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沖縄から(1)…辺野古座り込み、2000日

  • 沖縄から(1)…辺野古座り込み、2000日

 

 「駄目なことの一切を/時代のせいにはするな/わずかに光る尊厳の放棄/自分の感受性ぐらい/自分で守れ/ばかものよ」―。作家の高橋源一郎さんは隣国・韓国のルポルタ-ジュ「歩きながら、考える」(12月19日付「朝日新聞」)の冒頭に詩人、茨木のり子(故人)の詩の一節を置いている。私自身、長旅にしのばせるのはこの詩人の詩集である。

 

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の「辺野古」(名護市)移設(新基地建設)に反対する座り込みが27日、2000日を迎えた。この日も米軍キャンプ・シュワブでは埋め立て用の土砂の搬入が行われ、出入り口のゲ-ト前には大型ダンプの進入を阻止しようと数10人の人たちが座り込んでいた。車いすに乗ったおばぁの姿が…。最長老の常連、島袋文子さん(90)だった。私もすぐ近くに腰を下ろした。「これより、道路交通法違反の嫌疑で強制排除に入ります」と沖縄県警の現場指揮官。「60年安保」以来だから、実に60年ぶりの“ごぼう抜き”体験である。「腰痛持ちだから、手荒なまねはしないでくれな」というと4人がかりであっという間に歩道上に運び出された。

 

 「ところで、あんたはいま、いくつなの?」と4人の中で一番若そうな警察官に声をかけてみた。「29歳です」と素直に応答。「この腰痛じいさんはいくつに見えるかい?」と今度は私。「まだ60台ではないですか」とその青年警察官。「嬉しいことを言ってくれるじゃないの。わしはなもうじき、80歳になるんだぞ。沖縄の未来は君たちにかかっている。それを忘れないようにな」―。少し、うなずいたようだったが、視線は宙を泳いでいた。こんなやりとりをサングラスをかけた男性がニヤニヤ笑いながら、眺めていた。「おかげさまでやっと、“ごぼう抜き”の栄誉に浴することができました。もっとも安保の時は鎖骨をやられましたけど…」―こうあいさつすると、「それはおめでとうございました」と握手を求めてきた。

 

 沖縄を代表するシンガ-ソングライタ-の海勢頭豊さん(76)との奇跡的な再会はこんな出会いがしらの出来事だった。20年以上も前、私は北海道・阿寒湖畔に拠点を置くアイヌ詩曲舞踊団「モシリ」の全国縦断ツア-に同行取材をした。沖縄公演の際、那覇市内でライブハウスを経営していた海勢頭さんの弾き語りを聴いたのが初対面だった。米軍の実弾演習阻止を歌に託した「喜瀬武原」(キセンバル)や「月桃」などの代表作を収めたCDをその時に買い求めた。

 

 ♯喜瀬武原陽は落ちて 月が昇る頃 君はどこにいるのか 姿もみせず♯…「心が弱くなった時に聴くことにしています。すり減ってしまったのか、最近は音が飛んでしまうんです…」と礼を述べると、「今度、送りますよ」と骨太の手で握り返して来た。「辺野古」は出会いの場でもある。

 

 「米国区域(施設)・在日米軍/許可無き立ち入り禁止/違反者は日本国法律により罰せられる」―。こんな文章の警告標識が基地内外を隔てる有刺鉄線のあちこちに張り付けられている。その写真をカメラに収めようとして、ふぃと見上げると防犯カメラが逆にこっちに照準を合わせていることに気が付いた。その基地の中から若い米兵たちの明るい笑い声が聞こえてきた。休暇をとった海兵隊員の一群であろうか…座り込み現場には目をくれないまま、土砂を満載した大型ダンプの前を小走りで横断し、どこかに姿を消してしまった。

 

 「2000日集会」では日本だけではなく、世界各地からの連帯のメッセ-ジが伝えられていた。その中に朝鮮半島の南西に浮かぶ「済州島」(チェジュ島)の平和運動家からの呼びかけがあった。「韓国のハワイ」と呼ばれるこの島でもいま、軍事基地化が急速に進められている。高橋さんのルポルタ-ジュの一節に済州島に言及したこんなくだりがある。

 

 「…広大な畑の真ん中に、軍用機を攻撃から守るためにコンクリ-トで造った掩体壕(えんたいごう)跡がある。戦争中、ここには日本軍の戦闘機が収納され『決戦の日』を待っていた。この国が日本の植民地であった時代の遺物である。そんな場所があることを、わたしたちは日本人の大半は知らないだろう」―。いま、チェジュ島のあちこちには「Henoko、NO」(辺野古ノ-)のステッカ-が張られているという。

 

 茨木のり子の詩の中に「倚(よ)りかからず」という私が大好きな詩篇がある。こんな内容である。

 

もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば/それは椅子の背もたれだけ

 

 

 私はいま、自分自身の「背もたれ」を探す旅を旅しているのかもしれない。もしかしたら、それは「原理・原則」といった類(たぐい)のものであるような気もする。

 

 

 

 

(座り込み2000日の節目の日にも島袋おばぁは頑張っていた。車いすの眼鏡の人=2019年12月27日正午すぎ、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲ-ト前で)


 

 

(師走向け特別企画);真冬の夜の“ミステリ-”……「桜を見る会」から「サクラを集める会」へ……花巻中央広場の“怪”!!?

  • (師走向け特別企画);真冬の夜の“ミステリ-”……「桜を見る会」から「サクラを集める会」へ……花巻中央広場の“怪”!!?

 

 「天罰」という言葉は好きではないが、天(の神さま)からも見放されたのかと思った瞬間、この言葉が思わず口元からもれたのだった。時は令和元年の師走12月14日…2日前に花巻市を含む中部圏域にインフルエンザの注意報が発令された、そのまちのど真ん中で「光瞬くクリスマスツリ-の下で、冬を彩るワインパ-ティ-」と銘打ったイベントが開かれていた。オ-プンの午後3時、一天にわかにかき曇り、雪ならぬ大粒の雨が降ってきた。傘を差し、肩をすぼめた市民が三々五々集まってきた。仮設テントの中にはキャンドルが飾られ、灯油スト-ブが赤々と燃えている。10人余りが震えるようにして、グラスを握っていた。突然、テントにたまった雨水が頭上を濡らした。中には傘をさしている人も。「おぉ、寒ッ。インフルにでもなったら大ごと」…早々に退散した。

 

 会場の「花巻中央広場」は今年7月1日、隣接する中心市街地の活性化などをうたい文句に誕生した。しかし、その「出生の秘密」についてはあまり知られていない。花巻市は2016年6月、まちづくりの青写真になる「立地適正化計画」(コンパクトシティ)を策定し、住宅建設などを進める「居住誘導区域」を設定した。上田東一市長はことあるごとに「全国で3番目」と鼻を高くしたが、急傾斜地など災害リスクのある個所(レッドゾ-ン)がこのエリアに5か所も含まれていることが国交省の調査で明らかになった。国から指定除外を求められた結果、急きょ、衣替えして登場したのが件(くだん)の花巻中央広場だった。“生まれ出(いづ)る”不幸はその後もついて回った。

 

 「熱中症公園」、「花巻まつり限定の屋台広場」、「これじゃまるで、上田記念公園」「1億円近い工費も結局、ドブに捨てたようなもんではないのか」。酷暑続きだった今夏、こんな声がひんぱんに聞こえてきた。何度か足を運んでみたが、人の気配はほとんどなかった。ところが、である。開会中の12月定例会に総額847万6千円の補正予算案が上程され、全員賛成で可決された。用途は車いす利用が可能な多目的トイレの設置費用で、来年5月中の完成を目指すのだという。「近くの公衆トイレに行く際、交通量の多い横断歩道を渡らなければならない。だから…」と担当部署は言う。屁理屈も休み休みにしてほしい。「押すな押すなの公園ならいざ知らず。ひとっ子1人もいない空間にトイレとは!?だったら、最初から設置すれば良かったじゃないか」―。これを称して「無用の長物」という。いや、ある種の詐欺か!?

 

 ここまで読み進めてきた大方の人たちにはおそらく、察しがついていることだと思う。不評をカモフラ-ジュするため、あの手この手を使って、そのほころびを隠そうとするのが行政の習性である。例の「桜を見る会」を見れば、一目瞭然である。その「上田」版こそが今回の一大イベントであろう。「初めての冬をあなたと一緒に」…この広場で冬を楽しもうという催しは12月1日にからクリスマスの25日までの大型企画である。運営は同市内の女性グル-プ「BonD Planning」が全面的に請け負い、予算は約200万円。内容は「花巻中央広場冬季活用等に係る社会実験業務」となっており、2020年3月25日までにその成果についてのレポ-トの提出が義務づけられている。

 

 「多様な主体が行き交い、交流を深めていくという広場のコンセプトと企業理念の親和性は非常に高い」という理由で随意契約が結ばれ、飲食などを提供する出店者の選定もこの運営会社にすべてが任された。「リノベ-ションのまちづくりの中で活動を始めたBonD Planningという会社がございますけれども、その方々のプロデュ-スによって、民間の発想力やノウハウを生かしたイベントを開催するという予定にしております」(11月28日開催の記者会見)と上田市長もこの“応援団”を持ち上げることしきり。さもありなん。で、呼び物のこの日のワイン飲み放題は荒天の際は近くの倉庫内に場所を移すことになっていたが、インフルの危険をかえりみずに強行された。

 

 「知り合いからぜひ、と頼まれたので…。この天気なので辞めようと思ったけど、チケット代を無駄にするのもしゃくだから」とある女性。前売券は一枚2000円(税込み)で、150枚限定で売り出された。しかし、肝心の前売券は100枚余りと出足が危ぶまれたが、当日の参加者は248人(市調べ)に上った。さすが、「雨ニモマケズ」のふるさとである。ところで、ピザやポトフ、カレ―などを提供する出店者(6店舗)の中に隣接する中心市街地の商店はゼロだった。ある商店主は吐き捨てるように言った。「私の所にもぜひ、宣伝してほしいとチラシを置いていった。人寄せパンダじゃあるまいし…」。そういえば、こんな書き込みがフェイスブックに載っていた。「『人が集まったから成功』ではなく、少数でも集う公園を創出するためには連携と継続を周辺商店街にも求めていくべきだと思います」―。もっともな意見である。そもそも、発想の原点は中心市街地の活性化ではなかったか。

 

 客を誘導する市の担当職員の姿が目に付いた。「あれっ。このイベントは全部、外部委託じゃなかったっけ」―。寒さに震えながら、そそくさと家に戻ると、一通の匿名のメ-ルがパソコンに届いていた。「職員が手伝ってましたよね。委託した業務に市でさらに人件費かけていいんですかね。請負の原則に抵触しますよね」と書かれていた。問い合わせると、こんな答えが返ってきた。「誘導や記録写真の分担は契約には入っていないので…。3人交代で正式の業務として関わりました」。企画・立案「花巻市」―という構図、つまりは“自作自演”の正体がよろいの下から透けて見えてきた。「汚名挽回」を目指す算段(さんだん)は永田町界隈を揺るがし続ける「桜」騒動と瓜二つである。

 

 「サクラを集める会」―。突然、ブラックユ-モアも顔負けするぐらいの“妄想”に取りつかれた。「サクラ」とはあの「桜」ではなく、お友達やごひいき、ファンなどと税金を使って盛り上がる「偽客」(おとり)集団の謂(い)いである。クリスマスまで点灯されるツリ-を見に夜中にのこのこ出かけてみた。薄明りの中で二人の中学生がスケボ-に興じていた。見上げるような擁壁の上に漆喰(しっくい)壁の建物がぼんやりと浮かび上がっていた。前市政の失政で負の遺産となり、上田市長が解体を表明した旧料亭「まん福」である。その真下には現市政下のもうひとつの負の遺産が広がっている。このセットの妙が胸に突き刺さった。

 

 冬期間は閉鎖される宮沢賢治記念館に通じる渡り階段(367段)、雑草が生い茂る旧新興製作所跡地…。市内には歴代の失政の残骸があちこちに転がっている。いっそのこと、戦跡などをめぐる「ダ-クツ-リズム」(悲しみの旅)にあやかって、こうした「負の遺産」をツア-に組み込込んだ方が誘客に役立つのではないか。心底、そう思った。さ~て、これに勝る“オチ”(落ち)があろうか…東京五輪・パラリンピックの〝聖火“リレ―(6月19日)の花巻市内でのスタ-ト地点が、いわく因縁つきの「花巻中央広場」に決まったことを18日付の新聞各紙が伝えていた。まこと、「ミステリ-」(怪談)にふさわしい結末ではないか-――

 

 

 

(写真は雨もりがするテントの中でワインを口にする市民。見るからに寒々とした光景。テントの中で傘をさしている人もいた=12月14日午後3時すぎ、花巻市吹張町の花巻中央広場で)

 

 

 

《休載のお知らせ》

 

 1カ月ほどの長旅に出ることになりましたので、しばらくの間、当ブログを休載させていただきます。旅先から投稿する際にはまた、よろしくお願い申し上げます。良き年末年始をお過ごしください。

 

 

 

 

 

「さっさと帰れ」発言;余話~今度は遠野市議会で

  • 「さっさと帰れ」発言;余話~今度は遠野市議会で

 

 故中村哲さんの偉業に思いをはせる日々…その余韻に身を置いていた矢先、ふたたび寝首をかかれるような出来事に出くわした。「品位」を語るのに一番ふさわしい人物こそが中村さんだと思っていたが、「議会の品位とは―」という見出しの記事にはこんなことが書かれていた。12月11日付当ブログ「『さっさと帰れ』発言から『被害者はどっちだ』発言へ」と合わせ読んでいただきたい。アフガンから『遠野物語』のふるさとへ…気の休まる暇もないほどに翻弄(ほんろう)される今日この頃である。

 

 「(12月)13日の遠野市議会本会議で、累積赤字が5千万円超に上る遠野ふるさと公社に関連し、小松正真(まさみ)氏(無所属)が市長の経営責任に言及し『失格』などとした発言を議事録から削除する一幕があった。『議会の品位』などを理由に浅沼幸雄議長が職権で削除を求めた形で、小松氏は応じたものの『自由な議論による開かれた議会に反する』と疑問を呈する。『失格』、『ごまかし』、『目くらまし』の三つの発言が削除された。地方議会に詳しい駒沢大の大山礼子教授(政治学)は『人格非難ではなく、常識的に品位を落とす発言とは考えられない。多数派と異なる論点の発言排除のために「品位」が使われてはならない』」(14日付「岩手日報」、要旨)―

 

 元祖「(議会の)品位」論争の幕が切って下ろされたのは東日本大震災が起きた直後のこと。そして、中村さんの“喪”(も)に服さなければならない時期に相次いだ盛岡・遠野両市議会でのドタバタ劇―こうした不謹慎な面々には金輪際、「品位」などという言葉を口にしてほしくないとつくづく思う。地方議会だけではなく、永田町界隈で花見に浮かれる、わが宰相らあなたたちもだ!?河童(かっぱ)たちが泣いている。どうせのことなら、作家、太宰治のように「人間」を「失格」してほしいと思うぐらいである(10月19日付及び11月26日付当ブログ参照)。そして、ふと思い出した。

 

 「…花巻市議会の品位を汚したものであり、議会会議規則に規定する『品位の尊重』に違反するものである。よって、地方自治法の規定により戒告する」―。ちょうど、8年前の12月2日、私は当時の議会議長によって、懲戒処分に処された。「さっさと帰れ」発言を追及する際に「白を黒と言いくるめる」、「(委員長報告の)欺瞞性」、「口裏を合わせる」などという言葉を使ったことが処分事由とされた。さらには処分の正当性を主張するため、地元紙の声欄(2011年12月13日付「岩手日報」)に投書をするなど“弁明”にやっきになった。その時の議長は現在、県議会議員にまで上り詰めている。いまの世の中、“逆立ち”して眺めるしか術(すべ)がなさそうである。

 

 

 

 

(無際限の想像力をかき立てる民話のふるさとには河童が住むと言われる川も流れている=インターネット上に公開の写真から)

「私の履歴書」―哲さんのヤクザ(任侠)の血筋とは!?

  • 「私の履歴書」―哲さんのヤクザ(任侠)の血筋とは!?

 

 故中村哲さんの血筋にヤクザ(任侠)の血が流れていることについては、12月4日付当ブログで触れた。このことに特段こだわるつもりはないが、哲さんの不動の信念には何か、別の気配を感じてしまう。かつて、日本一の炭鉱地帯・筑豊を取材した経験のある私はその独特の風土である「川筋気質」を哲さんの背中に見てしまう。「板子一枚下は地獄」という生と死が背中合わせの“生きざま”は炭鉱の地底労働にも通じる。大叔父が石炭の荷役を一手に引き受けた玉井金五郎、その息子で哲さんにとっては伯父に当たるのが作家の火野葦平という家系図の一端をのぞいてみると―。以下、週刊文春(2016年9月1日号)の中村さんの寄稿文をノンフィクション作家、稲泉連さんが再編集した内容(文春オンライン)を転載する。

 

 

 私が子供の頃に暮らしていた福岡県若松市(現・北九州市)は、父と母の双方が生まれ育った土地でした。若松は遠賀川(おんががわ)の河口にあって、石炭の積み出しで栄えた町です。母方の祖父である玉井金五郎は、港湾労働者を取り仕切る玉井組の組長。父親は戦前、その下請けとして中村組を立ち上げ、戦後は沈没船のサルベージなどを生業(なりわい)にしていました。ちなみに、玉井組の二代目は作家の火野葦平です。彼は私の伯父にあたる人でしてね。彼が一族の歴史を描いた小説『花と龍』は、小学生の頃に映画化もされました。私は玉井家の実家にいることが多かったので、文筆業で一家を支えていた和服姿の伯父の姿をよく覚えています。(アフガニスタン東部のジャララバードを拠点に、国際貢献活動を行う医師の中村哲さんは1946年生まれ。港湾労働者を組織した一族の中で、多くの人たちが出入りする家に育った)

 

 

 生活の中心だった玉井の家は大きな邸宅でした。普段から労働者や流れ者風の男たちが行き交い、子供がうじゃうじゃといました。例えば私が兄だと思っていた兄弟が、よくよく聞いてみると従兄弟(いとこ)だった、なんてことも珍しくない。三世代、四世代が入り乱れて住んでいましたね。若松の家にいたのは、ほんの数年のことでした。私が6歳のとき、福岡市の近くの古賀町(現・古賀市)に引っ越したからです。後に聞いた話では、中村組の従業員が沈没船引き上げの際に亡くなる事故があったそうです。父は保証人倒れも重なり事業に失敗し、空き家になっていた昔の家に戻った。私はそこで大学を卒業するまで過ごしました。

 

 古賀町の家は瓦屋根の平屋で、中庭に鯉の泳ぐ池がありました。津屋崎(つやざき)の海岸から運ばせたという庭石が置かれ、事業に失敗して極貧に落ちた、という感じが全くないのは不思議でしたね。とはいえ、借金取りはしょっちゅう来て、強面(こわもて)の男たちが、家具に白墨で差し押さえの金額を書いていく。勉強机にも金額が書かれ、子供心に不安になったのを覚えています。

 

 ところが、酒豪の両親は心配するより酒でも飲もうと言うばかり。結局、親がクヨクヨしていなければ、子供もクヨクヨしないもので、どこにも悲壮感はありませんでした。しばらくして、父は家を二階建てに増築し、借金を返すために旅館業を始めました。「ひかり荘」という旅館の名前は、伯父が付けてくれたものです。部屋は15ほどあり、建設業関係の客が多かったです。土木工事が近くであると、何か月も部屋を借りて出勤するわけです。考えてみれば、私はアフガンで用水路づくりの土木工事をしているので、いまもそうした人たちに囲まれて働いている。何とも不思議な気がします。

 

 ただ、子供の頃はそれでも良かったのですが、高校時代は辟易(へきえき)とすることもありました。私の狭い部屋は壁ひとつ向こうが宴会場で、試験の前日でも夜遅くまでドンチャン騒ぎが続くんですよ。当時の労働者には命からがら戦地から復員してきた世代が多く、彼らは酔うと盛大に軍歌をうたい始める。手や茶碗を叩き、踊り、大いに羽目を外すものですから、大学受験の時は近所に嫁いだ姉の家に机を置かせてもらい、勉強をしていました。(一浪の後、九州大学の医学部に入学。1973年に卒業してからは、佐賀県にある国立肥前療養所(現・肥前精神医療センター)の精神神経科にまず勤務した)

 

 子供の頃、私は虫や蝶の観察が好きだったので、本当は農学部の昆虫学科に行ってファーブル先生のような生活をするのが夢でした。しかし、固い父親からすれば、昆虫学といってもただの遊びにしか聞こえなかったでしょう。医学部に進んだのは、医師になりたいと言えばその父の許しが得られると思ったからでした。その頃、ちょうど地方の無医地区の問題がクローズアップされていましてね。自分は医師になって日本国のために尽くしたい。そう言えば表向きは立派です。それでも昆虫学者の夢が諦めきれなければ、後から農学部に転部すればいいと考えたわけです。

 

 しかし実際に医学部に入ると、国立大学とはいえ高価な医学書を何冊も買わなければなりません。それを父が借金をして買ってくれるのを見ているうち、転部の気持ちはなくなっていきました。親から受けた義理、恩を立てないと親不孝になる。そう思い、医学部を出ようとはっきり心に決めたんです。最初、神経科に入ったのは、人間の精神現象に興味があったからです。実は高校の頃の私は極度のあがり症で、教師に当てられただけで汗がわっと吹き出し顔が赤くなる。女性が前に座っていると自然に振る舞えなくなり、固まって動けなくなるくらいでした。そのことでずいぶん悩み、それで哲学の世界を齧(かじ)り始め、読書に没頭していった過去のいきさつもありました。

 

 一人暮らしを始めたのは、そうして国立肥前療養所に勤務するようになってからです。病院は佐賀の山中にあり、周辺には空き家の百姓家が多かった。そのうちの一軒を借りていました。家は人が住まないと傷むということで、家賃はなし。食事は病院で食べていたので、帰ってきて寝るだけの場所でしたけれど。あの頃はうつ病や統合失調症の患者の話を、とにかく聞き続ける日々。カウンセリングでは相手の世界をそのまま受け入れ、会話するのが鉄則です。相手に寄り添うようにして、ただただその人の気持ちを理解しようと努める。その経験から私は多くを学んだと感じています。後にアフガニスタンで文化も風習も異なる人たちと接する際、大切なのは彼らの生きる世界を受け入れ、自分の価値観を押し付けないことです。単に違いであるものに対して、勝手に白黒をつけてしまうことが様々な問題を生む。そう考える癖がつきました。

 

 (中村さんが初めてパキスタンを訪れたのは1978年。以前から趣味の登山で付き合いのあった福岡登高会から、ヒンズークシュ山脈への登山に医師としての同行を依頼された。それがきっかけで同地に縁ができ、福岡県大牟田(おおむた)市の労災病院などに勤務した後、日本キリスト教海外医療協力会からペシャワル赴任の打診を受ける)

 

 福岡登高会からの依頼は、二つ返事で応じました。登山の期間中、医師はベースキャンプに何か月も滞在します。そのあいだに自然の観察ができるのが魅力だったからです。ヒンズークシュ山脈周辺はモンシロチョウの原産地と言われ、はるか氷河期の遺物とされるパルナシウスという蝶も生息しています。あの高山に本当にモンシロチョウが居るのかを、自分の目で確かめてみたかった。実際にベースキャンプでは充分に蝶の観察ができました。だから、現地赴任を打診された時も、もともと好きな地域だったので心惹かれるものがあったんです。

 

 結婚したのも同じ頃です。家内は当時勤務していた病院の看護師でした。(1984年、前年にロンドンのリバプールで医療活動の準備をした後、ペシャワルのミッション病院へ妻と幼い子供を連れて赴任した。同時に彼の活動を日本から支援する「ペシャワール会」も設立された)。同地での仕事はハンセン病の治療を行い、その根絶のプロジェクトを進めることです。ですが、私が赴任を決めた背景には、医療の他にもう一つの理由がありました。

 

 実はその2年前に父が亡くなったんです。父が生きていたら、私は老いた両親を残したままペシャワルに行こうとは考えなかったはずです。昔の親父というのは恐ろしい存在で、生きているうちは自分に自由がないような気持ちがするんですね。だから、あの厳しかった父が死んだとき、寂しいという気持ちは当然ありつつも、それにも増して「これで俺は自由になった」という思いを抱いたのです。人生における重しが消え、これからは自分の思い通りの人生を歩んでいくことになる。そんな思いが私をペシャワルへと押しやったのでしょう。

 

 さて、私たちが暮らしたのは、ミッション病院の敷地内にある邸宅でした。場所はダブガリという旧市街。以前は英国軍の宿舎や兵舎があった英国支配の本拠地で、病棟は兵舎を改築した建物でした。敷地内にムガール王朝時代の廟もある歴史ある街です。私たちの家も以前は将校のためのもので、600坪ほどの敷地が壁に囲まれた英国風のレンガ造りの建物でした。建坪は200坪くらい。浴室も複数。部屋にはカーペットを敷き詰め、畳に見立てていました。ちなみに英国の影響を受けているパキスタン人は平気で土足で上がってくる。一方でアフガン人は日本人に似ていて、玄関でしっかり靴を脱ぐという文化の違いがある。なので、パキスタン人の来客の際、靴を脱いでもらうのに苦労した思い出があります。

 

 家族5人、私たちは広さだけはあるその家で、小さく生活していたということになります。大変なのはイギリス風の庭園で、雨がほとんど降らない土地柄ですから、水やりをしなければ芝生も花壇の花もすぐに枯れてしまう。これは自分たちでは維持ができず、病院が雇ってくれた庭師に手入れを頼みました。あと、洋式トイレにはいまもなじめませんですね。

 

 80年代はアフガン難民の支援のために、欧米各国の援助団体が増えた時期です。そのため、アメリカが出資したインターナショナルスクールがあり、私たちも子供を通わせました。妙な言い方ですが、当時のペシャワルは国際的な援助で活気があったんです。(ミッション病院でハンセン病の治療を続けながら、中村さんの活動は徐々に広がりを見せていく。86年からは新たな支援団体を設立し、難民キャンプでの活動も開始。無医地区での診療や診療所建設に尽力した。活動が大きな節目を迎えるのは2000年のことだ)

 

 私の活動がハンセン病の治療に留まらなかったのは、現地ではハンセン病だけを見る診療所が成り立たないからです。ハンセン病の多い地域は、結核やマラリア、腸チフス、デング熱、あらゆる感染症の巣窟です。マラリアで死にかけている患者に、ここは科が違うから帰ってくれとは言えない。あらゆる疾患を診察するようになる中で、ミッション病院を出て独自の活動が始まったわけです。そうして診療所を建てる活動を通して、アフガンの人々との付き合いを深めていった。

 

 赴任から15年後、ハンセン病については国際的にコントロール達成宣言が出されました。その後、一斉に援助が引き上げられていきましたが、一方、アフガンでの感染症の患者は増え続けていました。そこで日本側からの援助が続く限り患者を診(み)続けようと、現地に活動の拠点となる新たな病院を設立したのです。そのタイミングで起きたのが、2000年の大旱魃(かんばつ)でした。

 

 当時、WHOが発表した被害は、国民の半分以上が被災し、飢餓線上にある者が400万人、餓死線上が100万人という凄まじいもので、そのとき現地で飢え、死んでいった犠牲者のほとんどは子供でした。水がないために作物が実らず、汚い水を飲むので赤痢や腸チフスにかかる。飢えと渇きは薬では治せません。抗生物質や立派な薬をどれだけ与えても命が救えない状況に、私は医師として虚しさを覚えました。そして医療活動の延長として開始したのが、診療所の周りの枯れた井戸の再生でした。

 

 (3年後、中村さんは「百の診療所よりも一本の用水路」を掛け声に、大河川から水を引く灌漑用水路の整備事業も始める。現在、10年以上かけて完成した水路の全長は27キロメートル。3500ヘクタールを潤す。周辺地域の取水設備も手掛け、2020年までに計1万6500ヘクタール、65万人の農民に水を行き渡らせる計画を進めている)

 

 いま、私はアフガン人スタッフや時々来る日本人有志とともに、現地の宿舎で暮らしています。ガードを含めると15人ほどの共同生活です。家族はミッション病院を出る際、家内の実家である大牟田に戻りました。我々のようにアフガニスタンで活動する国際団体は、お金持ちの別荘のような建物を借り受けて、そこを宿舎や事務所にするのが一般的です。私たちも同様で、ジャララバードの宿舎では一室を私専用の部屋にしてもらっています。六畳くらいの部屋に机が一つ、ベッドが一つ。それだけの部屋です。夜は電気がないため、10時くらいまではソーラーパネルで明かりを付けて消灯。日中は用水路工事の現場にいることが多いですね。

 

 そのようなわけで、家族と離れてからの私には、「家」と呼べるようなものはないに等しいのですが、ただ唯一のこだわりが風呂です。アフガンには湯船に浸かる習慣がありません。しかし、1日が終わって「ああ、良い湯だな」という瞬間だけは欲しい。そこでイスラマバードのバザールで風呂桶を探し、宿舎のシャワー室に設置しました。これが現地での唯一の贅沢です。長年の紛争で疲弊したアフガニスタンでの工事には、時間と忍耐が必要です。最初はシャベルとツルハシしかありませんでしたが、土地の人々の故郷に戻りたいという気持ちに支えられながら、工事を進めてきました。

 

 この事業を続けていると、水の力のすごさが分かります。旱魃以後、多くの村が土漠と化し、全村が難民化した村もありました。しかし、あるとき用水路が完成すると、噂を聞いたもとの村人が数週間後には現れ、しばらくして荒れた村にテントが並び始める。いずれ村長が帰村し、畑の境界線や村の秩序が以前の状態に復元されるのです。そのような村々の様子を見ていると、私はときおり郷愁に誘われることがあります。用水路が完成した流域には、緑が文字通りに戻ってきます。水路にはドジョウやフナが泳ぎ、鳥がやってくる。そして、あの稲作の様子や四季の移ろい……。それが日本の何でもない昔の農村風景に非常によく似ている。

 

 彼らの社会は8割が農民ですから、田植えや稲刈りの季節になれば、それこそ村が総出で農事を手伝う。農業を中心とした共同体の中で、お年寄りが大切にされているのも、生まれ育った若松市や古賀町を思い出させます。そして土木作業を行うスタッフと暮らしていると、あの玉井家や実家での日々が胸に甦ってくるのです。その意味で私にとって、アフガニスタンは懐かしい場所でもあるのかもしれません。

 

 

 

 

(写真は映画「花と竜」のモデルとされる玉井金五郎。哲さんとそっくりである=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父から学んだこと~父、故中村哲への追悼への感謝と思い出

  • 父から学んだこと~父、故中村哲への追悼への感謝と思い出

 

 テロの銃弾で犠牲になった医師の故中村哲さん(享年73)の告別式が11日、福岡市内の斎場で執り行われ、親族を代表して長男の健さんが「父から学んだこと」という内容の弔辞を読み上げた。人柄が偲ばれる文章なので、以下に全文を掲載する(12日付「西日本新聞」から)

 

 

 この度の父・中村哲の訃報に際し、親族を代表いたしまして、皆様へご挨拶をさせていただきたく存じます。私は故人の長男で健と申します。最初に申し上げたいのは、父を守るために亡くなられたアフガニスタンの運転手の方・警備の方そして残されたご家族・ご親族の方々への追悼の想いです。申し訳ない気持ちでいっぱいです。悔やんでも悔やみきれません。父ももし今この場にいたらきっとそのように思っているはずです。家族を代表し心よりお悔やみを申し上げます。私たち家族は今回の訃報に大きなショックと深い悲しみに苛まれました。しかし、多くの方々がともに悲しんで下さり、私たち家族へ多くの激励の言葉をかけて下さっています。本当に救われています。

 

 上皇様ご夫妻からのご弔意の賜わりをはじめ、いつもそばで父を支えてともに活動して下さり、これからも継続の意向を示してくださっているペシャワール会の皆様、アフガニスタン国での父の活動に賛同しご支援をいただいている大統領をはじめ政府関係の皆様、同じくアフガニスタン国の大変な環境にある作業現場の中で父とともに活動をしていただいているアフガニスタン国の国民の皆様、父の活動にご賛同いただきご支援をいただいている日本の皆様、そして今回の訃報から父を遠い異国に迎えに行くにあたり早急にそして最短の移動スケジュールでいけるようにご配慮していただき、宿泊先まで手配していただいた外務省・大使館・政府関係の職員の皆様、どんなに感謝しても足りません。父が今までもそして命がなくなってもなおアフガニスタンで活動ができるのも偏に皆様のご賛同・ご協力のおかげとしかいえません。

 

 また今回の事件で警察、航空会社、葬儀会社、保険会社に関わる皆様にはいつも私たち家族の気持ち・立場に立っていただいています。そして24時間、どんな時でも真摯な対応をしていただいています。私たち家族は、皆様のおかげで不安・悲しみの気持ちから本当に守られています。感謝しています。生前、父は山、川、植物、昆虫、動物をこの上なく愛する人でした。家ではいつも庭の手入れをしていました。私が子供の頃はよく一緒に山登りに連れて行ってもらいました。最近も、父とはよく一緒に山に登っていました。遊びに行くときは「できればみんなで行こうよ」、「みんなで行った方が楽しいよ」ということを言っていました。みんなと楽しみたいという考えの人でした。

 

 また父がアフガニスタンへ旅立つとき、私と2人きりで話す場面ではいつも「お母さんをよろしく」「家をたのんだ」「まあ何でも一生懸命やったらいいよ」と言っていました。その言葉に、父の家族への気遣い・思いを感じていました。今、思い返すと、父自身も余裕がない時もきっとあったはずです。いつも頭のどこかで家族のことを思ってくれている父でした。父の、自分のことよりも人を思う性格・どんなときも本質をみるという考えから出ていた言葉だったと思います。その言葉どおり背中でみせてくれていました。

 

 私自身が父から学んだことは、家族はもちろん人の思いを大切にすること、物事において本当に必要なことを見極めること、そして必要なことは一生懸命行うということです。私が20歳になる前はいつも怒られていました。「口先だけじゃなくて行動に示せ」と言われていました。「俺は行動しか信じない」と言っていました。父から学んだことは、行動で示したいと思います。この先の人生において自分がどんなに年を取っても父から学んだことをいつも心に残し、生きていきたいと思います。最後に親族を代表致しまして皆々様からの父と私たち家族へのご厚情に深く感謝いたします。

 

 

 

(写真は菊の花に囲まれた故中村さん=11日、福岡市内の斎場で。インターネット上に公開の写真から)

 

 

《追記》~ホームレスの背中を押した故中村さん

 

 アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師(73)の言葉は、時に迷いながらも信念を持って活動する人たちの背中を押した。ホームレスを支援するNPO法人「抱樸(ほうぼく)」(北九州市八幡東区)の奥田知志理事長(56)もその一人。新米牧師だった約30年前に出会った際、嫉妬と尊敬の念が入り交じる複雑な感情で接したことを鮮明に覚えているという。舞台は違えど、中村さんの活動に同じ理念を感じてきた奥田さんは10日、「この悲しみを憎しみに変えてはいけない」と訴えた。

 

 中村さんが現地代表を務める福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」が発足した1983年、関西学院大1年だった奥田さんは大阪の釜ケ崎でホームレス支援を始めたばかり。中村さんと初めて出会ったのは90年、北九州市八幡東区の東八幡キリスト教会に赴任した時だった。中村さんも同じキリスト教徒。同教会の信徒たちがペシャワール会を支援しており、中村さんは94年ごろまで同教会で活動報告会を開いていた。

 

 報告会には80人もの支援者が詰め掛け、熱気にあふれていた。中村さんの話には圧倒された。パキスタンで、ハンセン病患者がはだしで歩いて傷を負い、血やうみが流れ出て症状が悪化するのを防ぐために、古タイヤでサンダルを作っているとの内容に、思わず聞き入った。それと比べて自分の活動を支援してくれるのは10人に満たない。「海外の支援は受けがいい。アフガンもいいが、日本の困窮者はどうする」と嫉妬心が頭をもたげた。同時に「病気を癒やすだけでなく、社会自体を変えていく。スケールが大きく、自分にはとてもできないことだと思った」。

 

 中村さんは仰ぎ見るような存在で、独特の「近寄りがたさ」も感じていた。講演会で何度も一緒になったが、短い言葉を交わす程度。2人で話し込むような機会はなかったが、その言葉は深く心に刻み込まれている。「生き方、言葉が僕の活動の励みだった」中村さんは報告会や講演会で、ペシャワール会の「誰も行かぬなら、我々が行く」という理念を繰り返し訴えた。ホームレス支援を始めた当初、奥田さんは「そんな支援に何の意味があるんですか」とよく聞かれた。ホームレスは「無に等しい存在」で誰も目を向けない。自分と中村さんの活動を重ね、通じるものを感じていたという。

 

 「頑張ってますか」。2016年9月、福岡市で開かれた講演会で一緒になり、そう声を掛けられた。中村さんの講演をじっくり聞いたのは、この時が最後になった。奥田さんは今、中村さんの死をこう受け止める。「中村先生は復讐(ふくしゅう)してくれとは言わない人だとみんな確信している。中村哲という人は、自分の命が、次の命につながっていくことを望んでいると思う。この悲しみを自分の生き方にどう生かしていくか。僕はどこに行くべきか考えていきたい」(12日付「西日本新聞」)