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本は本を呼び、そして本は人を呼ぶ…

  • 本は本を呼び、そして本は人を呼ぶ…

 

 「たったの32冊!?」―。評論家の佐高信さんが「タブ-への挑戦を基準にした」という『時代を撃つノンフィクション100』(岩波新書)の中で、きちんと読破したのがわずかこれだけだったことに我ながら愕然(がくぜん)とした。新聞記者を生業(なりわい)にしてきたわりには、時代の同伴者たるノンフィクションの読書量が少なすぎるのではないのかという自戒である。その一方で、佐高本でリストアップされ、色あせながらも本棚の主座に鎮座する“人生の書”の一部が上掲の写真である。

 

 「金を惜しむな、時間を惜しむな、命を惜しむな」―。記録作家の上野英信さん(故人)は生前、日本一の産炭地・筑豊の炭鉱長屋に「筑豊文庫」の看板を掲げ、こう叫び続けた。地底(じぞこ)を這いまわるような作品群…たとえば、『追われゆく坑夫たち』や『地の底の笑い話』などに接した時の衝撃は忘れられない。おそるおそる長屋を訪ねた際に発せられたのがこの「惜しむなかれ」という言葉だった。新米記者の九州時代、水俣病と向き合い続けた石牟礼道子さん(故人)や詩人の森崎和江さんらとも著書を通じて、知己(ちき)を得る幸運に恵まれた。記者の端くれを全うできたのもこうした“人脈”のおかげだとつくづく、思う。

 

 『三井地獄からはい上がれ』(現代史出版会)―。こんなおどろおどろしいタイトルの本を初めて出版したのは35歳の時である。「三池炭鉱爆発とCO患者のたたかい」という副題がついている。1968(昭和38)年11月9日、福岡県大牟田市の三池炭鉱で炭じん爆発事故が発生。458人が死亡し、839人が不治の病と言われるCO(一酸化炭素)中毒に侵された。戦後最大の事故を追ったのがこの本である。駆け出しの時に出会った上野さんらノンフィクションの旗手たちから背中を押されたのは言うまでもない。先月20日、心当たりがない「港健二郎」という方から、以下のようなメ-ルをいただいた。

 

 「福岡県大牟田市生まれで1970年に早稲田大学文学部を卒業して、映画監督をやっている港と申します。増子先輩が、大牟田支局にご在任中にお目にかかったことがあると記憶していますが、遠い記憶の彼方でもあります。でも、先輩の著作『三井地獄~』は、私の眼前にリアルに突き刺さってきます。昨年が『三井三池争議』から60周年で、それを期に、私が15年前に監督しました劇映画『ひだるか』を上映して頂くなどのシンポジュ-ムがありまして、今その時の実行委員会のメンバ-と長編ドキメンタリ-映画を製作しています。そのタイトルが『いのち見つめて~高次脳機能障害と三池CO問題~』。コロナ禍ではありますが、何とか今年10月に完成させる予定です。読後、また、ご連絡させて頂きます」

 

 ノンフィクションを志す人たちの入門書になりつつある『自動車絶望工場』の著者、ルポライタ-の鎌田慧さんとは“三池詣”を共にしてきた畏友(いゆう)である。「お~い、生きてるか。メシ食ってるか」―。男やもめのひとり暮らしを心配して時々、こんな電話がかかってくる。近著の『叛逆老人は死なず』(岩波書店)の中で、こんな檄(げき)を飛ばしている。「戦争に傾斜するグロテスクな時代を招くに至ったのは、われわれ老人が、平和の恩恵のなかに安閑(あんかん)と暮らしてきたからだ。その罪を思えば、すこしくらい身体にむりをさせても、若者不在の空白を埋めなければならない。広場や街頭に若者たちがまた姿をあらわすまで、それまでが叛逆老人の役割なのだ」―

 

 港さんが手がけた長編映画「ひだるか」(九州地方の方言で「ひもじい」の意)は2006年、カンヌ映画祭に出品、上映までは至らなかったが、審査員の好評を得た。また、三井三池争議の労働歌を作曲した荒木栄を題材にした長編ドキュメンタリ-映画「荒木栄の歌が聞こえる」は第27回日本映画復興会議の奨励賞を受賞している。「三井三池」にこだわり続けてきた私はこれまで、そんなことも知らなかった。「不明」を恥じたい。“末期”高齢者の私から見れば、現在73歳の港さんは8歳年下。とはいっても「高齢者」に分類される、その人がいま拙著をわきに置きながら、映画作りに奔走している。まるで、”叛逆老人“を絵に描いたような人である。

 

 

 げに、本は本を呼び、そして本は人を呼ぶ…

 

 

 

(写真は初版がほとんど絶版になった私の愛蔵本の一部)

 

 

コロナ禍の中で、「アイヌ新聞」記者のことを思う

  • コロナ禍の中で、「アイヌ新聞」記者のことを思う

 

 『「アイヌ新聞」記者 高橋真 /反骨孤高の新聞人』(合田一道著、藤原書店)―ドキッとするようなタイトルの本が送られてきた。時を経ずして、敬愛するアイヌの古布絵作家、宇梶静江さん(88)から電話があった。「あなたも同業の記者経験者。差別に苦しみ続けるアイヌ民族の実態をきちんと伝えてね」。今年3月中旬、ある“アイヌ差別”をめぐって、ネット上は炎上していた。まるで、この騒動を察知したかのようなタイミングの刊行に身震いした。

 

 「この作品とかけまして、動物を見つけた時と解く。その心は、“あっ、犬”」―。3月12日、日テレ系の情報番組でアイヌ民族を描いたドキュメンタリ-を紹介した際、お笑い芸人がこんなナゾかけ問答をした。“あっ、犬”が「アイヌ」を連想されるとして、アイヌ民族などから抗議が殺到し、局側が謝罪すると同時に当人も「今回の件で僕の勉強不足を痛感しました。知らなかったとはいえ、長い年月にわたりアイヌの皆さまが苦しまれてきた表現をすることになってしまいました」と素直に頭を下げた。私は一連の騒動の中で「無知」ということを考えた。無知がもたらす「罪深さ」ということについて…

 

 冒頭に掲げた本はこの騒動のさ中の3月30日に発刊された。主人公の高橋真は北海道・幕別にアイヌを両親として生を受けた。警察官を志して、帯広警察署の給仕になったが、アイヌは警察官にはなれないと知り、新聞記者を目指した。「十勝新聞」や「十勝農民新聞」などの記者を経て、敗戦の翌年に「アイヌ新聞」を刊行。終刊するまでの1年余りに第14号まで続いた。前年、GHQ(連合国軍最高司令部)にアイヌ問題解決のための請願書を提出した高橋は高まる気持ちを創刊号にこう、書き付けた。「日本の敗戦は逆に日本人の幸福を招く結果となって、今やアイヌ同族にも真の自由が訪れ、我々アイヌは解放されたのである」(1946年3月1日付)―。

 

 「一万七千余のアイヌ民族の敵、それはアイヌから搾取を欲しい儘(まま)にする悪党和人である」(第2号、同年3月11日付)―。1976(昭和51)年、56歳の若さで亡くなった高橋の短い人生は差別と同化を強制した「北海道旧土人保護法」(1899=明治32年)の撤廃を求める血みどろの戦いだった。その過激な言動は差別の激しさの裏返しでもあった。「アイス」という看板を目にしただけでも足がすくんでしまう…私自身、こんな苦悩をアイヌの友人から直接、聞いたことがある。「止伏寒二」のペンネ-ムで高橋は「大東亜十億民衆の解放」という独自の視点の「アイヌ差別廃止論」(1946年6月11日付)を展開している。以下に筆者の合田さん(元北海道新聞記者)の解説を引用する。

 

 「日本国土にいるアイヌ民族をはじめ、(植民地下で)日本人として取り扱われている台湾人、半島人(高橋の原文のママ。朝鮮半島の人々)を解放せずして、東南アジア人の解放などない、と論じる(高橋)真の視点は明快で鋭い」―。同書の出版と前後して、この世を去った元韓国人BC級戦犯、李鶴来(イ・ハンネ)さんの面影がこの文章に重なった(3月7日付当ブログと同29日付当ブログ「追記」参照)。救済と名誉回復を果たせないままに逝(い)ったこの「不条理」をいち早く見抜いていたのがアイヌ民族だったことに胸を突かれた。

 

 “あっ、犬だ”発言をめぐっては、放送倫理・番組向上委員会(BPO)が放送倫理違反の疑いで審議することを決めたらしい。(おのれの感染に気が付かない)無症状者群がコロナ禍を一挙に拡大したように、「そんな倫理なんかの次元じゃないよな」と私はブツブツと自問を繰り返す。ふいに、かのソクラテスの名言「無知の知」を思い出した。「知らないこと」よりも「知らないことを知らないこと」の方が罪深い―という例のやつである。そういえば、連続射殺事件を起こした死刑囚、永山則夫の獄中記のタイトルも『無知の涙』だった。4月3日付朝日新聞のコラム「多事争論」にこの差別発言に触れた文章が載っていた。ほぼ同感である。

 

 「無数の言葉が咀嚼(そしゃく)を拒み、より硬度と速度を増してネット空間を飛び交っている。腑(ふ)に落ちる前の言葉を次から次へと交換し、『いいね』とうなずきあう。私たちは、そんな幻想の連帯の時代を生きている。言葉を吐く前の逡巡(しゅんじゅん)をショ-トカットし、吐いてしまった言葉を悔いる人が増えるのは、当然のなりゆきだろう。ざらついた心が生む侮蔑の表現も、分断を分刻みに再生産し続ける。ネットという目に見えぬ異界から、大量のつぶてを浴びる。そんな新しい風景を耐え抜く胆力を、現代の私たちはまだ鍛え切れていない。心がすくむ」

 

 戦後、「北海タイムス」の記者などをした高橋は自らが主宰するアイヌ問題研究所の紀要に「アイヌ残酷物語」(1961年)と題する長文の論考を掲載している。血の吐くようなこの叫びから今回の差別発言に至るまで、わずか60年の時空しか隔たっていない。

 

 

(写真は「アイヌ記者」高橋真の苦闘の足跡を追った話題本)

 

 

 

《追記》~柏葉講演会の動画

 

 4月25日に開催され、好評をいただいた童話作家、柏葉幸子さんのオンライン講演会「図書館と私」の動画を「新花巻図書館ーまるごと市民会議」のフェイスブックにアップしました。どうぞ、ご覧ください。

 

 

柏葉ワ-ルド、全開!?―「図書館と私」オンライン講演会

  • 柏葉ワ-ルド、全開!?―「図書館と私」オンライン講演会

 

 「図書館のあり方をみんなで考えよう」―。「新花巻図書館―まるごと市民会議」主催の第4回オンライン講演会が4月25日(日)午後2時から開かれた。講師は当市出身の童話作家、柏葉幸子さん(盛岡市在住)。デビュ―作の『霧のむこうのふしぎな町』(1974年、講談社児童文学新人賞)はのちに、空前のブ-ムを呼び起こした宮崎アニメ「千と千尋の神隠し」(第52回ベルリン国際映画祭金熊賞)のモチ-フになったことで知られる。1時間の持ち時間をフルに使い、時にユ-モアを交えた“柏葉ワ-ルド”に参加者は酔いしれた。

 

 「いま、コロナ禍でふるさとに戻れない悲しみを多くの人が抱えている。この作品も10年前の東日本大震災をきっかけにしたある種の“ふるさと喪失”物語。そんな視点で読んでもらえたら…」―。柏葉さんは舞台化や映画化で話題を呼んでいる『岬のマヨイガ』(2016年、野間児童文芸賞)に触れて、こう語った。この作品のもう一方の主人公は『遠野物語』に登場するカッパやオオカミなどの妖怪たち。舞台化に当たっては世界的に有名な人形劇師、沢則行さん(チェコ在住)が担当した。「人形に仕立てたのが大当たり。その沢さんが今度はコロナ禍のため、チェコに戻れなくなった。お陰でずっと、舞台指導をやっていただけた」と笑いを誘った(2月11日付当ブログ参照)

 

 「図書館って、ひとつの人格ではないのか」と言って、柏葉さんは一冊の本を紹介した。『炎の中の図書館―110万冊を焼いた大火』(ス-ザン・オ-リアン著、羽田詩津子訳)…米国史上最悪の図書館火災に見舞われたロサンゼルス中央図書館の復興の足跡を追ったルポルタ-ジュである。「この本を読みながら、図書館とは司書と利用者が一緒になって育てていくもんだとつくづく、思った」と柏葉さん。アフリカのセネガルでは人が亡くなることを「図書館が燃えた」と表現することをこの本で知った。たぶん、柏葉さんも同じことを言いたかったのではないだろうか。

 

 「よく、編集者から言われるんですよね。あなたの本は推理小説と漫画を一緒くたにしたみたいだ、と。要は根がオッチョコチョイなんですね。そのオッチョコチョイが底をついたみたい。よく、これまで無事に生きて来れたもんだと思います。物書きのかたわら薬剤師もずっと、やってきました。だって、児童書だけじゃ食っていけませんもの」―当年、67歳の柏葉さんは最後までユーモアを忘れなかった。

 

 質疑の中で「花巻らしさとは何か」―を問われた柏葉さんは「う~ん、よくわからない」と口ごもりながら、モゴモゴと続けた。「(宮沢)賢治さんも読まれているし、それを表に出して図書館づくりを考えるとか…」。考えて見れば、賢治は銀河宇宙を飛翔(ひしょう)し続けた童話作家だった。「柏葉作品も宇宙や異界を股にかけている点ではおんなじだな」と妙に得心した。まこと、「イーハトーブ」とは岩手・花巻のことだったことにハタと心づいたのだった。賢治の造語であるこの言葉は一般的には「理想郷」という意味で使われることが多いが、初出の『注文の多い料理店』(広告チラシ)では「ドリームランド」と表現している。”夢の国”―私にはこっちの方がぴったりくる。そう、「理想の図書館」から「夢の図書館」へ……

 

 この日の講演会の録音動画は「まるごと市民会議」のホ-ムペ-ジとフェイスブック上で近く公開する。

 

 

 

(写真は笑顔を浮かべながら、話す柏葉さん。ユ-モアいっぱいの講演に参加者は魅了された=4月25日午後、インタ-ネット上の画面から)

急告―柏葉講演会(オンライン)のチラシ訂正方

  • 急告―柏葉講演会(オンライン)のチラシ訂正方

 

 4月18日付当ブログ「第4回『図書館と私』オンライン講演会…『まるごと市民会議』主催」のチラシ上のQRコ-ドが間違っていました。開催日が迫っている中で、ご迷惑をおかけしますが、正しい表示に差し替えます。つつしんで「お詫びと訂正」を申し上げます。

魂の贈り物

  • 魂の贈り物

 

 気持ちが落ち込んでいる時、まるで心の内を見透かすようなタイミングで、その人は”言(こと)の葉(は)”を届けてくれる。今回のそれは批評家で随筆家である若松英輔さんの詩集『たましいの世話』―。「先に逝ってしまった大切なあなたへ」と帯にある。ペ-ジをめくると、「いのち ひとつ」と題する詩が目に飛び込んでくる。こんな詩である。

 

亡くなったのは

わたしが愛した

あの人で

千人の中の一人ではないのです

 

もう 抱き合えない

あの人は

街を歩く 千人を

どんなに探しても

見つかりません

 

亡くなった人が

多いとか

少ないとか

そうした

話しの奥には いつも

 

たった ひとつの

いのちを喪った

わたしのような

人間がいるのを

忘れないで下さい

 

 「約束」「悲しい人」「はげまし」「しあわせのあかし」「慰めの方法」「別れ」「なぐさめの真珠」「透明な釘」…。こんなタイトルの詩編が34、並んでいる。たとえば、亡き妻が好きだったヨハン・パッヘルベルの「カノン」の旋律をそのひとつひとつに重ねてみる。「生きる」ということの意味を底支えしてくれる、かけがえのない時間である。

 

 

 

(写真は生前の妻が片時も離さなかったCD。若松さんの詩編にすう~っと、溶けこんでいくよう)