妻を欠いた初めての年末・年始も沖縄・石垣島に住む娘夫婦と孫二人の嵐のような来訪で、あっという間に過ぎ去り、わが住まいは元の静寂に戻った。余りにも不気味な静けさに思わず、テレビのスイッチを入れて驚いた。新春12時間スペシャル(1月2日)と銘打った歌謡番組から流れてきたのは往年の演歌歌手、三船和子が絶唱する「だんな様」だった。故鳥井実作詞、岡千秋作曲のコンビで、1983(昭和58)年に発売されたこの歌は空前のヒット曲になった。最終節はこう結ばれている。「明日を信じて、お前と二人/お酒のもうと、差し出すグラス/私の大事なだんな様/あなたに寄り添い、いつまでも/心やさしい女房でいたい」(3番)
単なる偶然とはいえ、5ケ月ほど前に妻を失ったばかりの私にとって、「だんな様」とは何ともタイミングが良すぎるではないか。が、次の瞬間、私はかぶりを振った。「否、これはヤマに散った男たちへの挽歌ではないのか」―。新人記者時代、九州での炭鉱取材の経験を生かし、北海道に転勤した後も自称“ヤマ記者”を名乗っていた。1981(昭和56)年10月、北炭夕張新炭鉱でガス突出事故が発生、道内では戦後最大となる93人が犠牲になった。4年後の1985(昭和60)年5月、今度は三菱南大夕張炭鉱でガス爆発が起こり、62人が坑内に没した。この事故をきっかけに同鉱は5年後、閉山に追い込まれた。「だんな様」はこの二つの事故をちょうど真ん中にはさむようにして、うぶ声を上げた。
夕張は豪雪地帯として知られる。振り積む雪は玄関口をふさぎ、屋根からずり落ちてきた積雪はまるで雪ふとんのように上下が合体していた。夜のとばりが下りるころ、居酒屋の灯りが雪明りのようにうっすらとあたりを照らし出す。キタキツネの足跡をたどるようにして、私たち取材班は行きつけの店に足を向け、冷え切った体を温めた。「俺家」(おれんち)という名前だった。地元紙の道新(北海道新聞)やNHK、共同通信、全国各紙の記者たちがいつも一緒だった。他に体力を維持する適当な店がなかったせいでもある。北炭事故で最後の遺体が収容されたのは163日後の翌年春だった。残っていた骨片は手の平に収まるほどに小さくなっていた。
「がまんしている背中をみれば/男らしさに、涙が出ます/私の大事なだんな様…」(2番)―。しんしんと深雪が降りるある夜、店の中に「だんな様」の大合唱がこだました。同席したヤマの男たちの飲みっぷりの良さにうっとりし、板子一枚下の「地獄」から生還した時の(タバコの)一服の仕草にほれぼれしてしまう…。そんな男たちがある日突然、地底(じぞこ)に絶命する―、まるでヤケクソみたいになって、この挽歌を歌いまくっていたことを今でもまざまざと思い出す。そこには特ダネ競争にうつつを抜かす記者の姿はなく、幼児と見まごう亡骸(なきがら)にともに涙した“同志”たちが確かにいたような気がする。
そういえば、足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した「田中正造」研究でも知られる在野の哲学者、花崎皋平(はなざきこうへい)さんも、当時住んでいた札幌からふらりとこの居酒屋に現れることがあった。その花崎さんから年賀状が届いた。「私は今年満88歳を迎えます。幸い、まだ(無病)息災ですので、反戦平和の活動と読み書きを続けたいと思っております」と記してあった。妻の別離とヤマの男たちの無念、そして、私よりも10歳年上の老哲学者からの励まし…。新年早々、「だんな様」が思わぬ縁(えにし)を紡ぎ直してくれた。
作詞した鳥井は妻の死の約1か月後の昨年8月末に83歳でこの世を去った。このヒットメーカーが実は北海道生まれというのも奇縁といえば奇縁ではある。ひょっとして、この演歌は生と死のはざまに響く現代の「声明」(しょうみょう)なのかもしれないという思いがした。それにしても、「夕張」は演歌がぴったりのまちだった。
(写真は雪に埋もれる夕張の町並み。スト-ブは半年間、つけっぱなしである=インタ-ネット上に公開の写真から)
《追記》~「絶望の街」で終わらせない
1月5日付「朝日新聞」全国版の社会面トップに、こんな見出しの記事が載った。「あの街/代替わり」と題したシリ-ズで、財政再建に苦闘する元炭都・夕張の姿を伝えていた。当ブログで言及したように、相次ぐ炭鉱災害と閉山の嵐の中で、夕張は2006年に財政破綻した。「第2の閉山」と呼ばれた。記事の中に元炭鉱マンの加藤博さん(86)が登場していた。15歳で石炭から土砂をふるい分ける「選炭」の仕事についた。最後に働いた炭鉱が閉じたのは87年。関東へ出稼ぎに出た―。「だんな様」を口にした、おそらく最後の世代だと思う。ヤマの男たちの苦楽を託したような、この演歌がいつの日かよみがえらんことを…
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