄の人柱になった数知れないヤマの男たち、そしてネズミやあのラクダの幻影が走馬灯のように頭の中を駆けめぐった。「スクラップ・アンド・ビルド」という名の石炭政策に翻弄された炭都の盛衰がコマ送りのように目の前に去来した。おそらく、この虚実の逆転に私自身が圧倒されたのだったのだろう

 

 

 

(写真は北炭夕張新鉱に通じるかつての人道トンネルの入り口。すっかり赤さびて出入り禁止になっていた=5月16日、北海道夕張市清陵町で)

 

 

 

沖縄の「辺野古・普天間」問題で陳情―朝日新聞全国版に紹介

  • 沖縄の「辺野古・普天間」問題で陳情―朝日新聞全国版に紹介

 

 花巻市議会の3月定例会で、私が提出した日米地位協定の抜本的な見直しを求める陳情が賛成多数で採択されたのを受け、今度はその延長線上の「辺野古・普天間」問題に関する陳情書を13日付で同議会に提出した。6月7日に予定されている6月定例会の総務常任委員会の審査に付されたうえで、本会議最終日の13日に賛否がはかられる日程になっている。

 

 この問題については、沖縄県民でつくる「新しい提案・実行委員会」(安里長従代表)が今年3月、「名護市辺野古の新基地建設の阻止に向け、米軍普天間飛行場の代替施設の必要性を含めて、候補地を国民全体で議論し、民主的に決めるよう働きかける」―陳情を当花巻市議会など全国すべての1788地方議会に提出している。しかし、県外や郵送による請願・陳情についてはほとんどの議会で審査対象から除外しているケ-スが多く、当市議会も「取扱要綱」でそう定めている。本土の地方議会では革新系会派が主導する形で、東京都の小金井、小平両市議会が同趣旨の陳情を採択。意見書を内閣総理大臣など関係機関に提出しているが、陳情者はいずれも沖縄出身者。このため、私は「新しい提案」の趣旨に賛同し、本土に在住する個人として陳情することにした。

 

 一方、岩手県議会は3月定例会で全国で初めてとなる「沖縄県民投票の結果を踏まえ、辺野古埋め立て工事を中止し、沖縄県と誠意をもって協議を行うことを求める」―請願を共産党、社民党、改革岩手の各会派所属の議員が紹介議員となって採択している。沖縄県における県知事選や県民投票、衆院補選などで示された米軍基地反対の「民意」に対し、今度は本土側がどう応答するかが問われている。以下に陳情書の全文を掲載する。

 

 

件名

 

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設(新基地建設〉を直ちに中止し、「世界一危険」だと言われる同飛行場(普天間基地)の今後の運用のあり方について、沖縄県を除く県内外への移転が可能かどうか―国民的な議論を盛り上げることにより、民主主義と憲法に基づいて公正に解決することを求める。

 

陳情の趣旨

 

 沖縄県にはわずか0・6%の国土面積に米軍基地の約70%が集中している。この基地偏重の実態は逆にいえば、「国民全体の安全を担保する役割の大半が沖縄に押し付けられている」ということを意味する。各種世論調査では、米軍基地の存在規定である「日米安全保障条約」を支持する国民の割合は8割を超えている。「安全保障」は日本全体の問題であるという自明の立場に立てば、こうした負担の一方的な押しつけは「沖縄差別」の最たるものと言わざるを得ない。そして、この構造的な差別を底支えしているものこそが、本土側の「無知・無関心」である。今回の陳情は「憲法の根本義」―いわば、真の民主主義の実践への試みでもある。

 

陳情の理由並びに内容

 

当花巻市議会は3月定例会で、米国側に治外法権的な「特権」を認める日米地位協定の抜本的な見直しを求める陳情を賛成多数で採択した。一方、辺野古移設に伴う埋め立て工事の賛否を問う県民投票(2019年2月24日)で、反対の意思表示が7割以上に達したにもかかわらず、工事は現在も強行されている。新基地建設はこうした沖縄県民の民意に背を向けるだけではなく、全国市議会議長会や全国知事会の「見直し」要望・提言に見られるように、全国的に高まっている地位協定見直しの機運にも逆行するものである。

 

他方、政府は普天間基地の返還について、「辺野古移設が唯一の解決策」という態度を崩していない。しかし、埋め立て海域の大浦湾では、専門家の間で軟弱地盤や活断層の存在が指摘され、政府は工期や工法、工事費の詳細さえ明らかにしていない。こうしたことから、返還どころか逆に普天間基地の固定化につながるのではないかという懸念さえ出ている。

 

そもそも、普天間基地に駐留する海兵隊は1950年代、「反基地運動」が強い本土から移駐してきた経緯がある。したがって、沖縄駐留を正当化する軍事的・地政学的な理由はきわめて根拠が薄弱で、実は「本土側の理解が得られない」という“政治的理由”による駐留だったことを政府高官も認めている。

 

こうした沖縄の現実を「他人事」としてではなく、本土の側が当事者意識をもって議論し、具体的には以下の3点についての意見書を採択し、地方自治法第99条の規定により、政府並びに関係機関に提出していただきたく、ここに陳情する。

 

1)辺野古新基地建設工事を直ちに中止し、普天間基地を運用停止にすること

 

2)全国民が責任をもって、米軍基地が必要か否か、普天間基地の代替施設が日本国内に必要か否か―当事者意識をもった国民的議論を行うこと

 

3)国民的議論において、普天間基地の代替施設が国内に必要だという結論になるのなら、沖縄の歴史及び米軍基地の偏在にかんがみ、沖縄以外の全国のすべての自治体を等しく候補地とし、民主主義及び憲法の規定に基づき、一地域への一方的な押し付けとならないよう、公正で民主的な手続きにより解決すること

 

 

 最後に「受難者」に寄り添うことの大切を訴えた郷土の詩人、宮沢賢治のメッセ-ジを掲げたい。当市がまちづくりの基本にすえる、この賢治精神はそのまま、沖縄の地に直結していると思うからである。

 

●「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)

●「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」(詩『雨ニモマケズ』)

 

 

 

(写真は日々、陸地化が進む辺野古新基地の建設現場=インタ-ネット上に公開された写真より。沖縄県名護市辺野古で)

 

 

 

《追記》~沖縄、本土復帰47年

 

 沖縄が米国の統治下から日本に復帰して、5月15日で47年になった。辺野古新基地建設や普天間飛行場の移設問題などで揺れる現状について、同日付の朝日新聞は一面や社会面、社説などで特集記事を掲載した。「沖縄の基地負担/『本土も我が事に』、「辺野古移設の可否/『国民的議論を』」などの見出しで報じた記事の中に、本プログの陳情(同上)も紹介されている。以下にその部分を転載する。

 

 「本土側の動きも出始めている。岩手県花巻市の元市議増子義久さん(79)は安里さんたちの動きに合わせ、13日にほぼ同じ内容の陳情を市議会に提出した。市外在住者からの陳情は議会運営委員会でコピ-を配るだけだからだ。『安全保障はどこの住民にも関係する問題。本土の議会は議論を始め、沖縄に応答すべきじゃないか』(増子氏)。…衆院事務局などによると、2018年4月以降、堺市や岩手県など少なくとも10の地方議会で、辺野古での工事中止や沖縄との対話などを求める意見書が可決された。…新潟大准教授の左近幸村さん(39)は『沖縄の基地問題を考えることは、安全保障や民主主義、地方自治など、自分たちの社会を捉え直すことだと思っています』」(要旨)

 

 

 

 

 

 

 

 

翼賛と内国植民地…そして、”奴隷制”

  • 翼賛と内国植民地…そして、”奴隷制”

 

 「先の大戦の翼賛体制とはかくありき」―。平成から令和への「改元」フィ-バ-を首をすくめながら眺めているうちに、まるでシルエットのように遠い記憶の片々がよみがえってきた。「翼賛」報道一色に染まったこの国の姿に何かよからぬ予感を感じたせいかもしれない。ちなみに「翼賛」(よくさん)を広辞苑で調べてみると、「力をそえて(天子などを)たすけること」とある。「天子」とは即「天皇」のことである。リベラリストとしての現上皇をとやかく言うのではない。逆に「天皇の戦争」と言われたあのアジア・太平洋戦争で軍部と一緒になって、戦意高揚を煽(あお)ったメディアがいままた、二重写しになって目の前に現出したような思いにとらわれたのである。

 

 中国文学者の竹内好(故人)が「一木一草にも天皇制が宿る」と述べ、政治学者の藤田省三(同)がこう書いていることを最近、ものの本で知った。「象徴としての『天皇』は、温情に溢(あふ)れた最大最高の『家父』として人間生活の情緒の世界に内在して、日常的親密をもって君臨する」―。「令和」元年とはまさに、政府とメディアが一体となって演出した新たな「天皇制」の復活劇の一大政治イベントではなかったのか。目を凝らすといびつで歪(ゆが)んだ光景が去来する。

 

 上皇ご夫妻が沖縄への慰霊の旅に11回も足を運んだことをメディアは繰り返し伝えた。しかし、沖縄戦から断絶することがなく続いている「戦争の最前線」―たとえば、辺野古新基地建設の是非などと関連づけた報道は皆無に等しかった。抵抗の現場に身を置く芥川賞作家の目取真俊さん(58)はその怒りを自らのブログにぶつけた。「日米の軍事植民地と化した沖縄の状況、ヤマトゥ(本土)による構造的差別は何も変わらない。どこが新しい時代か」(5月1日付「海鳴りの島から」)。安倍「一強」政治による「天皇」の政治利用は国民の多くの奉祝気分に支えられ、いまや順風満帆の気配である。新元号発表(4月1日)の首相会見にのけぞった。わが宰相はこう言い放ったのだった。

 

 「本日から本格的にスタ-トする働き方改革は、何年もかけてやっと実現するレベルの改革だ。次代を担う若者たちが頑張っていける一億総活躍社会をつくり上げることができれば、日本の未来は明るいと確信している」(4月2日付「朝日新聞」)―。この会見には裏話がある。「首相の元号ではなく、次の時代の元号。政権の政策につなげて『安倍色』を出し過ぎれば、政治的なリスクになりますよ」(4月30日付同紙)。こうした首相官邸幹部の進言に対し、さすがに談話では言及を避けたが、会見の場ではふと口を滑らせてしまったというのが真相なのだろう。これでは政教分離などはどこ吹く風、「元号」つまり「天皇」、さらに言えば「憲法」の私物化という声が挙がっても不思議ではない。その自信のほどが憲法記念日(5月3日)でのビデオメッセ-ジではっきりと示された。

 

 2020年の憲法改正に意欲を示した安倍晋三首相はメッセ-ジの冒頭をこう切り出した。「国民こぞって歴史的な皇位継承を寿(ことほ)ぐ中、令和初の憲法記念日に…」―。何か胸騒ぎを覚えた。そういえば、天皇制を頂点としたヤマト(大和=本土)の中央集権国家は北海道(アイヌモシリ)と沖縄(琉球=ニライカナイ)の内国植民地化によって可能になったことを歴史は教えているのではないか。そのことに不意に思いが至ったのである。独自の文化を育んできた”辺境”を切り捨てる。たとえば、ヤマト言葉(日本語)の強制などの「皇国臣民化」政策が、これである。

 

 

 改元を前にした4月19日、アイヌ民族を法律上初めて「先住民族」として位置づけた「アイヌ民族支援法」が成立した。アイヌ政策推進会議座長の肩書を持つ菅義偉官房長官はこう胸を張った。「アイヌの方々が民族としての名誉と尊厳を保持し、これを次世代に継承していくことは、活力ある共生社会を実現するために重要だ」―。差別の禁止を明記し、アイヌ施策の推進を国と自治体の責務としたが、土地や資源などをめぐる肝心の「先住権」については棚上げにされた。国は「民族共生象徴空間」(国立アイヌ民族博物館)を来年のオリンピック年に合わせ、北海道白老町にオ-プンさせることにしている。

 

アイヌ民族を「先住民族」として認めることをかたくなに拒み続けてきた末の突然の政策転換である。世界の先住民族が参加する「五輪」精神を高揚するための「アイヌ利用」という魂胆(こんたん)が透けて見える。現に新法に反対する団体からは「これまでもそうだったが、アイヌを観光などの売り物にするという逆差別さえもたらしかねない」という声が出ている。「北海道旧土人保護法」(1898=明治32年)→「アイヌ文化振興法」(1997=平成9年)→「アイヌ民族支援法」…こうした流れを見ても、国がアイヌ民族の受難の歴史に謙虚に学んだという形跡はない。遠く「琉球処分」に端を発し、いまなお米軍基地の重圧に苦しむ現在の沖縄の姿がこれに重なる。

 

沖縄基地負担軽減」担当大臣の菅官房長官はいま「令和おじさん」として、人気が急上昇中らしい。アイヌの人々にアメをしゃぶらせ、返す刀で沖縄の人々にムチ、いや刀をふるう―その「特高(警察)」的な手腕がこの人の得意技である。安倍首相が「令和」をもてあそび、次期総裁候補にも取りざたされる菅官房長官の指揮の下、辺野古新基地の建設現場では連日、土砂投入が強行される。この光景はやはり、“悪夢”としか言いようがない。令和の時代はひょっとすると、新たな装いをこらした天皇制と内国植民地の再来を予言しているのかもしれない。そして、それを可能としているのは相も変わらず、北と南の“辺境”に対する本土側の驚くべきほどの「無知・無関心」である。

 

「単一民族神話」という名の“亡霊”が背後に見え隠れする………

 

 

 

(写真は「令和」の新元号を発表する菅官房長官=2019年4月1日、東京・首相官邸で)

 

 

 

《追記》~令和の時代に重い一文

 

 5月8日付「朝日新聞」にミュ-ジシャンの後藤正文さんが以下のような文章を寄せている。「令和」狂騒曲が吹き荒れる中、こうした視点で論じた言説は法哲学者の井上達夫さん以外には見当たらない。井上さんはこう語っている。「私は象徴天皇制を、日本に残った最後の『奴隷制』だと考えます。…天皇・皇族に対する人権侵害は被差別少数者の人権侵害と通底しています」(5月3日付「朝日新聞」)。―こうした冷静な議論がいま、必要なのではないか。

 

 

 平成が終わり、元号が令和に変わった。正月を迎えたように盛り上がる人たちもあったけれど、僕はその波に乗り切れないでいる。様々な差別を撤廃し、誰にでも機会の開かれた公正な社会を目指しながら、人類は歩みを進めていると僕は信じている。

 

 天皇制はそうした考え方と食い違う性質を持っている。生まれながらに特別な役割を持つ人の存在を認めることは、生まれながらに卑しい人の存在を認めることと同じだからだ。天皇制を守りながら、制度がはらむ差別的な性質を乗り越えてゆこうという意思を、多くの国民や社会からは感じない。

 

 例えば、天皇と皇族のプライバシ-は守られず、恋愛や進学などの私事についてまで報道されて、エンタ-テインメントのように消費されている。この国と国民の統合の象徴としての役割を担うだけでなく、基本的人権を制限される立場を生まれながらに引き受ける天皇とその家族の苦労を思うと、言葉を失う。

 

 出自による差別は不当だという認識が、今日の社会に広く行き渡ることを望むが、天皇制の前で僕は沈黙している。天皇の地位は「国民の総意に基く」のだと、憲法に記されている。令和の時代に読み返し、語り合うべき、重い一文だと思う。