「これはクマ猟師とクマの話なんですが、猟師は最後はクマに殺されてしまうんですね。それでも、クマの親子の対話の場面などを読んだりするとクマを憎いとは思えません。『クマを撃つのは可哀想だ』という声もわからなくもありません。でも市民の安全を守るためには、クマは危険な動物であるという前提で対策しなければならないのだと思います」(「公研」2025年2月号)―
花巻市の上田東一市長はある雑誌の対談で、宮沢賢治の代表作『なめとこ山の熊』を引き合いに出しながら、こう語っている。最近、市街地に出没するクマ対策として、AIカメラを設置するなどの取り組みをしていることについては特段の異論はない。私が驚いたのはこの賢治作品に対する途方もない“浅読み”についてである。いや、仮に牽強付会(けんきょうふかい)のつもりだったとしても、この貧相な読解は作者に対する冒涜(ぼうとく)とさえ言える。銀河宇宙の彼方で、賢治が苦虫をつぶしている表情が目に浮かぶ。
主人公の猟師、小十郎とクマとの間で作中、こんな深甚(しんじん)な会話が交わされる場面がある。
●熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射(う)たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰(たれ)も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ(小十郎)
●もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから(クマ)
「食うものは食われる」「殺すものは殺される」―。人間とクマとの交感を描いたこの作品は私の思考の原点として、いまも存在し続けている。前置きが長くなったが、この対談を読みながら、いまさらながら「住宅付き図書館」の駅前立地(2020年1月29日)という”不動産”感覚の持ち主が文学的な素養が要求される「知のインフラ」(図書館)に関与すること自体がそもそも、無理難題だったことにやっと、気がついた。図書館を「コストパフォーマンス」(費用対効果)…つまりは「儲かるかどうか」の物差しにした瞬間、新花巻図書館の命運は決まっていたと言えるかもしれない。
”賢治”まちづくり課を設置し、「イーハトーブはなまき」の実現を旗印に掲げる当の本人が実は相当な賢治“音痴”だったというブラックジョークでもあるが、その一方では―。「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」という「雨ニモマケズ」体験セットを売り出すなど「ふるさと納税」の錬金術師としての才覚は常人の及ぶところではない。「賢治」をある種の”利権”とみなすこの発想は私の想像力をはるかに超え、驚嘆の念さえ禁じ得ない。
「それにしても、なぜこれほどまでに図書館の駅前立地にこだわるのか」―。この謎を探るため、私は何度か関連文書の開示請求をしたが、そのほとんどは「黒塗り」(のり弁)だった。『「黒塗り公文書」の闇を暴く』(朝日親書)の著者、日向咲嗣さんは「その行為を直接進めていた執行者は、決して“私利私欲にまみれた悪い奴ら”ではなかった。むしろ生真面目すぎるとさえいえる人たちだ」と述べた上、政治哲学者、ハンナ・アーレントの「凡庸な悪」を引用して、次のように書いていた。
「ナチスドイツの高官で、第二次世界大戦中に数百万人のユダヤ人を強制収容所へ輸送する指揮をとったアドルフ・アイヒマンは、自らの職務に忠実なだけのごく平凡な役人の側面があったと、後年、指摘されるようになった。その意味からすれば『黒塗り公文書』というものは、役人による『凡庸な悪』の象徴といえるのかもしれない」―
しかし当市の場合、事態はさらに深刻の度を極めつつあった。「凡庸な悪」に輪をかけたような“愚民化”の嵐が吹き荒れ始めていた。「駅前か病院跡地か」―。図書館抜きの“立地”論争が高まる中、「上田」流の強権支配もその本性をむき出しにした。たとえば、病院跡地への立地を求める署名について、わざわざ地方自治法を持ち出して、その数値の蓋然(がいぜん)性に言い及んだ際には、さすがに背筋がざわッとするのを覚えた。
私はその属性を直截(ちょくせつ)に言い表すため、ある時期から上田市長を「Mr.PO」と呼ぶことにした。「パワハラ(Power-harassment)&ワンマン(One-man)」の頭文字を取った命名である。
(写真は『なめとこ山の熊』のイメージ図=インターネット上に公開の写真から)
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