19歳の時に最初のテナーサックスを買って早や30年、なかなか上達しませんが、私はアドリブを吹くのが大好きです。
コード進行に従って自分の好きなように自由に自分の唄を歌うことが出来る、こんな素晴らしい行為はやらないほうがどうかしています。
ただしそれは上手に唄を歌える(=楽器が吹ける)ひとに限ってということになります。
どうすればアドリブが吹けるようになるのですか?なんて聞かれたこともあります。
多分ブラスバンド出身の方からすれば、不思議でしょうがないみたいなのです。そんなに吹けてるわけでもないのですが。
私が習った取って置きの方法をご紹介しましょう。
20歳のころだったでしょうか、今クールスなどで吹いている佐藤尚之氏、通称なおちゃんから、トムさんという先生にサックス習いに行こうと誘われたのです。
トムさんは現在はリード(サックスなどにつける、葦で出来た音を出す道具)を販売していますが、そのころは武蔵野音楽院で英語を教えていました。
彼はデイブ・リーブマンとジョー・ヘンダーソンにレッスンをつけてもらったということで、その通りの方法で教えるということで1年ぐらいは通ったと思います。
その時教えてもらったのは、自分の気にいったプレーヤーのアドリブを全部譜面に書き、それを吹けるように練習して、その演奏と一緒に吹くというものでした。
で、全部吹けるようになったらその譜面は一切忘れること、次の曲にトライしなさい、ということでした。
憶えたフレーズを無理に使って自分のアドリブで使うこともしないようにということでした。
1年たつとその練習したフレーズの端々が自分のアドリブに自然に出てくる、血や肉となって体中を躍動するまで待てばいいという教えだったように思います。
久しぶりにそれを実践してみたのですが、これは耳の悪い私にとっては、この作業は難行苦行です。曲はガーシュインのI was doing all right 吹いているのはデクスター・ゴードン。
取りあえず、今日ほぼ譜面が出来たので、ゆっくりデクスターが自分の心に乗り移ってくれるように練習したいと思います。まあ1か月ぐらいで何とか形にしたいと思います。
本人の演奏と一緒に吹く作業をしていると、なんでここで休符が入るのか、ここは指が滑って間違ったんだとか、いろいろなことが分かり、その人が吹いていたころの空気感なんかも追体験することも可能といえば可能です。
アドリブを取るのはそれなりに手間のかかる作業です。
でも書き譜(最初から楽譜に書かれているアドリブ風のフレーズ)吹いてるだけじゃあ、つまらないじゃないですか。
みんなでアドリブやりませんか!?
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川中島模擬戦はいつからやっているのか?
現在のものは年表によれば昭和48年から始まったということです。
ただし明治時代もやっていたことは、一部では知られており写真に残っています。
私が所蔵しているもので現在13枚ありますが、結構生々しい絵面なのです。
なにがといえば、武具が先祖伝来のもので、多分戊辰戦争などでも使われたのではないでしょうか。
ここに掲載しているものは画質を落としていますが、実際は随分細かいところまで写りこんでおり、右側の電柱がなかったら、実際戦国時代に撮った写真といわれても分からないクオリティの高さです。もちろんそんなものはこの世に存在しないのですが。
米沢の古写真は実際静寂のシーンが多いように思われるのですが、戦争ごっこしている時だけはざわめきを感じます。
さすが武闘派集団上杉の面目躍如なる原風景を感じざるを得ません。
ただし明治時代もやっていたことは、一部では知られており写真に残っています。
私が所蔵しているもので現在13枚ありますが、結構生々しい絵面なのです。
なにがといえば、武具が先祖伝来のもので、多分戊辰戦争などでも使われたのではないでしょうか。
ここに掲載しているものは画質を落としていますが、実際は随分細かいところまで写りこんでおり、右側の電柱がなかったら、実際戦国時代に撮った写真といわれても分からないクオリティの高さです。もちろんそんなものはこの世に存在しないのですが。
米沢の古写真は実際静寂のシーンが多いように思われるのですが、戦争ごっこしている時だけはざわめきを感じます。
さすが武闘派集団上杉の面目躍如なる原風景を感じざるを得ません。
先代の上杉伯爵邸は、
大正8年の大火で神社もろとも焼失してしまいました。
設計は伊東忠太、この写真を見ると全体的には黒なのでしょうか?
しかもちょっと寝殿造りのように感じます。
伯爵邸は明治27年に二の丸寺院跡(減上杉記念館から)児童会館にかけての6千坪)に着工、29年6月に竣工しました。
その名を鶴鳴館と称され、東京からの移住費を含めて3万7千円かかったとのことです。
建物も今の造作とは違っており、庭の感じも違うようです。
しかも手前が田圃で苗を植えたばかりの季節でしょうか。
町の真ん中で米を作ってたのは昭和の40年代まで続くと聞いています。
そういえば、大正8年の大火の時に、洛中洛外図屏風とか、愛の兜とかはどのようにして持ち出され、火難に遭わなかったのでしょうか。その辺ご存知の方がいれば危機管理に役立つ情報になるのではないでしょうか。
その後再建された現伯爵邸は、小説家宮本百合子のお父さん中条精一郎の設計です。伊東忠太はそのときは上杉神社の設計を担当していました。
設計は伊東忠太、この写真を見ると全体的には黒なのでしょうか?
しかもちょっと寝殿造りのように感じます。
伯爵邸は明治27年に二の丸寺院跡(減上杉記念館から)児童会館にかけての6千坪)に着工、29年6月に竣工しました。
その名を鶴鳴館と称され、東京からの移住費を含めて3万7千円かかったとのことです。
建物も今の造作とは違っており、庭の感じも違うようです。
しかも手前が田圃で苗を植えたばかりの季節でしょうか。
町の真ん中で米を作ってたのは昭和の40年代まで続くと聞いています。
そういえば、大正8年の大火の時に、洛中洛外図屏風とか、愛の兜とかはどのようにして持ち出され、火難に遭わなかったのでしょうか。その辺ご存知の方がいれば危機管理に役立つ情報になるのではないでしょうか。
その後再建された現伯爵邸は、小説家宮本百合子のお父さん中条精一郎の設計です。伊東忠太はそのときは上杉神社の設計を担当していました。