「例えば、鉛筆が落ちたらその音が響くような図書館という考え方とか、いろいろな考え方があると思いますが、我々はそういう場所も図書館の中に必要だと思いますけれども、場合によってはざわざわしている図書館でもいいのではないかなと思っています」(2月20日開催の記者会見)―。花巻市の上田東一市長のこの「図書館」像こそが“集合住宅附属図書館”という発想の根底にあるのではないか。「そんなものは図書館とは言えない。この空間は静寂を旨とすべし」と主張するのは、フランス文学者で武道家でもある神戸女学院大学名誉教授の内田樹さん(69)である。
花巻市議会が設置した「新花巻図書館整備特別委員会」(伊藤盛幸委員長)の初会合が4月21日に開かれる。当局側がいったん撤回する形になった「新図書館」構想を受け、今後の図書館論議がどのように深められていくかが注目される。内田さんは提言型ニュ-スサイト「BLOGOS」上に「図書館のあるべき姿」についての論考を掲載している。今後の本質的な論議に資すると思うので、2回にわけて転載させていただく。
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それは公共図書館の司書の方たちの年次総会での講演でした。図書館の役割についてご提言頂きたいということで、お引き受けしたのです。図書館の役割についてですから別にむずかしい話じゃないです。そのときに、九州のある市立図書館のことに触れました。その図書館は民間業者に業務委託したのですが、その業者はまっさきに所蔵されていた貴重な郷土史史料を廃棄して、自分の会社の不良在庫だったゴミのような古書を購入するという許し難い挙に出ました。ところが、そうやって図書館の学術的な雰囲気を傷つけ、館内にカフェを開設するというような「俗化」戦略をとったら、顧客満足度が上がって、来館者数が二倍になった。
民間委託を進めていた人たちは「ほらみたことか」と手柄顔をしました。図書館の社会的有用性は来館者数とか、貸出図書冊数とか、そういう数値によって考量されるべきだというのは、いかにも市場原理主義者が考えそうな話です。そのときに、ふっと「図書館というのはあまり人が来ない方がいいのだ」という言葉が口を衝いて出てしまいました(ほんとうにふとそう思ったのです)。そう言ってしまってから、「ほんとうにそうだな。どうして図書館は人があまりいない方が『図書館らしい』のか?」と考え出して、それから講演の残り時間はずっとその話をすることになりました。
図書館の閲覧室にぎっしり人が詰まっていて、玄関の外では長蛇の列が順番待ちをしている・・・というのは図書館を愛用している人たちにとっても、そして、図書館の司書さんたちにとっても、想像してみて、あまりうれしい風景ではないのじゃないかと思います。連日連夜人が押し掛けて、人いきれで蒸し暑い図書館が理想だ・・・という人はとりあえず図書館関係者にはいないと思います。その点で、図書館はふつうの「店舗」とは異質な空間です。だから、来館者数がn倍増えたことは図書館の社会的有用性がn倍になったことであるというよう推論をして怪しまないようなシンプルマインデッドな人たちには正直言って、図書館についてあれこれ言って欲しくない。
僕がこれまで訪れた図書館・図書室の中で今も懐かしく思い出すのは、どれも「ほぼ無人」の風景です。僕以前には一人も手に取った人がいなさそうな古文書をノ-トを取りながら読んでいたときの薄暗く森閑としたパリの国立図書館の閲覧室、やはり古いドキュメントを長い時間読みふけっていたロ-ザンヌの五輪博物館の図書室に差し込む西日、文献を探して何時間も過ごした都立大図書館のひんやりした閉架書庫、僕の研究室があった神戸女学院大学の図書館本館の閲覧室を見下ろす3階のギャラリ-、僕にとって「懐かしい図書館」というのはいずれもほとんど人がいない空間です。たぶん人がいない、静まり返った空間でないと書物がシグナルを送ってくるという不思議な出来事が起きにくいからだと思います。
ほんとうにそうなんです。本が僕に向かって合図を送ってくるということがある。でも、それはしんと静まった図書館で、書架の間を遊弋(ゆうよく)しているときに限られます。そういうとき、僕は自分がどれくらい物を知らないのかという事実に圧倒されています。どこまでも続く書棚のほとんどすべての書物を僕は読んだことがないからです。この世界に存在する書物の99.99999・・・%を僕はまだ読んだことがない。その事実の前にほとんど呆然自失してしまう。でも、それは別にだから「がっかりする」ということではないんです。僕の知らない世界が、そしてついにそれについて僕が死ぬまで知ることのない世界がそれだけ存在するということに、「世界は広い」という当たり前の事実を前にして、ある種の宗教的な感動を覚えるのです。
そして、これらの膨大な書物のうちで、僕が生涯に手に取るものは、ほんとうに限定されたものに過ぎないのだということを同時に思い知る。でも、それらの書物は、それだけ「ご縁のある本」だということになります。そう思って、書棚の間を徘徊していると、ふとある書物に手が伸びる。かろうじて著者名には見覚えがあるけれど、どんな人で、どんなことを書いたのか、何も知らない。そういう本に手が伸びる。そして、そういう場合には、高い確率で、そこには僕がまさに知りたかったこと、そのとき僕がぜひとも読みたいと思っていた言葉が書かれている。ほんとうに例外的に高い確率で、そうなんです。
僕のこの経験的確信について、人気のない図書館の中をあてもなく歩いた経験のある人の多くは同意してくれると思います。そういうものなんです。人間にはそれくらいのことは分かる能力が具わっている。でも、その能力を活性化するためには、いくつかの条件が必要です。一つは「無人の時間」が確保されていること。できたら一日の半分以上は閉館されていて欲しい。
もし、365日、24時間開いている図書館が理想だという人がいたら、その人が求めているものは図書館ではありません。それとは別の、おそらくネット上のア-カイブで代用できるものです。いますぐ調べたいことがある、レポ-トを仕上げるために明日までに読まなければならない本がある・・・というような人たちは、蔵書がすべてデジタルデ-タ化されているので、自宅のPCのキ-ボ-ドを叩くだけで必要な情報が取り出せるということになったら二度と図書館には足を向けないでしょう。僕はそういう人たちのことを話しているのではありません。
(写真はライオン像で有名なニュ-ヨ-ク公共図書館。19世紀初頭のボザ-ル様式の傑作で、観光名所としても知られている=インタ-ネット上に公開の写真から)
《追記》~パンデミックを生きる指針(京都大学人文科学研究所、准教授・藤原辰史さん=農業史=からのメッセ-ジ)
「とくにスパニッシュ・インフルエンザ(スペイン風邪)がそうであったように、危機脱出後、この危機を乗り越えたことを手柄にして権力や利益を手に入れようとする輩が増えるだろう。醜い勝利イヴェントが簇生(そうせい)するのは目に見えている。だが、ウイルスに対する『勝利』はそう簡単にできるのだろうか。人類は、農耕と牧畜と定住を始め、都市を建設して以来、ウイルスとは共生していくしかない運命にあるのだから」
「危機の時代は、これまで隠されていた人間の卑しさと日常の危機を顕在化させる。危機以前からコロナウイルスにも匹敵する脅威に、もう嫌になるほどさらされてきた人びとのために、どれほど力を尽くし、パンデミック後も尽くし続ける覚悟があるのか。皆が石を投げる人間に考えもせずに一緒になって石を投げる卑しさを、どこまで抑えることができるのか。これが(「己の行為を未来に委ねる」)というクリオ(の審判)の判断材料にほかならない。『しっぽ』の切り捨て(公文書改ざんに抗議して自死した財務省職員)と責任の押し付けでウイルスを『制圧』したと奢(おごる)る国家は、パンデミック後の世界では、もはや恥ずかしさのあまり崩れ落ちていくだろう」(Web岩波新書「B面の岩波新書」4月2日付)
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