「外出時、屋内にいるときや会話をするときは、症状がなくてもマスクを着用。歌や応援は、十分な距離かオンライン」―。5月4日に公表された「新しい生活様式」の実践例を見て一瞬、虚を突かれた。男やもめの“巣ごもり”生活でたまったストレスを解消しようとシニアの合唱団に参加したのもつかの間、コロナ禍で会場の公共施設が閉鎖されたため、「ステイホ-ム」なる新手の巣ごもりを強いられてもう、3ケ月近くになる。本日(5月25日)の緊急事態宣言の全面解除で、再開の見通しはついたものの、どうも気持ちがすっきりしない。たとえば、マスク姿で歌をうたうという奇怪なスタイルにどうにも想像力がついていけないのである。「合唱」という人類古来の表現方法は生き残れるのか…
「『学校再開ガイドライン』を踏まえ、また『新しい生活様式』を心掛けても、コンク-ルでの集団による合唱は、十分な間隔をあけたり近距離での発声を避けたりすることに限界がある。主催者としてやむを得ない苦渋の判断」―。NHKは11月に予定していた小中高にまたがる全国最大規模の合唱祭(Nコン)の中止を決めた。太平洋戦争中の2回を除いて、約90年ぶりのことである。全日本合唱連盟などが主催する全日本合唱コンクール全国大会も1948年以来、初めての中止に追い込まれた。
妄想が際限なく、広がる。多い場合は1万人から数千、数百人が集う年末恒例の「歓喜の歌」(ベ-ト-ベン「第9」)の大合唱は一体、どうなるのだろう。そして、紅白は?「歌う」という所作は人類のコミュニケ-ションの原初形態と言われる。今後も続くであろう「三密」防止という作法は想定外のライフスタイルを生み出しそうな気配である。”人間”喪失の現実味…
気持ちが晴れない日々が続く中、長引く巣ごもり生活によるコロナ鬱(うつ)や経済的な困窮に伴う「コロナ」自殺が急増するのではないかと勝手に思い込んでいた。ところが、厚労省などの調査で4月の自殺数が前年同月比で359人少ない1455人に止まり、最近5年間では最大の縮小幅であることがわかった。今後の動きは未知数だが、とりあえずはホッと胸をなでおろした。
この“ナゾ”について、ある分析はこう書いている。「皮肉なことに、ウイルスがそれらを回避するための迂回路をつくったといえるかもしれない。ステイホ-ムが求められる状況下において、好きな職場、好きな学校に行けず、楽しい時間を過ごせず、好きな人と会えなくて、それこそ死ぬほどにつらい思いをしている人が大勢いる。しかしその一方で、嫌いな職場、嫌いな学校に行かず、苦手な人、嫌いな人に会わずに済んでいることで、心から胸をなでおろしている人もいる。不謹慎であることは承知しつつも、できれば緊急事態宣言が終わってほしくない―心中ではそう願ってやまない人も、この記事の読者の中にはきっといるはずだ」(『現代ビジネス』5月24日付電子版)
「できる限り後方の座席に座るよう求める」(バス)、「テ-ブルを仕切ったり、2㍍(最低1㍍)以上の間隔を空けたりする」(飲食店)、「お酌や杯の回し飲みは控える。鍋はや刺身は1人盛りに」(旅館)、「余興は大声を避け、列席者と十分な間隔を保つ。スナップ撮影は密にならないポ-ズで」(結婚式場など)、「立ち読み自粛の呼びかけ」(書店)、「小声でも聞こえるよう、遊技機や店内音楽の音量を最小限に」(パチンコ店)、「マ-ジャン卓からイスを離し、対人距離を確保。3時間ごとに牌(はい)や点棒を交換や消毒」(マ-ジャン店)…。経団連や各業界団体はこんな感染防止策の指針をまとめた。その場面にわが身を置いてみる。もうひとつの「ストレス」が襲いかかってきた。
「旧型ストレス」から「新型ストレス」へ―。出社や登校拒否に悩んでいた人たちがいっときのステイホ-ムによって、こころ休まる「安寧」(あんねい)のひと時を得たのはその通りだと思う。そういえば、漫画家の五味太郎さんもこう語っていた。「それじゃ、逆に聞くけど、コロナの前は安定してた?居心地はよかった?普段から感じてる不安が、コロナ問題に移行しているだけじゃないかな。こういう時、いつも『早く元に戻ればいい』って言われがちだけど、じゃあその元は本当に充実してたの?と問うてみたい」(4月5日付「朝日新聞」ウイズニュ-ス)
ところで、“出口戦略“とやらの緊急事態宣言の解除によって、「歓喜」の瞬間を手にした側に希望の光は差し込むのであろうか。いや、このウイルスはもうすでに別種のストレスを与えようと虎視眈々(こしたんたん)と待ち構えているような気がしてならない。そして私が当面、気がかりなのは郷土の詩人、宮沢賢治のあの詩の行方である。「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ…」―。「行ッテ」精神の大切さを訴えたと評されているが、「新しい日常」の下ではそばに寄り添うこと自体が難しくなってきそうな雲行きである。これはある意味で、“思想”(生き方)の根幹にかかわる重大事である。
カミュは『ペスト』をこう結んでいる。「そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠(ねずみ)どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを」―。「コロナ神」(今回の災厄に身を置き続けるうちに、いつしかこのウイルスに神の称号を献上するようになってしまった)は日常生活の所作の変更などではなく、「新人世」(しんじんせい)がこの地球上に刻んできた無残な痕跡の数々を顧みることの大切さを教えているのかもしれない。
(写真はフェイスシ-ルド(簡易防護面)を付けたまま、伝統舞踊を披露するタイの女性たち=インターネット上に公開の写真から)
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