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「いざ、出陣!?」…辻立ち、スタ-ト~そして、”連れ立ち“の妙と海の向こうからのメッセージと!?

  • 「いざ、出陣!?」…辻立ち、スタ-ト~そして、”連れ立ち“の妙と海の向こうからのメッセージと!?

 

 「下校途中の高校生の皆さん、図書館構想や駅橋上化構想などによって、この駅前が大きく変貌することを知っていますか。未来を創造するまちづくりに皆さんの知恵を結集しようではありませんか」―。花巻市議会6月定例会の一般質問がスタ-トした13日昼下がり、JR花巻駅前にしわがれ声が響き渡った。「叛逆老人」を自称する私が「さらば、おまかせ民主主義」を掲げた“辻立ち”の第一声。時折、足を止める高校生がいるものの、ほとんどはスマホに熱中している。

 

 「さっき、議会中継をのぞいてみたが、居眠り議員が相変わらず。ある議会改革度ランキング調査で、奥州市は第3位に入ったが、当市議会はなんと523位。当局と議会とが互いに監視し合う“二元代表制”も崩壊の寸前だ」―。ほど近い広場の一角で、過激な雄叫びを上げる男性の姿が目に入った。つられて、こっちにも力(りき)が入る。こんな“競演”がしばらく続いた。

 

 私が着用するポロシャツに「Long Live The King」という英文字が印刷されている。この日、もう一人の“叛逆老人”に挑発されて興奮したせいか、上っ張りを脱いだ時にこのプリントに初めて気が付いた。直訳すれば「長生きこそが王様」ということになろうが、私は若干謙遜を込めて「早起き」ならぬ「長生きは三文の得」と勝手に解釈することにした。7月17日告示、24日投開票の「夏の陣」(次期市議選)への幕が切って落とされた。どこかで出合い頭に遭遇することがあったら、少しでも耳を傾けていただけたらと思う。

 

 

 

 

 

(写真は“辻立ち”の第一声を上げる、“元祖”叛逆老人(の私)=6月13日正午すぎ、JR花巻駅前の広場で)

 

 

 

《追記ー1》~“連れ立ち”の妙

 

 「NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を毎週、手に汗を握りながら見ている。この夏には26の議席をめぐって、31人が争う“陣取り合戦”(市議選)が繰り広げられる。こちらもお見逃しなく」―。例の中年“叛逆老人”がこの日(15日)も花巻駅前で絶叫していた。このドッキングに双方のボルテ-ジも上がりっぱなし。「東北駅百選に選ばれているこの駅舎が橋上化(東西自由通路)によって、撤去させることになっている。ところが、上田(東一)市長は議会答弁で『百選なんて、どこにでもある。大した価値はない』と歯牙にもかけない。こんな市政って、許せますか」と私。“連れ立ち”の妙が思わぬ波及効果を生み出しつつある。

 

 

 

《追記―2》~海外の“叛逆老人”からも連帯のメッセ-ジ

 

 在独(ベルリン)48年の友人、梶村太一郎さん(76)から久しぶりに連帯のメッセ-ジが届いた。作家の故小田実さんらと「日独平和フォ-ラム」を立ち上げた梶村さんは以来、世界平和に向けた発信を続けている。以下にその要旨を転載させていただく。

 

 

 コロナがまだくすぶり続け、気候変動はますます亢進し、それに加えてウクライナの戦争までが急速にグローバルな危機をもたらしている、穏やかならぬ昨今ですが、お元気でしょうか。そんな中、日本では参院選が迫り、ベルリンで反核運動を続けているSNBの若い方から、「爺さんも話せ」とばかり、ネットラジオで先週の木曜日にインタヴュ-を受け昨日から公開されています。

 

 聴いてみてすっかりダミ声になっているのでびっくり、あらためて重なる馬齢を実感した次第です。それはともかくここでは訊かれるままに、これまであまり公言しなかった、わたしの生家や学生時代についても初めて述べています。ラジオでは訊かれなかったので話していませんが、ウクライナ戦争はベルリンの壁崩壊の33年後の揺り戻しで、影響は当時よりももっと激しく広範なものになるのではないかと考えています。

 

●SNBときどきラジオ★選挙に行こう!シリーズ No.7 ゲスト 梶村太一郎さん(ジャーナリスト)    https://www.youtube.com/watch?v=ZntC4QPz0Kg

 

 

 

 

実録「湯の町エレジ―」…「町なかに銭湯がほしい!?」~片や、”叛逆”老人は青春のまっただ中

  • 実録「湯の町エレジ―」…「町なかに銭湯がほしい!?」~片や、”叛逆”老人は青春のまっただ中

 

 「これから猛暑の夏に向かうのにお風呂にも入れない。まちの中に銭湯がほしい」…。一瞬、耳を疑った。古賀メロデイ-の大ヒット曲「湯の町エレジ-」ではないが、有数の温泉郷として知られる当花巻市でまさか、こんな嘆き節(エレジ-)を聞くとは思ってもみなかったからである。

 

 午後3時すぎ、中心市街地の入り口、「上町通り」の一角の商店にお年寄りたちが三々五々、集まってくる。中国・上海出身の源健さんが営む中国物産店の店内にはテ-ブルが置かれ、常連たちの際限ないおしゃべりが続く。以前は7代も続いた魚問屋「熊新」として、店先には客足が絶えなかった。その後、大型店の進出が相次ぎ、中心市街地はシャッタ-通りと化した。家主の熊谷和子は当年90歳になるが、まだかくしゃくたるもの。「店を閉めようとしていた時、ちょうど源さんが商売をしたいと。まちなかにはひとり暮らしの年寄りも多い。片隅を憩いの場として開放してほしいというのがその時の条件。源さんもすぐOK。あの震災の少し前だからもう10年以上になるね」

 

 5月末のうだるような暑さの午後、私は吸い込まれるような感じで店内へ。男性一人のほかはみんな女性。歩いて来れる距離に住む小原シメ子さん(81)が汗をぬぐいながら、ため息をついた。「湯のまちホット交流サ-ビスとかもあるらしいけれど、そこまで行く足がない。アパ-トの風呂は古くなって使えない。修理するお金もないし」。一緒にいた数人がうなずいた。「そう、まず銭湯だね。近くにあった惣菜店も6月いっぱいで閉めるらしい。これじゃ、まるで兵糧攻め。この一帯は“姥捨て山”ならぬ、“姥捨て町”だよ」。ここに集まるお年寄りたちはそれぞれの事情で、世間から孤立して人が多いらしい。そのせいか、歯に衣着せぬパワフルな発言が目立つ。

 

 店の前の車道には時間制限のパ-キングエリアが何か所か設置されている。熊谷さんが怒った口調で言った。「近くにはちゃんとした駐車場もない。これじゃ、まるで“陸の孤島”だと当時の市長に直訴状を書いた。それでやっとこさ。その後、目の前に公園もどきの広場ができたが、今度はトイレもない。こっちも直訴してやっと、設置させた。このまちは口先では老人に優しいなどと言っているが、実際は逆。それに比べれば、源さんは…」。その源さんが目をぱちくりさせた。「こっちだって、コロナで商売、大変だよ。でも、ここは賢治さんのふるさと。追い出すわけ、いかないしょ」

 

 「店の休憩テ-ブルは皆様が仲良く楽しく、自由に交流する場所です。これを有効に活用するために以下のことをご協力お願い申し上げます。(1)1時間以上利用する人は300円の飲み物を注文(2)明るい雰囲気になるには悪口禁止。悪口で心がよごれる」―。店内の壁にはこんな「お願い」と地元の小学生が“まちなか探検”に訪れた際の感謝状が張られている。

 

 

 

 

(写真は午後のひと時、談笑に興じるお年寄りたち=5月末、花巻市上町で)

 

 

 

《追記》~“叛逆”老人の快挙!!…吹けば飛ぶような“世代交代”論

 

 ヨットによる世界最高齢での単独無寄港の太平洋横断に挑んでいた海洋冒険家、堀江謙一さん(83)が4日、母港がある兵庫県西宮市に帰還した。米サンフランシスコから丸69日間をかけて、約8500キロを航海した。実は私が市議選出馬を決意した背景には1歳年上の堀江さんのこの勇気に発奮させられた部分が大きい。「いまはちょっと休みたいですね。2,3時間でも休めば、また元気になりますよ。精神と肉体を完全燃焼させた。僕はいま青春のまっただ中」(5日、6日付「朝日新聞」)と堀江さん。今夏の市議選には(ひっくり返せば、“姥捨て”論にもつながりかねない)安直な「世代交代」を叫ぶ立候補予定者もいるようだが、堀江さんの快挙や上記のお年寄りたちの“パワフル”発言にも耳を傾けてほしいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」…「くらしと政治の勉強会」Part3

  • 「汝の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」…「くらしと政治の勉強会」Part3

 

 フェアトレ-ド商品などを販売する「おいものせなか」(新田史実子代表)で28日、第3回目となる「くらしと政治の勉強会」が開かれた。新田代表を含め参加者はわずか5人だったが、逆にまちづくりをめぐるフリ-ト-クが盛り上がり、熱のこもった議論は3時間に及んだ。

 

 花巻人の「はなまき」知らずがまちづくりの最大のネック―。参加者のこの発言がきっかけをつくった。「市役所新館に隣接する体育館はかつて、“アパ中”と呼ばれていたんだよ」と郷土史に詳しいその男性が説明すると、女性参加者はキョトンとした表情。解説が続いた。「戦後、外地から引揚者が続々と帰国したため、住宅事情がひっ迫した。窮余の一策、当時中学校だった空き教室を引揚者に開放した。それで、アパ中(アパート中学校)と呼ばれるようになった」―。合併前の当時の花巻町長は「道理主義」(ドウリズム)を貫いた故北山愛郎さん。“道理”市長の型破りはこんなもんでは終わらない。「とにかく、発想が大胆で奇想天外。全国の老人ホ-ムに馬券売り場をつくったらどうか。ただ、掛け金は千円まで。老人が元気になるぞ」と…

 

 「いまの市政からは想像もできない」と女性参加者のひとりが口を開いた。「たとえば、震災でふるさとを追われた被災者向けの災害公営住宅をまちの中心部に造ったまでは評価するが、買い物をする店も近くにはない。まるで、“陸の孤島”みたい。一方で、行政側は定住人口の増加で、中心市街地の活性化に寄与したともっぱらその数値だけを強調する。表現はきついが、被災者を“人質”に取った市政運営にしか見えない。“アパ中”の思想とは雲泥の差…」

 

 引きこもりがちな被災者のひとりが2年前、近くを流れる大堰川で数匹のホタルを見つけた。「ホタル発見」が地元の人ではなく、見知らぬ土地へ移住を強いられた外部の人の目にとまったことに私は胸が震えた。「妻に先立たれたやもめ暮らしにとっては、健康維持のための散歩が欠かせない。だから、じっと佇んで川を観察するんです。昨年は12匹、今年はもっと、増えていればいいですね…」。この話を紹介すると、参加者全員の顔がほころんだ。「そうだ、まちの真ん中でホタルが乱舞するイ-ハト-ブ(賢治の夢の国)づくり。まちづくりの第1歩はこれで決まりだね」

 

 私はいま、このまちの路地裏を徘徊しながら、来し方行く末に思いを巡らすのをとても楽しみにしている。以前、酒屋を営んでいた同級生の栄君は元気だろうか。いくら声をかけても返事がない。父親は宮沢賢治の教え子で、賢治劇の名優のほまれが高かった。だから、しょっちゅう話を聞きに訪ねた。「最近、耳がずいぶん遠くなったが、元気だよ」と近所の人。「スナック・リンダ」の名前がかすかに読み取れる看板。飲酒が禁止されていた高校時代、こっそりとトリスのストレ-トをあおった懐かしい思い出がまだ残っている。「な~に、酒は隠れて飲むから、うまいんだよ」と挑発が巧みなマスタ-はとっくの昔にこの世を去った。「はなまき」知らずの花巻人の放浪めいた徘徊はまだまだ、続く。

 

 「汝(なんじ)の立つところを深く掘れ、そこに泉あり」(沖縄学の父、伊波普猷=いはふゆう)ーー

 

 

 

 

 

(写真は少人数ながら、盛り上がった勉強会=5月28日午前、花巻市上小舟渡の「おいものせなか」で)

 

 

 

《追記》~謎かけ問答「私はわれわれに食べられる」(石倉敏明)

 

 

 「わたしといふ現象は…風景やみんなといっしょに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈のひとつの青い照明です」(『春と修羅』序)―。宮沢賢治の謎めいた文章をひも解くヒントになるようなコラムに出会ったので、以下に引用する。それにしても、「芸術人類学」という研究分野があったとは!?

 

 

 「食べることは『食べる/食べられる』の二項関係ではない。人体内や土中での微生物による分解や動植物のプロセスを考えると、人はまぎれもなく『われわれ』たる自然の一部であり『食べられるもの』だといえると、芸術人類学者は言う。その自明の事実を見ないことと『開発』の思想は連動していると。奥野克巳ほか編『モア・ザ・ヒュ-マン』でのインタビュ-から」(5月26日付「朝日新聞」、鷲田清一の「折々のことば」から)

 

 

 

 

 

観光船沈没事故と「近くて遠い島」北方領土・国後島

  • 観光船沈没事故と「近くて遠い島」北方領土・国後島

 

 「知床事故、国後の遺体は甲板員か」(22日付「朝日新聞」)―。北海道・知床半島沖で乗客・乗員26人が乗った観光船沈没事故の関係者とみられる遺体が北方領土・国後島西岸で発見されたというニュ-スに接し、“国境の海”の厳しい実態をまざまざと思い出した。もう、40年近くも前になる。当時、私はこの海域を股にかけて暗躍する密漁グル-プの取材を続けていた。日本最東端の根室・納沙布岬の北東約3・7キロ先に傾きかけた灯台がぽつんと立っている。日ロ間の中間ライン(実質的な国境線)のすぐ近くに位置する北方領土・貝殻島である。

 

 「貝殻島の近くの海底にコンブに絡まった人の頭があるんだよ」―。ある日、親しくなったグル-プのひとりが耳打ちしてくれた。時を同じくして、知床半島のとある港町でバラバラ殺人事件が発生していた。「すわぁ、被害者の身元か!」と警察も色めき立った。町で一番豪華なすし屋に警察暑長から御座敷が掛かったのは、事件の迷宮入りが取り沙汰され始めた時だった。「さ、いっぱい」と署長は徳利を手におもむろに口を開いた。「ところで、あなたの筋であの骸骨をこっちに持って来てもらうわけにはいかないだろうか。ご存じのようにあの海域には日本の警察権力が及ばないもんで…」

 

 土台、“商談”がまとまる話ではないと分かったうえで、グル-プのリ-ダにこの話を伝えた。暴力団筋のこの男はニヤニヤしながら、条件を出してきた。「あの辺りはウニの宝庫なんだよ。1週間だけ密漁を黙認してくれるなら、考えて見てもいいぞ」―。当然のことながら、警察側が刑法犯の“密漁”を認めるわけにはいかない。いつしか、唯一の「ブツ」(証拠)は流氷とともに消え去り、事件は未解決のまま捜査を終了した。

 

 「飲んで騒いで丘にのぼれば/はるかクナシリに白夜は明ける…」―。森繁久彌が「知床旅情」で歌うように、国後島は今回事故が発生した知床半島突端から「白夜」を眺望できる指呼(しこ)の間である。しかし、ロシアによるウクライナへの侵略とそれに対する日本側の制裁措置で「近くて遠い島」はますます遠くなりつつある。

 

 

 

(写真は知床半島から望む国後島=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

沖縄復帰50年と「イ-ハト-ブ」、そして天皇のお言葉

  • 沖縄復帰50年と「イ-ハト-ブ」、そして天皇のお言葉

 

 「5年前の東日本大震災の際も賢治の詩『雨ニモマケズ』に背中を押されるようにして、世界中から支援の手が差し伸べられました。私自身、宮城県気仙沼市で被災しましたが、賢治精神のその善意に支えられてこれまで頑張ってくることができました。現在は当市に居を移してお世話になっていますが、賢治精神の大切さを改めて実感させられる毎日です」―。沖縄の日本復帰50年の15日、私は「3・11」でふるさとを追われた日出忠英さん(80)の基地削減を訴える切々たる請願書の文面を身を引き締めて読み直した。

 

 沖縄はこの日、戦後27年間に及ぶ米国の統治下から復帰して50年の節目を迎えた。しかし、先の大戦で唯一地上戦の舞台となった沖縄では県民の4人に1人が犠牲となり、現在もなお米軍基地の約7割が集中している。こうした現状を憂えた日出さんは平成28(2016)年6月、花巻市議会に対し「(基地の根拠規定になっている)日米地位協定の抜本的な見直し」―を求める請願書を提出した。「基地を一方的に押しつけられ、日々犯罪の恐怖におびえ続けなければならない沖縄県民の心に寄り添い…」と日出さんは訴えたが、議会側は国の“専管事項”を盾に門前払いをした。

 

 それにしても「雨ニモマケズ」の神通力にはかなわない。何しろ「東西南北」の全方位に不幸や災いがあったら、そこに「行ッテ」寄り添えとそそのかす。私自身、この“挑発”に乗せられて何度、沖縄の地に足を運んだことか。沖縄通いを続けてきた私は市議になりたての平成22(2010)年12月定例会で「賢治精神をまちづくりのスロ-ガンに掲げる当市として、沖縄の米軍基地の訓練の一部を肩代わりする考えはないか」と問うた。本来ななら、この種の議論を先導するはずだと思い込んでいた、あさっての方向から矢玉が飛んできた。

 

 「(沖縄における)女性暴行などの米兵による犯罪と騒音被害は想像を絶しており、花巻市民がそれを受け入れなければならない理由などありません」(共産党市議の議会報告から)。この気の遠くなる認識の乖離に腰を抜かした私は折り返し、公開質問状を送った。「沖縄の痛みを自分自身の問題としてとらえ、1人ひとりが真剣に沖縄の現実に向き合うべきではないのか―。こともあろうに革新を標榜する公党がわたしの言いたかったことの趣旨を理解できなかったのだとすれば、それはもはや驚くべきほどの『想像力の欠如』と言わざるを得ない」―

 

 「他人事」から「自分事」へ―。賢治の「行ッテ」精神の真髄はここにあるという考えに変わりはない。それどころか、収束の見通しも立たないコロナ禍や残酷無比なウクライナ戦争を目の当たりにする今こそ、この精神の大切さを思い起こす必要があるのではないか。しかし、賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」はどうも真逆な道行きを辿っているように思えてならない。「雨ニモマケズ」をもじった「弾ニモマケズ」などという大政翼賛的な愚劣なパロディが(上田)市長周辺でもてはやされたと思ったら、「ロシア侵攻」に反対する市議会決議(3月4日)の原文から、賢治の代表的な平和メッセ-ジ…「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)という一節がいつの間にか消えてなくなるという“椿事”も起きている。

 

  この日の復帰50年記念式典で、天皇陛下は以下のようなお言葉を披露した(要旨)。「大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は『ぬちどぅたから』、命こそ宝の思いを深められたとうかがっていますが、その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いをいたしつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます。沖縄には今なお様々な課題が残されています。今後、若い世代を含め広く国民の沖縄に対する理解がさらに深まることを希望するとともに、今後ともこれまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています」

 

 お言葉の中の「課題」とは「過重な米軍基地の存在」などを指すものと思われ、”政治的な発言”を避けるための言い回しだと専門家は指摘。さらに「課題」に触れられたのは初めてのことだという。とまれイ-ハト-ブはいま、深刻な根腐れ病に犯されているのは間違いなさそうである。

 

 

 

(写真が住宅地に接するようにオスプレイが駐機する米軍普天間飛行場(宜野湾市)。辺野古(名護市)への移設工事が進んでいる=インタ-ネット上に公開の写真から)