「議会力は市民力、つまりは民度に比例する」―。今月5日に開かれた花巻市議会の議会報告会のあの“事件”(2月5日付「花巻市議会、生きてますか…『死んでま~す』」参照)以来、当市議会に限ってはこの法則が的中するという思いに至った。何しろ、議会活動の核心部分である「議員定数」問題について「この件は報告会にはなじまない」という市民の不規則発言を注意するどころか(ひょっとして、この市民は「サクラ」だったのではないかという疑念を私はまだ、拭い切れないでいる)、逆に同調するという逆さまをやってのけた。有権者の民度が低い分だけ、議会の質も低下する。逆もまた真なり。もはやなにおか言わんや。どっちもどっち…だから「死んでま~す」と叫んだ次第である。
ところで、当ブログで紹介した川崎市議会議員の小田理恵子さん(46)には『ここが変だよ 地方議員』という著書がある。議会の第一線から見た「これは変だ」を4コマ漫画に仕立てた内容になっている。現在、2期目で無所属。「地方議会も徐々に変わってきてはいるけれど、そのスピ-ドは世間の変化に比べて遅すぎます。気がついたら外の世界と切り離されてしまっていたというのが、地方議会の現状ではないでしょうか」(2月5日付「朝日新聞」)―。こう語る小田さんは3期目の出馬はないという。長居は無用というわけで、2期8年でおさらばした私はその潔さに敬意を表し、同書を取り寄せた。一般質問を取り上げた漫画の解説にはこう書かれていた。
「議会の中でも政策に明るい議員とそうでない議員が何となく分かってきてしまうのです。行政は常に議員の力量を測って対応を変えてきますので、『ダメ議員』と思われたらお終いです。相手にされなくなります。ところで、議員の中には一般質問をまったく行わない人もおります。質問は権利であって義務ではありませんが、市民から負託を受けて議員になった以上は責務だと思いますよ」―。大都市の議会にしてこうである。「推して知るべし」というべきか。当花巻市議会でもそうした「無言の行」を決め込む議員が散見される。
昨年夏の改選市議選以降、市議会だより「花の風」のレイアウトが一新された。従来、一般質問については議員の個人ごとに質問と答弁の要約が掲載されていたが、現在は質問項目を教育、農業、防災、財政などのカテゴリ-ごとに分類し、当局答弁を細分化した形になっている。「広報広聴特別委員会」の面々は「市民の皆さまの評価は上々」と自画自賛だが、私は一見して「これじゃ、まるで当局のPR誌ではないか」とあきれてしまった。議員を選ぶ際、有権者はその人の政策や物の考え方、人となりなどを判断基準にする。だから、直接選挙で選ばれた議員はあくまでも会派や党派を超えてまず、「属人主義」を貫かなければならない。こんな基本も分かっていないらしい。輪切りにされた議員たちが可哀そうでもある。
「議会の憲法」ともいわれる「花巻市議会基本条例」はこう規定している。「議員は、議会が言論の場であること及び合議制の機関であることを認識し、議員相互間の自由な討議を尊重しなければならない。議員は、市政全般についての課題及び市民の意見、要望等を的確に把握するとともに、自己の能力を高める不断の研さんに努め、市民の代表としての自覚を持って活動をしなければならない。議員は、議会の構成員として、市民全体の福祉の向上を目指して活動しなければならない」(第5条「議員の活動原則」)―。これが制定されて早や9年…2期8年の間、私はこの原則がきちんと実行に移される姿をみる僥倖(ぎょうこう)についぞ恵まれなかった。
たまたま、この日(2月13日)の「朝日新聞」声欄に三重県に住む79歳の男性のこんな投書が載っていた。「国政も地方議会でも、最近の振る舞いは、信条も理念もない『採決マシン』に見えてならない。だからこそ、有権者も投票するだけで後は無関心の『投票マシン』であってはならないと思う。そこで私はまず、3月に地元市議会を傍聴してみようと考えた。初体験である。市政についての幅広いテーマで、市長や市幹部に疑問をぶつける一般質問の日が良い。これまでにもケーブルテレビで中継を見ていたが、議場に行けば、テレビに映らない議員の様子や傍聴席の雰囲気もわかる。1人でも傍聴者が多ければ、議員諸氏の刺激にもなろう。…政治家と有権者とのよりよい緊張関係のために、手始めに身近な議場に新風を吹き込もうではありませんか」
(写真は小田さんの4コマ漫画の一部=小田さんが公開のブログから)
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