HOME > ヒカリノミチ通信について

(敗戦74年特別企画);映画「硫黄島」と海軍水兵長・山蔭光福、そして朝鮮人徴用工

  • (敗戦74年特別企画);映画「硫黄島」と海軍水兵長・山蔭光福、そして朝鮮人徴用工

 

 「戦後4年目に2名の(日本)兵が出てきたのが最後であった」―。先の大戦で日米両国が死闘を繰り広げた凄惨な全貌を記録した映画「硫黄島」(1973年、98分)の後半部分にこんなナレ-ションが挿入されている。米国防省に未公開のまま保管されていた記録フィルムを日本人の手で編集したもので、この日本兵のひとりこそが当花巻市出身の海軍水兵長・山蔭光福(故人=出征当時19歳)である。この人の数奇な運命については、知人の追跡ルポを「玉砕の島『硫黄島』秘史」というタイトルで5回(2019年3月27日~4月10日)にわたって、当ブログに転載した。詳しくはその文章を読んでいただきたい。

 

 島へ向かう米戦艦。米海兵隊の上陸。進行する米兵。自動式大砲や火炎放射器による集中砲火…。今回、この映画を初めて見て、そのすさまじさにおののいた。山蔭水兵長はなぜ、降伏後4年間も洞窟の中で生き延びることができたのか。なぜ、せっかく生き延びた命を自ら断たなければならなかったのか―。1945年2月19日から3月26日までの「硫黄島の戦い」で、総兵力約10万人(上陸部隊約6万人)の米軍が硫黄島に上陸。栗林忠道中将率いる約2万人の守備隊は地下壕に潜伏するゲリラ戦法で対抗したが、火山の地熱で灼熱状態の中、補給も受けられずに飢えと渇きに苦しみながら大半が戦死した。米軍側の戦死者も約6800人に達し、米軍死傷者が日本軍を上回った唯一の戦いとなった。追跡ルポの中にこんな記述がある。

 

 「それでも山蔭は地下5メ-トル、横穴の深さ10メ-トルの壕掘りや砲台つくりに追われた。炎天下に与えられた水はわずか1合、食料供給の輸送船は月に1、2回になって主食は4割減といった状況だった。12月になると、1日1回程度だった米軍の空襲が2回3回と増え、B24、B29機による連続爆撃は夜間30分おきとなり、一度に5キロ爆弾を数百発も落とされる事態になっていた。翌年2月になると、3つの空港のうち一つが、その2日後には島の4分の1が占領された。そこで、上陸した米軍への斬り込みが計画され、55人の砲台員は半分ほどに減り、3月12日には生存者は山蔭を含む6人だけになっていた」

 

 映画の中ではこんなナレ-ションが流れる。「運の良かったものだけが生きて帰る。これが戦(いくさ)というものであろう。誰が一体、勝ったのか。生き残った者だけが勝ったとも言えるのではないか」―。両手を頭上に掲げ、洞窟の中から出てくる兵士の姿に一瞬、虚を突かれた。本土防衛のため、「最後の一兵まで」を口にしていたのが日本軍ではなかったのか。ナレ-ションはこう続いた。

 

 「3月5日、洞窟の中から初めて、人間が姿を現わした。強制的に徴用され、飛行場や陣地の構築に使われた朝鮮人労務(働)者たちがアメリカ軍の降伏の呼びかけに応じて出てきたのである。約2000人いたというが、そのうち、何人が生き残ったのか、その正確な数は今もってわかっていない」―。この光景を目の当たりにしながら、私の脳裏には「人身御供」(ひとみごくう)という言葉がよぎった。捕虜の取り扱いに米軍がどう対応するのか…日本軍はそのことを知るために朝鮮人を米軍の前に差し出したのではないか―という思いにとらわれたのである。いま、日韓が鋭く対立している「元徴用工」問題の原風景と日本の植民地支配の原点がここにある(コメント欄の写真参照)。

 

 奇跡的な生還を果たして帰国した山蔭水兵長は昭和26年春、潜伏期間中に書き残した日記帳を取り戻すためにふたたび、硫黄島に渡った。日記帳は判読ができないほどボロボロになっていた。同行した極東空軍司令部の歴史家員、スチュア-ト・グリフィンはその様子をこう証言している(5月10日付「毎日新聞」)。「山蔭君が飛び降りたのは摺鉢山旧噴火口から約90メ-トル離れた地点であった。山蔭君は突然、両手をさしあげ『バンザイ』と叫びながら、狭いがけの突出部から身を躍らせた。そのため、落下する姿はマザマザと目撃された。険しいがけの中腹に同君の身体が最初に激突したとき、火山灰がもうもうと舞い上がった。もち論即死だったろうが、その身体は何度もがけの突出部にぶつかりゴロゴロと転がりながら、落ち込んで行った。午前10時半ごろだったろう」―

 

 山蔭水兵長はいったん、生き残ったという意味では「勝者」である。しかし、その命を自ら断ったという意味では同時に「敗者」でもある。「太平洋への〝死の跳躍〟」、「摺鉢山で硫黄島生き残りの山蔭君」、「探す〝四年の洞窟日記〟」、「ナゾ解けぬ彼の死」…。スチュア-トの記事にはこんな見出しが躍っている。いまとなっては、その死はナゾの彼方に葬り去られたままである。玉砕のもくずと消えたその「生と死」を詮索することに何ほどの意味があろうか。ただひとつ、言えることは―「戦争には勝者も敗者もない」ということであろう。映画なこんな言葉で閉じられている…「硫黄島は太平洋に浮かんだ悔恨の記念碑である」。日本は今日8月15日、74回目の敗戦記念日を迎えた。

 

 

 

(写真は硫黄島の要塞「摺鉢山」に掲げられた星条旗。米ワシントンDCにある、アーリントン国立墓地近くの海兵隊戦争記念碑(硫黄島記念碑)にこのブロンズ像は建っている=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

《追記》~いまも続く戦争の傷跡

 

 「硫黄島からのはがき/花巻出身・滝田さん遺品」―こんな大見出しの記事が8月15日付「岩手日報」に掲載された。当時、山蔭水兵長と同じ19歳だった花巻出身の滝田清吾さんは1945年3月に硫黄島で戦死した。今回、米兵の家族から返還されることになった軍事郵便には「私も変わりなく日夜、戦いに又作業に精致して居ります。故里(ふるさと)も、今や雪にとざされ、寒さ厳しき頃でせう」などと書かれている。私の手元にもシベリアで戦病死(栄養失調)した父の軍事郵便の束が残されている。戦争の傷跡は絶えることがない。作家の故菊村到は山蔭水兵長を題材に『硫黄島』を書いて芥川賞(1957年)を受賞。2年後には宇野重吉監督の下、同名のタイトルで映画化された。

 

 

 

 

 

(お盆向け特別企画);真夏の夜の“ミステリ-”………上田城、ついに落城か!?

  • (お盆向け特別企画);真夏の夜の“ミステリ-”………上田城、ついに落城か!?

 

【前座】

 

 「最後のブログを読んだよ。お盆を前に弔いイベントをやるから、出てこないか」―。世界的なサックス奏者で、ミジンコの研究者でもある盟友の坂田明さんからお誘いがかかった。妻の一周忌を終えたばかりの私はあたふたと駆けつけた。時は令和元年8月7日午後7時、場所は宮城県栗原市にある曹洞宗・通大寺…宵闇が迫った本堂から、こわ~い話がもれてきた。壇ノ浦の合戦に材を得た、おなじみの怪談「耳なし芳一」である。元NHKアナの青木裕子さんが朗読を担当、坂田さんがサックスを奏でながら、一方で芳一役も演じるという型破りの演出である。

 

 「女房に先立たれた夫は大体、2年以内に死ぬらしいぞ」―。妻の没後、坂田さんからこう忠告された。気遣いも人一倍のこの盟友らしい今回の企画はそもそも、東日本大震災の犠牲者の霊を慰めるために始められたらしい。「盆ちゅうのわな、あらゆる霊の厄を払うためのものさ。みんな、あの世で安らかに、とな」。かつて、坂田さんはアイヌのミュ-ジシャンとのコラボで、「ウエンカムイ」(悪い神)を演じたことがある。前回の当ブログで触れたいようにアイヌにとっては、人間の力の及ばないものはすべてがカムイである。だから、ウエンカムイも例外ではない。で、その悪い神さまは今度は「救いの神」として、私の目の前に立ち現れたのである。ありがたや。さ~て、これからがいよいよ、真打の登場である。

 

 

【真打登場~その1】

 

 壇ノ浦ならぬ、わが「イ-ハト-ブはなまき」界隈でいま、よりミステリアスな“エアガン”騒動が持ち上がっている。事の発端はこうである。当花巻市は8月1日、12万円以上の「ふるさと納税」の返礼品として、プラスチック製の弾(たま)を圧縮した空気で飛ばすエアソフトガン(エアガン)をリストに加えた。HP掲載後に問い合わせが殺到、45分後に申し込みがあり、受け付けを終了した。「地元で部品作りから組み立てまで行っており、自信を持って出せる品。予想以上に反響があり驚いている」(定住推進課・高橋信一郎課長補佐)と当初は鼻高々だったのだが…。この話題がテレビのワイドショ-のほか、全国紙や地方紙に報じられるに及んで事態は一変した。

 

 問題のエアガンは花巻市内のメ-カ-が製造した「ウィンチェスタ- M1873 カ-ビン」。幼いころ、西部劇ファンだった私にとっても懐かしいライフル銃である。「西部を征服した銃」とも呼ばれたが、長じてからはインディアン(アメリカ先住民)を殺戮した忌まわしい銃だという負のイメ-ジが付きまとっていた。「本物ではないにしても過去の暗い歴史を思い出させる」、「アメリカでは銃乱射事件が相次いでおり、嬉々として返礼品に加えるのは無神経すぎないか」…。当然のことながら、ネット上にはこんな意見が相次いだ。まずはこの見事なまでの想像力の欠如に驚いてしまう。騒動が受けた同市は今月8日付のHPに上田東一市長名のこんな記事が掲載し、メーカー側にも伝えた。

 

 「当該エアソフトガンは日本遊戯銃協同組合の自主規制が遵守されているものであり、その意味で安全性は確認された上で、市販されていると認識しております。しかしながら、殺傷能力のないエアソフトガンとはいえ、対人用の武器として使用した銃を再現したものであるため、当市の独自の判断として、ふるさと納税の花巻市への寄付に対する返礼品として、市が取り扱うことは不適切という結論に至りました。当市の今回の対応が一貫していなかったことについて、大変申し訳なく存じます」―。

 

  「独自の判断」でこの銃をリストに加えたのは一体、誰だったのか。盗人猛々しいとはまさにこのこと。木で鼻をくくるどころか、この思考の分裂はもはや病的とさえ言わざるを得ない。「市の担当者から是非にと懇願されたのに…。1丁だけだよ、とOKした結果がこれでした。いきなり、はしごを外されたようなもの」ー。とんだとばっちりを受けたのは、正規の法規制に基づいて製造した当のメ-カ-である。今回の対応がメ-カ-側にとっては「名誉棄損」(信用失墜)にも相当する重要な事案であることに、行政トップは思いが至らなかったのだろうか。だとすれば、「イ-ハト-ブはなまき」はもうすでに死に体であることの証左である。

 

 

【真打登場―その2】

 

 花巻市の中心市街地に人の気配がまったくない空間が広がっている。今年7月1日にオ-プンした「花巻中央広場」である。市民が気軽に足を運び、イベントにも活用できる公園として整備され、上田市長も「人が集まり、楽しめる場所にしたい。街中のにぎわい創出や活性化のための拠点としての活用が期待される」と胸を張った。陽をさえぎる木陰があるわけでもなく、蛇口がたった三つの水飲み場あるだけで、トイレもない。「まるで、上田記念公園ではないか」、「熱中症になりにいくようなもの」、「1億円近い工費も結局、ドブに捨てたようなもんではないのか」…。連日の酷暑続きの中で、こんな声がひんぱんに聞こえてくる。

 

 お盆を前にして、あの世から里帰りする霊たちもあちこちをさ迷い歩いている。旧花巻城跡で猛威を振るうやぶ蚊に追いやられた幽霊たち(7月23日付当ブログ「城跡…無惨、いまや蚊の発生源!?」からはこんな嘆きがもれ聞こえてくるような気がする。「おれ達、お化けだって、熱中症にはなりたくないからな」―。これではまるで「幽霊さえも寄り付かなくなった」―という“都市伝説”も顔負けするような光景ではないか。霊性の詩人と言われる宮沢賢治はふるさとのこんな無様なありさまを、銀河宇宙の彼方からどんな思いで眺めているのであろうか。

 

 

【真打登場―その3】

 

 上田市長も愛読しているらしい、花巻ゆかりの新渡戸稲造は『武士道』の中にこう書き記している。「真の忠義とは何であろうか?武士道は主君のために生き、そして死なねばならない。しかし、主君の気まぐれや突発的な思いつきなどの犠牲になることについては、武士道は厳しい評価を下した。無節操に主君に媚(こび)を売ってへつらい、主君の機嫌をとろうとする者は「佞臣(ねいしん)」と評された。また、奴隷のように追従するばかりで、主君に従うだけの者は「寵臣(ちょうしん)」と評された。家臣がとるべき忠節とは、主君が進むべき正しい道を説き聞かせることにある」

 

 ワンマン・上田市長が君臨する「上田城」にはいま、佞臣や寵臣たちがまるでバッタのように蝟(い)集している。今風に解釈すれば、「忖度」政治の地方版である。エアガンの発案者にしても、主君(上田市長)に取り入ろうとする哀れな家臣(職員)の姿のように映って見える。残骸をさらけ出す旧花巻城跡を追うように、上田城の落城ももはや時間の問題だという思いにとらわれる。もしかしたら、「耳なし芳一」とは聞く耳を持たない上田市長その人かもしれない。最大の被害者はこんな行政に身を任せなければならない、我われ市民である。と同時に、そんな人物をトップに選んだ責任は我われ市民の側にもある。もちろん、そのひとりは私自身である。

 

 

(写真は寺子屋ライブのひとこま。「耳なし芳一」の語りとサックスの音色が不思議なほどに調和していた=8月7日、栗原市内の寺で)

 

 

《追記》~ブログ保存について

 

 パソコン上に掲載されている当ブログについては、当分の間、そのままの状態で保存しておきたいと思います。それ以前の分はすでにUSBなどに移し替えており、現存分は2017年4月20日付から2019年8月9日付までの206回分です。激動する内外情勢や行政と議会の機能不全ぶり、妻の死に翻弄(ほんろう)された一年間のこころの動きなどを読み取っていただければ幸いです。「本質的な議論」の復活を切に望みながら…。

 

 こんな予告(ブログ閉鎖)をしていましたが、今回、市民生活と密接不可分なミステ-まがいの出来事が起きました。元市議としては黙過することはできないと考え、このような事態の発生に際してはその都度「特別企画」として、掲載したいと考えています。賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」はいま、存亡の危機に立たされています。行政と議会の動きからは一時も目を離すことはできません。

 

 まさに偶然と言えば偶然なのですが、この追記を書いていたそのさ中、沖縄の米軍基地問題での陳情(7月11日並びに同15日付当ブログ「『陳情不採択』顛末記参照)でお世話になった沖縄在住の「新しい提案・実行委員会」の安里長従代表から,「近く開く報告集会で、この資料を配布していいか。沖縄の地元紙からも問い合わせがあるかもしれないので、その時はよろしく」という電話が入りました。もちろん快諾しましたが、今回の”エアガン”騒動などを含め、当市の動向が全国的な注目を集めていることに、逆にこっちの方がびっくりしてしまいました。

 

 



 

 


 

カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム

  • カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム

 

 妻が旅立って、7月29日でちょうど1年が経った。あの日も酷暑の夏だった。抗がん剤治療を続けていた妻は見る見るうちにやせ細っていった。「神や仏はいないものなのか」…数年間にわたって、妻を苦しませ続けてきた「病魔」の前に私はなす術もなく、立ち尽くしていた。と、そんなある日、「神さまはいるんだよ」という声が遠音に聞こえたような気がした。

 

 「徘徊する神」―。その神はアイヌの世界で、こう呼ばれていた。アイヌ語訳すると「パヨカ(歩く)・カムイ(神)」となる。長いひげをたくわえたエカシ(長老)がニヤニヤしながら言った。「アイヌは人間の力の及ばないものはすべてカムイだと信じてきた。だから、コタン(集落)を全滅の危機におとしいれる『病気』もれっきとしたカムイなのさ。病気の神さまも自分の役割を果たすのに必死なんだよ。病気をまき散らすためにせっせと歩き回るから、いつも腹をすかせていてな。で、徘徊する神というわけだ。この時の魔除けにもいろいろあるぞ」

 

かつて、アイヌ民族にとっての大敵は「疱瘡(ほうそう)=天然痘」だった。流行の兆しがある時には「どうか私たちのコタンには近づかないで…。これでお腹を満たしてください」と家々から持ち寄った穀物などを火の神(アペフチカムイ)を通じて届けたり、コタンの入り口に匂いの激しいヨモギの草人形を立てたりして、この病気の退散を願った。こんな言い伝えを口にしながら、「でもな、実際にパヨカカムイに取りつかれた時にどうするかだ」とエカシは自慢のひげをもてあそびながら、続けた。「薬だけで治ると思ったら、大間違い。病気の神さまとも仲良く付き合うことが大事なのさ」

 

入退院を繰り返していた別のフチ(おばあさん)からはこんな話を聞かされた。「病気の神よ、私の体の中はそんなに住み心地がいいのかい。でも、あんまり暴れるとワシも痛いから、仲良くしようよ。こう言うのさ」。元気になって退院したフチは今度はすました顔でこう言った。「やれやれ、あの病気の神さまはよっぽど、ワシの体の住み心地が悪いと見えて逃げて行ってしまったよ」―。30年近く前のこの時の取材体験を、私は病臥(びょうが)する妻に聞かせてやりたいと思ったのだった。ウンウンとうなづいていたその表情が一瞬、微笑んだように見えた。息を引き取ったのはその数日後のことだった。刹那(せつな)、ある歌が口からもれた。

 

「若き日 はや夢と過ぎ/わが友 みな世を去りて/あの世に 楽しく眠り/かすかに 我を呼ぶ、オ-ルド ブラック ジョ-/我も行()かん、はや 老いたれば/かすかに 我を呼ぶ、オ-ルド ブラック ジョ-/我も行かん、はや 老いたれば/かすかに 我を呼ぶ、オ-ルド ブラック ジョ-」―。のちにシベリアの凍土で帰らぬ人となった父親を戦地に見送った直後から、当時まだ5歳だった私はアメリカの作曲家・フォスタ-のこの黒人霊歌をつっかえひっかえ、原語で歌うのが習い性みたいになっていた。父親との別れが子ども心にも辛かったのだと思う。その没入ぶりは母親もびっくりするほどだったらしい。

 

Gone are the days when my heart was young and gay…」―。「一周忌」前日の28日、妻と私が幼い時に見物を欠かさなかった浄土宗・勝行院如来堂(市内鍛治町)の宵宮に孫たちを連れて行った。その時に不意に口をついて出たのもこの「オ-ルド ブラック ジョ-」(黒人の老翁・ジョ-)だった。一体、何故だったのか。いまもその理由は判然としない。宵宮のたたずまいが遠い記憶を呼び起こしたのだろうか。ひょっとしたら、世代をまたぐ孫たちに何かを引き継ぎたいという切羽つまった気持ちだったのかもしれない。

 

表題に引用した言葉はアイヌ文学の「ウエペケレ」(昔話)によく出てくる表現で、パヨカカムイもそうであるように、「天から役割なしに降ろされたものはひとつもない」という意味である。妻が他界したその日は私が引退を決めた市議選の投開票日に当たっていた。結婚以来50年―この間、新聞記者や市議会議員という荒っぽい人生の同伴者として、愚痴ひとつこぼすことなくその「役割」を十分に果たしてくれた。逆に、尻込みする私にハッパをかけてくれたりもした。さて、2期8年間の市議生活の歩みと妻亡き後の苦悩の日々を包み隠さず、書き綴ってきた当ブログを今回をもって閉じたいと思う。力尽きて旅立った後、さらに1年間も道連れにしたことを許してほしい。今度こそ、カント(天空)へと真っすぐに舞い戻ってほしいと心から願う。ありがとう、そして、さようなら…。

 

最後に長い間、お付き合いをいただいた皆さま方に感謝を申し上げます。この間、タイトルは宮沢賢治にあやかって「イーハトーブ通信」から「マコトノクサ通信」をへて、現在の「ヒカリノミチ通信」に変わり、延べアクセス数は87万件を超えました。皆さま方の叱咤激励(しったげきれい)がなかったら、途中で挫折していたかもしれません。またいつか、この場でお目にかかることができるのかどうか―。いまはただ、己自身が「パヨカカムイ」にならないよう、いや、このおっかない神さまに付け回されないように自戒を込めつつ、では、お元気で。

 

 

 

(2019年7月29日、亡き妻の一周忌の日に)

 

 

 

(表表紙の写真はアイヌ文化の伝承者、川上まつ子さん(故人)の物語世界を紹介する絵本「白鳥の知らせ」より。何となく、天空を連想させる=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

城跡…無惨、いまや蚊の発生源に!?

  • 城跡…無惨、いまや蚊の発生源に!?

 

 “お化け街道”と秘かに名づけていた県道298号(山の神西宮野目線=旧国道4号)―その歩道を占拠し続けていた大量の雑草がある日突然、きれいさっぱり除去された。この一帯は「城内」の地名が示すように明治期まで南部藩下の花巻城があった由緒ある土地で、市の中心部に位置する一等地である。戦後、デ-タ通信の先駆けをつくった谷村新興製作所が立地し、現在は宮城県内の不動産業者の所有になっている。梅雨入りした直後から雑草は猛威を振るい始め、周囲の景観を損なうだけではなく、歩行の邪魔になるなどの苦情が私の所にも相次いでいた。

 

 こんな時には「新興跡地」問題を舌鋒鋭く追及し続けてきた本舘憲一議員(花巻クラブ)の力を借りるのが一番手っ取り早い。「ボウフラもわくなど衛生上も問題だ。いまのところ、行政も動く気配がないようだ。この際、市民の代表である議員たちが率先して、草刈ボランティアを立ち上げてはどうか」―。「グッド・アイデア」と本舘さんも大いに乗り気だった。ところが、証拠写真を撮影した2日後の78日、現場付近を通ってみたら、あら不思議(!?)、跡地からはみ出していた大量の雑草がみんな消えてしまっていたという次第。県道を管理する花巻土木センタ-に問い合わせると、「スケジュ-ル通りの除去です」とのこと。「声なき声」が届き、一件落着と喜びたいところだったが、その発生源に目をやって、腰を抜かした。

 

 「城跡、無惨。幽霊屋敷とはこのことか」―。県道を境にした花巻城址のたたずまいは雑草におおい尽くされ、かつてのシンボルの面影さえうかがい知ることはできない。スギナやドクダミなどはその根が地獄の底までつながっていると言われる。そう、まさにこの雑草たちのように、跡地問題の「根」も実に深い。忘れもしない、あれは「あっと、驚く」クリスマスプレゼントだった。

 

 事の発端は5年近く前の平成26(2014)年12月17日にさかのぼる。新興跡地の民間業者への売却計画が浮上し、「公有地の拡大の推進に関する法律」(公拡法)に基づき、花巻市側に取得の優先権が与えられた。譲渡予定価格は敷地内の建物解体費用を含めて約7億7千万と試算されたが、この費用を相殺した結果、実売却額は100万円に設定された。この土地取引について、上田東一市長は「利用目的のはっきりしない案件に市民の大切な税金を投入するわけにはいかない」として、最終的にその年のクリスマスのまさにその日に「拒否」回答をした。この間、私を含む一部の議員の間からは「譲渡先とされる不動産業者は実態が不透明。土地の転売(土地ころがし)などのリスクはないか」などの懸念が出され、当の上田市長自身も「実はその点が心配だ」との認識を示していた。

 

 その後の経過は懸念された通りに展開した。土地を格安で購入した不動産業者はその一部をパチンコ店用地として転売し、ホ-ムセンタ-の建設計画も華々しく打ち上げた。驚くなかれ、「パチンコ万々歳」と市側をバックアップしたのは革新系会派を中心とした議員たちだった。あれから5年―。お化け屋敷と化した新興跡地をめぐっては不動産業者と解体業者の間で契約金不払いの裁判沙汰が起きるなど収拾のつかない状態が続いており、競売にも買い手がつかない“塩漬け”のまま。解体された建物のガラは放置され、付近の住民は蚊の大量発生にも戦々恐々(せんせんきょうきょう)しなければならない。

 

 ふと、「政治決断」とは何か―ということを考えてしまう。5年前のクリスマスの際、「もうひとつのプレゼント」(所有権移転)を市民が手にしていたなら…、そして、将来の利用計画については広く市民に問いかけるという選択をしていたなら……。「たら・れば」が許されるなら、いまの無残な城跡を市民は目にすることはなかったはずである。上田市長の先祖は花巻城の大改修工事(文化6年)の際に指揮をとった上田弥四郎氏(1768―1840)だと伝えられる。儒者としても知られたが、建築関係にも造詣が深く、「造作文士」とも呼ばれた。

 

 「政治家とは将来のリスクまで含めて、時には大胆な決断を強いられる存在ではないのか」―。上田市長は無惨な城跡の光景を日々、どんな気持ちで眺めているのであろうか。後事を託した先祖に対し、どんな思いを巡らせているのだろうか。あるいは「市側もある意味では被害者である」という説得力のない弁明をこれからも続けるつもりなのであろうか……。参議院選挙が終わった荒れ野には無責任政治の残骸があちこちに転がっている。

 

 

(写真は私有地だという理由だけで放置されたままの城跡の雑草。景観だけでなく、衛生上の問題も浮上している=7月8日、花巻市御田屋町で)

 

力(りき)さん、おめでとうございました…そして、本当にお疲れさまでした

  • 力(りき)さん、おめでとうございました…そして、本当にお疲れさまでした

 

 「長い隔離政策の中で培われた予断と偏見、無知的な状況を放置してきた国家の責任、そのことを改めて私たちは問いたい」―。力(りき)さんの、いささかもぶれない凛(りん)とした声は50年前と少しも変っていなかった。国側の控訴断念・勝訴確定を喜ぶハンセン病家族訴訟の原告団長として、困難なたたかいを率いてきた林力(ちから)さん(94)…。親しみをこめて、ずっと「りきさん」と呼んできた兄貴分との久しぶりのテレビでの対面に私は胸にこみあげるものを感じた。半世紀もの時を隔ててなお、私を陰で支え続けてくれている野武士のようなその存在がいま、満面の笑みを浮かべてわが眼前に立っているではないか―。

 

 りきさんが40代半ば、私が20代の後半だった時に2人は初めて出会った。当時、初任地の九州・福岡ではいわれなき差別からの解放を求める「部落解放」運動が各地で盛り上がっていた。東北出身の私にとっては「同和地区」と呼ばれる“部落”はなじみの薄い存在だった。そんなある日、高校教師だったりきさんが福岡県同和教育研究協議会を立ち上げ、その会長職にあることを知った。「差別と貧困のために就学の機会を奪われたおばちゃんたちがいま一生懸命、『あ・い・う・え・お』の勉強をしとるんよ。一緒に行ってみないか」と誘われた。

 

 日本一の産炭地・筑豊の同和地区の片隅で「識字学級」が開かれていることをその時、知った。当時の光景が目にこびりついている。ミカン箱を机代わりにしたお年寄りたちが鉛筆を舐めなめ、紙に向かっていた。「文字を自分の手に取り戻した時、人は生きる喜びを得るのだと思う」と言って、りきさんは一枚の手紙のコピ-を見せてくれた。たどたどしい文字で「夕やけがうつくしい」と書かれていた。「このおばちゃんはね、この手紙を書いて以来、夕焼けが本当に美しく見える…てね。そう言っているんだよ」とりきさん。知り合って数年後、りきさんは同和教育の総括を『解放を問われつづけて』と題する本にまとめた。ペ-ジをめくって驚いた。

 

 「差別にあらがう人たちの突き抜けるような不思議な明るさを見て、父の存在を隠し続ける自分を恥じた。差別された経験がなければ同和問題に取り組むこともなかった」―。文中には父親がハンセン病患者であった赤裸々な告白が記してあった。『「癩者(らいしゃ)」の息子として』、『父からの手紙・再び「癩者」の息子として』、『山中捨五郎記・宿業をこえて』…。私の書棚には茶色に変色した、りきさんの著作が大切に保管されている。本名の馬場広蔵のほか、偽名を含めて林広蔵、山中捨五郎、山中五郎などと名前を隠して生きなければならなかったハンセン病患者の苦難の歴史がこれらの本にはびっしり、詰まっている。

 

 りきさんの人生は13歳になった年の夏、父親がハンセン病療養所「星塚敬愛園」(鹿児島県)に入所したことで一変した。父を見送った数日後、白い服に帽子をかぶった長靴姿の男性たちが家に上がり込み、「消毒」と称して白い粉をまいた。近所の人は窓を閉め切って家にこもり、翌日から口をきいてくれなくなった。周囲の子に「くされの子」と指をさされ、母と一時親類を頼って上京。名字も変えた。だが、父の存在はその後もつきまとった。小学校教師になった20代の頃、同僚の女性を好きになった。だがある日を境に、彼女は目も合わせてくれなくなった。結婚し、生まれた娘にもその存在を隠し、父は孫娘を一目見ることもなく、1962年に星塚敬愛園で亡くなった。

 家族訴訟の判決は6月28日熊本地裁で言い渡され、国の責任を認めた上で元患者家族561人のうち、20人を除いて総額3億7675万円の支払いを命じた。一連のニュ-スを聞きながら、私のまなうらには当時の光景が早送りのコマのように去来した。しり込みする私の首根っこをつかまえて、「差別」の原点へと引っ張り出してくれたりきさんに心からの感謝の気持ちを伝えたいと思った。りきさんは『父からの手紙・再び「癩者」の息子として』のあとがきの中にこう書いている。

 「『売れない、らいの本』を引き受ける出版社はざらにあるものではない。そのうえ、部落問題(同和問題)と重なっていることが出版社をたじろがせた。そのことをはっきり口にしたところもあった。こうして出版社さがしに多くの月日を要した。…増子義久さん(朝日新聞東京本社)などが奔走してくれた」―。いささかなりともお役に立ったかと思えば、今回の「勝利」も自分のことのようにうれしい。ちなみに、この本の出版元は被差別少数者に寄り添う多くの本を刊行してきた内川千裕さん(故人)が立ち上げた旧草風館(東京・神田)である。

 

(写真は勝利の喜びを分かち合う「りきさん」(右端)=7月12日、国会内で。インタ-ネット上に公開の写真から)