今年も一年お世話になりました。
年末年始の休業は下記の通りです。
12月31日(金)
1月1日(土)
1月4日(火)
1月5日(水)
そして1月2日(日)、3日(月)100:00~18:00に初売りを開催します。
主な内容は、、、
其の1、珈琲豆・紅茶すべて20%増量にて販売!!
其の2、陶器全品20%offにて販売!!
其の3、イタリア製の保存瓶3本セット2,100円を1,050円にて販売!!
其の4、2000円以上お買い上げの方に粗品進呈!!
其の5、その他お得商品を満載!!
その他、久しぶりに1月10日より珈琲教室を再開します。
ご興味のある方はメールおよび店舗でどうぞ!!
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関義臣という方を、
ご存知ですか。
私も分からなかったのですが、福井県越前市武生公会堂記念館にて本年10月1日から11月7日にかけて「坂本竜馬と関義臣」という企画展が開催されていたそうです。
この関義臣は福井藩士・山本五郎の3男に生まれる。藩校明道館に学び、幹事の橋本左内に認められて、文久2年(1862年)に昌平坂学問所に学んだ。1866年(慶応2年)、長崎の坂本龍馬を訪ねて亀山社中に加盟し、のちに海援隊に属した。1868年(明治元年)には、学問所で舎長を務めた、とあります。
で、写真の資料は米沢藩から米沢県に、そして置賜県なった時の明治6年8月から明治7年3月までの「御布告書集」です。明治政府から配布された公文書の綴りなのですが、文部卿 木戸孝允、内務卿 大久保利通、右大臣 岩倉具視、太政大臣 三條實美、工部卿 伊藤博文、大蔵卿 大隈重信、陸軍大輔 西郷臣道、大蔵大輔 井上馨、租税頭 陸奥宗光、などという名前がぞろぞろ書かれています。
将に「坂の上の雲」の時代といえましょう。番組は見ていませんが。
関義臣は明治6年5月29日に来県、明治7年9月に大蔵省に転任(米沢年表 米沢市史資料 第18号より)していますので、丁度その期間の文書です。
この年表は山形県が明治17年に編んだ「置賜県歴史」からこの辺の時代を拾ってきているので、それと呼応すると面白いかもしれません。
関は学問を好み、長崎に行った時、海援隊を組織していた坂本龍馬と意気投合しました。彼が意見書を見せると、龍馬は破顔一笑して「北国の奇男子、徹頭徹尾、我と同意見なり。爾後我に一臂の力を添えよ」と言い、海援隊の客員となったそうです。
そんな人が1年一寸とはいえ米沢にいたのですねぇ。
私も分からなかったのですが、福井県越前市武生公会堂記念館にて本年10月1日から11月7日にかけて「坂本竜馬と関義臣」という企画展が開催されていたそうです。
この関義臣は福井藩士・山本五郎の3男に生まれる。藩校明道館に学び、幹事の橋本左内に認められて、文久2年(1862年)に昌平坂学問所に学んだ。1866年(慶応2年)、長崎の坂本龍馬を訪ねて亀山社中に加盟し、のちに海援隊に属した。1868年(明治元年)には、学問所で舎長を務めた、とあります。
で、写真の資料は米沢藩から米沢県に、そして置賜県なった時の明治6年8月から明治7年3月までの「御布告書集」です。明治政府から配布された公文書の綴りなのですが、文部卿 木戸孝允、内務卿 大久保利通、右大臣 岩倉具視、太政大臣 三條實美、工部卿 伊藤博文、大蔵卿 大隈重信、陸軍大輔 西郷臣道、大蔵大輔 井上馨、租税頭 陸奥宗光、などという名前がぞろぞろ書かれています。
将に「坂の上の雲」の時代といえましょう。番組は見ていませんが。
関義臣は明治6年5月29日に来県、明治7年9月に大蔵省に転任(米沢年表 米沢市史資料 第18号より)していますので、丁度その期間の文書です。
この年表は山形県が明治17年に編んだ「置賜県歴史」からこの辺の時代を拾ってきているので、それと呼応すると面白いかもしれません。
関は学問を好み、長崎に行った時、海援隊を組織していた坂本龍馬と意気投合しました。彼が意見書を見せると、龍馬は破顔一笑して「北国の奇男子、徹頭徹尾、我と同意見なり。爾後我に一臂の力を添えよ」と言い、海援隊の客員となったそうです。
そんな人が1年一寸とはいえ米沢にいたのですねぇ。
2010.12.23:mameichi:コメント(0):[米沢城下に江戸を訪ねる]
樅ノ木は残ったが、コナラは涸れた。
以前気になっていた松岬神社のコナラがどうなっているか見に行きました。
行ってみると跡形もなく、残念ながら伐採されていました。随分虫に喰われたようでした。
その脇の樅ノ木は普通に大丈夫ですが。
松岬神社には西南に庭があり、そこにコナラがあったのです。
で、そこは池のある庭園になっているのですが、そこは景勝以来の庭だと読んだことがあります。
そこには織物殖産の碑と、高梨源五郎翁の碑がありました。
行ってみると跡形もなく、残念ながら伐採されていました。随分虫に喰われたようでした。
その脇の樅ノ木は普通に大丈夫ですが。
松岬神社には西南に庭があり、そこにコナラがあったのです。
で、そこは池のある庭園になっているのですが、そこは景勝以来の庭だと読んだことがあります。
そこには織物殖産の碑と、高梨源五郎翁の碑がありました。
2010.12.21:mameichi:コメント(0):[米沢城下に江戸を訪ねる]