「おためごかし」という偽善

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 本を閉じ、ふ~っとため息をつきながら、私はひとりごちた。「この世に対する、これは絶望の書ではないのか」と…。ダダイストの辻潤(1844―1944年)はその名もずばり『絶望の書』(1930年)の中にこう記している。「自分はなんだ?…という疑問に対して、一切無であるという定義は同時になんの定義でもあり得ないが、それ以上に明確な答えはあり得ないのだ…矛盾ということはまた一切であり、同時に無だという意味を含んでいる。一切の現象はそれが、現象である限り、悉(ことごと)く矛盾しているのである。矛盾は現象を成立する根本原理に他ならない」―。「存在論」(オントロジ-)の根本を問う、この呪文みたいな言葉が違和感なく、その本に重なった。

 

 「善良無害をよそおう社会の表層をめくりかえし、だれもが見て見ぬふりする、暗がりを白日にさらす」―。作家、辺見庸さんの最新作『月』のキャッチコピ-にはこんなおどろおどろしい文章がおどっている。「存在」と「非在」、「狂気」と「正気」…。人間存在のあわいを書き続けてきた作家の関心は当然のように「相模原障がい者施設殺傷事件」へと向かう。2016年7月、神奈川県相模原市内の知的障がい者施設で、元職員の男性(当時26歳)が刃物で19人を刺殺し、職員を含めた26人に重軽傷を負わせた戦後最悪の事件である。「さとくん」(園の職員)と「き-ちゃん」(園の入所者)を小説の主人公にすえ、その内面をえぐり出すようにして、物語は進行する。たとえば、二人の間にこんなやり取りめいたことがある。

 

 さとくん;「まったくね…あんたは、なんなんだい?いったい、なにから生まれてきたんだい?なんのために?ひとからかい?まさか…」「しんじらんない。あんた、なにしに生まれてきたんだよ…なくてもよかったろうに…」(作者注・さとくんは表面は明朗快活な性格で、園の人気者だったが、後に退職。園の仕事をつうじ「にんげんとはなにか」といった大テ-マをかんがえるようになり、「世の中をよくしなければならない」と決心する)

 

 き-ちゃん;「そのとき、あたしは澄んでいた。なにか、背筋に快感をおぼえた。やったあ、とおもった。さとくんいがいのだれが、わたしにじかに、こんなことを問うだろう。こんなにも、きほんてきなことを。むきだしの、ぶしつけな、きほん。…わたしは無から生まれてきた。だから、あたしは無だ。」(作者注・き-ちゃんはベッドの上にひとつの“かたまり”として存在しつづける。性別、年齢不明。目がみえない。歩行ができない。上肢、下肢ともにまったくうごかない。発語ができない。顔面をうごかせない。からだにひどい痛みをもち、ときに錯乱し悩乱する。しかし、かなり自由闊達に「おもう」ことができる。すべての「無化」を希求している)

 

 当時、この“極悪非道”な殺人事件に世間は驚愕(きょうがく)させられた。国民のほどんどは障がいのある人たちに心からの哀悼を捧げ、犯人に対しては激しい憎悪の目を向けた。マスメディアも、そしてこの私も…。辺見さんはそうして善意とか正義とか平等とかの背後にうごめく「ウソさ加減」を書こうとしたのではないのか。「人間には誰しも生きる権利がある」などという正論をヘラヘラと口にする私たち自身の内部に巣くう「浄化(クレジング)と排除の欲動」(本書帯文)…。ナチスドイツを引き合いに出すまでもなく、この国はわずか23年前まで知的障がいや精神に疾患のある人に強制不妊をほどこす「旧優性保護法」(1948年―96年)を許してきたではないのか。辺見さんはこの正体を「おためごかし」と呼んでいる。つまりは「偽善」ということである。

 

 フィナ-レの部分にこんな一節がある。「わたしとあまりにもことなっているために、かえって、どこかよく似たあなた。さとくん、遥(はる)けしちかさのあなた。どこにも『場』のないきみ。どこにも『場』のないわたし。なにもかも、すべて、ことごとく廢(し)いた世界の、無‐場(別の個所では「nowhere」という英字表記も)…」―。さとくんとき-ちゃんの立場が同化する一瞬…つまりは誰でもどちらにもなり得るという「オントロジ-」の深淵をのぞかされたように思った。ひるんでしまった。

 

 LGBT(性的少数者)に対し「生産性がない」と言った国会議員がいた。この発言を批判しつつ、私たちは心のどこかで「浄化と排除」を了承してはいないか。周囲に気づかれないように「快哉」(かいさい)を叫んではいないか。その一方で、国民の約8割が「死刑制度」を容認しているというデ-タがある。「人間には誰しも生きる権利があるという」という口の端をへし折るようにして、「死刑賛成」という大合唱が聞こえてくる。辻潤の「矛盾論」が少し、わかるような気がする。そういえば、昨年夏、オウム真理教の死刑囚13人に死刑が執行された時、この列島が祝祭気分だっことを思い出す。「さとくん」には一体、どんな裁きが待っているのか。その時、私たち国民は…

 

悲劇にあって人を救うのはうわべの優しさではない。悲劇の本質にみあう、深みを持つ言葉だけだ」―。被災地・石巻出身の辺見さんは東日本大震災の際にこう語った。人間存在の根本に迫るその筆致に圧倒される。この人の著作に向き合う時は表皮がべろりと引きはがされるような、そんな“覚悟”が必要である。一時は遠ざけていた「辺見」本を妻を亡くして以降、手に取る機会が増えたような気がする。

 

 

(写真は最新刊の『月』と近影の辺見さん=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

2019.01.25:masuko:[ヒカリノミチ通信について]

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