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ふたたび、「喪失」ということについて

  • ふたたび、「喪失」ということについて

 

 以前ならスル-していたはずだが、妻に先立たれたせいなのか、こんな本の広告が目に止まるようになった。例えばその一冊、『妻が願った最期の「七日間」』は朝日新聞の投稿欄(3月9日付)に掲載された投書がきっかけで、SNSで19万人以上がシェアするなどの大反響を呼び、単行本化された後も重版を重ねているという。「(今年)1月中旬、妻容子が他界しました。入院ベッドの枕元のノ-トに『七日間』と題した詩を残して」という書き出しで始まる投書はこう続く。「神様お願い この病室から抜け出して 七日間の元気な時間をください 一日目には台所に立って 料理をいっぱい作りたい…そして七日目。あなたと二人きり  静かに部屋で過ごしましょ 大塚博堂のCDかけて ふたりの長いお話しましょう」

 

 この約半年後、私の妻が旅立った。訃報を知らせる葉書にこう書いた。「妻、増子美恵子儀が7月29日未明、他界しました。ここ数年間、がんを患っていましたが、直接の死因は消化器出血による”突然死“でした」―。妻容子さんとの交換日記などを加筆した著者の宮本英司さんは投書をこう締めくくっている。「妻の願いは届きませんでした。死の最後の場面を除いて」。この落差に打ちのめされた。一階のベットから転げ落ちるようにして、妻は死んでいた。2階から降りてきて、この異変に気が付いたのは死後4時間もたってからだった。英司さんのように手を握りながら、看取ってやることができなかったという悔恨(かいこん)が今も付きまとう。

 

 私より7歳ほど若い宮本夫妻は早稲田大学の同窓で、妻の容子さんは宮沢賢治を、英司さんは石川啄木を卒業論文に選んでいる。本書の中で英司さんはこう書いている。「盛岡で石川啄木記念館に行って、花巻で(賢治の弟の)の宮沢清六さんにお会いして,平泉の中尊寺に泊ったね」―。容子さんにステ-ジ4の小腸がんが見つかったのは2015年8月。私の妻も前年の6月に同じステ-ジ4の肺がんと診断された。卒論のテーマにそろって、わが郷土・岩手の文学者を取り上げていることにも驚いたが、死に至る病歴もあまりにも似通っている。急に2人の存在が近しくなったような気がした。

 

 「人が亡くなった後の喪失感が、これほどまでに激しいものだとは、体験するまでわかりませんでした。まるで自分の半身が亡くなってしまうような感覚です」と英司さんは妻を病魔に奪われた時の気持ちを記している。私にもぴったりくる言葉である。宮本さんはがんとの闘病記を”夫婦愛“として世に語りかける形で、この喪失感から脱しつつあるようだ。私にはまだまだ、時間が必要である。死の1カ月ほど前から、妻はほとんど寝たっきりの状態になった。ヘルパ-の力も借りたが、入浴だけは他人じゃイヤだと言った。妻の全身をきれいに洗い流す介助役を始めてやった。人生の初体験である。この程度の私だった。背中に石けんを塗りながら、さりげなく聞いてみた。「お母さんに羞恥心(しゅうちしん)はなくなったの」―。その応答に互いに大笑いした。夫婦のきずなが一番、縮まった瞬間だったのかもしれない。

 

 「ほかの男には羞恥心はあるわよ。でもね、あんたになんか、とっくにないわよ」―。息を引き取ったのはその数日後のことである。妻が最後に残してくれたこの言葉をいつまでも大切にしたいと思っている。この日(9月11日)、気の遠くなるような「喪失」をもたらした東日本大震災から7年半目の弔いの日を迎えた。

 

 

(写真は大きな反響を呼んでいる宮本さんの本)

 

2018.09.11:masuko:コメント(0):[マスコラム]

北海道大地震とアイヌ民族

  • 北海道大地震とアイヌ民族

 

 「国造神が天から降りてきて島をつくった。いい場所を選んだつもりが、アメマスという大きな魚の背中だった。島を背負わされた魚は怒って暴れ出し、地震を引き起こすようになった」(9月7日付「朝日新聞」)―。今回の北海道大地震(平成30年北海道胆振東部地震)について、天声人語氏はアイヌ研究者、更科源蔵の『アイヌ民話集』を引用して、こう書いている。たまたま、今年は幕末の探検家、松浦武四郎(1818~88年)が名付け親になって、それまで「蝦夷地」と呼ばれていたこの大地が「北海道」と命名されて150年の節目に当たる。なぎ倒された木々とむき出しの土砂崩れの惨状を目の当たりにしながら、私は23年前の阪神・淡路大震災の光景を目に浮かべていた。

 

 当時、現地ルポのために西宮市に入った私は倒壊した建物群にではなく、その倒壊を防ぐように家々を支えている街路樹の並木に目を奪われた。被災者たちは公園の中の巨木に下に身を寄せ合っていた。足元には地中深くまるでタコの足のように太い根が張り巡らされていた。「木はただ、地面に突っ立っているんじゃない。逆に地面を下から支え持っているのさ」―。ふと唐突に、アイヌのフチ(おばあさん)の言葉を思い出した。樹木のことをアイヌ語で「シリ(大地を)・コロ(持つ)・カムイ(神)」という。「逆立ちしてごらん。そうすれば、あんたも木の神様になれるっていうわけさ」とフチはその時、ニヤニヤしながらそう続けた。

 

 連日、テレビが映し出す北海道の大地は樹木の神々が悲痛な悲鳴を上げているようにさえ見える。アイヌの人々はかつて、北海道のことを「アイヌモシリ」と呼んだ。「人間が住む静かな大地」という意味である。つまり、この大地は誰の所有にも属さない「無主地」だったのである。明治政府は古代律令制以来の五畿七道にならい、東海道や南海道と同じように日本国の領土として組み入れた。アイヌ民族は「旧土人」と蔑(さげす)まれ、無主地だった広大な大地は「官有地」として、入植した和人(本土人)に次々に払い下げられた。当時は富国強兵下で木材の需要は高かった。アイヌ民族が守り続けてきた"自然林”はあっという間に伐採され、はげ山と化した山肌は人工林に姿を変えていった。

 

 「開拓判官」に任じられた武四郎はアイヌ民族を搾取する場所請負制度の廃止を明治政府に進言したが、これが拒否されたために位階を返上して辞任した。現在、国土交通省の管轄下に「北海道開発局」がある。北海道は現在に至るまで「開発」の対象として存在し続けているのである。アイヌ語地名にはその土地の特長(記憶)が刻み込まれている。例えば、トイ(崩れる)やペルケ(裂ける)などを冠した地名はがけ崩れや山腹の崩壊が起こりやすい場所(崖地や山)であることを示唆している。地名研究者によると、トイ・パケ(崩れた・出岬=枝幸町「問牧」)やトイ・ピラ(崩れた・崖=札幌市「豊平」)、ペルケ・ヌプリ(裂けた・山=弟子屈町「美留和山」)などその命名は至るところに及ぶという。

 

 「神戸」という和名も考えてみれば、不思議な命名である。最大の被害(犠牲者4500人以上)を記録した23年前のあの大災害の際、あるアイヌの友人がしみじみと語った言葉が頭の片隅に残っている。「『神戸』を字面通りに読めば、神々の出入り口ということだよな。その出入り口をコンクリ-トで塗り固めてしまっては、神々は窒息してしまうじゃないか」―。アイヌ民族は森羅万象(自然)を「カムイ」(神)と敬い、自然災害は神々の怒りと考えてきた。だからこそ、危険な場所は地名の中でそのことを教え、畏敬の念をもって折り合いをつけてきたのであろう。

 

 まるで「山津波」ように崩れ落ちた光景を目の前に見る時、そこには「シリコロカムイ」の姿はもはやない。人の手で整然と植え込まれた細々とした木々たちは神々の怒りを一身に受けているたようにさえ映る。「平成30年北海道胆振東部地震」は、言葉の本来の意味での「人災」ではなかったのか―。

 

 

(写真は一瞬のうちになぎ倒され、褐色の地肌をあらわにした山肌=9月6日、北海道・厚真町で=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

《追記》~「北海道旧土人保護法」

 

 悪名高いこの法律は1898(明治32)年に制定され、1997年7月に「アイヌ文化振興法」(略称)が制定されるまで約100年間、続いた。一方的に官有地に編入した土地を逆に「保護」名目で貸し与えるという歴史的にもまれにみる“愚民政策”として記憶されている。土地関係の規定は以下の通り。

 

第一条 北海道旧土人ニシテ農業ニ従事スル者又ハ従事セムト欲スル者ニハ一戸ニ付土地一万五千坪以内ヲ限リ無償下付スルコトヲ得

 

第三条 第一条ニ依リ下付シタル土地ニシテ其ノ下付ノ年ヨリ起算シテ十五箇年ヲ経ルモ尚開墾セサル部分ハ之ヲ没収ス

 

 

 

 

 

 

2018.09.08:masuko:コメント(0):[マスコラム]

「喪失」という物語

  • 「喪失」という物語

 

 「大いなる喪失は自死を招き寄せるということなのだろうか」―。妻を失って、最初に手にした本がその死(7月29日)の直前に刊行された『原民喜―死と愛と孤独の肖像』(梯久美子著)だった。月並みな表現だが、ぽっかりと穴の開いたような喪失感がこの本を手に取らせたような気がする。広島で被爆した体験を詩や小説などに表現した原(1905年―1951年3月13日)は原爆の前年に精神的な支柱だった妻を病気で失い、疎開先で自ら被爆した6年後、東京都内で鉄道自殺した。46歳の若さだった。代表作『夏の花』(晶文社版)の中に原爆の惨状を描いたこんな一節がある。

 

 「河岸に懸つてゐる梯子に手をかけながら、その儘硬直してゐる三つの死骸があつた。バスを待つ行列の死骸は立つたまま、前の人の肩に爪を立てて死んでゐた」―。原は同書の少し前でそんな光景を「どうも、超現実派の画の世界ではないかと思へるのである」と書き、あえて片仮名書きで「スベテアツタコトカ/アリエタコトナノカ/パツト剥ギトツテシマツタ/アトノセカイ」と続けている。東日本大震災で母親と妻、そして愛娘を失った知り合いの被災者が津波に襲われたがれきの荒野を被爆地と重ねて語ったことがある。身近な肉親の喪失と膨大な死者の群れ…。「そのことについて、自分の中でどう折り合いをつけたらいいものなのか」と―。

 

 『夏の花』は亡き妻の墓参の場面から始まる。著者の梯さんは原の気持ちを次のような文章からすくい取っている。「さうだ、僕はあの無数の死を目撃しながら、絶えず心に叫びつづけてゐたのだ。これらは『死』ではない、このやうな慌ただしい無造作な死が『死』と云へるだろうか、と。それに較べれば、お前の死はもつと重々しく、一つの纏(まと)まりのある世界として、とにかく、静かな屋根の下でゆつくり営まれたのだ」(『夢と人生』)―。この文章を紹介しながら、梯さんは「妻を看取ったその目で見たからこそ、広島の死者の無残さは原を打ちのめしたのである」と書いている。

 

 前述の被災者の肉親は7年たったいまも行方不明のままである。この人にとっては「慌ただしい無造作な死」さえまだ、訪れてはいない。「奥さんを大事にしてね」と逆に病弱な私の妻をいつも気遣ってくれた。その妻が旅立ったいまこそ、私は原民喜のように「無造作な死」の陰に隠された本当の「死」の意味をもう一度、確かめる旅に赴かなくてはならないのかもしれない。

 

 原は『鎮魂歌』(1949年8月)に中に絶叫するように書き付けている。「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけに生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だった。お前たちは花だった。久しい久しい昔から僕が知つているものだった」―。原が自死するのはこのわずか1年半後のことである。葬儀委員長の思想家、埴谷雄高(はにやゆたか=故人)は「あなたは死によって生きていた作家でした」と弔辞を述べたという。

 

 「喪失」とはもうひとつの「生」を生き直すための里程標(りていひょう)なのだろうか―。

 

 

(写真は生前の原民喜=インターネット上に公開の写真から)

 

 

2018.09.04:masuko:コメント(0):[マスコラム]

小説の作法ということについて

  • 小説の作法ということについて

 

 第159回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が7月18日に行われ、前者には高橋弘希さん(38)の『送り火』、後者には島本理生(りお)さん(35)の『ファ-ストラヴ』が選ばれた。芥川賞候補にノミネ-トされたものの、他作品との類似表現が指摘されていた北条裕子さん(32)の『美しい顔』(群像新人文学賞)は選外となった。同作品は東日本大震災で被災した女子高校生が一人称の形で揺れ動く心を紡(つむ)ぐ内容。ところが、作品中にはノンフィクション作家、石井光太さんの『遺体』など3・11を題材とした5作品からの引用と思われる個所が多数見つかり、その捉え方をめぐって出版界で議論が続いていた。

 

 この件について、出版元の講談社は文芸雑誌『群像』(8月号)で、こう謝罪した。「主要参考文献として掲載号に明記すべきところ、編集部の過失により未表記でした。文献の扱いに配慮を欠き、類似した表現が生じてしまったことを、石井氏及び関係各位にお詫び申し上げます。また、東日本大震災の直後に釜石の遺体安置所で御尽力された方々に対する配慮が足りず、結果としてご不快な思いをさせたことを重ねてお詫び申し上げます」―。これに対し、『遺体』の発行元の新潮社は「単に参考文献として記載して解決する問題ではない」と反論。講談社は著作権の侵害にまで及ぶものではないとして、今月4日付で自社ホ-ムペ-ジに『美しい顔』を全文公開し、読者に当否の判断を委ねている。

 

 「小説の作法とは何か」―。今回の問題は著作権のあり方などを含めた文学作品の表現形態のあり方を問うたものとして注目される。その本質的な議論は今後に期待するとして、出版に際しての「マナ-」や「ル-ル」に関し、講談社が公に謝罪したのは評価される。実は第158回直木賞を受賞した同社発行の『銀河鉄道の父』(門井慶喜著)について、同じような懸念を抱いた経緯があった。400か所以上に及ぶ文中の「方言」個所の“翻訳”が外部委託されていたにもかかわらず、その旨の表記が記載されていなかったのである。その意味では、今回の「類似表現」問題と同じ次元の構図ではないかと思う。

 

 方言表記が同書の心臓部分を形成していただけに、とくに宮沢賢治の地元・花巻には違和感を表す読者も少なからずいた。このため、私は公開質問状を講談社に送り、その見解をただした。今後の留意を促すのが本意だったため、これまで公開を控えてきたが、今回の問題に接し、当方の真意がきちんと伝わっていなかったのではないかという思いを強くした。小説の「作法」論争の一助に資すると考え、以下に全文を公開する。大手出版社が陥りやすい、読者不在の“おごり”はなかったのか―この懸念が杞憂(きゆう)に終わることを願っている。大方の読者の判断を仰ぐことができればと思う。

 

 

 

  株式会社 講談社 文芸第二出版部御中

 

《公 開 質 問 状》

 

 この度は御社発行『銀河鉄道の父』(門井慶喜著)の直木賞受賞、おめでとうございます。さて、突然のご連絡をお詫び申し上げます。私は岩手・花巻在住の増子義久(ますこよしひさ)といい、現在、花巻市議を務めています。実は本書に関連し、2018年1月21日付の地元紙「岩手日報」に同封の記事が掲載されました。宮沢賢治記念館の学芸員の立場にある筆者が、御社から依頼されたという「本文会話の花巻言葉化(方言化)」はざっと数えただけでも500か所前後に上っています。この本の生命線は何といっても宮沢賢治の父、政次郎など親族の間で交わされた方言による会話部分だと考えます。

 

 今般、同じように賢治にちなんだ作品で芥川賞を受賞した『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子著)も方言の力強さが評価されたと言われています。しかし、若竹本が“母語”としての方言であるのに対し、門井本は第三者によって“翻訳”された方言という点が決定的に違っています。昨年秋に歌人、石川啄木のうたを東日本大震災の被災地、岩手・三陸の「おんば」(おばあちゃん)たちが“翻訳”した『東北おんば訳/石川啄木のうた』(新井高子編著)が出版されました。歌人の俵万智さんは「訳というのは、単なる言葉の置き換えではない、心の共有なのだと感じました」と評しています。

 

 とりわけ、今回の芥川賞と直木賞はさながら東北弁という「方言力」の競演の趣さえありました。最近では「ありがとがんす」(賢治)、「なんもだ」(政次郎)と花巻弁を口にする二人の写真入りの新聞広告(つまり御社のPR)が紙面を飾るというフィ-バ-ぶりです。花巻人として、手放しで喜んでいいものやらと複雑な気持ちにもさせられます。以上のようなことを念頭に置きながら、以下について質問します。「土地の言葉(方言)には言霊が宿っている」―故石牟礼道子さんがのこした“遺言”が今さらのようによみがえってきます。

 

 

 

1、本書は厳密な意味で、門井さんの「単著」と言えるのか

2、方言化などの編集協力について、「付記」などの記述がないのはなぜか。今後の増刷に際して、その点を再考する考えはないか

3、編集協力のきっかけについて、上記「岩手日報」紙には「その出版社(御社)校閲部に高校の同級生Oさんが勤めており、門井さんが大阪住まいで<花巻弁>がわからないということから、私のことを紹介したのだった」と記されている。こうした安易な依頼自体が読者不在ひいては読み手への冒涜につながるとは考えなかったか

4、本作のようにその核心部分へ第三者が関与した場合の著作権の帰属はどうなるのか。末尾に「本書のコピ-、スキャン、デジタル化等の無断複製は著作権法上での例外を除いて禁じられています」と書かれているが、今回のケースとの整合性をどう考えるか。編集協力者に対する印税の配分などはどう定められているのか

5、第三者による方言化に際してはどうしても翻訳者の主観が入ると思われるが小説の作法上、その点をどう認識するか

6、方言化の第三者への依頼など今回の出版に至る経緯について、選考委員会への説明はなされたのか。選考協議はその点を踏まえたうえでなされたのか

以上

 

《追記》

 今回の直木賞受賞作品については、同じような疑問が市民から寄せられたため、開会中の花巻市議会3月定例会の一般質問(3月8日)で、学芸員としての関与の在り方などについて、市当局の見解をただした経緯があります。そのうえで、出版当事者の御社のお考えをお尋ねする次第です。2018年3月31日までに文書にてご回答をいただければ幸いです。よろしくお願い申し上げます。なお、御社とのやり取りの経緯については、私のブログ「イ-ハト-ブ通信」に公開することもあることをつけ加えさせていただきます。

 

 2018年3月9日

 岩手県花巻市桜町3-57-11 増子 義久

 

 

 

増子義久様

拝復

 本年3月9日の消印にてお送りいただきました弊社発行の門井慶喜さんのご著作の『銀河鉄道の父』についての公開質問状にお答えいたします。

 

                   

 

1、本書は著者である門井慶喜さんが作家としての想像力を駆使して作り出した著作物であり、完全な「単著」です。本書は広く日本国民に親しまれている宮沢賢治とそのご家族を材にしております。これまでにもさまざまな形で伝えられ研究されてきました歴史的事実には従っておりますが、それは実在の人物を描く歴史時代小説としては当然のことです。しかし、賢治の父である政次郎についてはあまり多くの資料がありません。その数少ない事実は曲げないなかで、多くの場面や会話を著者はすべて自らの創意によって描いています。

2、一つの作品が出来上がるためにはさまざまな協力、影響、参照などがあり、それらを作品に付記するかどうかは個別の判断に任せられています。本書についてはすべて付記しませんでした。

3、方言指導の依頼は通常の編集作業であり、今回の依頼の経緯が「安易」「読み手への冒涜」とは考えません。

4、「核心部分へ第三者が関与した」とありますが、方言指導を受けている会話は①に記しましたようにもともとすべて著者の創作のままで、本作の方言化部分も著作権は著者に帰属すると考えています。ですから、方言指導をいただいた方へも著作権に基づく印税ではなく原稿料の形で報酬をお支払いしています。

5、本作の場合、地の分も含めた全体ではなく、会話に絞って方言指導をお願いしました。指導を受けた個所は多数かもしれませんが、それらは特定の言葉への置き換えであったり語尾の変化であったりしており、指導者の主観が大きく入るとは考えません。また、本作では指導者のご指摘を著者が一度検討して方言の度合いを調整するという手順も踏んでおりました。

6、「選考委員会」というのは直木賞を運営している日本文学振興会ということかと思いますが、前述してきましたように本作は門井慶喜さんの単著ですので、方言指導の扱いについてこちらから説明することはありませんでした。

 

以上、ご理解いただけますと幸いです。

 

敬具

2018年3月27日

東京都文京区音羽2-12-21

株式会社 講談社

第五事業局 文芸第二出版部

担当/小林龍之

 

 

 

2018.07.18:masuko:コメント(0):[マスコラム]

「平成30年7月豪雨」と被爆地・広島

  • 「平成30年7月豪雨」と被爆地・広島

 

 

 「ヤバイ、亜弥ちゃんの家が…」―。重い病を抱える妻の介護のため、一時帰省していた沖縄・石垣島在住の娘がスマホをのぞき込みながら大声をあげた。大学時代の親友で現在、広島県の東広島市に住む写真家、藤岡亜弥(46)さんからの緊急メ-ルだったらしい。「雨がすごい。すぐ裏が山だから、怖い」―。友人はすんでのところで難を逃れて無事だったが、今回の豪雨災害で最大級の被害を受けたのが広島県だった。テレビを見ながら娘がポツリと言った。「川って言えば、亜弥ちゃんは今度、太田川に焦点を当てた写真集と『アヤ子、形而上学的研究』の展示作品が評価され、木村伊兵衛賞をもらったんだよ」。同賞は写真界の「芥川賞」と言われている。さっそく、受賞作『川はゆく』(2017年、第43回木村伊兵衛賞)を取り寄せた。

 

 広島市内の中心部を流れる旧太田川は被爆地・広島を象徴する川である。全身に大やけどを負った被爆者たちが「水をください」と叫びながら、飛び込んでいった川として記憶に刻まれている。「川は血のように流れている。血は川のように流れている」―。受賞作のカバ-にはこう記されている。原爆ド-ム近くの歩道でジャンプする女子学生たち、川べりで抱擁する若い男女、広島球場の空を埋め尽くす歓喜の風船…。70年という時空を隔てた現代の風景の背後から「ヒロシマ」が影絵のように浮かび上がってくる。3年前、ニュ-ヨ-クから生まれ故郷の広島に生活の拠点を移した藤岡さんはこう語っている。「70年という時間の厚みの中で消されてしまったヒロシマの歴史を想像しながら、生活の中で見えにくくなっているヒロシマの痕跡を探そうとした」

 

 「太田川の支流のほとんどが決壊してしまった。まだ、断水したままだ」―。同じ広島県の尾道市に住む畏友(いゆう)の映画監督、森弘太(80)さんはほとほと疲れ果てたという声で現地の状況を伝えてきた。未認定の被爆者に焦点を当てた映画「河/あの裏切りが重く」(1967年、モントリオール国際映画祭招待作品)などの問題作を問うてきた森さんにとっても、今回の大災害はあの被爆の光景と重なり合うものだったらしい。外傷被爆者が登場していないという理由で、制作当時は地元広島での上映が拒否された。東日本大震災以降、福島原発事故に伴う内部被爆や広島や長崎における被爆二世・三世など新しいタイプの「被爆」に関心が向けられる中、この映画が再評価されるようになった。

 

 映画と写真という二つの「映像」技術によって、あらためて「被爆地・広島」の記憶を呼び戻してくれた「平成30年7月豪雨」―。原水爆禁止運動が社会党系と共産党系に分裂し、安保闘争が敗北した結果、アメリカの核の傘の下に身をゆだねることになった日本…。壊滅した被爆者運動の陰で、非外傷性被爆者は補償の埒外(らちがい)に置かれていた。夜の平和公園で自殺しようとしていた被爆老人を助け出すシ-ンがある。老人は「ピカがもう一度落ちればいい」と吐きすてるように言う。「河/あの裏切りが重く」は被爆者を社会から葬り去ろうとする、この国とそこに住まう人間の「冷酷」を描いて余すところがない。森さんにとって、太田川とはこの「分断」の象徴だったのである。

 

 森さんとは親子ほどの隔たりがある藤岡さんがその記憶を引き継いでいることに何か胸に迫る思いがした。藤岡さんは東広島市内のアパ-トで生活しながら、町を歩きつつ日常を撮ったスナップを写真集にまとめた。広島に向き合う時、「わかりやすい『ヒロシマ』のイメ-ジにはしたくない」と強く意識した。平和教育で戦争や原爆を学んだが、実際には戦争を知らない世代。「わからないこと」を大切に、「今の広島の姿をメモをするように撮った」という。選考委員からは「広島出身の作者が、まさに撮るべきものを撮った」と評価された。「受賞は知らなかった。あなたの娘さんの親友とはこれまた、不思議な縁だね。広島にこだわる後継者がいることに嬉しさを感じた」―。森さんの声は電話口で弾んでいた。

 

 「そういえば、亜弥は学生時代から歴史の奥をのぞき込むような視線を持っていたようだった」と娘は言った。早々と写真の世界から身を引いた娘はいま、石垣島で夫とカレ-ライス店を経営している。「遠いからしょっちゅうは来れないからね。お母さんの介護は人生最後の試練。頑張ってね」―。娘はこう言い残して、1週間の介護を終えるとそそくさと島に戻っていった。二人の幼い子を育てながらの店のやりくりだから、これも致し方あるまい。

 

 『川はゆく』をめぐりながら、私は殊勝な気持ちでわが人生の来し方を振り返える。そして、ブツブツとつぶやく。「そうか、被災者や沖縄に寄り添うことの大切さを訴えてきたつもりだが、それが本物かどうか…。今度は一番身近な存在にきちんと寄り添うことができるかどうかで、そのことが問われているっていうわけか。そう、人生の真価が試される最後の修行なのかもしれないな。それにしても、あんた、随分と大げさじゃないか。気張りすぎだよ」―。かたわらのテレビは豪雨被害がまだ拡大しつつあることを伝えている。その無残な光景と旧太田川の被爆残像とが二重写しになって、まなうらに浮かんでは消えた。この川こそが記憶の風化を峻拒(しゅんきょ)する「ヒロシマ」の生きた歴史遺産にちがいないと思った。

 

 

(写真は原爆ド-ムと女子学生のコントたストが歴史のつながり想起させる=写真集『川はゆく』から)

 

 

2018.07.13:masuko:コメント(0):[マスコラム]