「最期を知り、人生が輝く」―。こんなキャッチフレ-ズの英国映画「生きる―LIVING」(オリヴァ-・ハ-マナス監督、2022年)を観た。黒澤明監督の不朽の名作「生きる」(1952年)のリメイク版で、ノ-ベル賞作家カズオ・イシグロが脚本を担当した。名優ビル・ナイの静寂にして鬼気迫る演技に圧倒されながら、オリジナル版の主人公志村喬の迫真の演技(コメント欄に写真掲載)を改めて思い出した。「『生きる』とは『生き直す』ことだ」…こんなメッセ-ジを体全体で受け止めながら、私は「70年という時空を経て、いまなぜ」という思いにとらわれた。符節を合わせるようにして、もうひとつの「生きる」が上映された。
東日本大震災(3・11)で児童74人(うち、行方不明4人)と教師10人の命が奪われた大川小学校の遺家族が石巻市と宮城県を相手取った「国家賠償」訴訟を記録したドキュメンタリ-映画「生きる―大川小学校津波裁判を闘った人たち―」(寺田和弘監督、2022年、3月28日付当ブログ参照)である。学校側や市教委が避難訓練を怠るなどした「平時からの組織的過失」を認めた画期的な判決と言われた。しかし、未来を約束されていたはずの子どもたちの命は戻ってこない。上告を退けた最高裁はこう断じた。「学校が子どもの命の最後の場所になってはならない」―
こんな行政の怠慢に安住してきた市役所職員が「自分の生を生き直す」という物語が70年前の黒澤作品である。縦割り行政に付きものの“たらいまわし”…。志村が扮する市民課長の「渡辺寛治」はただハンコをつくだけの役所人生に何のやましさを感じることなく、いやむしろそれが役人の心得とばかりに勤続30年を迎えようとしていた。そんなある日、胃に異常を感じ、余命半年というガンの宣告を受ける。自棄めいた日々を送る渡辺はかつての部下である女性職員のはつらつとした生き方からパワ-をもらったような気持になる。かつて、公園を作ってほしいという市民の陳情を邪険に扱ったことがあった。渡辺は病魔と闘いながら、まるで人が変わったように建設に奔走する。
「これは、この物語の主人公の胃袋である。幽門部に胃ガンの兆候が見えるが、本人はまだそれを知らない。彼は時間をつぶしているだけだ。彼には生きた時間がない。つまり彼は生きているとはいえないからである。いったいこれでいいのか。この男が本気でそう考えだすためには、この男の胃がもっと悪くなり、それからもっと無駄な時間が積み上げられる必要がある」―。オリジナル版は冒頭に1枚のレントゲン写真を映し出し、こんな皮肉なナレ-ションで幕を開ける。「生き直そう」という渡辺の狂気のような振る舞いに度肝を抜かれながら、ふと余命幾ばくもないような足元の行政の腐敗ぶりにハッと心づいた。「生き直そう」という気迫のひとかけらも感じられないではないか(4月5日付当ブログ「ストップ・ザ~”東大話法”」参照)
「いのち短し/恋せよ少女(おとめ)/朱(あか)き唇/褪(あ)せぬ間に/熱き血潮(ちしお)の/冷えぬ間に/明日の月日の/ないものを…」(吉井勇作詞、中山晋平作曲)―。渡辺こと志村喬は最後のいのちをかけた公園のブランコに揺られながら、「ゴンドラの唄」を口ずさむ。降り積む雪の中で志村の体は動かなくなる。同じラストシ-ンでビル・ナイが歌うのはスコットランド民謡の「ナナカマドの木」…こんな歌詞である。「ああ!ナナカマド、ナナカマド/私の親愛なる樹よ/幼い頃からお前の姿は/私の心に焼きついている/お前の葉は春、最初に開き/夏は誇り高く花を咲かせる/ふるさとにあるそんな愛しい樹/ああ!ナナカマド!」
「生きる」3部作を観ながら、つくづくと実感した。「生と死とはいつの時代でもどこでも絶えることのない自らへの問いかけなのだ」と…。「イ-ハト-ブはなまき」はこれから先、一体どこに向かおうとしているのだろうか。
(写真は「ナナカマドの木」を口ずさみながら、死を迎えるビル・ナイ=インタ-ネット上に公開の写真から)
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