被災者を孤立させるな!?…「ゆいっこ」OB会が支援、再開へ

  • 被災者を孤立させるな!?…「ゆいっこ」OB会が支援、再開へ

 

 「お茶っこをしながら、情報交換をしたい」、「カラオケを腹いっぱい歌いたい」―。花巻市の中心部に4月オ-プンした災害公営住宅の集会所に29日、孤立しがちな被災者の切実な声が響いた。ついの住み家を異郷の地に定めた被災者ともう一度向き合おうと、2年前にいったんは解散した支援組織「ゆいっこ花巻」の元代表、大桐啓三さんらが呼びかけた。震災直後、この組織の立ち上げに参加した私はその時の趣意書の一節にこう書いた。「この『結いの精神』(ゆいっこ)はひと言でいえば『他人の痛み』を自分自身のものとして、受け入れるということだと思います」。東日本大震災から8年余り…昨年夏に妻を失った私はその痛みをやっとのことで少し、共有できたような気持になった。たまたま、この日が妻の月命日に当たっていたのも、考えて見れば不思議なめぐり合わせである。

 

 「実家はもう住めるような状態ではなくなった。これから先のことを考えると目の前が真っ暗になる」―。福島県南相馬市から花巻市内の借家に移り住んだ泉田ユキイさん(75)にかつての元気はなかった。震災直後の3月23日、泉田さんは娘さんの嫁ぎ先である花巻に避難。住んでいた小高区が20㌔圏内の警戒区域に指定される前日の4月21日、残して来た愛犬「コロ」のことが心配になって連れに戻った。白骨化した牛の死骸や骨と皮になってヨロヨロとさ迷う牛の群れ、餓死した犬や猫…。置き去りにされた犬同士が産み落とした子犬は人間という存在さえ知らないほど狂暴になっていた。

 

 泉田さんは震災以降、「語り部」として津波と放射能禍の恐ろしさを語り続けてきた。九州・福岡の女子学生に語り伝えた言葉はまだ、私の脳裏にこびりついている。泉田さんはその時、こう語ったのだった。「東電に人の心があるかって、その気持ちは変わらない。でもね、置き去りにされた動物たちのことを考えた時、自分も含めた人間の残酷さみたいなものも感じて…」、「原発事故って、こんなにも罪深いものだとは思ってもいなかった。人間って一体何だろうか。そんな深いことを考えさせられた」。泉田さんはこう、言葉を継いだ。「東京の電力をどうして福島で作っているのか、そのことも考えてね。その根底には貧困という問題も隠されているのよ」―。そしていま、「3・11」の記憶は来年の東京五輪の喧騒にかき消されてしまった。「福島(の放射能禍)は完全にコントロールされている」という、誘致のきっかけになったフェイク発言(安倍首相)はどこかに雲散霧消してしまったかのようである。

 

 「市街地活性化の起爆剤に…」―。こんな掛け声とともに災害公営住宅は産声をあげた。「シティコート花巻中央」と命名された、仲町棟と上町棟を合わせた計31棟には現在26世帯が入居しており、うち独居世帯が10世帯である。このほか、市全体の移住者数は岩手県内の4市2町と宮城・福島両県を含めると、192世帯(362人)に及ぶ。記憶の風化とともにかつての「絆」(きずな)も薄れつつある。

 

 市民が一丸となって祝う「花巻まつり」(9月13日~15日)が近づいてきた。被災者が住む住宅前はまつりのメ-ンストリ-トである。高齢の女性入居者がポツリと言った。「花代(寄付)のお願いはあったけど、参加を促す話はまだない。なんか置いてきぼりになったみたいで、寂しい」―。被災者の「語り部」養成に乗り出した盛岡市などとは雲泥の差である。宮沢賢治のふるさと…わが「イーハトーブ」市政の体質については、《追記ー1~3》を参照していただきたい。震災の記憶を呼び戻すため、以下に最新(2019年7月31日現在)の移住者内訳を列挙する。

 

・釜石市~50世帯(92人)

・大船渡市~17世帯(27人)

・陸前高田市~12世帯(22人)

・宮古市~11世帯(20人)

・大槌町~59世帯(120人)

・山田町~18世帯(33人)

・宮城県~20世帯(37人)

・福島県~5世帯(11人)

 

 

 

(写真は「ゆいっこ」の呼びかけに17人が集まった。孤立感を募らせる声が多かった。左端が泉田さん=8月29日、花巻市上町の災害公営住宅集会所で)

 

 

 

《追記-1》~「個人情報」をタテにそっぽを向く行政

 

 今年6月7日付の岩手日報に花巻在住の無職の女性が「銃刀法違反」容疑で現行犯逮捕されたという記事が小さく載った。沿岸で被災し、花巻に避難して以降、精神的な不安を訴えていたという。約一か月半ほど前、この女性は同じ紙面に以下のような声を寄せていた。「震災直後は電気も布団もなく、不安と絶望の中で生活した。今月1日から入居した花巻市の災害公営住宅は、中心市街地にあり環境も良い。2017年に亡くなった父に見せてあげたかった。釜石道が全線開通し、便利になった。復興に携わった人たちに感謝したい。地元に戻るには、まだ心の整理ができていないが、遠くから古里を思い続けたい」

 

 この一件について、私は「事件との因果関係は分からないが、ある意味で想定内の出来事。行政として対応を協議したのか」とただしたのに対し、関係部課は「個人情報も絡んでいるので…」と言葉を濁し、こうした事態に対する認識さえ共有していないことを明らかにした。その因果を詮索することと、それ(想定内か否か)に対して、想像力をめぐらせることとは全く別次元の問題である。私自身、これまでこの事実の公表を控えてきたが、「建物だけを造って、良かれ」とする行政側の姿勢が眼に余るため、あえてこの場に掲載することにした。市議在任中に追究した「義援金流用」疑惑以来、被災者支援に対する行政の薄情さは少しも変っていないみたいである。

 

 

 

《追記―2》~「公平の原則」とは!?

 

 東日本大震災から約9ケ月後、花巻市内に避難していた男性(当時49歳)が借上げアパ-トで孤独死しているのが発見された。死後(推定)、すでに10日近くがたっていた。私は「見守り」体制のあり方などを市側にただした。その際に担当者が口にしたのも個人情報をカサにきた「公平の原則」という便法だった。以下に当時のやり取り(要旨=会議録から)を再録する。

 

増子;「実はことしの秋、花巻市内のアパ-トで男性被災者が孤独死しているのが発見されました。まず、この事実関係を把握しているかどうか」

 

総務部長;「親族から市に連絡があり、死亡されたことについては承知しているところであります。大槌町からの避難者の方ですが、個人の情報でございますので、内容については説明を差し控えさせていただきたいと思います」

 

増子;「具体的に沿岸から内陸に避難しているひとり暮らしの世帯に対して、何人体制で、どれくらいの間隔で見守り訪問を行っているのですか」

 

健康子ども部長「;保健師が巡回していますが、何回も何回も回るということはかなり、厳しい状況でございます。あくまでも市民と同じように健康相談のパンフレットを置いてきて、気軽に相談してほしいということです

 

増子;「一般市民と同じようにという『行政の公平性』もそりゃ分かりますけれども、今回の震災はケタが違います。保健師をふやすとか、沿岸被災者に特化した、もう少し手厚い見守り体制を考える必要があると思いますが…」

 

健康こども部長;「沿岸の被災者の方に特化した体制というお話でございますけれども、やはり行政としましては、市民の健康、安全、これが第一番でございます。あくまでも市民と同じように相談を受けてという形でやっていきたいと考えております」

 

増子「おそらく何回聞いても同じ答弁しか返ってこないような気がします。『公平の原則』と言えば、何か非常に耳触りがよく聞こえますが、そこに本市の行政の特色を垣間見たように思います」

 

 

 

 

《追記―3》~被災者を「語り部」に(2019年2月17日付「朝日新聞」より)。私は市議在任中に市側に同じことを提言したが、一顧だにされなかった。

 

 

 東日本大震災で、内陸避難者の支援活動を行ってきた「もりおか復興支援センター」(盛岡市内丸)が、3月11日に初めて語り部の講話会を開く。センターに通い、心の内に抱えてきた思いを手記につづって整理してきた被災者が語り部となり、被災経験を語る。震災からまもなく8年。内陸部でも震災の記憶を伝えていこうと、市もこうした活動を後押しする。

 

  語り部になるのは、宮古市、山田町、大槌町、釜石市出身の男女6人。3月11日にもりおか歴史文化館(同)で開かれる追悼行事「祈りの灯火2019」で、地震発生時の避難行動や震災後の生活を振り返る。きっかけになったのは手記集の制作だった。センターでは「何かを残したい」という避難者の声を受け、昨年7月から9月にかけて作家・斎藤純さんの文章講座を開催した。手記を書き上げ、気持ちを整理した秋ごろ、センターの職員が受講者に語り部としての活動も提案したところ、6人が手を挙げたという。

 

 震災当時、大槌町で保育園の園長をしていた釜石市出身の小笠原明子さん(71)は、園児を親に引き渡してしまったことの後悔を綴った。地震の直後、2人の母親が保育園にやってきた。「おばあちゃんが家にいるから連れていきたい」、「パパが家にいるから一緒に避難する」。小笠原さんは「津波が来るから」と引きとめたが、押し問答の末、母親たちは子どもを連れて行き、帰らぬ人となった。小笠原さんは当時の体験をあまり話さないようにしてきたという。「地元の復興に協力できずにいたことが胸にのしかかっていた。これからは、正しく怖がる大切さを伝えていきたい」と話す。

 

 3月11日の行事では他にも5人の語り部たちが、津波を生き延びた愛馬との思い出や地域で作った防災計画などをテーマに語る。もりおか復興支援センターには市内の学校や町内会などから被災者の講演依頼が来るが、これまで人前で体験を話せる人はいなかったという。金野万里センター長は「被災した人たちが教訓を伝えられる機会を増やしていきたい」と話す。

 

 内陸避難者を多く受け入れてきた盛岡市は、こうした伝承活動の支援を拡充していく考えだ。被災自治体の後方支援も行ってきたことから、内陸部でできる伝承活動を検討し、4月に更新する市の「復興推進の取組方針」に盛り込む。取組方針を議論するため1月に開かれた有識者会議では、委員から「盛岡には大震災を知る場所がない」といった意見が出た。市危機管理防災課の担当者は「例年、3月になると盛岡を訪れる人が増える。内陸でも大震災を知ることができる環境を整備したい」と話す。

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019.08.29:masuko:[ヒカリノミチ通信について]

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2019.08.30:[編集/削除]

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2019.08.31:[編集/削除]

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