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大風呂敷と小風呂敷

  • 大風呂敷と小風呂敷

 

 「岩手には、想像力の風が吹いています」(1997年11月14日付)―。宮沢賢治生誕百年(1996年)の翌年、朝日新聞全国版にこんなキャッチフレ-ズの全面広告が掲載された。代表作の『風の又三郎』の一節が添えられたこの広告はこう続く。「ゆったりと風に吹かれてごらんよ、ぼくが愛したイ-ハト-ブで。銀河の彼方から、宮沢賢治はそんな言葉をつぶやくかもしれません。彼を育んだ岩手の大地や、川や、森は、生命力にあふれ、彼に育まれた人々は、シャイな笑顔とやさしさにあふれています。幾重もの自然のささやきが、ときに想像力や直感を刺激して、眠っていた自分本来の資質をはっとめざめさせてくれる…」

 

 口に出して、読んでみた。何ともこそばゆくなるような、穴があったらそっと身を隠したくなるような妙な気分になった。大風呂敷は大きいことに越したことはないが、これほど広げられればもう、脱帽するしかない。岩手県が「銀河系『想像』力。いわて」を謳い文句に「ふるさと」回帰を呼びかけた広告だが、想像力が枯渇した今となっては逆に感動的な趣きさえ感じられる。

 

 「人生には『地方暮らし』という選択肢もある」(2018年9月5日付)―。同じ朝日新聞全国版に「ふるさと回帰フェア」の開催を知らせる広告が躍っていた。あれから20年余りが流れ、またぞろ「ふるさと」ブ-ムが到来しつつある。少子高齢化の時代を控え、全国の自治体はまるで金太郎飴みたいに「移住・定住」政策を最重点に据えている。たとえば、賢治の本家本元では―。移住者への住宅取得支援やUIJタ-ン就業奨励金、新規就農者支援事業…。「イーハトーブはなまき」をまちづくりのスローガンに掲げる割には随分とみみっちい。「人口争奪戦」がどの自治体でも喫緊(きっきん)の課題になっている時だからこそ、「銀河系『想像』力」という大風呂敷をいま一度広げてほしいと思うのだが、どうも風呂敷包はどんどん、小さくなるようである。こんな募集要項を見て、腰を抜かした。

 

 「おかえりなさい。はなまきへ」という呼びかけで始まる文章にはこう書かれていた。「花巻市では、当市への移住・定住を促進する取り組みの1つとして、要件を満たす同窓会について、開催経費の一部を補助する事業を行います。花巻市に生まれ育ち、共に学んだ親しい友人たちとの懇親の中で、ふるさと花巻の魅力を再認識し、Uタ-ンを現実的に考えるきっかけづくりを応援する他、市の外から見た花巻市へのご意見をいただく取り組みを進めていくものです」―。条件によって、最大で2万円の補助金が支給されることが定められていた。トップの意向なのかもしれないが、それにしてもチマチマし過ぎる。発想そのものがけち臭い。そうでないとしたなら、逆に現場職員の想像力の貧困が透けて見えてくるではないか。ひょっとしたら、そこに介在するのは例の”忖度”(そんたく)というやつか。

 

 わらをも掴みたいという気持ちは分からないではないが、何か背筋がざわっとした。原発汚染土の貯蔵施設をめぐる某大臣(当時)の「最後は金目(かねめ)でしょ」発言を思い出す。沖縄では米軍基地の辺野古移設先の地元に自治体の頭越しに国が直接、補助金を交付するという「分断」統治がまかり通っている。「貧すれば鈍する」―金をバラまいて良しとする、その精神性の荒廃に腰が引けてしまう。そもそも、「ふるさと」とは回帰する場所なのか―。賢治は銀河宇宙をふるさとからの「退路」として用意し(と私は思っている)、「石をもて追わるるごとく」に生地を後にした石川啄木は結局、一度もふるさとの土地を踏むことはなかった(9月18日付と同21日付当ブログ参照)。「追憶」と「呪詛」(じゅそ)ー、この二つはふるさとが宿命的に抱え持つコインの裏表である。

 

 「兎(うさぎ)追いしかの山/小鮒(こぶな)釣りしかの川/夢は今もめぐりて、忘れがたき故郷(ふるさと)…」―。かつて、被災地で歌われた「故郷」が「歌えない」童謡になりつつあるという。東日本大震災の津波や原発事故でふるさとを追われたままになっている人たちにとって、この歌は時に残酷でさえある。9月中旬にそんな声を特集した毎日新聞は福島県から長野県松本市に移り住んだ、いわゆる「自主避難者」の女性(36)の胸の内を紹介している。「今年6月、同市で開かれた震災のチャリティ-コンサ-トに参加すると『故郷』が流れた。つらかったのは『こころざしを果たして/いつの日にか帰らん』という歌詞。帰れるなら明日にでも帰りたいという気持ちがこみ上げた」…

 

 

 

(写真は「ふるさと」回帰を呼びかけた岩手県の広告。今となっては、この大風呂敷が妙に懐かしい)

 

 

 

《追記》~「ふろしきづつみ」

 

 10月10日付「朝日新聞」のリレ-おぴにおん欄の「ちっちゃな世界」シリ-ズ(第7回)に、大船渡市の小学校教諭、小松則也さん(60)が東日本大震災の2年後、母親からの聞き書きを絵本にして自費出版した記事が載っていた。タイトルは「ふろしきづつみ」。「大震災の翌年からボランティアが激減し、風化を実感しました。そこで私は、あの日、家族が体験したことを残そうと絵本にしました」と小松さん。絵本を売る本屋さんの名前は屋号の川戸別家から「カドベッカ書店」。庭先に「日本一小っちゃな本屋さん」という看板を立てた。イ-ハト-ブはなまきの「風呂敷包み」の中身との差は歴然。小松さんが描く世界はちっちゃいどころか、賢治の銀河宇宙が顔負けするぐらいに「でっかい」

 

 

 

 

 

「平和の鐘」と満洲国―その時、父は

  • 「平和の鐘」と満洲国―その時、父は

 

 「盗女」と題されたこの写真(上掲右側)にはこんな説明が付されている。「奉天の泥棒市場で私は、生命を死守するあの一人の女性をキャッチした。その女は露店から何かを盗んで逃げてきたのであった。追手をおそれるような、その一瞬の表情。私は、境遇がそうしなければならなかったあの女を思い出すときに、いつも苦しく胸がふさがるのである」―。旧満州(中国東北部)時代のこんな光景を私の父親もきっと、目にしていたにちがいない、とそう思う。しかし、父親は二度と日本の土を踏むことなく、敗戦の4ケ月後、シベリアの捕虜収容所で戦病死した。その“空白”を埋めてくれる写真集にようやく、出会うことができた。

 

 写真集『内村皓一』(昭和47年発行=非売品)―。戦後、当市花巻で印刷業を営んでいた写真芸術家の内村さん(1914-1993年)は昭和15(1940)年、26歳で旧満州の奉天(ほうてん=現瀋陽)に顕微鏡写真班の一員として、徴用された。遅れること、この4年後に37歳の父親も同じ奉天へ。負け戦を前にした老兵の強制的な動員だった。昭和19(1944)年7月18日消印の妻(母親)あての軍事郵便にはこうある。「いよいよ、今日立つ處(ところ)です。行先は満洲奉天、内地同様の處ですので決して御心配なく。3カ月の教育とのことですが、状勢次第では保障できません」。敗戦までのわずか1年ほどだったが、内村さんと父親は同じ奉天の地に身を置いていたことになる。

 

 「ボロ」「肉を売る女」「幻聴」「城壁の朝」「苦力」…。写真集には50点が収められ、うち20点が奉天を中心とした旧満洲時代の写真である。引き揚げの時、軍の命令で3千点ものネガが没収・焼却されたが、30数枚のフィルムをくりぬいた荷札に隠して持ち帰った。崩れ落ちた城壁の向こう側に天主教の大伽藍(だいがらん)がかすんだように、ぼんやりと浮かび上がっている。「平和の鐘」と名づけられた代表的な作品である。1960年、この写真がコンク-ルで世界最優秀賞を受賞した。内村さんはその時の気持ちを世界に向けたメッセ-ジの中で、こう語っている。

 

 「太陽が沈みかけて最後の微光がその辺りを黄金色に照らしていた。私は、望まない軍需工場に徴用されて、朝からの労働に疲れ切ったからだで奉天の城壁の方に歩いていた。…生物の幸いを願い、人類の幸福を希願して科学者も宗教家も努カしているのにもかかわらず、世界の様相はその反対の方向に進んでいるように見える。何もかも人の世の営みは賽(さい)の河原の石積みに過ぎないのではないのか。…幸運にも太陽は最後の一秒の弱い光線でその辺りを照らし、私のフィルムの前景にほんの気持ちばかりのハイライトを与えてくれた。私は夢中でシャッターを切り、躍り上がって自らの心に叫んだ『平和の鐘だ。平和の鐘だ。この戦争の中にも、外界の現象とは何の関係もなく、真の平和はわれわれ自身の中にある。そしてこの鐘の音の中に充ちている』―と」

 

 私の手元に茶褐色に変色した軍事郵便の束がある。父親が留守宅の妻や3人の子どもたちに送ってきた葉書である。たとえば、こんな文面…「敵米英に勝つまではお前たちも強い日本の男児として、よく先生や母さんの云う事を聞いて、勉強したり、種々母さんのお手伝いをし、亦(また)兄弟仲よくしなさい」―。すべてに「検閲済」のハンコが押されている。

 

 内村さんが写し撮った傀儡(かいらい)国家ー「満州国」の過酷な状況の数々を、父親も垣間見ていたはずである。写真集のページをめくるたびにその思いがますます、強くなった。その一方で、「軍国日本」を称賛する文章を肉親に宛てなければならなかった、その気の遠くなるような懸隔(けんかく)を、生きて帰った父親から直接、聞いてみたかった。それがかなわないという悔しさにずっと、翻弄(ほんろう)され続けてきた。夕霧にかすむ「平和の鐘」の明暗のコントラストに目が吸い寄せられた。ふと思った。そびえたつ教会の尖塔に向かって、父親は果たして、「平和の鐘だ。真の平和はわれわれ自身の中にある」と心の中で叫ぶことができたであろうか、それとも…

 

 本日付(4日)の朝日新聞「ひと」欄は、旧満州からの日本人引き揚げを描いた中国人画家、王希奇(ワン・シーチー)さん(58)のことを紹介していた。「戦争に勝者はない。今の平和をみんなで守らなければいけない」―。王さんのこの言葉は70年以上の時空を隔てた内村さんの言葉とそのまま、重なる。戦後の混乱期の帰国の光景を描いた、王さんの作品「一九四六」が12月2日まで舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)で開かれている。内村さんが奉天から引き揚げたのもこの年(昭和21年)である。

 

 帰国後、内村さんは花巻周辺の市井の暮らしや風景、さらに神社仏閣にもレンズを向け、詩人で彫刻家の高村光太郎から「光の詩人」と呼ばれた。昭和26年、川徳画廊で開かれた「写真作品展」に作家の森荘已池(故人)はこんな文章を寄せている。「彼の作品は瞬間と永遠の記録だ。彼の作品はすぐれた彫刻を見る感じがし、大歌劇のある楽章を聴く感じもする。彼の写した人間の皮膚の下には、血と肉と骨のほかに生きている思想と感情がある。そこには、音のないうめき、ためいき、さけびが聞こえる」

 

 

 

 (写真は写真集『内村皓一』から。左側は奉天市内で撮影された「幻聴」と題する写真。1942年代の写真が多い)

 

 

 

 

 

「沖縄」を引き受ける都鳥兄弟―「OKINAWA 1965」…デニ―氏、当選

  • 「沖縄」を引き受ける都鳥兄弟―「OKINAWA 1965」…デニ―氏、当選

 

 沖縄県知事選挙の投開票日を翌日に控えた9月29日、花巻市内である偶然が生み出した沖縄関連のドキュメンタリ-映画を見た。北上市を拠点に映画製作を手掛ける都鳥拓也・伸也さん(35)の双子の兄弟の最新作「OKINAWA 1965」である。「少女轢(れき)殺」―。米軍の統治下にあった1965年4月、こんな衝撃的なキャプションが付けられた写真が新聞紙上に躍った。報道写真家の嬉野京子さん(78)が沖縄本島・宜野座村で、6歳の少女が米軍のトラックにひき殺された瞬間をとらえた写真である。映画はこの写真を軸に沖縄の過去―現在を照射し、未来へとつなげていく手法になっていた。私はドキュメンタリ-の内容もさることながら、制作に至る動機に興味が引かれた。

 

 3年前の10月1日、弟の伸也さんはある人の紹介で嬉野さんと会っていた。用向きは前作のプロモ-ションの相談で、もちろん初対面。当然、あの写真を撮影した著名な写真家だという知識は持ち合わせていなかった。たまたま、この日の朝日新聞は一面を全部使って、嬉野さんの業績を紹介していた。ふと目を上げると、目の前にいる人が新聞に載っているその人だった。腰が抜けそうになった。都鳥兄弟は小学生の時から、金城哲夫(故人)や上原正三など沖縄出身の脚本家が火付け役となった「ウルトラマン」シリ-ズのとりこになっていた。嬉野さんの口からいきなり「沖縄」という言葉が出てきた時、もう「この人と映画を作ろう」と決めていた、と伸也さんは言う。

 

 「いのちの作法/沢内『生命行政』を継ぐ者たち」(2008年)と題するドキュメンタリ-映画がある。昭和30年代中ごろ、北上山地のふもとの旧沢内村(現西和賀町)は日本で初めてとなる老人医療費無料化を実現し、乳幼児死亡率ゼロを達成した。当時の村長の名前を冠して、「深沢いのちの行政」と呼ばれている。監督の小池征人さんとカメラマンの一之瀬正史さんが旧知の仲だったので、ロケハンの現場に陣中見舞いに出かけたことがある。「足元にこんなに素晴らしい政治があることを知らなかった」―、映画化の企画を提案したのが都鳥兄弟だったことをこの時、初めて知った。「希望のシグナル/自殺防止最前線からの提言」(2012年)、「1000年後の未来へ/3・11保健師たちの証言」(2014年)、「増田進/患者と生きる」(2016年)…。その後、独立した二人は次々に「いのち」をテ-マにした作品を世に問い続けてきた。

 

 今回、監督役を担った伸也さんは映画化の過程をまとめた単行本『OKINAWA 1965』の中で、こんな風に述べている。「制作過程は、ほとんど沖縄問題についての予備知識がないまっさらな若者たちが、嬉野京子さんをはじめとする人との出会いをもとに沖縄の過去と現在に触れ、理解を深めていく過程でもあった。…わるいのは知らないことではなく、知ろうとしないこと、あるいは知ったかぶりすることなのだ」―。「無知の知」(ソクラテス)こそが二人の原点なのである。

 

 2年前、私は亡き妻と米軍普天間飛行場の移設先とされる名護市辺野古の「新基地建設」現場に足を運んだ。明日、投開票される沖縄知事選挙でその是非が判明する。都鳥兄弟は次作「私たちが生まれた島~OKINAWA2018~」を製作するため、いま現地入りしている。一方、今年の沖縄全戦没者追悼式(6月23日)で、平和メッセ-ジ部門の最優秀賞を受賞した中学3年、相良倫子さんの作品「生きる」はこう結ばれている(6月22日付当ブログ「追記=全文掲載」参照)。「摩文仁の丘の風に吹かれ、私の命が鳴っている/過去と現在、未来の共鳴/鎮魂歌よ届け、悲しみの過去に/命よ響け、生きる未来に/私は今を、生きていく」

 

 「沖縄問題」とは即「本土(ヤマト)問題」と言われて久しい。「いのちの作法」を追い求めてきたヤマトの若い感性が今まさに、この詩に呼応しつつあるようだ。この兄弟には「イーハトーブ」(蝦夷国)と「ニライカナイ」(琉球国)との架け橋になってほしい、と私は切に願う。ぜひ成功させたい。協力金は以下に―。妻が旅立って、この日でちょうど2カ月を迎えた。生前の声が残されたままの留守電がさっきから、鳴り響いている…。また誰か、声を聞きに来たようだ。

 

製作協力金/一口 5,000円
振 込 先/郵便振替 口座番号 02230-3-138259
口 座 名 義/有限会社ロングラン(通信欄に「私たちが生まれた島」協力金と記入のこと)

 

 

(写真は映画製作中の左から拓也さん、嬉野さん、伸也さん=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《特報》~玉城デニ-氏、当選。今度はヤマトが問われる番!?

 

●翁長雄志(おなが・たけし)知事の死去に伴う沖縄県知事選は30日、翁長氏の後継として米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への県内移設計画に反対する元自由党衆院議員の玉城(たまき)デニ-氏(58)が、移設を進める安倍政権が支援した前宜野湾市長の佐喜真淳(さきま・あつし)氏(54)=自民、公明、維新、希望推薦=ら3氏を破り、初当選を確実にした。政府は移設を計画通り進める方針だが、玉城氏は「あらゆる権限を駆使して阻止する」としており、今後も政府と沖縄の対立が続く。

 1996年の日米両政府による普天間飛行場の返還合意以降、知事選は6回目。移設阻止を掲げた翁長氏が移設推進を訴えた現職を大差で破った2014年の前回選に続き、辺野古移設反対の強い民意が改めて示された。一方、9月の自民党総裁選で3選した安倍晋三首相は10月2日に内閣改造を行うが、全面支援した佐喜真氏の敗北は来年の統一地方選や参院選を前に大きな打撃となる【30日付沖縄タイムス「電子版」】

 

●翁長雄志知事の死去に伴う第13回沖縄県知事選挙は30日、投票が行われた。即日開票の結果、県政与党が推す無所属新人で前衆院議員の玉城デニー氏(58)が、政府与党が推す無所属新人で前宜野湾市長の佐喜真淳氏(54)=自民、公明、維新、希望推薦=を破って初当選を果たした。

 最大の争点だった米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設について玉城氏は反対を公約に掲げ、翁長知事が指示した辺野古埋め立て承認の撤回を支持している。知事選で県民は辺野古移設反対の民意を改めて示す結果となった。辺野古新基地建設を強行してきた政府の今後の対応が注目される。

 辺野古新基地建設に対し玉城氏は選挙期間中、「宜野湾市民が受ける基地被害の苦しみを名護市民に背負わせることはできない。翁長知事の遺志を継ぎ、新基地建設を阻止するために全力を尽くす」と訴えてきた。その上で、来年2月に期限を迎える普天間飛行場の5年以内の運用停止について「政府は(運用停止の)約束を守るべきだ」と主張している。埋め立て承認撤回に対しては「全面的に支持する。撤回は公有水面埋立法に基づき適正に判断したものだ」と指摘してきた。

 このほか、玉城氏は政策で「誰ひとり取り残さない社会」の実現を目指すと宣言。「保育料の無料化」「待機児童ゼロ」「子育て世代包括支援センターの全市町村設置」「保育所整備、認可外保育施設の認可化を支援」「認可外保育施設の給食費補助」などを掲げてきた。玉城氏は1959年10月13日、うるま市与那城生まれ。本名は玉城康裕。人気ラジオパーソナリティーとして活躍していたが、政治家を志し、2002年に沖縄市議に初当選。09年に衆院議員に初当選し、4期務めた。妻・智恵子さんと2男2女。【30日付琉球新報「電子版」】

 



 

 



 

サンゴ礁の海へ

  • サンゴ礁の海へ

 

 初七日(8月4日)、三十五日(9月1日)、四十九日(9月15日)…。市議引退後の改選花巻市議選の投開票日のその日(7月29日)に妻が急逝してから、節目の忌日(きにち)があっという間に過ぎ去り、目の前には百ヶ日(11月5日)が近づいてきた。仏教ではこの日を「「卒哭忌」(そっこくき)と呼ぶ。「哭」は嘆き悲しむこと、「卒」は終わること…。「どんなに親しい人が亡くなっても、嘆き悲しむのは百ヶ日で終わりにする」という意味だという。「仏式というやつは随分と押しつけがましい。こころの区切りをつけるのはこっち」―。亡骸(遺骨)のそばで寝起きしながら、「喪失感」という得体のしれない気持ちに打ちのめされていた、そんなある日―。

 

 「がんの宣告」―。妻の身の回りを整理しているうちにパンフレットから一枚の紙片がすべり落ちてきた。CT検査(コンピュタ-断層撮影)とPET検査(陽電子放射断層撮影)の結果、ステ-ジ4(末期)の肺がんが見つかったことが記されていた。日付は2014年6月9日、旅立つ4年前の手書きのメモだった。この時期、私自身は2期目の市議選への出馬準備で大わらわだった。重い病を抱えることになった妻はそれでも「頑張ってね」と裏方に徹した。私は当然、医者から告げられて知っていたが、そのメモが「散骨」関係のパンフレットに挟まっていたことにびっくりした。「お墓もないし、死んだら散骨か樹木葬がいいね」と生前、話していた。散骨の資料収集はがんを宣告された以降に集中していた。秘かに死出の旅支度をしていたことに胸を締め付けられた。「あの時、出馬を止めておけば…」―

 

 たとえば、こんな姿を懐かしく思い出す。沖縄・石垣島に住むたった一人の娘夫婦と2人の孫たちのことを一時も忘れることがなかった。死の直前、介護に駆けつけた娘が台所の整理をしていて悲鳴を上げた。買いだめした品々があちこちから出現したからである。そういえば、夜中にゴソゴソと孫たち宛ての宅急便の詰め込みをしていた現場を何度も目撃した。「(沖縄)八重山諸島」での散骨を紹介するパンフレットに「第一候補」とシールが貼ってあった。「あのメモはひょっとして、孫たちのそばに行きたいという遺書だったのかもしれない。そうだ、サンゴ礁の海へ」とそう思った刹那(せつな)、もうひとつの「卒哭忌」の光景が目の前にせりあがってきた。

 

 「まだ遺骨のひとかけらも見つかっていません。だから、3人の生死は誰にも分かりません。もう死んでいるかもしれないし、あるいはまだ生きているかもしれない。そう思うしかないと自分に言い聞かせているんです」―。東日本大震災から百日目の2011年6月18日、三陸沿岸の大槌町で犠牲になった人たちの合同慰霊祭があった。779人のうち、前日までに死亡届が提出された567人の名前と年齢がひとりずつ読み上げられた。母親と妻、それに愛娘の3人が行方不明のままの白銀照男さん(9月14日付当ブログ「『四十九日』と魂の行方」参照)は「名前が呼ばれないのを喜んだら良いものか…」と無言のまま、会場をあとにした。白銀さんが3人の死亡届を役所に持って行ったのは、その2週間後のことである。

 

 「あんたは奥さんと一緒にいられるだけ幸せじゃないか」―と白銀さんに背中を押されたような気持になった。ある日突然、目の前から消えた肉親に自らが死を宣告しなければならない残酷さに体が震えた。「もう、泣き悲しむのは止めにせよ」という仏(ほとけ)の説法の酷(むご)さにも戦(おのの))いてしまった。その一方で、「おまえの喪失感って、一体なにほどなのか」という声が遠音に聞こえたような気がした。私は11月中旬、迎えにくる娘と一緒に妻の亡骸を背中に背負って、石垣島に向かおうと思っている。「卒哭」のためではなく、より多くの死と悲しみを共有することができるように

 

 

(写真は故人が好きだった花々と一緒に海へ眠る散骨風景=インタ-ネット上に公開のイメ-ジ写真から)

 

 

異土の乞食と「乞食の子」、そして、賢治の命日に思うこと

  • 異土の乞食と「乞食の子」、そして、賢治の命日に思うこと

 

 「よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや…」(9月18日付当ブログ「断捨離の彼方に」参照)―。室生犀星さま、それにしても余りにも強烈なふるさととの“決別”宣言ではありますまいか。大詩人のあなたに一体、何があったでのすか…。詩集『抒情小曲集』の冒頭に収められたこの詩は「ふるさとは/遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」という詩句で始まる。石川啄木が遠く離れた東京の地から望郷の歌をうたったのとは違い、この詩は犀星の生まれ故郷である石川県金沢市でつくられている。詩人の大岡信(故人)は以下のように解説する。

 

 「これは遠方にあって故郷を思う詩ではない。上京した犀星が、志を得ず、郷里金沢との間を往復していた苦闘時代、帰郷した折に作った詩である。故郷は孤立無援の青年には懐かしく忘れがたい。それだけに、そこが冷ややかである時は胸にこたえて悲しい。その愛憎の複雑な思いを、感傷と反抗心をこめて歌っているのである」(「大岡信ことば館」HPより=現在閉鎖中)。つまり、いったん故郷を捨てた“棄郷者”に対する、ふるさとからの容赦のない仕打ちを嘆いた詩なのであろう。「それにしても…」とふたたび、口をつく。「やはり、乞食を引き合いに出すのは尋常じゃないのではないか」と―。

 

 「乞食には家がない。…私たちが最もよく利用したのは墓地の中の百姓公廟であった。私たちは死人と眠ったのだ。そこにいれば人から白い目で見られることもなく、死者も私たちを連れていきはしなかった」―。台湾人作家、頼東進(ライ・トンジン)さんの手になるこの本のタイトルはずばり『乞食の子』(納村公子訳)である。「これ、すごいよ」と妻の葬儀の際に娘が置いていった。犀星の詩を口ずさんでいるうちに忘れていたこの本の存在をふと、思い出したのである。

 

 「墓場に寝て、犬の餌をあさって、家族のために生き抜いた少年の驚嘆と感動の半生」と帯にある。目が見えない父親と知的障がいがある母親の間には12人の子どもたちがいる。長男として生まれた東進さんが全国放浪のその「乞食」人生を自伝風に書いているのが本書である。舞台は1960年代の台湾。100万部を超す空前のベストセラ-になり、東進さん自身、1999年には各界で活躍する青年10人に贈られる「十大傑出青年」に選ばれた。これ以上の悲惨な生活はあるまいという記述が延々と続く。しかし、さげすみの視線の下に思わず、吹き出してしまいたくなるような文脈が出てくる。たとえば、「にせ乞食」を紹介したこんな一節―。

 

 「祭があるというので、乞食が群れをなして集まってきた。道々観察してみると、手や足がないふりをしている人もいれば、ある者は頭に黒い布を巻いて老婆を装い、ある者は泣いて身の上の不幸を訴え、あの世からもどってきたような者もいて、それぞれ奇妙な演出をしていた。…しかし私たちはこうした『同業者』のことを知っていた。これらの乞食の多くは昼間は人の目をごまかし、私たちにまじって物乞いをし、夜になるとかつらをかぶり、背広を着て居酒屋へ行き大酒を食らっているのである」―。このおおらかさは同じ島国といっても、大陸系の血が流れる台湾と日本との違いなのだろうか。

 

 当市・花巻出身の宗教学者、山折哲雄さん(87)は今秋、花巻市名誉市民の第1号に選ばれた。開教師の子としてサンフランシスコに生まれ、戦時中に母親の実家があった当市に疎開、高校卒業まで過ごした。当時の忘れられない“事件”について、山折さんはこう書いている。「それはいまでいうまことに陰湿な『いじめ』であった。…ある日5,6人の悪童に連れ出され、校庭の隅で取り囲まれた。『キンタマを出せ』とかれらはいった。いわれたとおりにすると、交代でそれをいじくりまわした。相手は多勢のことであり、私は泣く泣くその屈辱感に必死にたえねばならなかった」(『学問の反乱』)

 

 さらに山折さんは同書の中で、宮沢賢治についてこう記している。賢治自身、無名の時代には町衆から石を投げつけられるなどの迫害を受けた経験を持っていた。「故郷に骨を埋めるしかなかった賢治は、そのためにこそかえって、銀河系や四次元世界のような非現実的な空間を構想して、現実からの離脱をはかろうとしたのではないだろうか」―。賢治は銀河宇宙という広大無辺の空間を自分自身の「退路」として準備したのかもしれない。

 

 「功成(な)り、名(な)遂げた」―とたんに手の平を返したようにその「威光」におもねるのもまた「ふるさと」の習い性である。賢治の「イ-ハト-ブ」(夢の国)はいまや花巻市のまちづくりのスロ-ガンとして、高々と掲げられ、少年期にリンチという屈辱を受けた山折さんはそのまちの「名誉市民」に推挙されるという様変わりである。さて、「異国で乞食になったとしても絶対に戻らない」と“決別”宣言をした、あの大詩人の地元はどうなっているのだろうか。16年前に金沢市内の生誕地跡に「室生犀星記念館」がオ-プンし、HPにはこんな文面が張り付けられている。「犀星の生き方やその文学世界の魅力と出会い、ふるさとや命に対する慈しみの心への強い共感を呼び起こしていただけるものと思います」―。

 

 今日9月21日は賢治の命日に当たり、私の自宅近くの「雨ニモマケズ」詩碑の前では恒例の「賢治祭」が開かれた。全国から賢治ファンが集まり、かがり火を囲みながら夜遅くまで「賢治」を語り合うのが通例だが、この日は雨天のために会場を屋内に移して行われた。毎年参加してきたが、妻を亡くした今年はどうしてなのか、足を向けるような気分にはなれなかった。「ふるさととは一体、何者なのか」―。「乞食」人生を全国表彰する彼の国の大人(たいじん)の振る舞いにうなずきながら、私は日がな一日、そんなことを考えていた。ちなみに日本では「軽犯罪法 」(1条22号)で、こじきをし、又はこじきをさせることを禁止し、違反者には拘留又は科料の刑事罰が規定されている。この国はいつの間にか”こじき”を許容しない国になってしまったようである。

 

 

(写真は「乞食」人生を描いたライ・トンジンさんのベストセラー)