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叛逆老人は死なず…「夏の陣」(花巻市議選)に参戦

  • 叛逆老人は死なず…「夏の陣」(花巻市議選)に参戦

 

 コロナ禍の中で勃発したウクライナ戦争がまるで、“黙示録”のように頭の片隅にこびりついて離れない。こうした鬱々(うつうつ)たる日々は厳寒の中で戦われた花巻市長選以降、ずっと続いている。季節は移り、雪解けが進んだと思ったら、またぞろ生臭い時節が近づいてきた。「7月17日告示、24日投開票」…次期市議選のスケジュ-ルをHPで知り、我に返った。「悪夢」を思い出したからである。市長選の結果ではなく、その首長を選んだ側の、つまり私たち市民の側の不気味なほどの無関心がそれである。

 

 約2か月前、コロナ禍に翻弄(ほんろう)される中で行われた市長選(1月23日)の有権者総数は80,084人で、最終投票総数は43,722票。実にこの差し引き36,362票が棄権による“死票”に。さらに、投票率も前々回(2014年、2期目は無投票)の63・25%から54・60%と8・65%も減少し、3選を果たした現職の得票数は初陣に比べ9,073票減の22,676票。オミクロンの猛威のただ中にあったにしても…である。わずか四分一余りの有権者の選択による「市政運営」が果たして正常に機能するのであろうか。”鬱々症”の発症である。そして何の因果なのか、ロシアによるウクライナ侵略が始まったのは、その1か月後のことだった。

 

 「さらば!おまかせ民主主義」(花巻版「見張り番」)―。うっぷん晴らしのつもりで、議会傍聴をブログで呼びかけて見たものの、反応はさっぱり。そんな折しも畏友(いゆう)のルポライタ-、鎌田慧さんの文章が目に飛び込んできた。「戦争に傾斜するグロテスクな時代を招くに至ったのは、われわれ老人が、平和の恩恵のなかに安閑(あんかん)と暮らしてきたからだ。その罪を思えば、すこしくらい身体にむりをさせても、若者不在の空白を埋めなければならない。広場や街頭に若者たちがまた姿をあらわすまで、それまでが叛逆老人の役割なのだ」(『叛逆老人は死なず』、岩波書店)

 

 「大兄に背中を押されたような気がして…」―。同輩の著者に電話すると「面白いじゃないか。人生最後のご奉公だと思えば、これまた楽し。応援に行くよ」と何ともくすぐったくなるような返事。不肖82歳の私の方がさっさと、その気になってしまった。2010年、「アラセブ(70歳)、最後の決断」を標榜して、市議に初当選。2期目は「再度の決断」に看板を塗り替えて再選された。病弱だった亡き妻の介護で1期の空白を置いた末の“叛逆老人”の出馬表明というわけである。「まさか、エイプリルフ-ルじゃあるまいな…」と周囲からヤジが聞こえてくる。冗談じゃない。足元を見回しても世界に目を転じて見ても、あまりにも酷(ひど)すぎやしないか。やるっきゃない!?

 

 

(写真は将来のまちづくりなどについて、意見交換する市政勉強会=3月下旬、花巻市内で)

 

 

 

《追記ー1》~上田さん、ご忠告ありがとうございます

 

 4月1日午後6時55分54秒付の着信で、「上田西三」を名乗る人物から「老残」と題するコメントが届いた。「みっともないから、おやめなさい」とあった。「東の一枚目」(上田東一市長)からかなと思ったら、「西の三枚目」だった!?

 

 

《追記―2》~市政勉強会のお知らせ

 

 冒頭の写真は花巻市内でフェアトレ-ド商品などの販売を手がける「おいものせなか」(新田史実子代表)が主催した市政勉強会のひとこまで、3月27日開催の第1回目に私がゲストスピ-カ-として招かれた。新田さんはその目的について、こう語る。「今のままで花巻は良くなるのか、良くしたいという気持ちで呼びかけた。国や自治体の行政は日々の暮らしに直結する問題だが、ふだんは遠く感じられる。こういう場で勉強したり、自由に話し合う機会を持ちたいと考えた」。第2回目は今月17日午前10時から、同店で。先の市長選で惜敗した前市議会議長の小原雅道さんがゲストスピーカーとして、市政課題などについて話す予定。要予約。詳しくは「おいものせなか」(0198―22-7291)まで。

 

 

 

 

 

 

 

映画「ひまわり」とチェルノブイリ、そして父の死…

  • 映画「ひまわり」とチェルノブイリ、そして父の死…

 

 「ドイツ軍の命令で穴まで掘らされて。ご覧なさい。ひまわりやどの木の下にも麦畑にもイタリア兵やロシアの捕虜が…」―。ウクライナを舞台にした映画「ひまわり」(ヴィットリオ・デ・シ-カ監督、1970年)のチャリテイ上映に足を運んだ(3月26日、フォ-ラム盛岡)。ソフィア・ロ-レンが主演したあまりにも有名な名作。第2次世界大戦で引き裂かれた夫婦の悲劇が目の前のウクライナの光景にそのまま重なった。そして、ヘンリ-・マンシ-ニによる哀愁がこもった主題歌の背後にチェルノブイリ原発の建屋が浮かび上がった。と、これまではそう思っていた。

 

 「メルトダウン」(炉心溶融)という過酷事故(1986年4月、旧ソ連邦・ウクライナ)を引き起こしたこの原発は映画が公開された同じ年に着工され、第1号機が稼働したのは7年後。だから、私の勘違いだったことが今回、判明。実はモスクワ近郊の火力発電所の冷却塔だったことを知った。では私が以前、画面に見たものは何だったのか。やはり、“チェルノブイリ”の幻視あるいは予知みたいなものではなかったのか。現にこの原発はいま、ロシア軍の掌握下にあるではないか。そして、プ-チンは核や化学兵器の使用までほのめかしている。歴史の「悪夢」は繰り返されるのか。ひまわりはウクライナの国花である。

 

 「放射性大気汚染のレベルが上昇している」―。今度はこんなニュースが飛び込んできた。ロシア軍の砲撃によるものと思われる森林火災の影響で、原発周辺の放射能漏れの恐れも出てきた。記憶がまた、呼び戻された。スクリーンに映し出された、雪原の荒野を敗走する兵士たちの姿に父の死が重なった。先の大戦でソ連軍(当時)の捕虜となり、シベリアの大地に没した、その父の死である。これは”幻視”ではない。けれども、ロシア側から栄養失調死に至るカルテや死亡証書、埋葬証書が届いたのは戦後71年がたってからだった。

 

 

 

 

 

(写真は映画に登場する火力発電所の建屋や煙突=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

《追記》~遅ればせながら…。市がウクライナ支援のふるさと納税の募集へ

 

 花巻市は29日、ウクライナの人道支援のため「イ-ハト-ブ花巻応援基金」(ふるさと納税)を通じた寄付金を募ることをHP上に告知した。期間は4月30日午後11時59分までで、一口2000円。寄付金は日本赤十字社の「人道危機救援金」に当てられる。今次のウクライナ危機をめぐっては市議会側が3月4日付で抗議決議を可決、議会として直接支援金を送ることを決めている。基金名の「イ-ハト-ブ」は郷土の詩人、宮沢賢治が平和を願って命名したエスペラント語で「理想郷」を意味している。他に先んじて、支援の声を上げるべきではなかったかという市民が多かった。

 

 

 

 

 

もうひとつの「難民」物語…ボルガ大演芸団とスタルヒン

  • もうひとつの「難民」物語…ボルガ大演芸団とスタルヒン

 

 105年前、さかのぼれば現プ-チン政権の生みの親でもある「ロシア革命」(1917年)で、祖国を追われた難民の群れがあった。その数ざっと200万人。日本に亡命した“白系ロシア人”のひとりが不世出の大投手と呼ばれたヴィクトル・スタルヒン(1916―57年)である。昭和9年、結成されたばかりの大日本野球倶楽部 (巨人軍の前身)に入団。303勝176敗の生涯記録のうち、83の完封はいまだに破られていない。そのスタルヒンの墓が秋田県横手市雄物川の崇念寺(高橋大我住職)にある。今回のテ-マはスタルヒンその人ではなく、高橋家をめぐる数奇な運命についてである。

 

 革命軍と白軍(皇帝派)の激しい衝突が続く中、特務機関で通訳として働く一人の日本人がいた。大我さんの父親、義雄である。軍務を離れた義雄は「哈爾浜(ハルビン)奉仕同盟会」を立ち上げ、その目的に「露国飢民救済援助の件」を掲げた。僧職を弟にゆだね、画家を目指して出奔(しゅっぽん)した人生の転機だった。難民救済に心を砕く義雄は大正8年、家族と生き別れとなって放浪していた「アントニ-ナ」(愛称、ト-シャ)と結婚した。バレリ-ナやバイオリニスト、歌手、曲芸師…。大正12年に日本へ戻る時、義雄は20人以上の亡命者と一緒だった。「ボルガ大演芸団」を組織した義雄は帰国後、九州や関西の巡業を続けたが、昭和43年に病没した。

 

 30年以上も前、私は“青い目”の住職、大我さん(現在88歳)にお会いしたことがある。「なぜ、ここにスタルヒンが眠っているのか」という素朴な疑問からだった。両親の義雄・ト-シャさんの間には6人の子どもがいた。大我さんは四男で、長女の久仁恵さん(ロシア名、タ-ニャ)がスタルヒンの再婚の相手だった。「至誠院釈完闘不退位」という戒名を刻んだ墓石の上には白球をかたどった石が置かれていた。大我さんの言葉がまだ、脳裏にこびりついている。

 

 「母が寺の近くの雄物川のほとりにたたずむようになったのは、父(義雄)を亡くしてからです。母の生家のすぐそばにはボルガ河が流れていたそうです。ロシア語を決して口にしなかった母でしたが、いつしか哀調をおびたロシア民謡を、祖国の言葉で口ずさむようになっていました。息を引き取った時、枕もとには小さなマリア像が置かれていました」―。母親のト-シャさんが旅立ったのは昭和54年だが、姉のターニャさんは父親が没した3年後に自らの命を絶っている。

 

 ト-シャ、タ-ニャ…そして、生涯、無国籍だったスタルヒンは引退後の昭和32年、不慮の交通事故で死んだ。40歳の若さだった。そしていま、ロシア人の血を引く日本人住職が歴史に翻弄(ほんろう)された人たちの弔いを続けている。ウクライナ難民が300万人を超えたと伝えられる。ロシア革命の時、着のみ着のままで祖国を後にした当時のウクライナ人はいままた、新しい祖国を追われつつある。1世紀以上も前のもうひとつの「難民」物語がその光景に重なる。

 

 

 

(写真はスタルヒンとタ-ニャが眠る墓。台座には「栄光の名投手」と刻まれている=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

ウクライナ危機と東日本大震災―そして、82歳の老残と…、一方では「弾に もマケズ」の愚劣パロディも~懸念される言語中枢の崩壊!?

  • ウクライナ危機と東日本大震災―そして、82歳の老残と…、一方では「弾に もマケズ」の愚劣パロディも~懸念される言語中枢の崩壊!?

 

 ジェノサイド(大虐殺)の予感さえ漂うウクライナ危機の中で、日本は東日本大震災(3・11)の大災厄から11年目を迎えた。82年前のこの日、私はあの大戦へと向かう暗い時代のただ中で「生」を受けた。まるで、呪(のろ)われたような”出自”に時折、ハッとすることも。その面影さえ記憶にない父は結局、戦地(ロシア領シベリアの捕虜収容所)から戻ることはなかった。そして今、私はテレビが伝える海の向こうの戦禍の惨状を目で追いながら、瓦礫(がれき)の荒野と化した沿岸被災地の写真を繰っている。すっぽりと重なり合うその光景に改めて、おののいてしまう。

 

 世紀末のような今の時代をこれから、どうやって生きていったらよいのか…。逡巡(しゅんじゅん)する気持ちが行ったり来たりする。「な~に、これまで生かされてきたんだから、今さら死に急ぐ必要はないさ」―。老友のささやきを背中に聞いたような気がした。

 

 「戦争に傾斜するグロテスクな時代を招くに至ったのは、われわれ老人が、平和の恩恵のなかに安閑(あんかん)と暮らしてきたからだ。その罪を思えば、すこしくらい身体にむりをさせても、若者不在の空白を埋めなければならない。広場や街頭に若者たちがまた姿をあらわすまで、それまでが叛逆老人の役割なのだ。いのちの未来のために、老人たちは今日も行く」―。老友にして畏友のルポライター、鎌田慧(83)は『叛逆老人は死なず』の中にこう書いている。

 

 大国による軍事侵攻(戦争)や感染症パンデミック、地球温暖化と猛威を振るい続ける自然災害……。「もう少し、生き抜いてみようじゃないか」。82年前と何が変わったというのか。何も変っていないではないか。いや、むしろ醜悪に、だから……

 

 

 

 

 

(写真は11年前の東日本大震災の被災現場。ウクライナの今と見まごう光景である=2011年3月、岩手県大槌町で)

 

 

 

《追記ー1》~「3・11」に合わせ、花巻市議会がウクライナへ支援金

 

 

 発議第1号として、今月4日に「ロシアのウクライナへの軍事侵攻に断固反対する」―決議を可決した花巻市議会は予算特別委員会最終日の11日、ウクライナ大使館を通じて、支援金を送ることを代表者会議で決めた。議員のひとりは「複雑な心境で迎えた震災11年目」として、その気持ちをフェイスブックに投稿した。

 

 「東日本大震災の際には世界各国から支援金・義援金をたくさん、いただいた。毎日のウクライナ侵攻の報道にはただただ、怒りと涙が止まらない。だけど、怒りの矛先は”ロシア人”であってはならない。ロシア人の中にも、ウクライナのために活動している人もいる。ロシア軍の中にも、侵攻しながらウクライナ人を助けようとして、仲間のロシア軍人に射殺された人もいる。過去と現在進行形の、色々な形で失われた命…」

 

 

 

《追記―2》~「弾にもマケズ」…なにが「良いですね」―だって!!??

 

 

 当地花巻が生んだ詩人で童話作家の宮沢賢治の有名な詩「雨ニモマケズ」はパロディに改作されるなど今でも引っ張りだこ。たとえば、数年前に話題になった、受験地獄をもじった「雨にもアテズ」には思わず、クスッとしてしまうウイットがある。

 

 「立派な自分の部屋にとじこもっていて/東に病人あれば、医者が悪いといい/西に疲れた母あれば、養老院に行けといい/南に死にそうな人あれば、寿命だといい/北にけんかや訴訟あれば、ながめて関わらず/日照りの時は冷房を付け/みんなに勉強勉強といわれ/叱られもせず、怖いもの知らず/こんな現代っ子に誰がした」(詠み人知らず)

 

 ウクライナ危機が予断を許さない今月8日付で市HPに「人道危機救援金」の募金告示が掲載された。さっそく、「素晴らしいイニシアテイブ!宮沢賢治にならって、『弾にもマケズ』救援基金と名付けたらいかが?」というコメントが寄せられた。上田東一市長は自らのフェイスブックで「それも良いですね」と応答した。日々、人命が失われていく戦禍の中、この無神経きわまりない語呂合わせに体が震えた。賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」の首長の、これが素顔である。「北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」…。賢治は詩の中でこう叫んでいる。

 

 

 

《追記―3》~“コロナ”会食の副市長が退任、後任は「職員皆」発言??

 

 

  岩手県緊急事態宣言下の昨年8月、親族らと外食したとして減給処分を受けた藤原忠雅・副市長が任期を1年残し、3月31日付で退任することが花巻市議会3月定例会最終日(16日)で了承された。藤原副市長は「一身上の都合」としただけで、例の一件には触れなかった。後任の副市長には松田英基・総合政策部長が昇格する。「上田(東一)市長を支え、職員皆と協力し…」という松田部長のあいさつにびっくり(もう、トップにならって”上から目線”?)。後期高齢者の私などにとっては「国民皆」とは“皇室言葉”として刷り込まれているからである。「弾にもマケズ」発言に無邪気に「いいね」を押す上田市長を筆頭に、上層部の言語中枢はメルトダウン(崩壊)しつつあるのではないか。

 

 

《追記―4》~「聞く耳を持たない」と副市長が退任

 

 滋賀県野洲市は17日、川口逸司副市長(72)が任期途中の31日付で退任すると発表した。川口氏は17日の市議会会派代表者会議で「体力的な衰えを感じた」と理由にふれたが、市民病院整備計画を中断している栢木進市長との不和が背景にあるとみられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「イ-ハト-ブはなまき」の不気味な沈黙…宮古市がウクライナ難民の受け入れ表明!?

  • 「イ-ハト-ブはなまき」の不気味な沈黙…宮古市がウクライナ難民の受け入れ表明!?

 

 原発が砲撃対象になるなどウクライナ危機が緊迫化する中、花巻市議会3月定例会の予算特別委員会が9日から3日間の日程で始まった。まちづくりや医療、福祉、教育、コロナ対策…市民の「安心・安全」を審議する議会中継が流れる中、かたわらのテレビはウクライナ難民がすでに200万人を超えたというニュ-スを流していた。この光景の隔たりに一瞬、たじろいだ。市民生活に直結する予算審議が最大の優先課題であることは言を待たない。私が戸惑いを感じたのは「イ-ハト-ブはなまき」の実現を掲げる「上田(東一)」市政が海の向こうの悲劇に“無言の行”を続ける、その不気味さに対してである。

 

 今回の非常事態に対する国内の地方議会や地方自治体の反応は早かった。当花巻市議会はいち早く3月4日開催の本会議で「ウクライナへのロシアの軍事侵攻に断固反対する」―決議を全会一致で可決。その際、宮沢賢治が理想郷と名づけた「イ-ハト-ブ」からのメッセ-ジ性の重要性が指摘された。たとえば、賢治は『農民芸術概論綱要』の中で「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と訴え、さらに人口に膾炙(かいしゃ)している詩「雨ニモマケズ」の中では、苦難に寄り添う姿を直截(ちょくせつ)に「行ッテ」と表現していることなど「賢治の地」ならではの議論が交わされた。

 

 一方、近隣では同じ日、平成18年に「非核平和都市」宣言をした遠野市が「一刻も早いロシア軍の撤退、及び各国政府の外交努力による平和的解決が実現することを強く求める」という市長メッセ-ジを発信し、多田一彦市長自らが「こんな時こそ、日本の米をウクライナや周辺支援国へ」と呼びかけた。当然のことながら、被爆地は即応した。広島市の松井一実市長と長崎市の田上富久市長は2月28日、プ-チン大統領宛ての連名の抗議文をロシア大使館に送付し、こう訴えた。「『二度と同じ体験をさせてはならない』と懸命に訴えてきた被爆者の思いを踏みにじるもので、憤りを感じる。広島、長崎に続く第三の戦争被爆地を生んではならない」―

 

 今年5月、復帰50年を迎える沖縄県では一段と大きな抗議の声が挙がった。かつて、アフガン戦争やイラク戦争の出撃拠点となった米軍基地の7割以上がこの狭い沖縄の地に集中している。「辺野古」新基地建設に揺れる地元名護市議会は3日開催の3月定例会で、ロシアの軍事侵攻の犠牲になったウクライナの人たちに全員で黙とうを捧げたあと、決議文と意見書を同時に可決し、プ-チン大統領と駐日ロシア大使、岸田首相などに送付した。両案はこう訴えた。「一切の戦争を否定し、日本国憲法の恒久平和の理念に基づき、戦争に反対することを宣言する。さらに日本政府に対し、ウクライナ在留邦人の安全確保に尽くすことや国際社会と連携し、制裁措置を含む迅速で厳格な対応を行うことも求める」

 

 一方、全国で唯一固有名詞を冠した「賢治まちづくり課」を設置する当市は、将来都市像として「市民パワ-をひとつに歴史と文化で拓く笑顔の花咲く温(あった)か都市(まち)イ-ハト-ブはなまき」―を掲げ、「イ-ハト-ブはなまき」の実現を目指している。しかし今のところ、首長による「メッセ-ジ」発信など他自治体のような主体的な動きはなく、日本赤十字社が募る「ウクライナ人道危機救援金」の受付窓口を庁内に設けた程度である。

 

 これに関連し、高橋修議員(市民クラブ)がこの日の審議で「非核平和都市宣言をしている当市のトップとして、今回の事態をどう認識しているか」と問うた。これに対し、上田市長は「日本のマスコミは軍事侵攻という表現を使っているが、私は明らかに『侵略』だと認識しており、強い怒りを覚えている。募金の窓口を設けるなど難民支援に力を入れたい」と明言したが、具体的なメッセ-ジの発信などへの言及はなかった。今後の対応に注目したい。イーハトーブの盟主として、今回の「侵略」発言をぜひとも内外に発信してほしいと切に願いたい。

 

 当市の財政を底支えする「イ-ハト-ブ応援寄付金」(ふるさと納税)が1月末現在で41億円に達し、過去最高を記録した。その多くが返礼品の「牛タン」が占めている。賢治は動物を撲殺(ぼくさつ)する悲しみについて、「一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ」と書いている(『フランドン農学校の豚』=2月25日付当ブログ参照)。ことさらに「賢治精神」を言い募るつもりはないが、このチグハグな“音なしの構え”にはやはり、言い知れない不気味さを感じざるを得ない。 

 

 予算委最終日の11日は「東日本大震災」から11年の節目を迎える。福島原発の廃炉の見通しが見えないまま、ロシアによる「原発」攻撃という狂気がまかり通っている。ちなみに本日10日はアメリカ軍による無差別攻撃で、10万人以上の無辜(むこ)の市民が犠牲になった「東京大空襲」から丸77年…ふたたび、「ホロコースト」(大虐殺)の悪夢が!!??

 

 

 

 

《追記ー1》~当初予算案に8年ぶりに反対論

 

 花巻市議会3月定例会の予算特別委員会で10日、櫻井肇議員(日本共産党花巻市議団)が令和4年度当初予算案に反対する討論を行い、同市議団の3人が採決で否決の意思表示をした。櫻井議員は「個別の政策では評価すべき点も多いが、(上田市長の)政治姿勢にはなお、問題がある」とした。当初予算案に反対論が出されたのは8年ぶり。

 

 

《追記ー2》~宮古市がウクライナ難民の受け入れを表明

 

 宮古市の山本正徳市長は10日、着のみ着のままで祖国を追われたウクライナ難民を受け入れる方針を記者会見で明らかにした。ロシアの軍事侵攻で国外に逃れる難民は増え続け、同日現在で215万人を超えた。「明日で震災11年。逃げ惑う難民の姿があの大震災の光景と重なる。ホテルや災害公営住宅などを開放したい」と山本市長。阪神淡路大震災の際、花巻市の旧東和町が「被災者受け入れ条例」を制定したが、国外からの受け入れは初めて。

 

 

《追記ー3》~災害公営住宅の「天国」と「地獄」と

 

 此方の我がイーハトーブ首長、上田東一市長が災害公営住宅に入居する被災者に共益費の一部を肩代わりさせていた(3月1日付当ブログ「相変わらずの”上から目線”と”責任転嫁”」参照)ーと思ったら、彼方の被災地宮古の首長、山本正徳市長は同じその住宅をウクライナ難民に開放するのだという。まさに、天国と地獄…もう、卒倒するしかないない。テレビのアナウンサーがプーチンを称して「聞く耳を持たない”裸の王様”」と話している。あれっ、同じような人物が足元にも!?

 

 

 

 

 

(写真は予算審議に出席した課長級以上の市職員=3月9日、花巻市市議会議場で。インタ-ネットの議会中継の画面から)