花巻版「歴史秘話ヒストリア」―その2の2(玉砕の島「硫黄島」秘史)…「昭和」から「令和」へ

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●《第2話》~隠れ、逃げる4年間

 

 3月15日、山蔭の避難するト-チカが爆破され、夜になって、部下ながら13歳年長の松戸利喜夫とともに斥候に出る。だが、戻ると、上司である機銃砲台長の上野利彦少尉らがいない。山蔭、松戸の逃避行はここから始まる。昼は岩穴に隠れ、夜間に食料を探す。台風や暑さはあるが、南方の島で寒さがあまりひどくないのが救いだった。また硫黄島という文字通りに蒸気の吹き出すところがあって、食料は料理しやすかった。

 

 ひそかに畑を作り、サツマイモやカボチャを育てた。パパイヤの木や根まで食べ、野草のホタル草などを噴気で蒸して食べた。水の確保が難しかったが、米軍の工事現場や兵舎に残した缶詰、ミルクの缶、チョコレ-ト、マッチ、やすり、ナイフ、糸、アスピリンなど、ときに衣類となる白いキャンバスの布が手に入り、靴、ズボン、帽子に仕立てた。餓死相次ぐほかの戦地と違う条件に恵まれ、物量豊富の米軍あっての逃避生活だった。
 

 だが、連日、米兵が探索に現れ、手りゅう弾を投げ、小銃を打ち、ダイナマイトをさく裂させるなど、緊迫の日々が続いた。飛行機に見つかり、機銃掃射も受けた。狭い傾斜のある岩穴のそばに米兵が現れ、発見寸前のこともあった。とにかく、食べること、見つからないことに、神経をとがらせる二人の日々だった。

 

 若いがランク上の山蔭兵長、13歳年長の松戸上等水兵。二人に仲たがいなく、それぞれの個性と知恵を認め、助け合ったことが、4年近い歳月の苦しい日々を乗り越えさせたのだろう。山蔭は独身だったが、松戸には4人の子どもがいた。投降に至るまで日本敗戦を知らず、いつかは日本軍の奪還が実る、と信じることで生きていた二人だった。
 

 それでも、松戸によれば、1946(昭和21)年1月ごろ、雑誌の『ライフ』を拾い、上野・不忍池にボ-トを浮かべる日本娘と米兵の写真を見た。さらに、米兵と日本の娘が、互いに相手の口にリンゴを持って食べさせあっている写真を見つけ、「負けたな」と感じたという。松戸によると、山蔭は「もうだめだ。生きている用(要)はない。今から、やつらの幕舎めがけて斬り込もう」「われわれが内地を出るときは、日本の全女性は〝銃後を守り最後には敵とも戦う〟と勇ましかったはずじゃないか。それが、われわれのこの苦しみも知らず、このざまは…」と目をギラギラさせて言った。

 

 ただ、年上の松戸が、日米両国が平和にやっているなら、この島で米兵を殺傷させたらマイナスになる、と説得。結局、投降などはせず、いつか住み着いていた島民が帰るまで待とう、とホコを収めたという。米兵の前に、投降だけはできない。そこには、「生きて虜囚の辱めを受けず」という東条英機陸相時代の戦陣訓が頭にあり、捕虜となるくらいなら死を、という意識があったのだろう。この軍命は、当時の兵士たちにとって、背けない重みがあり、また憎しみを植え付けられ、日夜敵対してきた米軍というものへの恐怖が消えなかった。

 

 岩穴では、蓄えた食べ物を狙って、ネズミが出没。拾ってきたネズミ捕りを仕掛けて茶色味をおびた白いハツカネズミを捕まえて、ハリガネの箱を作り、「長太郎」と名付けて飼い、日々の楽しみにすることもあった。長太郎を野に放ったのは昭和24年の元旦。山蔭、松戸は10日間ほど話し合い、十中八九殺されるにしても、もし銃殺されるなら舌をかみ切って死のう、と決断して、新年を機に投降しよう、と決めた。

 

 岩穴の整理を始めると、箱入りの新品の下着6ダース、米兵の夏服上下3着ずつ、靴3足ずつ、たばこ100カ-トン、ウィスキ-、ビ-ル、缶詰多数、コ-ルドクリ-ムやアスピリンなど各種の薬品、蓄音機2台、レコ-ド約50枚など、引き揚げた米兵が捨てたものや、失敬してきたものばかり。「(投降の)準備を始めて驚いた」と、山蔭は書いた。帰国した米兵らが処分していったものが、大量に手に入っていたのだ。

 

 投降の日の早朝、二人は歩き出すが、通りすがる米兵らの2、3台の車は見向きもしない。やっと乗せられたジ-プは、自動車の修理工場に連れて行ったが、そこで降ろしたものの放置の状態。イヌに追われるなど、まごつくうちに建物群に行きつき、2、3の士官のもとで英和辞書などを手に「軍人」「海軍」の文字を指さすことで、何とか身元は判明。まもなく一人の中国人が来て通訳し始めた。「ジャングルボ-イ」「20年8月15日に終戦」「君らは捕虜」…
 

 そのあと、硫黄島の米軍司令の大佐のもとで、本籍地、姓名、生年月日、官職階級など30分ほどの質疑が済むと、隠れ住んでいた洞くつに案内させられ、身体検査、夕食などが続く。そこではじめて、天皇の無事、東条の処刑を知った。

 

 硫黄島の玉砕から5ヵ月後の日本の降伏。「戦況は相当に不利だったはずだ。それなのに、戦況をなぜ一言も伝えてくれなかったのだろう。そうすれば、一部のものでも尊い生命を散らすようなことはなかったであろう。それを日本本国からは、戦況の不利どころか、全く反対に『連合艦隊を信頼せよ』、また『特攻隊を信頼せよ』などといってきた。そして、多くの先輩同僚が玉砕し、われわれ二人も、やがて逆転を…と考えてがんばってきたのだ。ほんとうにくやしかった」。山蔭は、終戦を知った直後、このような怒りを覚え、書き残した。

 

 

 

(写真は総攻撃を前に砂浜で待機する米海兵隊員。後方に見えるのは戦車揚陸艦=インタ-ネット上に公開の米軍資料から)

 

 

《追記》~「昭和」から「令和」へ

 

 掲載中の「歴史秘話」を記憶に刻みながら、新しい元号「令和」の誕生に立ち会った。「戦況は相当に不利だったはずだ。それなのに、戦況をなぜ一言も伝えてくれなかったのだろう。そうすれば、一部のものでも尊い生命を散らすようなことはなかったであろう」(上掲ブログ)―。玉砕の島「硫黄島」で自害して果てた山蔭水兵長の呪詛のような言葉がよみがえる。元号が歴史の断絶につながらないことを切に願う。「平成最後の…」―。列島を包み込んだ大合唱の余韻がまだ、頭の中でこだましている。昭和生まれの私にとって、戦後史の起点はあくまでも「1945年8月15日」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019.03.31:masuko:[ヒカリノミチ通信について]

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