「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その4)…ウソの上塗りと賢治“利権”!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その4)…ウソの上塗りと賢治“利権”!!??

 

 「日本中で、いや世界のどこを探しても、二つの玄関を持ち、一方は開かずの(?)玄関だなどという洋館の民家などというものは、他にはありません」(『賢治寓話「黒ぶだう」の素敵な洋館はここです―黒ぶだうメルヘン館ガイドブック』(米地文夫・木村清且編、2016年7月刊)―。旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説が一部でささやかれ始めた約10年後、今度は一般向けの豪華なガイドブックが出回った。ウソをウソで塗り固めると、そのウソはウソではなくなるということなのか。モデル説を裏付けるための執拗な傍証固めではないか―手に取った瞬間、そう思った。

 

 世界”唯一無二”の「菊池捍邸」の建築様式だけでなく、その傍証固めは実に微に入り、細を穿(うが)っている。たとえば、原文に登場する仔牛や赤狐と人間とのブドウの食べ方を比較したり、執筆時期を検証するために賢治が当時、使用した原稿用紙を点検したり…。さらには当時、教科書にのるなど一世を風靡した白樺派の作家、有島武郎の『一房の葡萄』(大正9年『赤い鳥』)を援用。賢治も芸術家集団「白樺派」に心酔していたという根拠だけで、『黒ぶだう』の主人公であるベチュラ公爵のモデルを有島に見立てたり、かと思えば姿かたちがそっくりだとして、菊池捍その人を公爵に仕立て上げたりと…。もう、「牽強付会」(けんきょうふかい)を地で行く勢いである。その背景には一体、何があったのか。

 

 さかのぼること20年以上前の平成15(2003)年夏、所有者の親族から菊池捍邸を手放したいという意向が示された。これを知った郷土史家や地元住民の間から「由緒ある建物。ぜひ市で買い取って」という保存運動(「菊池捍邸を守る会」)が自然発生的に起こった。当時、私もその運動にかかわり、署名運動に走り回ったことを昨日のことのように覚えている。結局、市側は財政難や他の文化財との兼ね合いなどから取得に難色を示し、「守る会」も4年足らずの運動に幕を下ろした。「まちおこしの起爆剤に」―。単なる保存運動から、賢治作品との関係性を強調した「モデル説」がまたたく間にもてはやされるようになった。

 

 冒頭に紹介したガイドブックに「賢治の『黒ぶだう』からおいしい味も生まれる」というタイトルで、次のような記述がある。「花巻を舞台に書かれたということがわかり、物語が地域の人々に知られるようになりました。そして新しい味も誕生しました。平成24年(2012年)12月、花巻に新しいブランド牛が生まれました。その名も『黒ぶだう牛』です。もちろん、種子まで噛んで食べた『黒ぶだう』の仔牛からとった名前と肥育法によるものです」

 

 この冊子の編集協力者には花巻商工会議所や宮沢家なども名前を連ねている。本家筋の生家を含めた町ぐるみの賢治”利権”…これに群がる人脈の構図が目に浮かんでくる。その極め付きがふるさと納税返礼品へのノミネートであろう。賢治に対するこれ以上の“冒涜” (ぼうとく)があろうか。ガイドブックはこんな文章で閉じられている。読んだ瞬間、体が凍りついてしまった。「自分の作品に因むブランド牛をつくり出したことを賢治が知ったら、きっと喜んでホッホーと飛び上がったことでしょう」―。大正7(1918)年5月19日付で、賢治は盛岡高等農林学校(現岩手大学)時代の友人、保阪嘉内にこんな手紙を送っている。

 

 「私は春から生物のからだを食ふのをやめました。食はれるさかなが、もし私のうしろに居て見てゐたら、何と思ふでせうか。魚鳥が心尽くしの犠牲のお膳の前の不平に、これを命(いのち)とも思はず、まづいのどうのと云ふ人たちを、食はれるものが見てゐたら何と云ふでせいか。私は前にさかなだったことがあって、食はれたにちがひありません。又屠殺場の紅く染まった床の上を豚がひきずられて、全身あかく血がつきました。これらを食べる人とても何とて、幸福でありませうや」(要旨=宮沢賢治全集9『書簡』、ちくま文庫)

 

 

 

 

(写真は旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説を広めるきっかけになったガイドブック)

 

 

 

2024.09.01:masuko:[ヒカリノミチ通信について]

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