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あぁ、無惨!?…「まん福」解体~WSは百花繚乱の趣き

  • あぁ、無惨!?…「まん福」解体~WSは百花繚乱の趣き

 

 「まるで、ゴジラだな」…。巨大な重機がうなり声を上げ、鋭い爪先が木造の建物をまるで舌なめずりでもするかのように次々と飲み込んでいく。かたわらの表示板には「旧料亭『まん福』解体工事/工期 令和3年9月1日~11月29日/発注者 花巻市長 上田東一/請負金額 40,359,000円」…などと書かれている。85年の歴史が幕を閉じようとしている21日、更地化を先取りするかのように「跡地活用」ワ-クショップ(WS)が市役所で開かれ、行政区長や近隣住民、リノベ-ション関係者ら約20人が今後の利活用などについて、話し合った。

 

 「華やかだったころがなつかしいねえ。宴席に座る芸者さんたちが口紅をなおしたり、あわててお色直しをしたり…」―。解体現場を目の前にしながら、私はすぐ近くにある化粧品店の女性社長が目を細めて語る往時の光景に思いを巡らせていた。1935(昭和35)年に開業されたこの老舗料亭の自慢は64畳の大広間。天井には樹齢2千年を超すとも言われる屋久杉の樹皮が使われ、床の間や柱には黒檀(こくたん)や紫檀(したん)などの銘木がふんだんに施されていた。当時はこの大広間で結婚式を挙げるのが市民の夢で、私の親戚筋でも結婚写真をまるで“冥途の土産”みたいに大事にしている年寄りたちが多かった。一方で、こんなエピソ-ドも―

 

 通算41年間も議長職を務め、「スケ」さんの愛称で呼ばれた強者(つわもの)がかつて、花巻市議会にいた。「息をまいて反対論をぶっていた市議連中が次の日には素知らぬ顔で賛成に回る。スケさんに一杯飲まされたのさ」―。こんな“料亭政治”の舞台もこの老舗料亭だった。しかしその後、料亭離れに拍車がかかり、2010年に閉店に追い込まれた。市側は3年後、5,800万円で土地を取得、建物は無償で譲り受けた。その後、改修費用として約3,000万円を投じるなどして、民間活用を含め、その利活用を模索してきたが、耐震工事や消防設備に億単位の費用がかかることが判明。結局は解体の憂き目を見ることになった。

 

 この日のWSに先立ち、布台一郎・財務部長から「まん福」前史の説明があった。料亭に生まれ変わる前の江戸期の約400年間、この地には寺院や花巻城の御給人屋敷や病院、果てはバプティスト教会などがあったことが明らかにされた。この立地について、「かつては西南からの攻めに対して花巻城を守る“裏鬼門”の位置にあり、眺望や利便性に恵まれていたことが多様な職種を生むことにつながったのではないか」と話し、教会立地に関わった人物として「小田代れん」という名前を挙げた。この女性は花巻・笹間が生んだ著名なキリスト者、斎藤宗次郎にも大きな影響を与えたといい、「不思議な巡り合わせとしか言いようがないが、100年前のこの日(10月21日)に小田代さんは76歳でこの世を去っている」という“秘話”を披露した。

 

 知られざる「まん福」”秘史”に集まった参加者は身を乗り出すようにして聞き入った。その余韻を引きずるように「跡地」の利活用を話し合うワ-クショップ(WS)はまさに百花繚乱のようにアイデアが飛び交った。「この地は中心市街地に唯一、残された財産。将来のまちづくりの生命線とも言える」とある参加者が口火を切ると…。「映画館などの文化施設」「老人と若者が共存する地域づくりの拠点」「新図書館の建設」「駐車場」「屋台村」「賢治村」「避難所」「エコハウス」「スケボーパーク」「花巻ヒルズ」「キッチン村」「太陽光発電所」などなど。果ては「芸者坂」(置き屋)が飛び出すなど持ち時間が足りないほどの盛り上がりを見せた。次回は11月4日で、“アイデア合戦”の面白みが期待できそうだ。

 

 一方、上田市長は旧まん福を取得後の2014年に就任。「前市政を引き継いだ責任ある立場だが、取得する際の調査が十分でなかったというのが正直な感想だ」と前市政への“責任転嫁”を強調してきたが、試されるのはむしろ今後の利活用の成果である。解体によって、更地になる面積はざっと3,840平方メ-トル。市中心部の一等地に位置する市有地は当面、ここだけとなる。私たち市民有志が立ち上げた「銀河の郷、輝く未来へ~『イ-ハト-ブ』の実現を目指す花巻有志の会」(略称「イ-ハト-ブ花巻有志の会」)でも将来課題として「まん福」跡地を含む「花巻三大跡地の利活用」(新興跡地、花巻病院跡地)を掲げており、この由緒あるレガシ-(遺産)の有効利用について、広く市民の意見を求めることにしている。
 

 

 

 

 

(写真は解体が進む旧料亭「まん福」=10月中旬、花巻市吹張町で)

 

 

 

「銀河の郷、輝く未来へ~『イ-ハト-ブ』の実現を目指す花巻有志の会」の設立へ

  • 「銀河の郷、輝く未来へ~『イ-ハト-ブ』の実現を目指す花巻有志の会」の設立へ

 

 “牛タン”騒動が当会設立の直接のきっかけだった。花巻市議会9月定例会の決算特別委員会で、ある議員が「イ-ハト-ブ応援寄付金」(ふるさと納税)の令和2年度の寄付額が県内トップの約30億円に達したことに触れ、「ポ-タルサイトで当市の牛タンが全国1位になった。果たして、地場産品にふさわしいと言えるだろうか」とただした。これに対し、上田東一市長は「総務省の選定基準を満たしているので、何ら問題はない。仙台牛タンだって、ほとんどが輸入品だ」と切って捨てた。

 

 私はこの問答を聞きながら、宮沢賢治の童話『フランドン農学校の豚』の一節を思い出していた。作品はこんな風に展開する。「家畜撲殺同意調印法」の布告に伴い、農学校で飼われていた豚に対し、死亡承諾書が突きつけられる。恐怖心にかられた豚は捺印を拒否し続けたが、結局は同意させられる…。そして、こんな残酷なシ-ンを描きながら、作品は閉じられる。「一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。もうこのあとはやめにしよう。とにかく豚はすぐあとで、からだを八つに分解されて、厩舎(きゅうしゃ)のうしろに積みあげられた」―。賢治がいま、牛タン販売で寄付金を競い合う「イ-ハト-ブ」の光景を見たら、どう思うだろうか。当会はこの出来事に促されるようにして産声を上げた。以下に設立趣意書などー

 

 

 

「銀河の郷、輝く未来へ~『イ-ハト-ブ』の実現を目指す花巻有志の会」

 

 

 私たちはいま、まるで「夢」を語ることを忘れてしまったかのような不気味な静寂の中にいるような気がします。コロナ禍のせいもあるのでしょうが、「物言えば唇寒し…」といった何か得体のしれない空気が周囲に張りめぐらされているような、そんな錯覚におちいる時さえあります。「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」―。郷土の宮沢賢治は代表作『春と修羅』(序)の中にこんな不思議な言葉を残しています。この言葉に触れ、分子生物学者の福岡伸一さんは最近、共著の中にこう書きました。

 

 「『春と修羅』には、コロナ禍におかれた私たちが文明社会の中の人間というものを捉えなおす上で、非常に重要な言葉が書かれている。まず、冒頭で『わたくし』は『現象』だ、と言っている。これは、『わたくし』という生命体が物質や物体ではなく『現象』である、それはつまり自然のものである、ということ。ギリシャ語の『ピュシス』は『自然』を表す言葉で、賢治のこの言葉は本来、生命体はピュシスとしてあるのだということを語りかけているように思う」(『ポストコロナの生命哲学』、要旨)―。コロナパンデミックの謎を解く水先案内人が、奇しくも賢治だという福岡さんの視点にぐいぐいと引き込まれてしまいました。そう、足元には銀河宇宙を股(また)にかけた「賢治」がいるではないか、と。

 

 当市は将来都市像として「市民パワーをひとつに歴史と文化で拓(ひら)く/笑顔の花咲く温(あった)か都市(まち)/イーハトーブはなまき」―の実現をスローガンに掲げています。いうまでもなく、「イーハトーブ」とは賢治がエスペラント風に表現した言葉で、「ドリームランド」(夢の国)を意味しています。また全国で唯一、固有名詞を冠した「賢治まちづくり課」を設けています。しかし、これまでの経緯を見ると、イベント開催に偏重したきらいがあったのではないか。「賢治」がなぜ、宇宙規模での影響力を発揮する存在になり得たのか。私たちはいわゆる“賢治精神”の原点に立ち返りながら、本当の意味での「イーハトーブ」の実現を目指したいと考えています。もう私たちの“夢物語”はスタートしています。たとえば、懸案の市政課題である「駅橋上化」については―

 

 ステンドグラスで装飾された瀟洒(しょうしゃ)な駅舎は東北の「駅百選」に選ばれ、駅周辺に広がる「風の鳴る林」や「銀河ほっぽ」(からくり時計)、銀河鉄道を模した巨大壁画などは賢治の物語世界を彷彿(ほうふつ)させるとして「都市景観大賞」(景観百選)にも輝いています。橋上化によって、駅舎が撤去されることになれば、せっかくの「レガシ―」(遺産)は失われてしまいます。私たちは子々孫々のためにこいねがいたい。現在のJR花巻駅はそのまま残し、隣接する地下道には賢治童話をイメージしたメルヘンチックな空間を創出し、「銀河鉄道始発駅」みたいな雰囲気のまちを創造したいと…

 

 2021年10月晩秋

 

設立代表人 元花巻市議会議員・増子 義久 

TEL. 090ー5356-7968 (e-mail/ymasuko@rapid.ocn.ne.jp

 

設立発起人 日出 忠英(造園家、「3・11」被災者)

    藤井 仁(各種コンサルタント)

      羽山 るみ子(花巻市議会議員)

 

 

《私たちが当面、目指すもの》

 

 

●新花巻図書館って、な~に?

~「ハードからソフト」→「ソフトからハード」への発想の転換。ゼロベースからの新図書館論議を。賢治作品や研究書、翻訳本など「賢治もの」を一堂に集めた“イーハトーブ”図書館の模索

 

●足元の歴史と記憶を掘り起こそう

~風土や遺産、伝承などを記録するウエブ上のアーカイブ「花巻物語辞典」の継承。「街なか発見」プロジェクトの策定

 

●花巻三大跡地の利活用に向けて

~「新興跡地」(花巻城址三の丸)、「まん福跡地」(元料亭)、「総合花巻病院跡地」(元病院)はいずれも旧花巻市内の中心部に位置し、「イーハトーブ」の未来図を描く際には欠かせない一等地。みんなの知恵を結集して、有効な再利用を考えよう

 

 

《賢治さんに聞く》

 

 

 今回の会結成に際し、夢枕に現れた賢治さんに直撃インタビュ-を試みた。コロナ禍に翻弄(ほんろう)される地球や生まれ故郷の「イ-ハト-ブ」の現状について、どんな思いを抱いているのか―

 

 

―旅立ってもう、88年の歳月が流れました。銀河宇宙の眼下に広がる惑星の眺めはいかがですか。いま、全人類は「コロナ」という恐ろしい感染症の脅威にさらされています。

 

賢治 そうなのすか。大変なことだなっす。そういえば、おらの最愛の妹トシも100年前に猛威を振るったインフルエンザ(スペイン風邪)にかかって、それが原因の肺炎で命を落としてしまった。「永訣の朝」っていう詩はその時の気持ちを詠ったもんでがす。

 

―そのコロナについて、ある著名な学者が賢治さんの『春と修羅』を引き合いに出しながら、この言葉の中に「ポストコロナ」をひも解くカギが隠されている―と話しています。「わたくしといふ現象は」というあの有名な冒頭句について、賢治さんは自分のことを物体ではなく、「(自然)現象」として、認識していたんだと…

 

賢治 ……。あの謎解きみたいな言葉に気がついた方がいたとはありがたいことですな。それにしても100年という時空を隔てて、また感染症との出会いがあるとはこっちの方がびっくら仰天。おっしゃる通り、人間はそもそも“自然”そのものじゃねのすか。区別する方がおかしいとおらはず~っと、そう思ってきたんすじゃ。おらに『風の又三郎』っていう童話があるのを知ってるすか。「どっどど どどうど どどうど どどう」―。風に乗って突然、現れる「又三郎」は実はおらのことなのす。

 

―「すぐそばにいる人」だったはずの賢治さんがいつの間にか銀河宇宙の遠くに行ってしまった。こんな風に寂しがる地元の人が最近、増えています。

 

賢治 そんたなことはねすじゃ。空に浮かぶ雲も風もその風と一緒にダンスを踊る木々たちもみんなおらだと思ってもらいてな。だっておら“自然”だもの、いつだってみんなと一緒だもん…

 

 

 

 

(写真は第24回宮沢賢治賞を受賞した影絵画家、藤城清治さんの『銀河鉄道の夜』から=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

 

「被災者に寄り添う」という”真っ赤なウソ“~コンビニ分まで押し付け!!??

  • 「被災者に寄り添う」という”真っ赤なウソ“~コンビニ分まで押し付け!!??

 

 「えっ、家賃より高いなんて…まさか!?」―。かつてないほどの寒波に見舞われた今年1月、花巻市の中心部に立つ災害公営住宅の入居者の間でひとつの“騒動”が持ち上がっていた。共益費に含まれている電気料金が前年同期比で3倍近くにはね上がっていたからである。東日本大震災で被災した沿岸住民を救済する目的で建設されたこの住宅は令和元年(2019年)4月1日から入居を開始。「上町棟」と「仲町棟」の2区画に分かれ、入居戸数は全部で30戸で、現在ほぼ満室の状態になっている。このうち、上町棟(9戸)の1階部分にはコンビニエンスストアが併設され、高齢者が多い入居者から「遠出をしなくてもいい」と評判を得ていた。

 

 ところが……。「この先、どうやって生活を維持していったらよいものやら」―。オ-プン直後に入居した80歳の男性はこう言って、領収書の控えや家計簿を見せてくれた。入居後に妻を亡くし、いまは独り住まい。「国民年金と妻のわずかな遺族年金を合わせても月の収入は8万円前後。毎月2万円ほど不足し、なけなしの貯金を食いつぶしている」―。男性は怒りをあらわにこう続けた。「寒さが半端じゃなかったから、ある程度、電気代がかさむのは覚悟していたが、不特定多数が利用するコンビニ負担分も私たちが払わされていることが分かったんです。こんな被災者支援って、あるんでしょうか」

 

 びっくりして、担当部局の市建設部に走った。示されたデ-タを見て、二度びっくりした。共用部分に設置された冬季間の水道凍結防止や融雪設備に要する電気代が暖冬気味だった前年同期(令和2年1月分)の「32,288円」から、今年(令和3年)1月分では一挙に「96,024円」と3倍近くに激増。入居者一人当たりに換算すると「10,669円」にふくれあがった。ちなみに、令和2年12月分は「17,688円」。1人当たりでは「1965円」だったのに比べ、何と負担増は5倍以上に。担当課に説明を求めると、こんな答えが返ってきた。「暖冬だった昨年に比べて、今年の異常な寒波は正直、想定外だった。入居者からの訴えを受け、今年4月からコンビニ占有分も3戸分と割り当て、一律3千円に統一することに改めた。月別の増減については通年の費用計算を元に算出したい」―。これで、一件落着にするつもりだったのかもしれないのだが…

 

 災害公営住宅の立地を進めた当時の建設部長がコロナ禍での“会食”事件で勇名をはせた藤原忠雅・副市長だったことをハタと思い出し、本館2階の副市長室に急行した。実に久しぶりの訪問だが、職場には以前と違って、何かピリピリした雰囲気が漂っていた。以下に、その時のやり取りの一端を紹介する。

 

 「そもそも、温暖な沿岸被災地からの移住者がほとんどで、年金暮らしのお年寄りが多い。被災者に寄り添おうという姿勢があれば、こんなことにはならなかったのではないか。コンビニ側の負担ゼロについても入居者は寝耳に水だと怒っているが…」(私)、「あの時はコンビニ併設に振り回され、そこまでは頭が回らなった。何社にも断られた末、やっと決まって入居者にも喜ばれるとホッとした」(副市長)、「コンビニ併設の交換条件として、共益費の負担をゼロにしたのではないか。そんな疑いを持つ入居者もいるが」(私)、「いや、そんなことは………(無言)」(副市長)、「そうでなくても、被災入居者はみんなギリギリの生活を強いられている。契約時にきちんと説明し、理解を求めるべきではなかったか。一連の経緯については現場から報告を受けているのか」(私)、「入居者の皆さんには丁寧に説明すべきだったと反省している。今回の改善策については、いまあなたの話で初めて知った。報告はありません」(副市長)…。一事が万事である。

 

 「被災者の皆さまが安心して暮らせる場所を提供できたことを喜ばしく思う。定住促進、さらには中心市街地の活性化にも貢献していただいていると感謝申し上げたい」―。上田東一市長の歯が浮くような言葉がいまさらのように脳裏によみがえる。「被災者に寄り添う」という“真っ赤なウソ”が白日の下にさらされたというわけである。

 

 男性の家賃は月7,500円。「格安の家賃で本当に助けられている。いつまでも被災者の立場に甘えてはならないと引け目さえ感じることがある。でも、ふるさとや妻を失った喪失感は永遠に消えることはない」―。今年の夏、縁石につまずいて大けがをした。「やもめ暮らしの中で自立しようと頑張ってきたが、もう限界。掃除や食事の用意をヘルパ-さんに頼むことにした」と唇をかみしめた。厳寒の季節がもう、目の前に迫っている。

 

 

 

 

(写真はコンビニを併設した災害公営住宅「上町棟」。「3・11」から10年を経て、被災入居者の孤立は深まりつつある=花巻市上町で)

 

小原前市議会議長が次期市長選への出馬を正式表明、地方自治の原点へ

  • 小原前市議会議長が次期市長選への出馬を正式表明、地方自治の原点へ

 

 「行政に市民各層の意見を取り入れ、現場の最前線の市職員の皆さんの創意工夫を汲み上げ、さらに互いに監視しあう二元代表制の議会の場で議論を尽くしたい」―。花巻市議会の前市議会議長、小原雅道氏(61)が8日、来年1月の次期市長選への出馬を正式に表明。いまこそ、憲法に定められた「地方自治の本旨」に原点回帰すべきだと、冒頭のような決意を語った。さらに、現下のコロナ禍に触れ、「この感染症によって、あらゆることを他人事ではなく、『自分事』として見つめ直すことの大切さを教えられたという気がする。こうした内なる声と市民の皆さまの声に突き動かされた」とその動機を口にし、不退転の覚悟で選挙戦に臨む姿勢を明らかにした。

 

 報道機関への記者会見の形で開かれ、後援会長の医療法人「ほがらか会」(もとだて病院)理事長で医師の高橋典克さん(60)が「私は単なる町医者。しかし、小原さんの人柄に魅かれてこの重責を引き受けることにした。人と人、心と心のきずなを結び付けることに微力を捧げたい」とあいさつ。支援母体の「はなまきを良くする1000人会議」(阿部一郎代表)ら支持者10数人が同席。手話通訳の女性が会話の橋渡しをした。

 

 小原氏は「まちづくり/5つの戦略」として、①地域力創造会議の設置、②地域経済の「見える化」の推進、③地域におけるデジタル化の推進、④持続可能な美しい地域づくり、⑤価値観の多様化教育―を挙げ、現市政が手がける新図書館建設やJR花巻駅の橋上化などの大型プロジェクトについては「継承できる部分は受け継ぎ、市民や議会の理解が得られなかった部分については、その原因を改めて検証し、市民の皆さんに喜ばれる施策としたい」と述べた。また、市政運営の理想や現市政との違いを問われた小原氏は「郷土の先達である宮沢賢治や新渡戸稲造らに共通しているのは『寛容の精神』。自分の声を届ける前にまず、市民の皆さんの声に耳を傾けたい」と“聞く耳”の大切さを強調した。

 

 小原氏は旧東和町の出身。県立花巻北高を卒業した後、民放テレビ局「岩手めんこいテレビ」の報道記者を経て、旧東和町議を含めた花巻市議(平成18年8月~令和3年9月)を歴任。平成27年5月から今回の議員辞職に至るまで市議会議長を務めた。次期市長選は令和4年1月16日告示、23日投開票。すでに現職の上田東一市長が出馬を表明しており、この二人による一騎打ちになりそうな公算が強い。

 

 

 

(写真は出馬の決意を表明する小原氏(右)とその左側が高橋後援会長=10月8日、花巻市内で)

 

忙中閑…映画「MINAMATA」がいまに伝えること

  • 忙中閑…映画「MINAMATA」がいまに伝えること

 

 

 「私たちは皆、ただの一片のホコリであり、同時に小さな力なのです。私たちが窮地に立たされたとき、誰かが率先して、巨大な壁を壊そうとすれば、きっと大勢の人々が後に続いてくれるはずです」―。米国のスタ-俳優ジョニ-・デップ制作・主演の映画「MINAMATA-ミナマタ」(2020年)について、デップはこう語っている。水俣病の「公式確認」から65年の今年、伝説的なフォトジャ-ナリストであるユ-ジン・スミス(1918―1978年)を主人公にすえたこの話題作が日本で封切られた。コロナ禍のさ中で「パラダイムシフト」(価値の大転換)が求められるいまこそ、この映画は見られるべきではないのか―そう思った。

 

 “猫おどり病”などと奇病扱いされていた「水俣病」の現地、熊本県水俣市にユ-ジンと妻のアイリ-ン・美緒子・スミスが滞在したのは1971年から約3年間。当時、現地は有機水銀を垂れ流した原因企業の「チッソ」(当時)と患者家族の間で、損害賠償を求める裁判が起こされるなど騒然とした空気に包まれていた。ユ-ジンとアイリ-ンは1975年、写真集「MINAMATA」を出版、世界的に大きな反響を呼んだ。「水俣の核心はこれが神の仕業などではなく、人間がやったという事実です。水俣のことを知った時、私はいま、何かをすべきだと直感しました」(9月26日付「朝日新聞」)―。デップのこの言葉にはユ-ジンになり切って「水俣」を再現しようという強い意志が感じられる。

 

 二人が水俣に滞在していた時期は私が新聞社の記者として、九州を管轄する西部本社に在籍していた時期とちょうど重なる。取材で現地を訪れた際、カメラを手にするユ-ジンと遭遇したこともある。映画のラストで「母子の入浴シ-ン」がクロ-ズアップされる。1971年のクリスマス前後の撮影とされる。「私が食べた水銀をこの子が全部吸い取ってくれました。水銀の毒を自分ひとりで背負って生まれてきたのです。だから私やあとから生まれた残り6人の弟妹は無事だったんです。この子は家族の“宝子”ですたい」―。母親がこう語る”宝子”はわずか21歳でその短い生を終えた。このあまりにも美しい「悲話」に打ちのめされた私だったが、今度はデップがそれを現代に見事によみがえらせてくれた。

 

 「声をあげて、世界に訴えよう」―。抗議行動の先頭に立つ「ヤマザキ・ミツオ」役(真田広之)にいまは亡き「川本輝夫」さん(享年67歳)の姿が重なった。チッソ本社(東京)の会議室で、テ-ブルに座り込む「ヤマザキ」の姿が映画に映し出される。1971年夏、環境庁(当時)は川本さんら未認定患者9人の行政不服審査に対する棄却処分を取り消した。1年6ヶ月にわたる本社前での座り込みや本社役員との自主交渉の最前線にいたのが川本さんだった。その結果、川本さんは逆に傷害罪で起訴されたが、訴追権の乱用に当たるとされ、無罪を勝ち取った。取材で親しくなった川本さんは気性が激しい反面、ホッとするほどの優しさをあわせ持つ人だった。「川本さんはね、天使です」―。水俣病に寄り添い続けた作家の石牟礼道子さん(故人)が生前、ふともらした言葉を思い出した。

 

 盛岡での映画鑑賞の帰途、カ-ラジオが新総裁の誕生を伝えていた。「国民の声に謙虚に耳を傾けたい」と殊勝に語っている。その言葉にウソがないことを願いたい。城下町「ミナマタ」を支配下に置いたチッソのように、片や「聞く耳」を持たない我が「イ-ハト-ブ国」のトップの去就を占う首長選挙も来年1月に迫っている。私が九州勤務を終え、東北の地方支局に転勤したあと、川本さんを講師に呼んで市民たちと「水俣病」の勉強会を開いたことがあった。打ち上げの酒の席で、照れながらこう言った。「おらは見た目は直情型ばってん、根は気弱な男じゃけん…」―。その虚勢の無ささに逆にこの人の芯の太さを見た思いがした。

 

 映画のシ-ンのひとこまひとこまが走馬灯のように目の前に去来した。「巨悪に立ち向かったユ-ジンや川本さん、“宝子”の澄んだ眼差し…。それを目の前に再現してくれたデップに心からの感謝を捧げたい」―心底、そう思った。東日本大震災と福島原発事故、そして沖縄の米軍基地問題…。すべては地続きの延長線上にある。「MINAMATA」を見ながら、コロナ禍のいまこそ、人類は変わらなければならないという思いを強くした。と同時に、ハリウッドの売れっ子俳優がこうした重いテ-マに取り組むという米国映画界の懐の深さにも脱帽した。

 

 ユージンはチッソ五井工場(千葉県)での取材中、労働組合員らから暴行を受け、その時の傷に持病が重なって、59歳の若さで旅立った。現在、71歳のアイリーンはいまも、環境問題の最前線で活躍している。「ミナマタ」そのものを描くことをあえて避け、逆に「ミナマタ」を描き切った稀有な作品と言える。

 

 

 

 

(写真は抗議行動に立ち会うユ-ジン(デップ)とアイリ-ン(美波)=インタ-ネット上に公開の映画の一場面から)

 

 

 

《追記ー1》~小原議長が議員辞職

 

 

 花巻市議会の小原雅道議長(61)が9月30日付で、議員辞職願いを副議長あてに提出した。小原氏は来年1月に施行される次期市長選に出馬の意向を示しており、これに向けた辞職とみられる。また、議長職の辞職は議会の議決事項となっているため、10月中に予定されている臨時市議会に上程される見通し。近く、正式な出馬表明をするという。これにより、すでに出馬表明をしている現職の上田東一市長との一騎打ちになる公算が強まった。

 

 

《追記ー2》~「他人事」から「自分事」へ

 

 「実子の瞳に、心かき乱され/水俣の声なき声、ユージンは世界に警告した」―10月3日付「朝日新聞」1面にいまだ終わりのない水俣病の惨禍と映画「MINAMATA」を紹介する特集記事が掲載された。ユージンが同名の写真集(序)に「私たちが水俣で発見したのは勇気と不屈であった」と記してから50年近くが過ぎた。過去に例のないこの「受難」を他人事として、忘却の彼方に打ち捨ててきた私たちはやっとコロナ禍の下で、その当事者性(自分事)に気が付いたのかもしれない。