「新図書館」構想⑮ ホ-ムレスと図書館…知のインフラ、そして、エイプリルフールの怪

  • 「新図書館」構想⑮ ホ-ムレスと図書館…知のインフラ、そして、エイプリルフールの怪

 

 世紀末的な空気を漂わせるコロナ危機と不毛な図書館論議の末の「新図書館」構想の撤回、さらには行政トップによる“パワハラ”疑惑……。まるで、奈落の果てをさ迷い歩くような「絶望」と「断念」の日々を送る今日この頃―そんな底なし沼に引き込まれそうな気分を少しでも紛らわそうと読みかけの図書館関連の本を開いた。そして、ハッと心づいた。「こうした危機に際しては図書館こそが重要な役割を果たすのではないか」―と。ここ1カ月半余り、迷走する“図書館騒動”に翻弄(ほんろう)され続けてきたが、ちょっとだけ、元気をもらったような気持になった。

 

 ともに「図書館とはどうあるべきか」という根源的な命題に迫る内容で、一冊は増刷を続けている『未来をつくる図書館―ニュ-ヨ-クからの報告』(菅谷明子著)。大きな話題を呼んだ長編ドキュメンタリ-映画「ニュ-ヨ-ク公共図書館」(フレデリック・ワイズマン監督)の活字版である。この映画については、新図書館構想の策定に際し、ぜひ参考にしてほしいと上田東一市長に提言したものの、体よく断られた経緯がある(2月21日付当ブログ参照)。もう一冊は米国史上最悪の図書館火災に見舞われたロサンゼルス中央図書館を扱った『炎の中の図書館―110万冊を焼いた大火』(ス-ザン・オ-リアン著、羽田詩津子訳)である。

 

 図書館の使命を「知のインフラ」と呼ぶ菅谷さんはこう書いている。「市民の活動基盤を形成する基礎的な施設のことをインフラと呼ぶならば、図書館こそ今の日本に最も必要なインフラではないだろうか。…知る権利と知へのアクセスを万人に保証する、図書館の活動をどう拡げていくのか。こうした重い課題に対して、図書館の地道な努力は今後もさらに続く」―。2001年9月11日の同時多発テロ事件…「ニュ-ヨ-カ-の間では、家族、親族、友達、同僚などの安否確認などをはじめ、即座に役立つ情報が必要とされていた。事実、図書館にも様々な問い合わせが殺到しはじめていた。まさに図書館の出番だった」と菅谷さんは記し、当時の図書館長の言葉を以下のように引用している。

 

 「図書館は常に我々の民主主義を守る砦となってきましたが、それが今ほど必要とされていることはありません。自由な考えや情報の交換、そして人々の結びつきは市民社会にとって最も重要なことなのです。こうした価値観が、ニュ-ヨ-ク公共図書館、ひいてはアメリカ中の図書館で、情報の提供や講座の開催などを通じて再確認されているのです」―。東日本大震災の際、ほとんどの沿岸自治体では図書館が流失するなどの壊滅的な被害を受けた。その時の教訓を受け、「((知の)インフラ」としての図書館の再建が今、あちこちで進められている。

 

 図書館にとっての喫緊(きっきん)の課題は「ホ-ムレス」問題だと知って驚いた。『炎の中の…』にこんな一節がある。「ホ-ムレスが歓迎され、コンピュ-タ-やインタ-ネットを使うことができ、(騒ぎを起こさない限りは)一日中いることが許される数少ない場所のひとつが公共図書館だ。現在、図書館は世界中のホ-ムレスにとって事実上のコミュニティセンタ-になっている。どのように、そして、どの程度、ホ-ムレスにサ-ビスするかという問題に悩んでいない図書館はひとつもないだろう」―。撤回されたとはいえ、当市の新図書館構想の貧相さがいやがうえにも浮かび上がってくる。図書館とはもはや「理念」さえも乗り越え、ひとつの「思想」として論じなければならない時期に来ているのかもしれない。

 

 「図書館が燃えた」―。アフリカのセネガルでは、誰かが亡くなることを礼儀正しく表現する時、こう言うのだということをオ-リアンの本から教えられた。記憶とか背負わされた個の歴史とか…人間の全存在が「図書館」そのものだということなのだろうか。そして、合衆国憲法起草者のひとりで、第4代大統領のジェ-ムス・マジソンにちなんで、米国では毎年3月16日を「情報の自由記念日」とされていることを菅谷さんの本で知った。その中に2世紀近くも前のマジソンの言葉が引用されている。

 

 「人民が情報を持たず、情報を入手する手段をもたないような人民の政府は、喜劇か悲劇か、あるいはその両方への序幕でしかない。知識を持つものが無知なものを永遠に支配する。そして、みずからの支配者であろうとするならば、市民は知識が与える力で自らを武装しなければならない」―

 

 当市はコロナウイルスの感染防止のため、3月2日付で市内4図書館の全面休館に踏み切った。現在は土日だけの開放に切り替えたが、「情報発信」の最前線を何のためらいもなく封鎖してしまう行政判断に「集合住宅兼用図書館」という“貧困なる精神”の萌芽が見て取れる。私自身、先住民族とウイルスとの関係やいわゆる“パンデミック文学”などについて学びたいと思って駆けつけたが、門前払いを食らってしまった。図書館とは“思想”そのものであるという認識を関係者には持ってほしいものである。今回のコロナ危機は同時に人間の「根源」を問うてもいると思うからである。

 

 

 

(写真は図書館を“思想”のレベルまで引き上げてくれる2冊の好著)

 

 

 

 

《追記》~エイプリルフールじゃなかった!?マスクの全世帯配布

 

  「アベノミクス」ならぬ「アベノマスク」なる言葉がネット上に飛び交っている。何と「4月1日」のその日、マスク姿のわが宰相が「5千万余りの全世帯に布マスクを2枚ずつ配布する」と発表した。これに要する費用は郵送料を除いて、ざっと200億円とか。「エイプリルフールの冗談でしょう」と思ったが、実は本当の話しだったというのがオチ。”復興”五輪がコロナによって撤退を余儀なくされたのもつかの間、この人は早くも”コロナ戦勝”五輪を目論んでいる。「やってる感」内閣の面目躍如たるものがある。私などはコロナウイルスの前にマスクという簡便な防御さえも忘れていた人類の「敗北感あるいは傲慢(ごうまん)」に打ちのめされる。

 

 3月25日付当ブログで紹介した漫画「寄生獣」は人類の業(ごう)に対するウイルスの反撃を描いた作品である。しかし、あの東日本大震災の際、「(福島原発は)アンダーコントロールされている」とウソをついて五輪を誘致した張本人。コロナ倒産やコロナ自殺がささやかれるいま、この人物のマスク姿こそが世紀末の光景そのものである。永田町劇場で幕開けした”仮面(マスク)舞踏会”の成り行きから目を背けるわけにはいかない。そういえば、安倍晋三首相に先んじて「マスクマン」を演じたのは、当市の上田東一市長だった。いったん外したマスクをふたたび装着し、一緒に”マスクダンス”でも舞い始めるのであろうか。

 

 足を棒にしてマスクを探し求めているけれど、私はまだあり付けていない。「やもめ暮らしだから、2枚を独り占めできる。でも、大家族だったらどうなるのかなぁ」―。マスク宰相の安手の術中に陥らないためにも、今回のコロナ禍はまずは「文明論」として論じなければならない―と言い聞かせている。

 

 

=マスク姿で「やってる感」をアピールする安倍首相(コメント欄参照、インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

 

 

 

2020.04.02:masuko:[ヒカリノミチ通信について]

「マスク」狂騒曲―エイプリルフールじゃなかった!?

  • 「マスク」狂騒曲―エイプリルフールじゃなかった!?
2020.04.02:[編集/削除]

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