「筑豊よ、日本を根底から変革するエネルギ-のルツボであれ、火床であれ」―。かつて、日本一の石炭産出地だった“筑豊”(福岡県)の片隅から発せられた、この虚空を切り裂くような叫びがこのところまるで、木霊(こだま)のように頭の中を行ったり、来たりしている。私自身の図書館の原像がこのメッセ-ジの中に凝縮されているからなのかもしれない。
駆け出し記者時代の20代後半、私は「筑豊文庫」の看板を掲げた炭鉱住宅(炭住)に恐るおそる足を運んだ。当時、閉山炭住の一角にこの私設図書館を開設していたのは「偉大なるエゴイスト」とも呼ばれた記録作家の上野英信さん(1923~87年)だった。広島で被爆後、最底辺の労働者の声を聞きとろうと“圧政ヤマ”と恐れられていた零細炭坑に潜り込んだ。『追われゆく坑夫たち』、『地の底の笑い話』…。その金字塔のような記録文学の数々は私の記者生活の原点ともなった。自宅兼用の居間には十数人が囲むことができる大きなテ-ブルが置かれ、日夜、口角泡を飛ばす激論が繰り広げられていた。「まるで、梁山泊(りょうざんぱく)みたいだな…」と私は部屋の片隅に身をひそめて、この光景を眺めていた。
「イ-ハト-ブ・ルネサンス」―。老残の私が今になって、こんな大げさなスロ-ガンを引っ提げて、「賢治ライブラリ-」(イ-ハト-ブ図書館)の実現を叫ぶようになったきっけは、冒頭の上野さんの絶筆にしたためられていた“火床”(ひどこ)がまだ、くすぶっているせいかもしれない。上野さんは戦時中、「満洲建国大学」に籍を置いたことがある。「日(日本)、韓(朝鮮)、満(満洲)、蒙(モンゴル)、漢(中国)」―この”五族協和”を謳った傀儡国家に設立された大学である。ある時、上野さんがさりげなく、つぶやいた。「君は岩手花巻の出身だったね。郷土の偉人、宮沢賢治の精神歌が建国大学の愛唱歌のひとつだったことは知ってるかね」(2月14日付当ブログ参照)
虚を突かれた思いがした。美しい“賢治像”が一気に崩れ落ちるような気持になった。大分後になって、賢治研究家の故板谷栄城さんの著『賢治小景』の中にある伝聞を引用した一節を見つけた。「『精神歌』については忘れられない思い出がある。昭和12(1937)年に民族共和運動のため満洲(中国東北部)に渡った後、宮沢賢治研究会を作った。リ-ダ-は森荘已池さん(故人。賢治と親交があった直木賞作家で岩手出身)。日本語のわかるロシア人、満洲人、建国大学の学生らが集まって勉強した。(中略)会合の後、必ず全員で『精神歌』を歌った」―
“玄米四合”改ざん事件―。賢治の代表的な詩「雨ニモマケズ」の中に「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」というくだりがある。戦後の学制改革に伴い、この詩篇を新しい中学用の教科書に採用する際、「四合」が「三合」に一時期、改ざんされるという出来事があった。敗戦による耐乏生活を強いるためのスロ-ガンに利用されたのである。さらに、『烏(からす)の北斗七星』に通底するある種の“自己犠牲”の精神性が特攻学生の遺書に書き残されているように、「賢治」という存在は時代に利用されやすいという“両刃の剣”の側面を持ち合わせていることも忘れてはなるまいと思う。
「宮沢賢治・イ-ハト-ブ賞」(2017年)を受賞した歴史家の故色川大吉さんは「歴史家の見た宮沢賢治」と題した講演録の中で、こう述べている。「(賢治の作品は)花巻、岩手、イ-ハト-ヴォ、そしていきなり銀河系宇宙に飛んじゃうんですから…」―。賢治が自分の生きた「時代」とか、その時代が背負う「歴史」とかに向き合う際の手ごたえのなさ…。この感覚は私にも通じる。賢治生誕100年の時、私は自身の「賢治」観をこんな文章にまとめている。「賢治は銀河宇宙という広大無辺の世界を自分自身の『退路』として、準備したのではなかったのか」―
私の「夢の図書館」は当然のことながら、賢治のこうした「負」の部分も含めた、一切合財のまるごと「賢治ライブラリ-」である。
(写真はありし日の上野さん(真ん中)。後ろの女性が妻の故晴子さん=福岡県鞍手町の「筑豊文庫」前で、インタ-ネット上に公開の写真から)
この記事へのコメントはこちら