HOME > ヒカリノミチ通信について

新図書館建設…上田市長が駅前立地を正式表明~図書館と橋上化は実は「裏と表」の関係だった!!??

  • 新図書館建設…上田市長が駅前立地を正式表明~図書館と橋上化は実は「裏と表」の関係だった!!??

 

 「JR花巻駅前のスポ-ツ用品店用地を新図書館建設の第1候補地として、所有者のJR側と土地の譲渡交渉に入りたい」―。2日開催した花巻市議会9月定例会で、上田東一市長は立地場所についてこう表明し、今月中に市民への説明会を開きたいという意向を示した。上田市長のトップダウンで「新花巻図書館複合施設整備事業構想」―いわゆる“住宅付き図書館”の駅前立地(上田私案)がまるで、青天の霹靂のように公表されたのは2020年1月29日。以来2年半以上、迷走を繰り返した末、結局は思惑通りの場所選定に落ち着いたと言えそうだが、その袖の下からは上田流“強権支配”の影がチラホラ…

 

 新図書館の「上田私案」に対しては、議会側が特別委員会を設けるなどして幅広い図書館論議を呼びかけた結果、住宅併設案や50年間の定期借地権の設定などは撤回されたが、一方で市当局は市民説明会やWS(ワ-クショップ)の開催、オンラインによる意見交換会などをひんぱんに開くなどして、駅前立地への“理解”を促してきた経緯がある。

 

 上田市長はなぜ、これほどまでに「駅前立地」にこだわり続けるのか。議会初日のこの日、もうひとつの懸案事項である「JR花巻駅橋上化(東西自由通路)」について、上田市長は「明日3日から10月にかけて19回にわたって、市民説明会を開きたい」と述べた。実はこの発言の背後に「図書館と橋上化は表裏一体。どちらが欠けてもダメ」という“からくり”が隠されている。”やらせ要請”という疑惑を招きながらも橋上化に執念を燃やした”ナゾ”の構図とは!?その本音がひょいっと、もれたのが6月28日に松園地区で開かれた市政懇談会の場だった。

 

 「駅前の土地については、購入するためにJR本社の社長の許可が必要となる。現在でも盛岡支社と話し合いをしているが、花巻市としてJRの社長が許可を出した際には図書館を建設するという決定に近い話がなければ社長に話せないと言われている。JRは花巻駅の橋上化をやりたいと思っており、橋上化の話が進めば、土地の売買について真剣に話をしてくれる可能性はある。橋上化がなくなった際には、駅前に図書館を建設することについてもどうなるか分からない」(会議録より)―。40億円近くの巨額を投じて建設が予定されている「橋上化」構想が実は駅前のJR所有地の譲渡交渉の前提条件だったのである。なんとも、分かりやすい図式ではないか。だったら、最初から正直にそういえばいいのに…

 

 新図書館構想の立地場所や蔵書、レファランス(サ-ビス)など全体像を協議するための「新花巻図書館整備基本計画試案検討会議」が設置されたのは昨年4月。この日、上田市長は「昨日(1日)の11回目の検討会議で委員の皆さまから、駅前立地の了承をいただいた」と明らかにした。検討会議において、橋上化との一体性の説明はあったのかどうか。もしあったのだとすれば、それはもう市当局に“お墨付け”を与えるだけのデクノボ-(操り人形)集団にすぎない。ここは新体制下で論戦に挑む議員各位の奮闘に期待するしかない。

 

 

 

 

(写真はJR花巻駅と新図書館建設の第1候補とされたスポ-ツ用品店(左奥)=花巻市駅前通りで)

 

 

 

 

 

映画「破戒」とイ-ハト-ブ”幻想“と…

  • 映画「破戒」とイ-ハト-ブ”幻想“と…

 

 「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」(水平社宣言)―。ちょうど100年前、被差別部落の人々の解放を目指して全国水平社が設立され、冒頭のような“人間解放”宣言が発せられた。節目の今年、部落問題をテ-マにした島崎藤村の代表作『破戒』が60年ぶりに映画化された。この作品は1948年(木下惠介監督、池部良主演)と1962年(市川崑監督、市川雷蔵主演)に続き、3度目の今回は前田和男監督、間宮祥太郎主演。原作刊行から116年―、現代社会に息づく差別の実態を鋭くえぐり出した。

 

 先の市議選の疲れを癒(いや)そうと今月初め、盛岡の映画館に足を運んだ。部落解放運動に情熱を傾ける運動家の言葉にぎくりとした。「差別というものは、人の心から簡単に消えはしないような気がするんだ。よしんば、部落差別がなくなったとしても、その時は新しい差別が生まれているかもしれない」。頭から消し去ろうとしていたあの言葉がまるで鵺(ぬえ=妖怪)みたいにぬっと、たち現れた。映画鑑賞の2日前、私のブログ(7月30日付参照)に「イ-ハト-ヴ市民」を名乗る人物からコメントが送られてきた。

 

 「まずさ。あんたの場合、票数的にも箸にも棒にも掛からない感じだったんだから、終わってから負け犬の遠吠えみたいに騒ぐのやめな。そんな老害に今さら、何ができんの。時代はもう変わってんのさ」―。ヘイトスピ-チやいじめ、セクハラ、パワハラ…。「時代は逆回りしているのではないか」…映画を鑑賞しながら、つくづく思った。「時代は変わるどころか、ますます陰湿な形で“新しい差別”が蔓延している。そして、わが郷土の詩人、宮沢賢治が『夢の国』と呼んだ理想郷・イ-ハト-ブの地には腐臭が立ち込めつつある」―と。さながら、「風の谷のナウシカ」(宮崎駿)を彷彿(ほうふつ)させる光景ではないか。

 

 こんな会話が印象に残っている。「人間というのは、それほど愚かな生き物なのでしょうか」(主人公の丑松)、「愚かなのではない。弱いのだ。弱いから差別するのだ」(運動家)

 

 

 

(写真は現代版映画「破戒」のポスタ-)

 

 

 

 

《追記》~部落解放同盟の委員長に就任した西島藤彦さん(69)

                   =8月30日付朝日新聞「ひと」欄より

 

 

~地元の女性から相談を受けたことがある。結婚を約束した男性の両親らが、女性の家族の戸籍を入手。父親が部落出身だとして結婚に反対され、初めて女性は自分の出自を知った。「差別を避けようと出身地を離れても、差別が追いかけてくる実態が残っている」。被差別部落出身者による日本初の人権宣言といわれた「水平社宣言」から100年。島崎藤村の小説「破戒」の映画製作にかかわり、7月公開された。出身を名乗るか否かで葛藤する主人公の苦悩は、性的少数者ら現代のマイノリティ-に通底する。「出自を暴かれる恐れを抱き、人に語れない内面を抱える人々と手を携えていきたい」

 

 

 

 

 

 

 

哲さん、そして~ブフィエと虔十と……「ほんとうの幸せとは?」

  • 哲さん、そして~ブフィエと虔十と……「ほんとうの幸せとは?」

 

 「賢治の描くゴ-シュは、欠点や美点、醜さや気高さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆に富んでいます。その中で、これだけは人として最低限守るべきものは何か、伝えてくれるような気がします。それゆえ、ゴ-シュの姿が自分と重なって仕方ありません」―。先の市議選で惨敗を喫して以来、2年半前にアフガンの地でテロの銃弾に倒れた医師、中村哲さん(享年73)の“遺訓”ともいえる言葉の数々が頭をよぎり続けている。

 

 冒頭の言葉は平成16年、中村さんが宮沢賢治イ-ハト-ブ賞を受賞した際、現地から寄せたメッセ-ジの一部である。医師の肩書を持ちながら、干上がった大地に井戸を掘り、砂漠の荒野に緑を蘇(よみがえ)らせた哲さんの生きる“哲学”は昨年、『わたしは「セロ弾きのゴ-シュ」』として一冊の本にまとめられた。こんな折しも、アルプス山脈のふもとで羊飼いのかたわら、黙々と木を植え続けてきた男の物語に出会った。フランス人作家、ジャン・ジオノの『木を植えた人』(原みち子訳)である。寡黙な男との遭遇をジオノはこんな風に描写している。

 

 「めざす場所に着くと、羊飼いは鉄の棒を地面に突き刺した。こうして穴ができると、団栗(ドングリ)をひとつ入れ、上をふさいだ。樫(カシ)の木を植えているのだ。あなたの土地ですか、と問うと、否とのこと。ではだれのものなのか。男は知らなかった」、「私はブフィエ(主人公の羊飼い)の失望についてはこれまでなにひとつ述べなかった。しかし、容易に想像がつくであろうが、成功をもたらすためには、それを妨げようとするものにうち勝たねばならない。情熱が勝利を得るためには、失望と戦わねばならない。ある年、一万本のカエデを植えてみたが、一本も育たなかった。翌年、カエデはあきらめ、ふたたびブナにかえたところ、カシ以上の成功だった」

 

 ここまで書き進めてきた時、ふいに「虔十」の姿が哲さんとブフィエに重なった。一瞬、3人が溶け合ってしまったように感じた。宮沢賢治の童話『虔十公園林』は知的障がいを持つ虔十が周囲にバカにされながらも、せっせと杉の苗木を植え続ける物語である。こんな一節がある。

 

 「その虔十といふ人は少し足りないと私らは思ってゐたのです。いつでもはあはあ笑ってゐる人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見てゐたのです。この杉もみんなその人が植ゑたのださうです。あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。たゞどこまでも十力(じふりき)の作用は不思議です。こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては」…

 

 ジオノは森林保護隊長の驚嘆の言葉をこう記している。「あの人(ブフィエ)はだれよりもよく知っている。ほんとうの幸福への道を探しあてている」

 

 

 

(写真は40年近くも前に書かれ、いまも読み継がれている『木を植えた人』。翻訳本も各種ある
 

危機管理というよりももはや、”内部統制”の崩壊か!?…災害情報をめぐるテンヤワンヤ!!??

  • 危機管理というよりももはや、”内部統制”の崩壊か!?…災害情報をめぐるテンヤワンヤ!!??

 

 「一部を除いて、高齢者等避難警報を解除します」―。16日午後5時15分、携帯のエリアメ-ルが立て続けに3回鳴った。戸外の断続的な雨音を気にしていた時だっただけにホッと胸をなでおろした。ところが、目の前のNHKロ-カルニュ-スでは同日午後6時36分更新の自治体(花巻市)情報として、各避難所への高齢者の避難が続き、さらに前日に引き続き、全市内27か所の地域振興センタ-に開設した避難所も維持されていることを画面のテロップが伝えているではないか。

 

 一体、どっちの情報を信じたらよいのか。私を含めた高齢者の多くは災害時の情報はテレビやラジオが第一とまず、その情報にかじりつくのが普通である。念のため、市のHPをのぞいてみると、「警戒レベル3・高齢者等避難」警報が全面解除されたのは午後7時45分となっていた。この間、2時間以上も錯綜した“情報”に振り回されたことになる。今次災害に始まったことではない。当ブログ(7月30日付及び8月13日付)でも言及してきたように、市議選をめぐる選挙管理委員会の数々の不手際や市議のコロナ感染をめぐる対応指針の無視など枚挙にいとまがない。

 

 この日、お盆休暇を取っていた上田東一市長が急きょ、登庁して指揮をとったことが後で分かった。その振る舞いは良し、むしろトップとしての当然の行為であろう。しかし、相次ぐ“不祥事”を目の当たりにしてきた一人としては「危機管理というよりも組織を維持するためには欠かせないガバナンス(内部統制)の欠如がこうした事態を招いているのではないか」と思ってしまう。ある市民は苦々しい表情で吐き捨てた。「災害対応より、市長の顔色をうかがっている。そんな職員たちが気の毒になる。ワンマン市政は本当に怖い」―。機能不全に陥った組織をあちこちで取材してきた私自身、「トップダウン」(上田一強)の恐ろしさを身に染みて感じている。

 

 

 

(写真は一部避難所の閉鎖が決まった後も市の情報として、事態の急迫を伝え続けるNHK=8月16日午後、NHKテレビの画像から)

 

終戦77年…追憶「父を訪ねて」

  • 終戦77年…追憶「父を訪ねて」

 

 「昭和20年12月16日、栄養失調症により、ソ連ウスリ-州ウオロシロフ地区リポ-ウツイ収容所で戦病死」―。黄色に変色したその紙片にはこう書かれている。この「戦死公報」(岩手県発行)の日付は昭和24年3月2日。太平洋戦争が敗色濃厚になっていた前年の昭和19年夏、旧満州(中国東北部)へ。約1年後の敗戦でソ連軍の捕虜となり、シベリアの収容所に抑留された。だから、父親は敗戦のわずか4カ月後に死亡したことになる。死亡時の年齢は37歳。入営時、4歳になったばかりの私に生前の記憶はほとんどない。遺骨代わりの木片が骨箱の中でカロンコロンと乾いた音を立てていた記憶だけは今も消えない。

 中学校に入学した直後、父親と同じ収容所から無事生還した戦友が留守宅を訪ねてきたことがあった。「一緒に日本に戻ろうと励ましたが、もう体力の限界でした。3人のお子さんのことを最後まで心配していました」。その人は母親にそう伝言するため、わざわざ岐阜県から足を運んでくれたのだった。私の手元に「父を訪ねて」というタイトルのビデオテ-プがある。今から30年以上も前、父親の面影を求めて、元収容所跡を訪ねた時の模様が記録されている。1991年春、当時のゴルバチョフ・ソ連大統領が戦後初めて、日本人捕虜の墓地を参拝することになった。その一連の取材をこなした後、私はシベリア鉄道を乗り継いで「ソ満国境」へ向かった。

 目指した場所はウスリ-河のほとりにあった。荒涼とした草原が捕虜たちの“墓所”だった。シベリア抑留者は総数で約64万人といわれ、うち約6万人が死亡している。「捕虜たちの仕事はほとんどが石炭堀りだった。みんなガリガリにやせこけてね。タバコを差し入れしたこともあった。多くの人が死んだらしいけれど、みんなそのまま土に埋められたと聞いている」―。当時、「朝鮮人離散家族会」の会長をしていた、ハバロフスク在住の朝鮮系ロシア人の李柱鶴(リ・ジュハク)さんが通訳として同行し、村人たちの話しを聞き出してくれた。私は母親から託された、父親が好きだったという朝顔のタネをパラパラと蒔(ま)いて手を合わせた。

 6年前、厚生労働省を通じて一通の死亡証書がソ連側から送られてきた。「本日(昭和20年12月30日)、第14収容所第4865病院にて、軍事捕虜マスコ・コンチが死亡」と書かれていた。亡き父「増子浩一(ますこ こういち)」の71年目の死亡通知だった。戦死公報の死亡日(12月16日)とのずれに気が付いた。同封されていたカルテでその謎が解けた。「空白の14日間」―父の死がやっと、実感できたように思った。両親が眠る郷里・花巻の墓地にはあの時に持ち帰った草原の土くれと、遠い異国の地での苦役の証しである石炭のカケラが一緒に埋められている。

 

 

《12月16日》(入院)~全般的なだるさ、食欲不振、脚の痛み、咳、衰弱を訴える。全体的な容体は悪くない。ビタミンBとC、貧血防止用のヘマトゲン(血液製剤)を投与。診断名「第Ⅰ度栄養失調症、気管支炎」

 

《17日》~体温36・7~36・9。胸の痛み、咳、鼻炎、全体的なだるさを訴える。客観的に正常な体格。低栄養。肺にゼイゼイという乾性ラ音がまれに聞こえる(注;乾性ラ音=正常呼吸音以外の複雑音。気管支が狭くなっている時に起きる)。腹部は柔らかく痛まない。打診音は清音。舌はきれいで湿っている。粘液は正常で全体的な容体は悪くない
 

《18日》~体温36・4。全体的な容体は悪くない。浅い睡眠を訴える。ヘマトゲンを投与
 

《19日》~体温37・0。食欲良好。便通、利尿は正常。ビタミンCを投与
 

《20日》~体温36・5~36・6。患者の容体は変化なし
 

《21日》~体温36・1~36・6。軽い頭痛を訴える。便通は正常。食欲あり
 

《22日》~体温36・2~36・5
 

《23日》~体温36・7~36・8。容体は変化なし
 

《24日》~体温36・3~37・3。具合は悪くない。咳を訴える。肺及び心臓は正常。食欲良好。便通は正常
 

《25日》~体温37・4~39・0。全体的な容体は悪くない。頭痛を訴える。アスピリンを投与
 

《26日》~体温37・1~37・6。心臓、肺は特徴なし。便通は正常
 

《27日》~体温36・9~38・3。容体は悪くない。内臓は異常なし。睡眠、便通とも正常
 

《28日》~体温38・5~39・5。頭痛を訴える。脈拍は律動的である。心臓、肺は特徴なし。血液検査を行うこと
 

《29日》~体温39・7~39・9
 

《30日》(死亡)~午前7時、心臓活動が衰退し、患者は死亡した。診断名「第Ⅲ度栄養失調症」

 

 

 

 

(写真は若かりし時の父親。遺影となって、私のそばにいる)