縁は人を結び、人は縁を結ぶ…“以心伝心”の魔訶不思議

  • 縁は人を結び、人は縁を結ぶ…“以心伝心”の魔訶不思議

 

 「そろそろ、あの世からお迎えがくるっていうことなのかなぁ」―。最近、途切れかかっていた縁がふいに戻るたびに、こんな縁起でもない気持ちにさせられることが多い。で、今回の縁(えにし)の不思議の顛末(てんまつ)は今月1日のあるご婦人の来訪がきっかけ。20年ほど前に一度、お目にかかったはずだったが、その記憶はほどんどない。差し出された名刺を拝見して、まるでフラッシュバックみたいに往時がよみがえった。「えみし学会 運営委員」とあった。私はこの日、たまたま当ブログに「日本三大“土人考”」(6月1日付参照)なる原稿を掲載したばかり。偶然にしては余りにも出来すぎている“符合”にまず、びっくり。そして―

 

 「実はね、私もすっかり失念していたんだけど、新聞折り込みであなたの名前を思い出したの」―。花巻在住の佐久間祥子さん(75)はこう言って、微笑んだ。たしかに、4月24日付朝日新聞に「新花巻図書館―まるごと市民会議」発行の広報誌「ビブリアはなまき」創刊号が折り込まれ、私も拙文を寄せている。「そうでしたか」と互いに顔を見合わせることしばし。「これ、つたない句集ですが、生きた証しのつもりで…」と佐久間さんは一冊の冊子を差し出した。山野草の採色スケッチを添えた素敵な俳句画文集で、『おてまぎ』というタイトルが付けられていた。「子どものとき、舌が回らなくて『お手紙』と言えなくって、『おてまぎ』と。それで…」

 

 「星々が/地の霊/呼ばう/鹿(シシ)太鼓」―。還暦の時に重篤ながんに侵され、九死に一生を得た佐久間さんは以来、それまで縁もなかった俳句を友にするようになった。収められたのは330句。私自身の脳裏にも刻み込まれた、懐かしいふるさとの光景が目の前に立ち上がってくるような、そんな句が並んでいた。ある注釈文に目が引き寄せられた。「えみし学会ゼミナ-ル開催のため、811年文屋綿麻呂の朝廷軍対伊加古率いるえみし戦の最後地・爾薩体(にさて)を訪ねた」―

 

 「爾薩体」―。目が点になった。まだ現役の新聞記者だった20年以上も前、私自身がこの奇妙な地名のナゾを追って取材したことがあったからである。きっかけは宮沢賢治が“郷土喜劇”と名づけた『植物医師』。作中では主人公の植物医師として、「爾薩待(にさつたい)正」という名前で登場している。賢治の教え子だった遠縁の男性が当時、この主人公役を演じたというのも考えて見れば、奇縁である。「この地名はどうも、えみしっぽいな」という独り言みたいなつぶやきが取材行を促した。「植物医師」を名乗るインチキ医師が農民をだますという筋書きだが、アメリカの小さな町を舞台にした“初演形”の方に私の興味はあった。こんなラストシ-ンである。

 

 ………右にピストルを、左手を無造作にポケットに突っ込んだ覆面の巨漢、登場。重い声で「ハンド アップ」。右手のピストルを爾薩待の正面にむけて近寄る。爾薩待、無言で静かに両手を掲げ、ジリジリ片隅に寄る。巨漢おもむろに左手で、爾薩待のポケットから紙幣を取り出し後退(あとずさ)りにドアに近づき、ヒラリと身をかわして逃走する。爾薩待、しおれてイスに深く坐る(『宮澤賢治全集8』ちくま文庫)

 

 地名の「爾薩体」は現在は二戸市「仁左平」と書き改められている。当時、取材の水先案内をしてくれたのは市議の経験もある郷土史家の関正夫さん(故人、当時75歳)。「38年戦争」とも呼ばれたヤマト軍による“蝦夷征伐”の最後の激戦地が弘化2(811)年、爾薩体一帯で繰り広がられた「伊加古の乱」だった。「アイヌ壇の史跡」と彫られた石碑が目に飛び込んできた。「犠牲になった伊加古ら蝦夷(えみし)の墓所だったのではないか」―。関さんがふと、もらしたひと言が今も頭から消えない。

 

 「案内役の関さんは実は私の遠縁に当たる人なの。だから、えみしに魅かれるのかしら」と佐久間さんが突然、口にした。「えっ」と絶句しながら、私は前掲ブログに引用した詩人の故若松丈太郎さんの遺作『夷俘(いふ)の叛逆』の冒頭詩を思い出した。書名と同じタイトルの詩の一節にこうある。「ヤマト王権は東方や北方の先住民たちを/夷狄(いてき)・蝦夷(えみし)・蝦賊(かぞく)と名づけて従属させようとし/順化の程度によって夷俘(いふ)・俘囚(ふしゅう)などと差別した。当然のこととしてレジスタンス活動が続発した」―

 

 対ヤマト戦争の最後の激戦地―「爾薩体」を舞台にしたレジスタンスは811年、約2万人の征討軍の前に伊加古率いるえみし軍は60人余りの犠牲者を出して敗北した、「30年戦争」はこうして幕を下ろした。ところで、言語学者の金田一京助によると、爾薩体」はアイヌ語による読解が可能だとして、「木の枯れた森」とか「窪森」などという地名解を当てている(『北奥地名考』)。それにしても、賢治はなぜ、えみしを連想させる人物を劇中の主人公に起用したのであろうか。“初演形”がアメリカインディアン(先住民)の同化政策を連想させるように、賢治もまた結局はヤマト側に与(くみ)する思想の持主ではなかったのか……“聖者伝説”がまかり通るイ-ハト-ブの地ではこの手の言説はまさにご法度(タブ-)だと思い込んでいたのだったが…

 

 「私ね、賢治は縄文の系列ではなく、ヤマトの側だと思うのね。伊加古の乱にしたって、結局は爾薩体を舞台にすることで、“まつろわぬ民”への挽歌を残したかったのでは…。なんたって、銀河宇宙の人ですもの」―。“えみし”談議に花を咲かせているうちに、佐久間さんがケロッとした口調でこう言った。一瞬、こんな“危険“思想の持主がそばにいたことに虚をつかれたが、“異論”にもの申すその勇気に力をもらったような気持にもなった。

 

 まこと、「縁は異なもの味なもの」―ではある。

 

 

 

 

(写真は生き生きとした句と山野草のスケッチがマッチした俳句画文集『おてまぎ』)

 

 

 

《追記》~現代のジェノサイド、カナダで先住民の遺骨、発見。日本でもアイヌやウチナンチュ(琉球人)の遺骨問題が未解決!?

 

 カナダの先住民寄宿学校の跡地から215人の子どもの遺骨が発見され、カナダ全土に波紋が広がっている。政府は過去に子どもを家族から引き離して寄宿学校で生活させるなどの同化政策を実施し、謝罪もしているが、当事者団体は全ての学校跡地で調査をすべきだと訴えている。遺骨が発見されたのは、カナダ西部バンク-バ-から250キロ北東にあるカムル-プス。地元の先住民団体によると、遺骨は5月下旬に最新式のレ-ダ-を使い、地中を調べて見つかった。「3歳ほどの子の遺骨もあり、記録されていない死者だ」という。

 

 カナダは1867年に建国されたが、現在は「ファースト・ネ-ション」などと呼ばれる先住民に対する同化政策は英領の頃からあった。カナダ政府によると寄宿学校は全国に139校設けられ、15万人以上の児童・生徒が親元から強制的に引き離されて生活していた。今回遺骨が見つかったのは最大の寄宿学校で、カトリック教会が運営。1950年代には最大500人が学んでいたという。

 

 カナダ最後の寄宿学校は96に閉鎖され、2008年には当時のハ-パ-首相が同化政策について謝罪。15年に出された報告書は、寄宿学校における身体的虐待やネグレクトの実態を明かし、「文化的ジェノサイド」と結論づける一方、「死者数は完全にはわかりそうにない」としていた(6月5日付「朝日新聞」電子版)

 

 

2021.06.05:masuko:[ヒカリノミチ通信について]

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