東日本大震災から12年(13回忌)のこの日、私は83歳の誕生日を迎えた。「3・11」というこの日付の符合が単なる偶然ではなく、「忘れるな」という“必然”の理(ことわり)のような気がする。私たち有志は震災直後に支援組織「ぼくらの復興支援―ゆいっこ花巻」を立ち上げた。その設立趣旨書はこう結ばれている。「何をやるべきか、何をやらなければならないか。走りながら考え、みんなで知恵を出し合おうではありませんか。試されているのは私たち自身の側なのです」
午後2時46分―。花巻市内の妙円寺では12年前のこの時刻に合わせ、被災者や支援者が鐘を突きながら、手を合わせた。福島第一原発に近接する南相馬市小高地区から移住した泉田ユキイさん(79)の姿もあった。「愛犬のコロを残したまま、避難してきたことが悔やまれて…。で、避難が一時解除された約1か月後に連れ帰った。放射能まみれの体に熱湯をかけて洗い流したけど、1年後に死んでしまった」―。12年前の会話が昨日のことのようによみがえった。「白骨化した牛の死骸、骨と皮になってヨロヨロとさ迷う牛の群れ、餓死した犬や猫…。置き去りにされた犬同士が産み落とした子犬は人間という存在さえ知らないらしいの。原発事故は許せないけど、人間の業(ごう)みたいなものも感じてしまって…」
「震災その後」はある意味で、記憶の風化との抗(あらが)いの時空である。「『あの日』に何があったかも大切かもしれないけれど、『その後』どうしていくかが文学的には大切だろうと思っていた。大事なのは戦争文学ではなく戦後文学、震災文学ではなく震災後文学であろうと」(3月10日付「朝日新聞」木村朗子・津田塾大教授)―。12年の節目を前にして、今年の芥川賞受賞作『荒地の家族』(佐藤厚志著)とベルリン国際映画祭に参加して注目されたアニメ映画『すずめの戸締り』(新海誠監督)と向き合った。「『その後』に終わりはない。それは永遠に続く」というメッセ-ジに深く納得した。
私の身辺の「その後」にも当然ながら、色んなことがあった。妻と死別し、多くの友人・知人に別れを告げた。そして、母親と妻、一人娘を津波に奪われ、行方不明のままだった大槌町の知人、白銀照男さん(享年73歳)が3人の”帰還”を待ちくたびれたかのようにして、昨年12月21日に旅立った。さらに、この日の震災追悼式の祭主を務めるはずだった同寺の住職、林正文さん(享年87歳)も先月15日、鬼籍の人となった。生々流転(せいせいるてん)…。月並みながら、こんな言葉が去来する。「3・11」が巡りくるたびに私はそっと、「死その後」ものぞいてみたくなる。そして、思う。「そこにはきっと、再生の光も見えるはずだ」―と
(写真は梵鐘を突く泉田さん=3月11日午後、花巻市愛宕町の妙円寺境内で)
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