「国策がまちを生み、国策がまちを消す」―。こんな表現がぴったりのまちがかつての炭都・夕張(北海道)である。30数年ぶりになる再訪でその思いをさらに強くした。4月17日付当ブログ「『改元』恩赦と夕張放火殺人事件」で言及した「夕張再訪」が5月16日にやっと、実現した。同行者はこの旅のきっかけを作ってくれた札幌在住の元高校教師、菊池慶一さん(86)と夕張の取材経験のある後輩記者…菅谷誠(70)と秋野禎木(61)の両君である。記憶の糸口を探るため、私たちはまずあの大惨劇の現場へと向かった。
笹の葉が風に揺れ、遅咲きの山桜がいまが盛りと咲き誇っていた。ウグイスが鳴き渡るその先に赤さびたトンネルの入り口がかすかに見えた。ヤマの男たちが地底の坑道に向かう際に使った人道である。私自身、何度、この人道を行き来したことか。ある時、男たちの腰に弁当がふたつ、ぶら下がっているのに気が付いた。「ひとつはネズ公のもんだよ」とぶっきらぼうに言った。坑内にすみついたネズミはガスや火災などの異常をいち早く感知すると言われていた。38年前の1981(昭和56)年11月16日、北炭夕張新鉱でガス突出事故が発生。北海道では戦後最悪となる93人が犠牲になった。脱出しようとして、息絶えたネズミの死骸が坑口近くで大量に見つかった。
この事故で当時、42歳だった坑内員の須磨寛さんが亡くなった。ひとりっ子の小学6年生、貢君と妻の和子さんが残された。貢君は寂しさを紛らわすため、鉄道写真や切符集めに没頭するようになった。和子さんは生活を支えるために炭住街の近くにスナック「和(かず)」を開いた。取材のたびに足を運んだ。手土産に鉄道関係のコレクションを携えるのを忘れなかった。今回、訪れたのはちょうど「月命日」の16日だった。スナックのシャッタ-は下ろされ、営業している気配はなかった。最盛期、酔っ払いのケンカが絶えなかった炭住街には人の気配すらなかった。テクテクと歩き回り、やっと表札のある家にたどり着いた。不審げに顔をのぞかせた女性がニッコリ笑って言った。「店は数年目に閉めたけれど、和ちゃんは店と棟続きの住宅で元気にしているよ」
「あの時の朝日の記者さんの…、マスコさん?」―。お互いに顔を見合わせ、しばらくして和子さんがスナックのママ時代と変わらないやさしい表情になった。焼香をさせてもらっている間、和子さんは堰(せき)を切ったように話し続けた。菅原文太似の貢君は中学卒業後、俳優を目指して上京した。東京で一度、食事をともにしたことがある。いまは父親の生年を超えて50歳になり、3人の子どもも立派に成長した。「俳優の夢は叶えられなかったけれど、営業関係で走り回っているらしい。夫が生きていれば80歳。私はいま75歳だから、あと5年たったら迎えに来てって言っているの…」―。俳優になりそこなった50歳の「菅原文太」に急に会いたくなった。人間のきずなの大切さに胸が熱くなった。
「ぜひ、案内したい場所があるんです」と夕張取材の長い秋野君が言った。彼は「墓歩き」の異名を持っていた。強制連行された朝鮮人や中国人、タコ部屋の下請け労働者…。夕張のあちこちには地底(じぞこ)に絶命したいのちを慰霊する石碑が林立している。「炭鉱取材の原点はまず、死者の前に立つことから始めなければ…。この地を訪れると自然と足がそっちに向くんですよね」
鹿島東小学校、夕張東高等学校、鹿島小学校、鹿島中学校…。秋野君に連れて行かれた光景に思わず、息をのんだ。目の前には総貯水量が全国で第4位という日本屈指の人造湖「シューパロ湖」が広がっていた。高台の眺望公園には湖底に沈んだ学校の記念碑がずらりと並んでいた。かつて、この一帯は三菱資本の一大産炭地として栄華を極めた。私の耳元にも当時の喧騒(けんそう)が残響のように響いている。「例の夕張保険金殺人事件の現場もとっくの昔に湖の下です」と墓歩きがぼそっと言った。湖底に没した学校の記念碑が墓石のように見えてきた。「じゃ、もっと生々しい現場へ」と秋野君が促した。
「日高商事」などの看板を掲げたコンクリ-ト造りの2階建ては少し傾き加減になりながらも、まだ当時の場所にあった。35年前の1984(昭和59)年5月5日の子どもの日、ここを拠点に炭鉱の下請けをしていた暴力団夫婦が保険金目当ての放火殺人の疑いで逮捕され、戦後初の夫婦同時死刑に処せられたことについては、前掲ブログに書いた。7人の犠牲者の中に幼友達がいたことを知った菊池さんはその足跡を辿ったルポを上梓し、菅谷君は放火で焼け落ちた従業員寮を写真に収めた。そして、秋野君は現役を退く今に至るまで夕張通いを続けている。
「立ち入り禁止」の北海道警の黄色いテ-プが半分、ちぎれている。その奥をのぞいて、一瞬、ひるんでしまった。足の踏み場もない室内に大型金庫がごろんと転がっていた。分厚い扉を重機か何かでこじ開けようとした形跡がある。妄想が広がった。「死刑の後、保険金がまだあるかもしれないと誰かが物色したのではないか」―。ふいに「ラクダ」事件を思い出した。北炭夕張新鉱が事故の末に閉山に追い込まれた直後、作家の故五味康祐の縁者を名乗る男がふらりと現れた。「町おこしの観光資源として、ラクダはどうか」と言って、実際に一頭のラクダを飼い始めた。北海道の寒さに砂漠のラクダは耐えることはできない。ほどなく、ラクダは死んだと噂された。「ラクダ肉料理」の看板が街角に出現した。その看板を残したまま、男はいずこともなく、姿をくらました。全国の地方自治体を渡り歩くペテン師だということが後でわかった。ある種の愛着を込めて、かつて私はこのたたずまいを「夕張人外境」と呼んだことがあった。
私は前掲ブログをこう結んでいる。「日本の繁栄の捨て石にされた“苦海”のたたずまいをもう一度、まぶたによみがえらせたいと思う。記憶の風化に抗(あらが)うためにも…」―。「国策がまちを生み、国策がまちを消す」という冒頭の言葉をもう一度、口ずさんでみた。妄想がますます、膨らんだ。「国策とはいつの時代でもある種の“悪意”をはらむものではないのか。子どもたちの生きた証しを湖底に沈める一方で、まるで見せしめのように放置された死刑夫婦の事務所の残骸…。そのどちらにもどす黒い“悪意”がひそんでいる」と―。
ホテルに戻って、テレビをひねるとどの番組でも新しい時代を奉祝する「令和」狂騒曲が奏でられていた。頭がくらくらした。繁栄の人柱になった数知れないヤマの男たち、そしてネズミやあのラクダの幻影が走馬灯のように頭の中を駆けめぐった。「スクラップ・アンド・ビルド」という名の石炭政策に翻弄された炭都の盛衰がコマ送りのように目の前に去来した。おそらく、この虚実の逆転に私自身が圧倒されたのだったのだろう。
(写真は北炭夕張新鉱に通じるかつての人道トンネルの入り口。すっかり赤さびて出入り禁止になっていた=5月16日、北海道夕張市清陵町で)
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