「昭和20年12月16日、栄養失調症により、ソ連ウスリ-州ウオロシロフ地区リポ-ウツイ収容所で戦病死」―。黄色に変色したその紙片にはこう書かれている。この「戦死公報」(岩手県発行)の日付は昭和24年3月2日。太平洋戦争が敗色濃厚になっていた前年の昭和19年夏、旧満州(中国東北部)へ。約1年後の敗戦でソ連軍の捕虜となり、シベリアの収容所に抑留された。だから、父親は敗戦のわずか4カ月後に死亡したことになる。死亡時の年齢は37歳。入営時、4歳になったばかりの私に生前の記憶はほとんどない。遺骨代わりの木片が骨箱の中でカロンコロンと乾いた音を立てていた記憶だけは今も消えない。
中学校に入学した直後、父親と同じ収容所から無事生還した戦友が留守宅を訪ねてきたことがあった。「一緒に日本に戻ろうと励ましたが、もう体力の限界でした。3人のお子さんのことを最後まで心配していました」。その人は母親にそう伝言するため、わざわざ岐阜県から足を運んでくれたのだった。私の手元に「父を訪ねて」というタイトルのビデオテ-プがある。今から30年以上も前、父親の面影を求めて、元収容所跡を訪ねた時の模様が記録されている。1991年春、当時のゴルバチョフ・ソ連大統領が戦後初めて、日本人捕虜の墓地を参拝することになった。その一連の取材をこなした後、私はシベリア鉄道を乗り継いで「ソ満国境」へ向かった。
目指した場所はウスリ-河のほとりにあった。荒涼とした草原が捕虜たちの“墓所”だった。シベリア抑留者は総数で約64万人といわれ、うち約6万人が死亡している。「捕虜たちの仕事はほとんどが石炭堀りだった。みんなガリガリにやせこけてね。タバコを差し入れしたこともあった。多くの人が死んだらしいけれど、みんなそのまま土に埋められたと聞いている」―。当時、「朝鮮人離散家族会」の会長をしていた、ハバロフスク在住の朝鮮系ロシア人の李柱鶴(リ・ジュハク)さんが通訳として同行し、村人たちの話しを聞き出してくれた。私は母親から託された、父親が好きだったという朝顔のタネをパラパラと蒔(ま)いて手を合わせた。
6年前、厚生労働省を通じて一通の死亡証書がソ連側から送られてきた。「本日(昭和20年12月30日)、第14収容所第4865病院にて、軍事捕虜マスコ・コンチが死亡」と書かれていた。亡き父「増子浩一(ますこ こういち)」の71年目の死亡通知だった。戦死公報の死亡日(12月16日)とのずれに気が付いた。同封されていたカルテでその謎が解けた。「空白の14日間」―父の死がやっと、実感できたように思った。両親が眠る郷里・花巻の墓地にはあの時に持ち帰った草原の土くれと、遠い異国の地での苦役の証しである石炭のカケラが一緒に埋められている。
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《12月16日》(入院)~全般的なだるさ、食欲不振、脚の痛み、咳、衰弱を訴える。全体的な容体は悪くない。ビタミンBとC、貧血防止用のヘマトゲン(血液製剤)を投与。診断名「第Ⅰ度栄養失調症、気管支炎」
《17日》~体温36・7~36・9。胸の痛み、咳、鼻炎、全体的なだるさを訴える。客観的に正常な体格。低栄養。肺にゼイゼイという乾性ラ音がまれに聞こえる(注;乾性ラ音=正常呼吸音以外の複雑音。気管支が狭くなっている時に起きる)。腹部は柔らかく痛まない。打診音は清音。舌はきれいで湿っている。粘液は正常で全体的な容体は悪くない
《18日》~体温36・4。全体的な容体は悪くない。浅い睡眠を訴える。ヘマトゲンを投与
《19日》~体温37・0。食欲良好。便通、利尿は正常。ビタミンCを投与
《20日》~体温36・5~36・6。患者の容体は変化なし
《21日》~体温36・1~36・6。軽い頭痛を訴える。便通は正常。食欲あり
《22日》~体温36・2~36・5
《23日》~体温36・7~36・8。容体は変化なし
《24日》~体温36・3~37・3。具合は悪くない。咳を訴える。肺及び心臓は正常。食欲良好。便通は正常
《25日》~体温37・4~39・0。全体的な容体は悪くない。頭痛を訴える。アスピリンを投与
《26日》~体温37・1~37・6。心臓、肺は特徴なし。便通は正常
《27日》~体温36・9~38・3。容体は悪くない。内臓は異常なし。睡眠、便通とも正常
《28日》~体温38・5~39・5。頭痛を訴える。脈拍は律動的である。心臓、肺は特徴なし。血液検査を行うこと
《29日》~体温39・7~39・9
《30日》(死亡)~午前7時、心臓活動が衰退し、患者は死亡した。診断名「第Ⅲ度栄養失調症」
(写真は若かりし時の父親。遺影となって、私のそばにいる)
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