「わが花巻において、安永から明治に至る間に文学・武技および書・画・和歌・俳諧の部門に於て名をなしたる者を合わせて祭る石碑である。…生年月日、卒年月日、年令の長短、血筋の詳細、職位等はすべて辞去した。そういうものが碑文にあっても何の役に立つものではない」(現代語訳)―。『易経』の一節「鶴鳴きて陰に在り。その子、之に和す」を引用して、「鶴陰(かくいん)碑」と名付けられたこの石碑には諸学、諸芸の人士194人の名前が刻まれ、市指定有形文化財に指定されている。
盛岡藩の花巻郡代が置かれていた「花巻城」は明治維新によって払い下げられ、三の丸一帯は戦前まで「東公園」として開放されていた。園内には音楽堂も開設され、見事な桜並木が長いトンネルを作っていた。この地に鶴陰碑が建立されたのは明治17年。碑前で慰霊祭が営まれた時の模様について、地元紙はこう伝えている。
「神前では剣道や槍、柔道の表と裏の技の形などを作法正しく披露し終わり、続いて風流家の歌、俳諧の催しがあり、午後三時頃から夜十時過ぎまで昼夜の催し物を尽くし、打上花火を上げました」
「公園地内は7、8百の紅提灯を吊るし連ね、城跡の中腹下辺りには数百の灯籠を立て並べ、宿場内市中は各戸の軒に提灯を吊るし、大変に賑わいました。同日は特に好天だったため、近郷近在より老若男女の参詣が非常に多く、公園地内は人がぎっしりと詰まっており、かき氷屋は最も繁盛しました」(明治17年8月25日付「岩手新聞」)
花巻出身で北海道帝国大学初代総長を務めた佐藤昌介(1856―1939年)が「花巻魂」と称賛し、その精神が宮沢賢治にも影響を与えたと言われる鶴陰碑はやがて、戦火の中での流浪を余儀なくされる。
(写真は2代目の鶴陰碑。初代は市博物館に移設・展示されている、=10月末、花巻市城内の武徳殿前で)
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