9月とはいえ、まだ蒸し暑い日が続いております。
今月の休業日は下記のとおりです。
6日(火)、8日(木・臨時休業)、13日(火)、20日(火)、27日(火)
8日はコーヒーとうつわの展示会に行ってきます。
何か新しい商品に出会えたらと、楽しみにしております。
また9月の珈琲「彩る月」、季節の珈琲「秋珈琲」が発売になりました。
秋も少しづつ深まってまいります。夜長を美味しいコーヒーでお過ごしください。
写真はうちの実家の近くにある信濃町大日堂です。
由緒書によれば、今を遡る慶長2年(1250年)に長い出羽守泰秀が建立し、守り本尊の胎蔵界大日如来を祀る。その後寛文4年(1664年)に上杉家4代藩主上杉綱勝公が金剛界大日如来を合祀された。
審らかでないが行善院東源寺その守護の任にあたる。元治元年(1864年)類焼し、大正6年(1917年)大火により焼失したが再興され、金胎両部の大日如来像も寄進されて現在に至る。 とあります。
子供のころはここの斜め向かいに吉野屋という駄菓子屋があり、東部小学校の生徒で随分賑わっていました。そして左隣に小松八百屋、右隣に伴菓子店という店舗なしの製造卸のみの菓子屋がありました。
ここでは菓子の原料の水飴を子供に10円で販売しており、時々行っておじちゃんから水飴を買ってなめていたものです。その情報はどうやって誰から聞きつけたか分かりませんが、優しそうな小父さんで、行けば仕事の手を休めて、水飴を缶から割り箸に巻きつけてくれて、チョチョイっと食紅を付けてくれました。
その右隣は中島君という同級生の家で機屋だったと思いますが、おじいちゃんが武者絵の凧絵が上手な人でした。近くに細谷魚屋もあり、なかなか賑わっていた場所です。
なぜ信濃町かといえば、堂森善光寺を信州善光寺に摸して参道を信濃町といったという俗説もありますが、普通に考えれば信濃系の方が配置されたのではないでしょうか。
上花沢地区では一番人通りがあり、商店も多く賑やかなイメージがあります。
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ほぼテレビを見ないので、、、
地デジになるのでうちはもう見れなくなるんだよと言ってましたが、NCVさんのアナログ変換によりもう少しテレビを見せてもらえることになりました。
確か変換するチューナーも友人から貰ったんですが、どこにいったんだか、、、
息子は朝起きるとすぐテレビに向かいます。
帰ってくるとすぐにテレビを付けます。
晩ご飯が終わると自然にテレビににじり寄ります。
だからといって番組は何でもいいというわけでもなく、面白くなければお気に入りの録画物を見ています。
この機械、子供の頃は結構好きだったのですが、現在ではちょっと離れてしまいました。
ラジオは付けてますよ。朝飯と晩餐の時は。
だから、面白い番組に偶然遭遇するといったことは皆無です。
こういう人が増えてるような気がするとすれば、視聴率を稼ぐのは前世紀よりも大変なことになっていると思われます。
この間徳光さんが走っているということで、終盤にかみさんがテレビを付けました。
その時、ひとり浮かない顔をしていた人がいたのが気がかりでしたが。
うちの親父の晩年は、よく「何でも鑑定団」を見ていたような気がします。
視聴者参加番組がほとんど姿を消しているのに、ここには見事に昔のようにスタジオ客入れをやり、出張鑑定では劇場での録画となっています。
後任の司会が同じ事務所からなのか、それとも独自のものを立てるのか注視したいところです、といっても随分見てませんよ、この番組も。
テレビで最後に楽しみに見ていたのが日曜の夜にやっていた頃の世界遺産です。あれは海外に行きたくなるほどのインパクトがありました。
兼高かおる時代は、そう思うのがまだ無理だったでしょうが。
確か変換するチューナーも友人から貰ったんですが、どこにいったんだか、、、
息子は朝起きるとすぐテレビに向かいます。
帰ってくるとすぐにテレビを付けます。
晩ご飯が終わると自然にテレビににじり寄ります。
だからといって番組は何でもいいというわけでもなく、面白くなければお気に入りの録画物を見ています。
この機械、子供の頃は結構好きだったのですが、現在ではちょっと離れてしまいました。
ラジオは付けてますよ。朝飯と晩餐の時は。
だから、面白い番組に偶然遭遇するといったことは皆無です。
こういう人が増えてるような気がするとすれば、視聴率を稼ぐのは前世紀よりも大変なことになっていると思われます。
この間徳光さんが走っているということで、終盤にかみさんがテレビを付けました。
その時、ひとり浮かない顔をしていた人がいたのが気がかりでしたが。
うちの親父の晩年は、よく「何でも鑑定団」を見ていたような気がします。
視聴者参加番組がほとんど姿を消しているのに、ここには見事に昔のようにスタジオ客入れをやり、出張鑑定では劇場での録画となっています。
後任の司会が同じ事務所からなのか、それとも独自のものを立てるのか注視したいところです、といっても随分見てませんよ、この番組も。
テレビで最後に楽しみに見ていたのが日曜の夜にやっていた頃の世界遺産です。あれは海外に行きたくなるほどのインパクトがありました。
兼高かおる時代は、そう思うのがまだ無理だったでしょうが。
マエタケさんとダンイケさん
先日亡くなった前田武彦こと「マエタケ」さんは名司会者として鳴らし、その司会の後ろでバンドの指揮をしていたのがダン池田こと「ダンイケ」さんだ。
バンドや芸能の世界では名前を縮めて読むことがあり、小野満=オノマン、渡辺貞夫=ナベサダ、伴淳三郎=バンジュン、ダン池田=ダンイケとなる。
鶴田浩二=ツルコウというのは笑福亭鶴光師匠のネタだ。
さて、この二人が盛り上げた番組が今話題!!のCXの「夜のヒットスタジオ」だ。
幼稚園のころだが、多分毎週見ていたような気がする。コンピューター占いというのが面白かったのだ。
只、いま資料をひもといてみると、午後10時から10時54分の放送となっており幼稚園児がそこまで起きていたのかは全く怪しげな記憶でしかない。
それはそれとして、人気絶頂のころ「マエタケさん」は突然この番組に出なくなってしまい、司会者も変わってしまった。
母にマエタケは何ででなくなったんだ?と聞いたら、
「テレビでは言ってはいけないことを言ったんだ。」
何て言ったのかと聞いたら、
「共産党バンザイ!!といったからだ。」
ということらしかった。
そう言われてみると、「何かバンザイ」と言ったような記憶もあった。
それはしっかりとしたバンザイではなく、何かおざなりな付け足しのような感じだったような気がする。
ただそのことは辞めるちょっと前のことで、なんで今やめたのだろうと思った。少し時期がずれていたのだ。
そのときの映像は何となく心の中に残っている。もしかしたら事件になってから再放送されたものを記憶しているのだろうかとも思うが、そんな映像をもう一回流すほどテレビもバカじゃないと思うので、自分の記憶なのだろう。芳村真理が「またぁ~。」と濁すように受けたのではなかったか。
そして、マエタケさんは見事にテレビには姿を現さなくなった。
大学に入るため上京した時、部屋にテレビはなかった。ラジカセを持って行ったので関東ローカル各局のラジオ番組を聞くと、青島幸男、永六輔、前田武彦などのテレビ1期生の先生方がずらずら出ているではないか。
テレビがいつのまにか子供のオモチャになってしまった時、機を見るに敏な彼らはラジオというメディア、それも全国ネットではない場所で脈々と面白い話を続けていたのだ。
そして半年して質屋で安く手に入れたテレビを付けると、頭を五分刈りにした「マエタケ」さんが天気予報をやっていた。
彼が書いた「マエタケのテレビ半世紀」にヒットスタジオを辞める時の送別会の模様がこう書かれている。
突然、バンドリーダーのダン池田が立ち上がってしゃべりはじめた。
「ぼくは残念です。前田さん、大好きでした。いい演奏が出来たのも、前田さんのおかげです。正直でいつも本当のことをいう前田さん、別れるのが・・・・・悔しい!」
私は祝儀袋をテーブルに置いたまま、ダン池田に近寄って無言で握手した。握手では気持ちを表現しきれずに抱き合った。お互いに力いっぱい抱き合った。
その後マエタケさんが干された後、ダンイケさんも芸能界を干されてしまった。
原因は本人にもあるのだと思うが、芸能界というのは多大な功績があってもなくても、こういうことになっちゃう世界なのだなと、山本某や篤姫の旦那さんを見ていても思う今日この頃なのだ。
干されている間もマエタケさんの幕内での人気は確かなもので、立川談志、小林信彦、渥美清などの本当の笑いの識者の著作、発言に度々登場していた。
そのころ私は本当の彼の実力が分からなかった。
今はyoutubeという便利なものがあり、永六輔さんのラジオにでた「マエタケ」さんの亡くなる2週間ほど前の放送がとてもいいです。
ゲストのフォーク・クルセダーズの北山修との話も面白いので興味のある方は是非。実力の程がわかりました。
http://www.youtube.com/watch?v=vj5-ayNUIv8
バンドや芸能の世界では名前を縮めて読むことがあり、小野満=オノマン、渡辺貞夫=ナベサダ、伴淳三郎=バンジュン、ダン池田=ダンイケとなる。
鶴田浩二=ツルコウというのは笑福亭鶴光師匠のネタだ。
さて、この二人が盛り上げた番組が今話題!!のCXの「夜のヒットスタジオ」だ。
幼稚園のころだが、多分毎週見ていたような気がする。コンピューター占いというのが面白かったのだ。
只、いま資料をひもといてみると、午後10時から10時54分の放送となっており幼稚園児がそこまで起きていたのかは全く怪しげな記憶でしかない。
それはそれとして、人気絶頂のころ「マエタケさん」は突然この番組に出なくなってしまい、司会者も変わってしまった。
母にマエタケは何ででなくなったんだ?と聞いたら、
「テレビでは言ってはいけないことを言ったんだ。」
何て言ったのかと聞いたら、
「共産党バンザイ!!といったからだ。」
ということらしかった。
そう言われてみると、「何かバンザイ」と言ったような記憶もあった。
それはしっかりとしたバンザイではなく、何かおざなりな付け足しのような感じだったような気がする。
ただそのことは辞めるちょっと前のことで、なんで今やめたのだろうと思った。少し時期がずれていたのだ。
そのときの映像は何となく心の中に残っている。もしかしたら事件になってから再放送されたものを記憶しているのだろうかとも思うが、そんな映像をもう一回流すほどテレビもバカじゃないと思うので、自分の記憶なのだろう。芳村真理が「またぁ~。」と濁すように受けたのではなかったか。
そして、マエタケさんは見事にテレビには姿を現さなくなった。
大学に入るため上京した時、部屋にテレビはなかった。ラジカセを持って行ったので関東ローカル各局のラジオ番組を聞くと、青島幸男、永六輔、前田武彦などのテレビ1期生の先生方がずらずら出ているではないか。
テレビがいつのまにか子供のオモチャになってしまった時、機を見るに敏な彼らはラジオというメディア、それも全国ネットではない場所で脈々と面白い話を続けていたのだ。
そして半年して質屋で安く手に入れたテレビを付けると、頭を五分刈りにした「マエタケ」さんが天気予報をやっていた。
彼が書いた「マエタケのテレビ半世紀」にヒットスタジオを辞める時の送別会の模様がこう書かれている。
突然、バンドリーダーのダン池田が立ち上がってしゃべりはじめた。
「ぼくは残念です。前田さん、大好きでした。いい演奏が出来たのも、前田さんのおかげです。正直でいつも本当のことをいう前田さん、別れるのが・・・・・悔しい!」
私は祝儀袋をテーブルに置いたまま、ダン池田に近寄って無言で握手した。握手では気持ちを表現しきれずに抱き合った。お互いに力いっぱい抱き合った。
その後マエタケさんが干された後、ダンイケさんも芸能界を干されてしまった。
原因は本人にもあるのだと思うが、芸能界というのは多大な功績があってもなくても、こういうことになっちゃう世界なのだなと、山本某や篤姫の旦那さんを見ていても思う今日この頃なのだ。
干されている間もマエタケさんの幕内での人気は確かなもので、立川談志、小林信彦、渥美清などの本当の笑いの識者の著作、発言に度々登場していた。
そのころ私は本当の彼の実力が分からなかった。
今はyoutubeという便利なものがあり、永六輔さんのラジオにでた「マエタケ」さんの亡くなる2週間ほど前の放送がとてもいいです。
ゲストのフォーク・クルセダーズの北山修との話も面白いので興味のある方は是非。実力の程がわかりました。
http://www.youtube.com/watch?v=vj5-ayNUIv8
その昔、、、
サラリーマンだった頃、或る伝手があって栃木県のある牧場に営業に行きました。
「或る伝手」での訪問のため、わざわざ先方が駅に迎えにきてくれました。
記憶にあるのは牧場(これは全く記憶にない)よりも、その敷地内にある豪華なホテルでした。
そして、こちらが営業に行ったにもかかわらず、逆に先方から投資話を持ちかけてきたのです。
牧場から帰って来てすぐ勃発したBSE問題などで、取り引きは今のところ無理ということでその牧場との関係は立ち消えになりました。
たまたまその流れだったのかもしれませんが、もし取引が始まっていれば面倒なことになっていた可能性があります。
多分投資話に乗っていたかもしれません。乗らざるを得なかったかもしれません。
それとは別に、そのあと或る取引先が倒産しました。10数万円の売掛がありました。
取れませんでした。いわゆる取り込み詐欺です。
横浜の石川町の駅前の会議室であった債権者集会に出向きました。その取引で店を閉めた八百屋の大将が、出てきた経営者に「もう借金が帰ってこねえのは分かってるんだから、10発殴らせろ。」と泣きながら叫びました。
弁護士になだめられて10発殴るところは見れませんでしたが、その八百屋の大将と自分が考えていることのギャップが大きくて驚きました。
自分なりに考えて、これは相手の責任ではなく(もちろん責任はありますが)、間違いなく自分が取引をしてしまった責任のほうが大きいと考えていました。会社には損害を与えてしまいました。
が、八百屋の大将は全部相手が悪いと思ったようです。自分の店が潰れてしまったのだから、そう思っても仕方がないかもしれません。
ちょっとそんなことを思い出す事象がありました。
「或る伝手」での訪問のため、わざわざ先方が駅に迎えにきてくれました。
記憶にあるのは牧場(これは全く記憶にない)よりも、その敷地内にある豪華なホテルでした。
そして、こちらが営業に行ったにもかかわらず、逆に先方から投資話を持ちかけてきたのです。
牧場から帰って来てすぐ勃発したBSE問題などで、取り引きは今のところ無理ということでその牧場との関係は立ち消えになりました。
たまたまその流れだったのかもしれませんが、もし取引が始まっていれば面倒なことになっていた可能性があります。
多分投資話に乗っていたかもしれません。乗らざるを得なかったかもしれません。
それとは別に、そのあと或る取引先が倒産しました。10数万円の売掛がありました。
取れませんでした。いわゆる取り込み詐欺です。
横浜の石川町の駅前の会議室であった債権者集会に出向きました。その取引で店を閉めた八百屋の大将が、出てきた経営者に「もう借金が帰ってこねえのは分かってるんだから、10発殴らせろ。」と泣きながら叫びました。
弁護士になだめられて10発殴るところは見れませんでしたが、その八百屋の大将と自分が考えていることのギャップが大きくて驚きました。
自分なりに考えて、これは相手の責任ではなく(もちろん責任はありますが)、間違いなく自分が取引をしてしまった責任のほうが大きいと考えていました。会社には損害を与えてしまいました。
が、八百屋の大将は全部相手が悪いと思ったようです。自分の店が潰れてしまったのだから、そう思っても仕方がないかもしれません。
ちょっとそんなことを思い出す事象がありました。