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追悼!!「アフガン、命の恩人」…中村哲

  • 追悼!!「アフガン、命の恩人」…中村哲

 

 「この土地で『なぜ20年も働いてきたのか。その原動力は何か』と、しばしば人に尋ねられます。人類愛というのも面映いし、道楽だと呼ぶのは余りに露悪的だし、自分にさしたる信念や宗教的信仰がある訳でもありません。良く分からないのです。でも返答に窮したときに思い出すのは、賢治の『セロ弾きのゴ-シュ』の話です。セロの練習という、自分のやりたいことがあるのに、次々と動物たちが現れて邪魔をする。仕方なく相手しているうちに、とうとう演奏会の日になってしまう。てっきり楽長に叱られると思ったら、意外にも賞賛を受ける」―

 

 「アフガンの命の恩人、中村哲さん、銃弾にたおれる」―という衝撃的なニュ-スに接し、私はいま、呆けたような状態で冒頭の文章を口にしている。『医者井戸を掘る―アフガン旱魃の闘い』などの著書で知られる医師の中村哲さん(享年73)が4日、ハンセン病の治療や農業振興などの支援に当たっていたアフガニスタンで銃弾に死した。引用した文章は2004年、第14回宮沢賢治賞(イ-ハト-ブ賞)を受賞した際、遠い異国のアフガンから寄せられた感謝のメッセ-ジの一節である。この文章はこう結ばれている。「馬鹿で、まるでなってなくて、頭のつぶれたような奴が一番偉いんだ(『どんぐりと山猫』)」という言葉に慰められ、一人の普通の日本人として、素直に受賞を喜ぶものであります」

 

 私が新聞記者として初めて遭遇した最大の出来事は「三池炭鉱炭じん爆発事故」(1963年=福岡県大牟田市)で被災し、重篤な後遺症に苦しむ患者たちの取材だった。。458人が死亡し、839人が不治の病と言われた「一酸化炭素(CO)中毒」に侵された。九州大学医学部を卒業した中村さんがその時、若き精神科医の研修生として、患者の治療に奔走していたことをあとで知った。当時、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の現場で、互いにすれ違っていたかもしれない。いま思えば、その時の運命的な”出会い“が6歳年下ながら、私が彼を人生の師と仰ぐきっかけだったように思う。

 

 中村さんの母方の伯父は作家の火野葦平で、外祖父は日本有数の炭鉱地帯・筑豊の荷役を一手に請け負ったヤクザ(任侠)の血を引く玉井金五郎である。火野の長編小説『花と竜』は父親の玉井をモデルにした作品で、映画化もされた。受賞後、中村さんが講演に当市・花巻を訪れたことがあった。質問の段になって、私は手をあげた。「中村さんの中にはヤクザの血が流れているんじゃないですか。ぶれることのない姿勢を見ているとそうとしか思えないんですが…」―。内心、ぶしつけな質問かと思ったが、アジアのノ-ベル賞と言われる「マグサイサイ賞」を受賞したひげ面はニャッと笑って答えた。「実は私もそう思っているんですよ」。その時の満面の笑顔が消えることのない残像として、私の脳裏に刻まれている。

 

 第1回「沖縄平和賞」(2002年)を受賞した際、中村さんはこう述べている。「遠いアフガニスタンでの活動と、アフガンに出撃する米軍基地を抱える沖縄、このコントラストは、現場にいる私たちには圧倒的であります。平和をとなえることさえ、暴力的制裁を受ける厳しい現地の状況の中で物言えない人たちの声、その奪われた平和の声を『基地の島・オキナワ』が代弁するのは、現地にいる日本人として名誉であります。沖縄の抱える矛盾、これは凝縮された日本の矛盾でもありますが、米軍に協力する姿勢を見せないと生き延びられないという実情は、実はかの地でも同じです。基地を抱える沖縄の苦悩は、実は全アジア世界の縮図でもあることをぜひお伝えしたいと思います。―。その時の基金をもとに現地に開設された診療所は「オキナワ・ピース・クリニック」と命名されている。

 

 「武器ではなく、命の水を」―。中村さんは終生この言葉を口にし、倒れる直前までそれを実行した。今回の訃報を受け、私はこの年末年始を米軍基地で揺れる「沖縄・辺野古」に身を置いてみようと考えている。中村さんの「原点」でもある大牟田(三池)の地で留守宅を守り続けた妻の尚子さん(66)は言葉少なに語った。「場所が場所だけにあり得ると思っていた。家にずっといてほしかったけど、本人が(活動に)かけていたので……」……“三池の知遇”よ、さようなら。そして、勇気を与えてくれたヤクザの末裔よ、ありがとうございました。合掌

 

 

 

(写真はありし日の中村さん。アフガニスタンの地で=インタ-ネット上に公開された写真から)
 

 



 

現人神と政教分離…そして、狂気の笑い

  • 現人神と政教分離…そして、狂気の笑い

 

 「大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する」(明治憲法第1条=明治22年2月11日公布)―。わが宰相の「天皇陛下万歳」と21発の祝砲で始まった大嘗祭(だいじょうさい)を含む一連の天皇の代替わりの儀式を見ながら、いままた「現人神」(あらひとがみ)が目の前に降り立ったような錯覚を覚えた。現憲法の改正を待たずして、この国はすでに「天皇は、神聖であって、侵してはならない」(同第3条)という“天皇制”国家に先祖返りしたのではないのか…と。その神格化はまるで、得体の知れない「鵺」(ぬえ)のように足元に忍び寄りつつある。

 

 「奉祝 令和 天皇陛下御即位/新しい御代(みよ)をお祝いしましょう」―と染め抜かれたのぼりが風にひらひら揺れていた。先月11月23日、花巻市の旧石鳥谷町内の神社には奉祝の長い列ができていた。かつて、「新嘗祭」(にいなめさい)と呼ばれたこの宮中行事は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)などすべての神々に新穀を供え、その恵みによって収穫を得たことに感謝する祭である。国民の祝日に関する法律(昭和23年)の施行によって、現在は「勤労感謝の日」(祝祭日)に指定されている。今回のように新天皇の即位後、最初に行われる儀式はとくに「大嘗祭」と呼ばれるということを初めて知った。

 

 その前日、私はこんな風潮に不安を覚える文章を書き記した(11月22日付当ブログ「神話崩しの時代」参照)。その直後、上田東一市長がこの行事に「公務」として出席することをHPで知った。さっそく、担当部署に経緯をただした。「祭儀にのみの出席。地域行事と認識しているので、公務としての位置づけで何ら問題はない」。今年8月、別の神社の神職昇進を祝う会にも上田市長の姿があった。私は当選直後の平成23年12月定例会で、各種神事が終わった後に行われる宴会―「神社直会(なおらい)」に対し、市長交際費が支出されていることについて、「政教分離」の観点から見解をただした。憲法判断は分かれていたが、当局側は今後この種の支出を“自粛”することを表明した。

 

  「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」―。憲法第20条は「政教分離」原則について、こう定めている。「令和」改元以降、この条文もほとんど死文化したかのようである。

 

 「われらを毀損(きそん)してくるものを、倍返しで冒涜(ぼうとく)せよ」―。作家、辺見庸さんの最新作『純粋な幸福』の帯にはこんな過激な文字が躍っている。その詩篇「グラスホッパ-」の中の一節…「世界の実相は気鬱(きうつ=気がふさいで晴れ晴れしないこと)にみちている。それなのに、老いも若きも総理大臣も天皇も、そうでないふりをしている。まるで、たるんだ尻(けつ)みたいな顔して。気鬱をはらうには怒り狂うより他にはない。狂気といわれようが、怒気をあらわにしてなに悪かろう」―。私が前掲ブログをアップした同じ日、辺見さんは新著に関するインタビュ-でこうも語っている。

 

 「表現がこれほど萎縮、収縮した時代はない。新聞を読めば活字が寝ていて、悲しみや憤りを屹立(きつりつ)させようというパッションがない。怒鳴りつける代わりに笑う。もう笑うしかないという内面の嘲笑によって冒涜したい」(11月22日付「岩手日報」)―。そういえば、話題の映画「ジョ-カ-」(11月2日付当ブログ「即位礼と啄木、そして“ジョ-カ-”の登場」参照)の主人公―殺人鬼、ア-サ-・フレックの持病は「笑い」病である。医学的には「情動調節障害」というらしいが、この悪役を演じる名優、ホアキン・フェニックスが犯罪をおかす前後に発する狂ったような「笑い声」がまだ、頭蓋の奥でこだましている。

 

 『悲しすぎて笑う』(1985年)というタイトルの本が私の書棚の片隅に置かれている。表紙は茶色に変色しかけ、「女座長筑紫美主子(ちくしみすこ)の半生」という副題も判読しにくくなっている。ロシア革命で日本に亡命した白系ロシア人と日本人との間に生まれた美主子(1921―2013年)は九州・佐賀地方に伝わる漫才「佐賀にわか」を身に付け、女座長にまで上り詰めた。しかし、「青い目」の漫才師は絶えず、差別の目にもさらされ続けた。そんな半生をこの本にまとめた詩人の森崎和江さん(92)がある時、私に語った言葉をふいに思い出した。「悲しみの極にはもう、笑いしか残されていないということだと思う」

 

 「富者の天国は貧者の地獄である」―。今年春、日本の主要都市で「笑う男」と題するミュ-ジカルが上演された。『レ・ミゼラブル』などで知られるヴィクトル・ユ-ゴ-の同名の小説が原作で、17世紀の英国が舞台。腐敗した貴族社会を風刺する内容で、見世物にするために“笑い顔”に口を整形された道化役者が主人公として登場する。元祖「ジョ-カ-」である。

 

 笑う男もジョ-カ-も、そして美主子もともに道化役者として、この世を生きた。たとえ、それが敗者の高笑いだったとしても、道化を演じながら狂い笑いするしかない…そんな時代を私たちはいま、生きているのだろうか―。

 

 

 

(写真は時と場所とをかまわず、発作的に狂い笑いする殺人鬼・ア-サ-=インタ-ネット上の公開の写真から)

 

 

エリカに“憑依”(!?)した太宰

  • エリカに“憑依”(!?)した太宰

 

 「一緒に堕(お)ちよう。死ぬ気で恋、する?」―。映画「人間失格―太宰治と3人の女たち」(蜷川実花監督、2019年=当ブログ10月19日付「男やもめの“ハシゴ映画”顛末記」参照)はこんなセリフで幕を開ける。太宰に扮した俳優の小栗旬がもうひとつの太宰の代表作『斜陽』のモデルとなった愛人の太田静子を口説くシ-ンである。「恋を、しに来るのを待ってた」と真っすぐに受け入れる静子役を演じるのは、いま薬物疑惑の渦中にいる女優の沢尻エリカ(33)である。連日、テレビのワイドショ-を賑わせているこの女優を横目で見ながら、ふと思った。「ひょっとしたら、この人はまだ、静子役を演じ続けているのではないのか」…

 

 静子ら3人の女性を愛した作家の太宰治(1909―1948)は昭和23年6月13日、最後の愛人の山崎富栄と一緒に東京・玉川上水で入水自殺するまでの39年間の人生で、自殺未遂や心中未遂などを4回繰り返している。さらに、カルモチン(催眠剤)やパビナ-ル(鎮痛剤)などを服用し、常時、薬物中毒の状態にあった。こんなデカダンス(虚無・退廃)の太宰と小説家を希望する静子との運命的な出会いが訪れる。沢尻は静子という人物について、こう話している。「どこまでもピュアな人。自分の感情にストレ-トに生きて、終戦直後の日本では、難しかった時代かもしれませんが、諦めずにやりきった女性なのかと思いました、…好きなことに突き進む点は、すごく素敵だと感じます」(パンフレットから)―

 

 「バ-チャル・リアリティ」という言葉がある。仮想と現実が混然一体となった状態で、一般的は「仮想現実」と訳されている。太宰の愛人・静子に魅力を感じるという沢尻はもしかしたらずっと前から、境界線の向う側(仮想)を生き続けてきたのではないのか…つまりは太宰という人物像がこの女優に“憑依”(ひょうい)していたのではないのか―。広辞苑によると「憑依」とは「霊などがのりうつること」とある。薬物中毒の太宰の霊がエリカに乗り移り、「好きなこと」に突き進んだ結果が、今回の“エリカ騒動”を引き起こしたのではあるまいか。こんな妄想に取りつかれたという次第である。「耄碌(もうろく)の成れの果て」と笑わば、笑え。ところで沢尻は一方で、こんなことも漏らしている。

 

 「(静子が)自分の好きなことに対してとことん、“いく”姿勢は好きですけど、太宰と禁断の恋にのめりこみ、奥さんがいることをしりつつ子供を産むという精神と言動は、個人的には理解できないところもありました」(パンフレットから)―。「静子」から「エリカ」へ…向こう側(仮想)からこちら側(現実)へとふと、我に返った瞬間だったかもしれない。そういえば、沢尻は逮捕後、「薬物は10年以上前から使っていた」などと量刑に影響が出そうな言葉を口にし、その一方で尿検査の結果は陰性と出ている。このあたりの心境がナゾだとワイドショ-はかまびすしいが、へそ曲がりの私は「これぞ、大女優のあかしじゃないか」と逆に応援したくもなる。

 

 冒頭の殺し文句で静子を演じる沢尻を口説き落とした太宰役の小栗はこんな風に語っている。「実際の沢尻さんはサバサバしていて話しやすい。静子との絡(から)みの場面も多かったと思うのですが、とてもやりやすく、助けてもらいました。静子との印象で強く残っているのは、撮影初日、バ-の奥の個室でキスする場面ですね。あそこから、太宰へのラストの人生が始まったという感じがあります」(パンフレットから)―。私の脳裏にも静子になり切った沢尻の迫真の演技が残像のようにこびりついている。

 

 沢尻エリカは「パッチギ!」(井筒和幸監督、2005年)で新人賞を総なめしたほか、「ヘルタ-スケルタ-」(蜷川監督、2012年)で日本アカデミ-賞優秀主演女優賞を受賞している。「虚」と「実」を自在に行き来することこそが、演技者にとっての欠かせない技(わざ)だと私は思っている。「堕ちるところまで堕ちた」…人間を失格したエリカはいま、そのどん底から「はい上がろう」としているのではないか。太宰を溺愛し、いまその男にバイバイを告げるようとする名優・エリカにエ-ルを送ろうではないか。自分にも「老いを味わう」―気分(11月17日付当ブログ参照)が少しは出てきたのか、と満更(まんざら)でもない今日この頃である。

 

 

 

(写真は静子(エリカ)と太宰(小栗)の逢瀬の一場面=インタ-ネット上に公開の写真から)

神話崩しの時代…偉人伝説のいま

  • 神話崩しの時代…偉人伝説のいま

 

 「隠された風景を見る/消された声を聞く」―。こんなキャッチコピ-にひかれて、『北海道大学 もうひとつのキャンパスマップ』(北大ACMプロジェクト編)なる本を入手した。当市花巻と北大とは切っても切れない縁がある。たとえば、北海道帝国大学(当時)の初代総長に就任した佐藤昌介(1856-1939)は当市に生を受けた。また、第6代学長の座についた島(しまよしちか=1889-1964)は父の実家の当市で幼少期を過ごし、のちに“リンゴ博士”として名をはせた。さらに、『武士道』で知られる当市ゆかりの新渡戸稲造(1862-1955)も佐藤とほぼ同時代を生き、北大の前身である札幌農学校で教鞭をとっている。

 

 「北大の植民地主義を考える」という章の中に佐藤と新渡戸が登場する。札幌農学校1期生の佐藤はのちに近代日本における「植民学」の基礎を築くことになる。ニュ-ジ-ランドの先住民族・マオリやネイティブアメリカン(インディアン)の統治に学びながら、佐藤は北海道開拓のありようを展望する。同書はこう指摘している。「佐藤の議論は、『植民地』である北海道に『資本』と『人(植民)』を投入することによって、発展段階を一足飛びに『進化』させることを目標とした」―。郷土の偉人伝説として語り継がれてきた「北大の父」が一方で、先住民族であるアイヌの「同化」政策の先駆けを果たしたことは地元ではほとんど知られていない。

 

 「われ、太平洋のかけはしにならん」と宣言し、国際連盟事務次長を務めた新渡戸は一般的には「平和・人道主義者」として認識されている。しかし実は佐藤と同様、植民学の系譜に属することに言及する論述はほとんど見られない。新渡戸は1906年に朝鮮を訪問した際、「枯死国朝鮮」と題する論文を残している。同書はその闇に踏み込んでこう喝破する。「新渡戸は朝鮮を『枯死国』と称し、自力で民族を発展させることができず、日本の『世話』がなければ『消滅する運命』、『亡国』に至るしかないものと認識している」―。朝鮮の植民地支配と現在に至る朝鮮蔑視の源流は、新渡戸のこの言にさかのぼることができるのかもしれない。

 

 郷土・花巻の偉人伝説(神話)の頂点に君臨するのは言うまでもなく「宮沢賢治」である。神話にはいつの時代でもタブ-(禁忌)がつきものである。つまり、それに異議を唱える側を排除しようという作用である。逆に言えば、その種の神話は誰かにとって必要であるからこそ、維持されるものでもある。「人間になった筈(はず)だがまた神に」という川柳が新聞に載っていた(11月16日「朝日新聞」)。大嘗祭(だいじょうさい)を皮肉った内容だったが、「天皇の政治利用」という意味ではその神格化ほど時の権力にとって、都合の良いものはなかろう。

 

 こんなことをつらつら考えていたら、唐突に賢治の「利権」という言葉が脳裏に浮かび上がった。賢治を「聖人君子」に祭り上げることによって、その恩恵に浴しようという風潮が最近ますます、勢いを増してきたような感じがする。花巻在住の在野の賢治研究者である鈴木守さんは『本統の賢治と本当の露』と題する著作で、こうした賢治“神話”(聖者伝説)の虚構に向き合い続けてきた稀有(けう)な人である。そのブログ「みちのくの山野草」(11月18日付)の記述に目を引かれた。私宅の近くにある「雨ニモマケズ」詩碑の写真が添えられ、こう書かれていた。

 

 「賢治さんが生前血縁以外の女性の中で最も世話になったのが高瀬露さんです。ところがどういうわけか〈高瀬露悪女伝説〉が全国に流布しているというのが実態です。そこでこのことについて、主に『仮説検証型研究』という手法に依って再検証をしてみましたところ、それは単なる虚構であり、〈高瀬露は悪女とは言えない〉がその『真実』だということを検証できました。よって、このことは重大な人権問題ですから、ここに報告します」―。神話に身を寄せる側にとっては、“不都合”な真実である

 

 詩碑の向こうから、賢治の声が聞こえたという。「そうなんです、露さんからはオルガンや讃美歌を教わったりしたことを始めとしていろいろと大変お世話になったというのに、露さんがとんでもない〈悪女〉にされているという実態を知り心を痛めています。これではまるで『恩を仇で返した』ということになり、残念でなりません。ですから、鈴木さんの論文が採用され、そのことによって、〈高瀬露は悪女とは言えない〉がその『真実』だということを広く知ってもらえることを祈っておりますよ」―。鈴木さんのこうした地道な研究を黙殺し続けてきたのが、賢治精神の継承を標榜する他ならぬ「宮沢賢治学会」だった。

 

 そういえば、こんなことがあった。「被災地に住む者として、少しでも賢治精神を実践しようではないか」―。3年ほど前、鈴木さんら地元の賢治愛好家らが中心になって、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた大槌町を支援しようと「募金運動」を立ち上げた。ところが、学会側(富山英俊代表理事=当時)の全面支援が得られると思いきや、逆にイチャモンをつけられるという前代未聞の事態が発生した。その時の代表理事当人が今年の宮沢賢治賞(奨励賞)に選ばれるという“椿事”(ちんじ)まで起きている。何かが倒錯している。賢治(の”利権”)を食い物にしていると言うほうが端的でわかりやすい。

 

 足元の「偉人」列伝をざっと見ただけでも、偉人は永遠に偉人でなければならないという、ある種の「法則性」が浮かび上がってくる。そして、その偉人をさらに偉人たらしめていくためには、異端者を排除し続けなければならないという悪循環を繰り返すしかないのだろう。これをひと言で言ってしまえば「差別」ということである。私たちはいま、こんな息苦しい「神話の時代」を生きているのかもしれない。「オレの本当の姿を見てほしい」という賢治の声が私の耳にも聞こえてくる。“聖者”扱いされることに一番、辟易(へきえき)しているのは当の賢治であるはずである―

 

 

 

(写真は北大構内に立つ佐藤昌介の胸像=インタ-ネットに公開の写真から)

 

 

 

「老い」の3部作…その「かたち」と「味わい」と「ゆくえ」と

  • 「老い」の3部作…その「かたち」と「味わい」と「ゆくえ」と

 

 つい、旬日前の“青春賛歌”の余韻(11月13日付当ブログ「ああ、青春よ」参照)がまだ、続いているような不思議な感覚を覚えている。作家、黒井千次さん(87)の「老い」の3部作(中公新書)を読み進むうちに、青春ならぬ“老いの息吹き”を感じたせいかもしれない。読売新聞夕刊の人気コラム「時のかくれん坊」を書籍化したもので、『老いのかたち』(2010年)、『老いの味わい』(2014年)、『老いのゆくえ』(2019年)と刊行が相次ぎ、健筆はまだ続いている。連載が産声を上げたのは2005年5月27日、筆者が72歳の時だから、足掛け15年に及ぶ「老いの実況放送」(読者の声)である。

 

 「この人は老いを満喫しているのではないか」―。8歳年下の私は老作家の背中を追走しながら、そんな思いを強くした。たとえば、こんな文章に出くわす。「病が相対的な状況であるとしたら、老いは絶対的な状態であるといわねばならぬ。病には、病気の過去を否定する意味での快気祝いがあるが、老いにはむしろ重なり続ける年齢を肯定する長寿の祝いしかない。だから、老病人はせめて病気を乗り越えて元気に歩ける老人に戻らねばなるまい。そうでなければ、折角与えられた機会なのに、老いとはいかなるものかを味わう僥倖(ぎょうこう)を失ってしまうからである」(第1部)―。己の老いを突き放して観察する「若さ」がここには感じられる。さて、わが身はというと…

 

 私が市議会議員に初当選したのはちょうど、70歳の時である。この達意の文章について、哲学者の柄谷行人さんは「老いの問題を、広く歴史的・社会的に見る観点、あるいは、セネカ(古代ロ-マの政治家で哲学者)のような哲学的考察があった」(7月27日付「朝日新聞」)と書いている。こんな理屈っぽい話ではなく、私の出馬の動機は「若気の至り」を逆手に取ってやろうという“奇矯”(ききょう)が先に立っていたような気がする。つまりはこの神聖な制度を利用して、わが”老化度”を測定してみようという魂胆である。「歳の割には老けてないな」という自己判定にまんざらでもなかった。2期8年間の議員生活にピリオドを打った78歳の時に転機が訪れた。妻の死である。同じ年齢のころの黒井さんは、こんな老いを味わっている。「物忘れ」についての文章である。

 

 「歳を取る、と一口にいうけれど、それには様々の段階があるらしい。人の名前や土地の呼び名などを忘れて思い出せないのはもう当たり前のことであり、八十に近い同年配者の間では、物忘れは最早(もはや)話題にもならない。…しかし時によっては、自分が何を忘れ、何を思い出そうとしていたか、その内容自体を忘れて見失ってしまうこともある。何かを思い出そうとしていた、という前屈(かが)みの姿勢の余韻だけが身の内に残っているのに、それがどんなものであったかが霧の中にぼやけてしまっている」(第2部)―。私が「物忘れ」症候群の恐ろしさを思い知らされたのは妻と死別した後のことである。

 

 老いの「ゆくえ」を追い求める第3部にこんな記述がある。「独りで家を出ることになるので玄関の鍵をかけることを決して忘れるなと家族に言われ、誰もいなくなる家の玄関ドアに鍵をかけてから門扉までの二、三歩を進むうちに、本当に鍵をかけたかどうかがわからなくなっている。心配なので引き返して確かめると、鍵はしっかりかけられている」―。鍵だけではなく、ガスコンロの消し忘れなど私自身もしょっちゅう、危ない思いを経験している。私の周辺には連れ合いなど注意を喚起してくれる存在がいないだけに事はより深刻である。さらには妻との二人三脚の人生を総括しようにも、その記憶が断絶することさえしばしばある。

 

 「物忘れ」は老いの宿命とはいえ、妻の死は一方で「思い出す」ことの大切さとそのエネルギ-を授けてくれたのではないか、とそんな殊勝な気持ちになることもある。ともあれ、これから先も七転八倒を繰り返しながら「男やもめのゆくえ」を手探りするしかあるまいと思っている。ふと見上げると、霊峰・早池峰はもう白雪をいただいている。この山容は永遠に変わることはないのだろう。そうか、神は老いないということなのか…と妙な感慨にふけりながら、「老いとは一体、何なのか」を考える日々―

 

 それにしても「老いの達人」とはそもそも老いを知らない人、いや老いというものを鼻先で笑い飛ばすことができる豪胆(ごうたん)の持主を指すものらしい。老作家のこんな言葉に私はたじたじとなってしまう。「歳を重ね、自分が今や老人となったことは認めざるを得ない。しかし、どの程度の老人であるかを判定するのは難しい。…つまり、自分の現在の気持ちと、客観的な時間の推移とがずれてしまっている。自分の年齢にリアリティ-がない。他人と比べたり、自分の過去の身近さを呼び寄せたりして違和感ばかりを覚えるのだとしたら、なによりそのこと自体が老化の著しい進行を示しているかもしれないのだが―」(第3部)

 

 

 

(写真は話題沸騰の「老い」の3部作)