「為政者が国民を『愚民』と呼ばれる政治的無知状態に陥れ、その批判力を奪おうとする政策、つまり、民主主義の根幹である国民の政治参加を阻害する権威主義に基づき、人々の知性を意図的に非民主的な方向へ偏向させる政策である」―。ウィキペディアはいわゆる「愚民(ぐみん)政策」について、こう説明している。私が「市長へのメ-ル」(10月26日付当ブログ参照)で指摘した市職員の「処分人事」疑惑をめぐって、当市花巻の上田東一市長こそが「愚民化」の権化ではないかという思いを強くしている。「まさか」とは思いたいが、この問題の推移を見るにつけ、そうとしか思えない気持ちになってくる。恐ろしいことである。
懲戒免職処分を受けた市職員の実名が1年8か月以上にわたって、市のHPに掲載されている件に関し「市長へのメ-ル」の中で、私が「人権擁護」の観点からそのすみやかな削除と掲載基準を明らかにするように求めたのは2週間以上も前の10月26日。回答がないのに業(ごう)を煮やし、この日(11月9日)、改めてその遅延の理由を担当部課に問いただしたが、就業時間内での返答はなかった。「愚民」というおぞましい言葉がふつふつと湧き上がってきたのは、その対応の冷たさに背筋が凍ったからである。
今回の市職員の処分人事については、3回(10月26日、同29日、同31日付)にわたってその疑惑を指摘し、メ-ル(11月15日現在、未回答)とは別に「処分事案のHPへの掲載基準」や「処分理由の詳細な内容」などを求める文書開示請求も行った。掲載基準の回答期限は今月中旬とされているが、処分理由については「HPに掲載した以上の回答はない」(担当窓口)とニベもない。「火のない所に煙は立たぬ」、「頭隠して尻隠さず」…。我が「イ-ハト-ブ」(夢の国)がとんでもない奈落(ならく)に向かって転げ落ちていくような、そんな“悪夢”の日々を過ごしている。被処分者の実名がまるで、”さらし首”のようにHP上に掲載されたのは令和2年1月14日。1年10か月以上が経過した今日(11月15日)現在、いまだに削除されていない。
そういえば、郷土ゆかりの新渡戸稲造はその著『武士道』の中に次のように記している。「ただ、主君の言いなりに無節操に媚びへつらい、主君のご機嫌をとりに終始する口先だけの家臣は『佞臣(ねいしん)』と評されます。また、どんな無理難題でも主君の言いなりで、奴隷のように主君に追従するだけの家臣は『寵臣(ろうしん)』と評されます。これらは、主君に命を託す武士道の忠節とは、全く違う次元のもので、軽蔑すべきもので武士道とは無縁です。…こう考えると、武士道の忠節とは、ただやみ雲に主君に絶対服従だけではないこともご理解頂けるかと思います。武士道の忠節とは、命を投げ出しても惜しくない主君を持ってこそ輝きを放つもの、私はこう考えます」(現代語訳)
(写真は胸に手を当てる上田市長。9月定例会の開会中、こんな仕草が目立った。「その胸中はいかに?」=花巻市議会議場で。議会のインターネット中継画面から)
《追記ー1》~ひとり言
HP上の実名掲載の削除を要求した「市長へのメ-ル」を送信した10月26日時点でなぜすぐに削除されないまま、いまに至っているのか。「人権感覚」などという前に私にはその”神経“がさっぱり、分からない。初動の判断ミスが後々の破滅を予言することは歴史が証明している。そう、あの太平洋戦争の発端がそうであり、ほとんど思考停止状態の中で無謀にも敢行された「インパ-ル作戦」が自滅の道を突き進んだように…。たった一人の「人権」さえも守ろうとしないこの人物のナゾはいまや、できの悪い推理小説の域にまで達しつつあるようだ。いわんや、「市民の安心・安全」においてをや―である。(瀬戸内)寂聴さんが旅立った。寂しい…
《追記―2》~”組織防衛”という名の機能不全!?
「現在、いただいた『市長へのメ-ル』について、その回答を検討しています。もう少し、お時間をお貸しください」―。今回の「処分人事」疑惑をめぐって、担当の人事課担当者から2回にわたって、電話があった。弁解がましい言葉の裏が透けて見える気がした。「はは-ん、この連中は日々、一個人の人権が侵害されているという事の本質(重大性)を何も分かっていないな。次期市長選をめぐって、現職対新人の実質的な選挙戦が進行するさ中、”主君”(現職)にキズがつかないようにするためにはどう対応すればよいのか。そんな”自己保身“に汲々としているというわけだ」―。見事なまでの佞臣と寵臣ぶりに妙に得心した。了解!首を長くして(我が”首長”からの)回答を待つことにしよう。どんな中身なのか、いまから楽しみである。
《追記―3》~この恥知らず奴(め)が!!??
地方自治体の市長など「常勤特別職」には特定の勤務時間はなく、「公務」以外の行動には原則制約がない。というわけで、我が首長は平日でも“政務”と称して、決裁書類の滞りなどどこ吹く風とばかり、次期市長選に向けたあいさつ回りにいそしんでいるらしい。で、休日ともなればその姿はまさに神出鬼没の勢い。某日には例の「処分人事」の実名掲載の元職員が住む地区に出没、「ご要望をお聞かせください」などと1時間近くにわたって話し込む姿が目撃されている。万が一、私がその場に遭遇したなら、こう詰問したにちがいない。「あんたに要望なんてないよ。いや、あるある。HP上に実名をさらすのはもう、いい加減にしたらどうなのか」。この無神経たるや尋常ではないどころか、もはや“狂気”の沙汰としか言いようがない。
《追記―4》~”凡庸なる悪“という不気味さ
ドイツ出身の哲学者で思想家のハンナ・ア-レント(1906―1975年)はナチズムによるユダヤ人大虐殺について、「悪の凡庸」という表現でこう記している。「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を私は”悪の凡庸さ”と名付けました」(『エルサレムのアイヒマン』)―。未曾有の殺人を行った首謀者のアイヒマンは「上から言われたことをしただけ」と裁判で話した。考えることを放棄することで、誰もが”アイヒマン“になりうる可能性をこの名言は教えてくれる。宮沢賢治が「イ-ハト-ブ」(夢の国)と呼んだ我がふるさとが“凡庸なる悪”に染まっていく悪夢をみた。
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