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日本一の無法地帯…辺野古から(下)

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  • 日本一の無法地帯…辺野古から(下)

 妻の弔いの旅から戻った翌日の12月14日、国は予告通りに「辺野古」新基地(米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設)の建設予定地に土砂の投入を強行した。当ブログ12月6日(上)と7日付(中)参照。

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 米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設で、沖縄防衛局は14日午前11時、辺野古崎付近の護岸で囲んだ埋め立て予定区域への土砂の投入を開始した。玉城デニ-知事は埋め立て事業の手続きに違法性があるとして12日に防衛局に行政指導していたが、国は県の工事中止の求めには応じず、事前に通知していた14日の土砂投入を強行した。2017年4月に海上での護岸建設に着手して以降、埋め立て用の土砂が投入されるのは初めてで、新基地建設は新たな建設段階に入る。

 だが、9月の県知事選で辺野古新基地建設反対を掲げた玉城氏が過去最多得票で当選した選挙結果を顧みない政府与党の姿勢や、民間港を使って埋め立て土砂の搬出を急ぐ強引な手法に、世論の反発が強まっている。

 

 玉城知事は、今後想定される大浦湾側の地盤改良に伴う設計変更の承認権限も行使しながら新基地建設阻止に取り組む構えを崩しておらず、埋め立て作業が国の計画通り進むかは依然として見通せない。14日は午前8時過ぎから現場での作業が始まり、午前9時に土砂を積んだ台船がキャンプ・シュワブ沿岸のK9護岸に接岸した。土砂をダンプカ-に積み替えて辺野古崎付近まで運び、ダンプの荷台から下ろされた土砂をブルド-ザ-が海に押し入れた。玉城知事は14日朝、県庁登庁時に「予定ありきで県民の民意を無視して進められる工事に強い憤りを禁じ得ない」と記者団に語り、対応の協議に入った。(12月14日付「琉球新報」電子版)

 

 

(写真は土砂投入を知らせる号外と機動隊ともみ合う反対派住民=名護市辺野古の米軍キャンプシュワブ前で。いずれも同日付「琉球新報」から)

 

 

《追記-1》~山城裁判

 

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設への抗議活動に伴い、威力業務妨害や器物損壊などの罪に問われた反対派リーダーで沖縄平和運動センター議長、山城博治被告(66)の控訴審判決で、福岡高裁那覇支部(大久保正道裁判長)は13日、懲役2年、執行猶予3年とした一審那覇地裁判決を支持し、被告の控訴を棄却した。

 

 弁護側は、辺野古の米軍キャンプ・シュワブの工事用車両出入り口付近にブロックを積み上げた行為について「抗議の意思を示した。表現の自由の範囲内で、威力業務妨害罪の適用は違憲だ」と主張。有刺鉄線をペンチで切った器物損壊罪を除き、無罪を求めていた。(12月13日付「共同通信」配信)

 

 

《追記—2》~絶滅危惧種

 

 政府が米軍普天間飛行場の移設のために約160ヘクタ-ルを埋め立てようとしている名護市辺野古・大浦湾の海には、多種多様なサンゴや国の天然記念物のジュゴンなどの絶滅危惧種を含む多様な生物が生息している。土砂の投入によって豊かな自然環境が失われ、生態系に大きな影響を及ぼすことが懸念される。

 

 沖縄本島東海岸にある辺野古沿岸部は、これまで周囲で大規模な開発もなく、手つかずの自然が残る。現場海域での防衛省の調査では、5806種の生物が確認され、うち262種が絶滅危惧種だった。新種の発見も相次いでいる。県によると、生物の種類は世界自然遺産に登録された屋久島(鹿児島県、約4600種)や小笠原諸島(東京都、約4400種)よりも多い。 既に護岸で囲われた米軍キャンプ・シュワブ南側の海域は水深の浅いリーフ(サンゴ礁)で、沖縄本島周辺で最大規模の海草藻場が広がる。ジュゴンやウミガメの貴重な餌場となるほか、海草の間や砂地に多くの生物が暮らしている。シュワブ東側の大浦湾にはハマサンゴやアオサンゴなどの群集が複数ある。

 

 防衛省は埋め立て予定海域内にある希少なサンゴを他の地域に移植する計画だが、海域外のサンゴの生息にも潮流の変化などが影響を及ぼす可能性がある。海域での調査を続ける日本自然保護協会の安部真理子さん(52)は「護岸工事だけでも生物には十分な脅威だが、回収が困難な土砂の投入は自然環境に不可逆的な影響をもたらす。埋め立てが進めば地形が一変し、生態系が損なわれ、辺野古の海は多様性を失う」と警鐘を鳴らす。(12月14日付「毎日新聞」電子版)

 

 

《追記―3》~第4の琉球処分

 

 政府は、名護市辺野古沿岸に米海兵隊の新基地を造るため埋め立て土砂を投入した。昨年4月の護岸着工以来、工事を進める政府の姿勢は前のめりだ。9月の知事選で新基地に反対する玉城デニー知事誕生後わずか約1カ月後に工事を再開し、国と県の集中協議中も作業を進めた。手続きの不備を県に指摘されても工事を強行し土砂を投入したのは、基地建設を早く既成事実化したいからだ。県民の諦めを誘い、辺野古埋め立ての是非を問う県民投票に影響を与えたり、予想される裁判を有利に運ぼうとしたりする狙いが透けて見える。
 

 辺野古の問題の源流は1995年の少女乱暴事件にさかのぼる。大規模な県民大会など事件への抗議のうねりが沖縄の負担軽減に向けて日米を突き動かし、米軍普天間飛行場の返還合意につながった。ところが返還は県内移設が条件であるため曲折をたどる。関係した歴代の知事は県内移設の是非に揺れ、容認の立場でも、使用期限や施設計画の内容などを巡り政府と対立する局面が何度もあった。
 

 5年前、県外移設を主張していた仲井真弘多前知事が一転、埋め立てを承認したことで県民の多くが反発。辺野古移設反対を掲げる翁長県政が誕生し玉城県政に引き継がれた。県内の国会議員や首長の選挙でも辺野古移設反対の民意が示されている。今年の宜野湾、名護の両市長選では辺野古新基地に反対する候補者が敗れたものの、勝った候補はいずれも移設の是非を明言せず、両市民の民意は必ずしも容認とは言えない。本紙世論調査でも毎回、7割前後が新基地建設反対の意思を示している。
 

 そもそも辺野古新基地には現行の普天間飛行場にはない軍港や弾薬庫が整備される。基地機能の強化であり、負担軽減に逆行する。これに反対だというのが沖縄の民意だ。その民意を無視した土砂投入は暴挙と言わざるを得ない。歴史的に見れば、軍隊で脅して琉球王国をつぶし、沖縄を「南の関門」と位置付けた1879年の琉球併合(「琉球処分」)とも重なる。日本から切り離し米国統治下に置いた1952年のサンフランシスコ講和条約発効、県民の意に反し広大な米軍基地が残ったままの日本復帰はそれぞれ第2、第3の「琉球処分」と呼ばれてきた。今回は、いわば第4の「琉球処分」の強行である。
 

 歴史から見えるのは、政府が沖縄の人々の意思を尊重せず、「国益」や国策の名の下で沖縄を国防の道具にする手法、いわゆる植民地主義だ。土砂が投入された12月14日は、4・28などと同様に「屈辱の日」として県民の記憶に深く刻まれるに違いない。だが沖縄の人々は決して諦めないだろう。自己決定権という人間として当然の権利を侵害され続けているからだ。(12月15日付「琉球新報」社説)

 

 

《追記―4》~沖縄に寄り添うということ

 

 「胸が張り裂けそうだ」。名護市の米軍キャンプ・シュワブゲ-ト前で土砂投入を警戒していた男性は、怒りと悔しさで声を震わせた。辺野古新基地建設を巡り、防衛省沖縄防衛局は14日午前、土砂投入を強行した。海上では最大50隻のカヌ-隊が繰り出したが、土砂を積み込んだ台船と、土砂投入場所が制限区域内にあるため作業を止めることができない。

 護岸に横付けされた台船の土砂が基地内に入っていたダンプカ-に移された。約2キロ離れた埋め立て予定海域南側まで運び、次々投入する。ゲ-ト前には故翁長雄志前知事夫人の樹子さんも姿をみせた。樹子さんは以前、「万策尽きたら夫婦で一緒に座り込むことを約束している」と語ったことがある。しかし夫の翁長前知事は埋め立て承認の撤回を指示した後、8月8日に亡くなった。

 

 「きょうは翁長も県民と一緒にいます。負けちゃいけないという気持ちです」。沖縄戦当時、キャンプ・シュワブには「大浦崎収容所」が設置され、住民約2万5千人が強制収容された。マラリアなどが発生し逃げることもできないため400人近くが亡くなったといわれる。まだ遺骨はあるはずだと、ガマフヤ-代表の具志堅隆松さんはいう。シュワブは、日本本土に駐留していた海兵隊を受け入れるため1950年代に建設された基地だ。沖合の辺野古・大浦湾は、サンゴ群集や海藻藻場など生物多様性に富む。そんな場所を埋め立てて新基地を建設するというのは沖縄の歴史と自然、自治を無視した蛮行というほかない。

 

 日米合意では米軍普天間飛行場の返還は「2022年度またはその後」となっている。岩屋毅防衛相は14日、合意通りの返還が「難しい」と初めて認めた。県は新基地の運用開始まで13年かかるとみている。普天間の危険性除去は一刻を争う。このような状況で辺野古にこだわるのは、沖縄の「目に見える負担軽減」、普天間の「一日も早い危険性除去」、日米同盟の「安定維持」のいずれの面から見ても、あまりにも問題が多すぎる。政府は「辺野古が唯一」と繰り返すが、何の説明もなく呪文のようにそれだけを唱えるのは説明責任を放棄した脅しというしかない。県と政府は1カ月間の集中協議をしたが、この間も政府は工事を止めなかった。県の中止要請を聞きながし、留意事項に定められた「事前協議」には応じず強行の連続だ。

 

 県が埋め立て承認を撤回したことに対し沖縄防衛局は国民の権利救済を目的とした行政不服審査法を利用し、撤回の効力停止を申し立てた。国土交通相がこれを認めたことで工事が再開されたが、法の趣旨をねじ曲げる奇策というほかない。土砂投入は来年2月24日の県民投票をにらんで県民にあきらめ感を植え付けるのが狙いだろう。ここには安倍政権が口を開くたびに強調する「沖縄に寄り添う」姿はみじんも感じられない。(12月15日付「沖縄タイムス」社説)

 

 

《追記―5》~芥川賞作家、目取真俊さんのブログ「海鳴りの島から」

 

 15日(土)はカヌ-25艇と抗議船2隻で、辺野古岬付近と大浦湾の二手に分かれ抗議行動を行った。辺野古岬付近にカヌ-チ-ムが到着した午前9時頃には、すでにN3護岸にダンプカ-がやってきて、土砂の投入が行われていた。N3護岸では次々にダンプカ-がやってきて、赤土混じりの岩ずりを下ろしていった。2台続けてくることもあり、1台が下ろして次に下ろすまでに平均して1分もかからない。ダンプカ-が荷台を傾ける位置も、N3護岸上から中に寄っている。5名のカヌーメンバ-がフロ-トを越えて辺野古岬を目指し、現場近くから抗議の声を上げた。ほかのメンバ-もフロ-ト沿いで抗議と監視行動を午前中行った。

 

 前日の初投入から続き、かなりのペ―スで土砂を投入してきたので、午前10時頃にはランプウェイ台船が空になり、N3護岸からの土砂の投入はいったん終了した。しかし、すぐに次の投入に向けた準備が進められた。午前11時20分頃、空になったランプウェイ台船が、タグボ-トに曳航されてK9護岸から離れ始めた。その前に現場にいたカヌ-8艇がフロ-トを越えて抗議しており、さらに辺野古岬付近から移動してきたカヌ-4艇が続いた。

 

 昼食後、午後1時過ぎから空のランプウェイ台船のそばに、岩ずりを積んだガット船・第百三十六伊勢丸が近づき始めた。同船に載っている岩ずりは、12月3日に名護市安和区の琉球セメントで最初に積み込まれたものだ。あらかじめ構内に山積みになっていたもので、沖縄県の赤土等流出防止条例に違反すると県が指摘したものだ。同船への土砂積み込みも、琉球セメントの桟橋の完了届が提出される前に行われており、公共用材管理規則に違反している。いくつもの違法行為を犯して日本政府・沖縄防衛局が積み込みを強行したものであり、本来は安和区の琉球セメント構内に戻すべきものだ。このような違法土砂を海に投入することは許されない。

 

 フロ-トからかなりの距離があったが、違法土砂の積み込みに対し、カヌ-12艇がフロ-トを越えて抗議した。海保は不意を突かれて海に飛び込む保安官が足りず、ゴムボ-トで直接カヌ-を止める危険行為がなされた。高速で走り回ってカヌ-の前をふさぐのは、動力船としてあるまじき行為だ。午後、積み替えが行われた岩ずりは、週明けの17日(月)に②-1区に投入されると思われる。違法を承知で埋め立て工事を進める安倍政権が、「法治国家」だの「沖縄の負担軽減」などとよく言えたものだ。(12月16日付)

 

 

 

 

 

 

 

沖縄-弔いの旅路

  • 沖縄-弔いの旅路

 

 「あんたが来るっていうので、今朝、近くの海岸を散歩していた時に見つけたんだよ。9月の台風で流れ着いたと思うんだが、ジュゴンになった奥さんはきっと、こんなサンゴ礁の世界に生きているはずだよ」―。沖縄・読谷村在住の彫刻家、金城実さん(79)はこう言って、妻の遺影の前にサンゴを置き、ろうそくと線香をともした。私の沖縄の旅はいつも“金城節“を聞くことで最終章を迎える。反戦・反基地・反差別の彫刻家として知られる金城さんの話には沖縄の受難の歴史がびっしりと詰まっているからである。今回はこれに妻の弔いが加わった。供えられた泡盛の香りがあたりに漂った。

 

 「電話では何回か話をする機会はあったが、お会いできなかったのが残念だ」と金城さんは話し、ジュゴンの化身として死後を生きる妻の姿をスラスラっとデッサンした。さすがは彫刻家である。アトリエのまわりには様々な表情をした野仏がずらりと並んでいた。近くに沖縄戦で住民が集団自決(強制集団死)した自然壕(ガマ)「チビチリガマ」がある。避難した約140人のうち、83人の住民が非業の死をとげた。昨年9月、まだ遺骨が残っているガマが荒らされた。県内に住む16歳~19歳の少年が器物損壊の疑いで逮捕された。少年たちは「心霊スポットだと思った」と自供した。保護司に任命された金城さんは沖縄戦の記憶を野仏に託すことにし、少年たちと一緒に制作した。いま、12体がガマの周辺に安置されている。

 

 沖縄国体(1987年)の際、読谷村のソフトボ-ル会場に掲げられた日の丸を引き下ろして焼いた事件で、当時の沖縄の置かれた立場を訴えた知花昌一さん(70)は現在、僧侶の資格を有し、民宿も経営している。金城さんを訪問する際の常宿でもある。平和運動を続けている知花さんが言った。「やんばるの森の中に山小屋がある。沖縄が好きだったという奥さんの供養をそこでやらせてほしい」。金城さんも同行することになった。妻とは生前、辺野古の現場やヘリパット(垂直離着陸機)の着陸基地の建設が強行された「高江」を訪れたことがある。山小屋はその現場に近い大宜味(おおぎみ)村にあった。夕日が沈む眼下に、美しいサンゴ礁の海と白い砂浜で知られる古宇利島(こうりじま)が見えた。知花さんの読経が濃い緑が織りなす森の中に響いた。「良かった。弔いの旅に同行できて、オレもうれしいよ」と金城さんが小さな声でつぶやいた。

 

 「琉球人遺骨返還、京大を提訴/尚氏子孫ら、自己決定権訴え」(12月5日付「琉球新報」)―。妻の散骨を終え、石垣島から沖縄本島に移動した5日、社会面トップにこんな記事が載っていた。1929年、京都大学(旧帝大)の人類学者らが今帰仁村(なきじんそん)の百按司(むむじゃな)墓から持ち出した遺骨の返還を求めて、「琉球民族遺骨返還研究会」(松島泰勝代表)が京都地裁に提訴したことを伝えていた。原告団は「現在も続く日本の植民地主義を許さず、琉球の人々が自己決定権を行使する裁判だ」と主張していた。原告のひとりに金城さんも名前を連ねていた。

 

 2年前、同じように研究用に供されていたアイヌ民族の遺骨12体分が85年ぶりに墳墓の地(アイヌコタン)に再埋葬された。返還訴訟で札幌地裁と和解が成立した結果で、このほかに全国12大学に1636体と、特定できない515箱分のアイヌの遺骨が収蔵されていることが判明している。同様の裁判は北海道の各地で続いており、今回の琉球人遺骨返還訴訟はこれに続くものとして注目される。21年前、先住民族の権利を主張して起こされた「二風谷(にぶたに)ダム建設」裁判で、札幌地裁は民族的マイノリティの権利保護を定めた国連自由規約に基づき、アイヌ民族を初めて「先住民族」として認める画期的な判断を下した。

 

 「そう、この列島の北と南からヤマト(本土=内地→中央)の支配原理をあばき出す。その原点の戦いがいま、始まったのさ」―。金城さんの覚悟が伝わってきた。もうひとつの大きな運動が同時に開始されようとしている。妻にふさわしい弔いの旅のフィナ-レだと思った。

 

 

(写真は拾ってきたサンゴを飾り、妻の遺影に語りかける金城さん=12月8日午後、沖縄県読谷村のアトリエで)

 

 

 

 

 

日本一の無法地帯…辺野古から(中)

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 「米機2機、接触し墜落/夜間給油の訓練中、1人死亡5人不明/高知室戸岬沖」―。12月7日付の沖縄地元紙の一面トップに大見出しが躍(おど)っていた。一方、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移転先である名護市辺野古の新基地建設現場ではこの日も護岸工事用の石材や土砂などを積んだ大型ダンプカ―が終日、埋め立て予定地に面する米軍キャンプ・シュワブを出入りした。抗議の声を上げる人たちの姿もめっきり、減った。背後のフェンスに色あせたノボリが雨に濡れながら翻(ひるがえ)っていた。「脱植民地」と染め抜かれていた。こんな言葉を目にするのは国内ではここしかあるまい。「そう、ここは植民地そのものなんだ」―

 

 近くに住む金城武政(62)に1年半ぶりにお会いした。毎日、ゲ-ト前での座り込みを欠かさない。母親は「アポロ」という名前のバ-を経営していた。米国は48年前の1969年7月、アポロ11号による人類初の月面着陸に成功した。「Aサイン(米軍専用)」のバ-を開業したのはその直後だった。店名はこの成功にあやかった。当時はベトナム戦争の真っ只中。札束を握りしめた米兵たちがひっきりなしにやってきた。オ-プンを前にした店に米兵が押し入った。母親から10ドルを奪ったうえ、コンクリ-トブロックで頭を殴りつけて逃走した。即死状態だった。52歳の余りにも若い死だった。「オレはひとりになってもあきらめないよ。『阿波根』精神を死ぬまで貫きたい」と金城さんは力を込めた。

 

 「米軍と話をする時はなるべく大勢の中で何も手に持たないで、座って話をすること。耳より上に手を上げないこと」―。“オキナワのガンジ-”と呼ばれた阿波根昌鴻(あわごん しょうこう=1901年―2002年)は生涯をかけて、非暴力・平和主義の運動を生き抜いた。沖縄本島・本部港からフェリ-で約30分、人口4200人弱の伊江島(国頭郡伊江村)に「ヌチドゥタカラ(命が宝)の家」と名付けられた反戦平和資料館があり、“陳情規定”(6か条)の冒頭にはこう書かれている。金城さんは「勝つことはあきらめないことさ」と明るく言った。

 

 2016年4月28日、辺野古の現場から車で40分ほどのうるま市に住む女性(当時20歳)が元米海兵隊の軍属に暴行されたうえ、殺されるという凄惨な事件が起きた。わずか2年半前の事件にもかかわらず、その記憶はもはや薄れつつあるようだ。ましてや、60年近く前に米軍統治下で起きた最悪の事故についての記憶は霧の彼方に消えてしまったのであろうか…。本土ではもちろん沖縄でさえ、この悲劇を知る人は少ない

 

 同じうるま市の市街地に住宅に囲まれるようして市立宮森小学校があり、敷地の片隅に「仲よし地蔵」と彫られた石碑が建っている。揮ごうは作家の武者小路実篤。1959年6月30日午前10時40分ごろ、米空軍のジェット戦闘機が操縦不能になり、パイロットは空中で脱出したが、無人の機体は民家35棟をなぎ倒した後、石川市(当時、現うるま市)にあった宮森小学校のトタン屋根校舎に衝突、さらに隣のコンクリ-ト校舎を直撃して炎上した。犠牲者は 小学生11人を含む17人、重軽傷者210人。校舎3棟のほか、民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事となった。事故当時、学校は2時間目終了後のミルク給食の時間でほぼ児童が校舎内にいた。火だるまになった子どもたちは水飲み場まで走り、そのまま息絶えたと伝えられている

 

 朝刊で眼にした米軍機の事故、新基地建設を強行する辺野古の現場…。いろいろな光景が走馬灯のように頭をめぐった。仲よし地蔵に手を合わせていた時、犠牲になったと同じ小学生が石碑のまわりを掃き清めていた。「脱植民地」という言葉の意味が真に迫って胸に突き刺さった。宜野湾市内の保育園に米軍機の部品カバ-が落下した事故からこの日で、1年が経過した。

 

 

(写真はプラカードを掲げ、基地建設の反対を訴える人と「脱植民地」のノボリ=12月7日午前11時ごろ、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ周辺で)

 

 

 

《追記》~10月16日付当ブログ「共産党のダッチロール」並びに11月28日付当ブログ「追記」参照

 

 【東京】東京都小金井市議会は6日、米軍普天間飛行場の移設問題について全国で議論することなどを求める意見書を、旧民進党系会派や共産党会派などの賛成多数で可決した。辺野古新基地建設の阻止に向け有志が取り組む「新しい提案」の実践に基づくもので、意見書の可決は全国初。沖縄の基地問題についての世論を喚起し、全国各地での議論にも影響を与えそうだ。

 意見書は辺野古新基地建設工事を中止し普天間基地の運用停止を求めると共に、普天間基地の代替施設が国内に必要かどうかを国民全体で議論するよう求めた。代替施設が国内に必要だとの結論になった場合には「沖縄県以外の全国の全ての自治体を候補地」として検討し、基地が一地域に一方的に押し付けられないよう訴えている。宛先は衆参両院議長や首相など。

 賛成討論に立った共産会派の水上洋志市議は「辺野古新基地建設の中止と普天間基地の運用停止を求め、国民的議論を提起していることに賛同した」と狙いを語った。片山薫市議は「意見書の提出は第一歩であり、この間に喚起された市民の関心をさらに広げる必要がある」と強調した。反対討論はなく採決を行い、賛成13、反対10の賛成多数で可決した。意見書のきっかけとなる陳情を提出した、小金井市在住で県出身の米須清真氏は「小金井市の市議たちが陳情内容に真剣に向き合ってくれた結果だ。全国各地で取り組みが広がれば、今後予想される司法の場でも(県内移設を止める)証拠の一つに活用できるのではないか」と可決を喜んだ(7日付「琉球新報」)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本一の無法地帯…辺野古から(上)

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 「バケツ一杯の土砂の投入に成功すれば、こっちの勝ち」―。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移転(新基地建設)をめぐって、現地では今月14日に予定される本格的な埋め立て工事を前に、海への死亡宣告ともいえる「無法状態」が続いている。土砂搬入作業に必要な県公共用財産管理規則や県赤土等流出防止条例などは一切、無視。防衛省は民間会社の琉球セメントの桟橋を利用するという姑息な“奇策”まで繰り出し、既成事実づくりにやっき。こうした法治国家の“無法”を許しているのは他ならない私を含めた本土側である。沖縄の地に足を踏み入れるだびにそんな思いにかられる。今回もそうだった。

 

 地元紙などによると、辺野古へ土砂を運搬する船は6日午前7時ごろに桟橋に着岸した。午前8時ごろ、搬出作業を止めようと座り込む市民約25人を県警機動隊約80人が排除。土砂を積んだ工事車両が次々と琉球セメントの敷地内に入り、土砂はベルトコンベヤ-で船へと運び込まれていった。午前8時46分、辺野古で海上抗議を展開するカヌ-チ-ムがカヌ-10艇とゴムボ-ト1隻での海上抗議を始めた。土砂運搬船の作業員に向けて「新基地阻止」などと書いたプラカードを掲げ、土砂搬出停止を訴えた。石垣島での妻の散骨を終えた私もこの日、現場に入った。

 

 「この現場で起きていることの責任は本土の一人ひとりにある。そっぽを向くことは許されない」―。マイクを握った男性が声を張り上げた。この言葉がことのほか、心に響いた。まるでジュゴンのように変身してサンゴ礁の海に消えた妻を見送ったあと、私は「一人」ということについて、考え続けていた。この日、抗議行動に集まったのは約150人。一人ひとりの「個」の集合体のようだった。そこには屹立(きつりつ)した確固たる意志が感じられた。その一方で、普天間飛行場がある宜野湾市議会は、辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票(来年2月24日)に反対する意見書を可決した。地元の対立を煽(あお)っているのも他ならぬ本土側の「無知・無関心」である。

 

 「辺野古のジュゴン2頭不明/工事の騒音影響か」(12月3日付「琉球新報」)―。地元紙は周辺海域で生存が確認されていた3頭のジュゴンのうち、2頭が行方不明になっていることを伝えていた。妻の化身を思い浮かべながら、私はこの国の罪深さと遠い南の海で起き続けている「不条理」におののくしかない自分を叱咤(しった)したい気持ちにかられた。土砂積載の強行が再開された5日、福岡高裁那覇支部は、県が国を相手に岩礁破壊の中止を求めていた訴えを門前払いした。立法-行政-司法の三権がタッグを組んだ平成最後の”琉球処分”はこうして着々と推し進められている。故翁長雄志・前知事は4年前の11月、当選後初めて、辺野古の現場を訪れた際、こう述べた。

 

 「沖縄の主張は世界に通用する。本当の民主主義とは何か、沖縄から発信していく」

 

 

(写真は琉球セメント前に陣取った抗議の人とそれを阻止しようとする警備員=12月6日午前10時すぎ、名護市安和で)

 

妻はマンタ、いやジュゴンに変身し、サンゴ礁の海へ

  • 妻はマンタ、いやジュゴンに変身し、サンゴ礁の海へ
  • 妻はマンタ、いやジュゴンに変身し、サンゴ礁の海へ

 白砂のように細かく砕かれた妻の亡骸(なきがら)はまるで、小型のマンタかジュゴンにでも変身したかのようにして、サンゴ礁の海へと静かに消えていった―。今年7月末に旅立った妻(享年75歳)の散骨の儀式が12月1日、娘夫婦と二人の孫が暮らす沖縄・石垣島で行われた。式には東京に住む妹と弟も参列。思い出をつづった折り鶴や好きだった花々などを海に投げ入れ、最後の別れを惜しんだ。

 

 1日午後2時半すぎ、7人を乗せたチャ-タ-船が石垣島最大の名蔵(なぐら)港を出港した。汗ばむほどの快晴。太陽の照り返しがキラキラと反射する。ほぼ、凪(な)ぎ。約20分後、湾外の散骨の現場へ。水溶性の白い袋に詰められたパウダ―状の粉骨があっという間に海水と溶け合い、その部分が白濁色に変わった。波間に揺れる亡骸が一瞬、小型のマンタのような、あるいはジュゴンのような輪郭を刻んだように見えた。その周辺を折り鶴たちが浮き沈みした。妻が亡くなる直前まで聴いていたバロック音楽のCDがセットされ、船内にはパッヘルベル(ドイツの作曲家)のカノンの世界が静かに広がった。

 

 「君が大好きだった沖縄の守り神・シ-サ-を大勢、従えての最後の旅立ち。真っすぐにニライカナイ(黄泉の国)に向かってください」―。私は折り鶴にこう書き、こんな風に結んだ。「孫たちもサンゴ礁の彼方におばあちゃんの化身を見つけ、元気に育ってくれると信じます。ありがとう。そして、さようなら」ー。妻の霊は白雪をいただく故郷の霊峰・早池峰山と、南の島・ニライカナイの海に抱かれながら、永遠(とわ)の眠りについた。本当にこれで終わったんだと思った。

 

 「咳(せき)をしても一人」―。帰路の船の中で、孤高の俳人(尾崎)放哉のあの名句が口をついて出た。そういえば、同じ漂泊の俳人(種田)山頭火にも「鴉(からす)啼(な)いてわたしも一人」という句がある。「独居老人」などというお仕着せがましい言葉ではなく、私は「一人」の思想を考え続けながら、これから先の短い人生を歩んでいこうと思っている。「おばあちゃんは死んだんじゃない。ジュゴンに生まれ変わったんだよ」―。そんな励ましの言葉を口にする孫たちの成長ぶりに、老残のわが身はうれしさのあまりに震えてしまう。

 

 

 

(写真は散骨する私。亡骸はまるで生きているようなマンタかジュゴンの姿に。「自然に還る」とはこのことか、と得心できた気がした=12月1日午後3時ごろ、石垣島・名蔵港の南東約2カイリの海上で)