「言葉より深く、言葉を超え、しかし言葉にすがりつかざるをえない鬩(せめ)ぎあいの地平で交わされる、鬼気迫る対話」―。こんなキャッチコピーに急かされるようにして、『言葉果つるところ』(藤原書店)というタイトルの本を取り寄せた。水俣病をその身に背負う人たちの、言葉にならない魂の叫びを言葉にうつしとり、『苦海浄土』を書いた石牟礼道子と片や、内発的発展論を唱えつつも水俣と遭遇し、“言葉ではどうにもならない”現実に直面し苦悩する国際的な社会学者、鶴見和子との息詰まるようなやり取りに身震いを覚えた。
「言葉は、討ち死にして、のたれ死にしていいんですよ」と石牟礼が語ると、「言葉果つるところに言葉がうまれる」と鶴見。“言霊”(ことだま)の世界を浮遊する二人の対話はたとえば、こんな風に進む。「いま情報化社会になっていて、言葉ですべてが解決することになっている。で、言葉が全部機械化されてる。機械で伝達できる言葉だけがいま残っているわけ」(鶴見)…「機械で言葉を生産していると思ってるけど錯覚で、言葉を全部、分断機にかけて切って捨ててると思うんです。言葉にならない情感とか悲しみとかも轢(ひ)きくだいてぐちゃぐちゃにして、切り刻まれて捨てられる運命にあると思うんです」(石牟礼)
「駅前か病院跡地か」―。10年以上に及んだ新花巻図書館の立地場所を決める「対話型市民会議」なるものが11月17日から始まるという告知が広報はなまき(11月1日号)に載っていた。「果たして、どんな対話が生まれるのか」。思わず、ため息が出た。図書館は「言葉の集積体」とも呼ばれる。だからこそ、そのための「図書館」論議には横溢(おういつ)するような言葉の乱舞や応酬があってよかったはずである。それがまったくなかった。「言葉」の放擲(ほうてき)とさえ思えた。底知れない徒労感の目の前には「言葉果つる」原野が渺々(びょうびょう)と広がっている。
“言葉の魔術師”と言われた宮沢賢治が案内役を務める「IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)は見果てぬ夢と消えた。「仏作って、魂入れず」ーを地で行く”立地”論争とそれに費やした不毛な数年間…。「イーハトーブ図書館戦争」へ従軍した私の活動もまもなく、終わりを告げる。それは同時に「イーハトーブ」(賢治命名の「夢の国」)の終焉(しゅうえん)も意味しているのかもしれない。石牟礼VS鶴見という大家の間に割って入った熟達の作家、赤坂真理はこう書いている。もう遠くに過ぎ去った陽炎(かげろう)みたいな記憶である。
「まったく違う道すじを通ってきた二人の女が、ともに言葉果つるところまで行き、そこから蘇(よみがえ)り、全く新しい人間となり、違う資質で同じことを見、語って、くに(国)や宗教について、かつて誰も到達しなかったような深みと高みに到達する。どんな宗教者にもなしえなかった凄(すご)いことを、丸い言葉で話して、女学生のように笑いさざめいている」(本書より)
(写真は言葉の本当のありようを語りつくす対話集)
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