「…それにおれはおれの創造力に充分な自信があった。けだし音楽を図形に直すことは自由であるし、おれはそこへ花でBeethovenのFantasyを描くこともできる。さう考へた」(宮沢賢治『花壇工作』)―。旧花巻総合病院の中庭にかつて「Fantasia of Beethoven」という標識を掲げた花壇があった。この病院の創立者で賢治の主治医だった故佐藤隆房さん(1890~1981年)が大正13年春、賢治に設計を依頼して作った花壇の復元で、命名の由来が冒頭の作品である。賢治の詩「病院の花壇」には当時の光景を彷彿(ほうふつ)させる描写がある。
「…今朝は截(た)って/春の水を湛(たた)えたコップにさし/各科と事務所へ三っづつ/院長室へ一本配り/こゝへは白いキャンデタフトを播(ま)きつけやう/つめくさの芽もいちめんそろってのびだしたし/廊下の向ふで七面鳥は/もいちどゴブルゴブルといふ/女学校ではピアノの音/にはかにかっと陽がさしてくる/鋏(はさみ)とコップをとりに行かう」
総合花巻病院の前身は大正6(1917)年、ロシア革命が勃発したその年に佐藤さんが開業した「佐藤外科医院」にさかのぼる。その後、花巻共立病院を経てざっと1世紀の長きにわたって、花巻の地に近代医療の礎(いしずえ)を築いてきた。それだけではない。佐藤さんは主治医の立場で賢治と間近に接した研究者としても知られ、名著『宮沢賢治―素顔のわが友』を著わしたほか、親交のあった詩人で彫刻家の高村光太郎を顕彰する「高村記念会」を創設するなど医療だけではなく、文化の啓蒙にも計り知れない貢献をした。
この由緒ある病院は2年前に旧県立花巻厚生病院跡地へ移転・新築された。その跡地の整地作業がいま急ピッチで進められ、歴史の“素顔”(花巻城址)が次々に目の前に現れつつある。詩「病院の花壇」に出てくる「女学校ではピアノの音…」とは妹トシが通い、後に教鞭も取った花巻高等女学校(後の花巻南高校、現「まなび学園」)を指している。ポッカリ開けた空き地に立つと、ピアノの音律が耳元に聞こえるような錯覚さえ覚える。そのトシも今年没後100年を迎えた。『花壇工作』の中に賢治と佐藤さんの意見が衝突する場面が出てくる。賢治いわく。
「おれはびっくりしてその顔を見た。それからまわりの窓を見た。そこの窓にはたくさんの顔がみな一様な表情を浮べてゐた。愚かな愚かな表情を、院長さんとその園芸家とどっちが頭がうごくだらうといった風の――えい糞考へても胸が悪くなる。だめだだめだ。これではどこにも音楽がない。おれの考へてゐるのは対称はとりながらごく不規則なモザイクにしてその境を一尺のみちに煉瓦(れんが)をジグザグに埋めてそこへまっ白な石灰をつめこむ。日がまはるたびに煉瓦のジグザグな影も青く移る。あとは石炭からと鋸屑(おがくず)で花がなくてもひとつの模様をこさえこむ。それなのだ」
この時の一件について、佐藤さんは『素顔のわが友』の中にこう記している。「お互いにチクチクやり合って喜んだり、悲しんだりする間柄です。この後で間もなく賢治さんは私のために実にすばらしい花壇設計図を書いて来ました。そして二人は仲よく、香り高い春の土の上に立ちました」…。「愛は人を癒(いや)し、誠は病を治す」―。この病院が掲げる基本理念には“賢治精神”が見事に体現されているように思える。
「Fantasia of Beethoven」は現在、移転先の新病院の病棟にそのミニチュア版が展示されている。「イ-ハト-ブ図書館」が完成した暁(あかつき)には原寸大の花壇を新図書館の入り口にぜひ、復元してほしいと願う。
(写真は賢治が設計した花壇(復元)。この由来を知る人は年々、少なくなってきた=花巻市花城町の解体前の旧総合花巻病院で)
《追記》~日本三大偉人としての賢治
作家の夢枕獏さんがアントニオ猪木の死を悼む寄稿文の中で、「ぼくは、かねてから、日本が世界に誇る三大偉人というのを考えていて、まずは空海、そして宮沢賢治、三人目がA・猪木であると発言してきた」と書いていた(10月10日付「朝日新聞」)。タイトルは「ファンタジ-に捧げた肉体」―。「この三人、日本のいつの時代、どの地域に生まれても、それぞれ空海となり、宮沢賢治となり、A・猪木となった人であろうということだ」と夢枕さん。私自身、いつどこにでも「やぁ、こんちわ」と背中をポンと叩いて現れる、そんな変幻自在な人が賢治だとかねがね思っていたので、この偉人説に得心した。
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