すがすがしい、ちょっと寒くなった朝の出勤です。兜山が少し霞んでいますが、きれいに見えます。北の方には虹がかかっていましたが、色が薄くてケータイのカメラでは無理でした。
宮城県に今は大崎市(旧古川市が中心となる地域)となりましたが、松山町という町があり、そこに行った時のことです。
ここには銘酒「一ノ蔵」があります。発泡清酒「すず音」などでも有名ですね。
その工場は駅から一寸離れています。そこで松山人車軌道という、人が手で車両を押すという、大正時代でもかなりアナクロな交通機関を作りました。そのころの車両が残っており、春のお祭りには運行もするということでした。その期間ではなかったのですが、近くまで来たので寄ってみました。車両は10人乗りぐらいで小さな小屋に車輪を付けたようなものです。なるほどと思って帰ろうとすると「フランク永井」のポスターが貼ってあるではありませんか。
ご存知のように彼は浮気が原因の首つり自殺未遂による後遺症で、リハビリ中ということでしたので私はびっくりしました。
「歌えるようになったんだ!」だが、ポスターを見るとかなり若いころの写真です。もしかしたら昔の公演のポスターがはがし忘れて残っていたのかなぁ、、、
それにしては、紙の状態もきれいです。よく見るとわかりました。「フランク永井展」という企画展のポスターだったのです。それにしても一見コンサートのポスターと見まごうばかりの出来の良さでした。
資料館に入ると彼がその松山町の出身だったとわかりました。紅白歌合戦の時の衣装やら、レコード大賞のトロフィー、盾、彼が好きだったゴルフのクラブ、進駐軍時代の写真などが並べられていました。洋服を見ると意外に小さい方なんだなあという印象でした。
お客は私のほかに地元の人が一人、君恋し、お前に、東京ナイトクラブ、夜霧の第3国道などのヒット曲が誰もいないほの暗い会場に流れていました。まだ存命中とはいえ、故人を偲ぶような雰囲気に、ちょっと違和感を覚えました。
その彼が先月27日に亡くなったとのこと、ただ安らかにお休みくださいと言いたい気持ちです。
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新しい「うつわ」入りました!
福岡県嘉穂郡碓井町というところで「うつわ工房」という窯を開いている熊谷雅博さんの粉引の器です。
ゆったりとしたろくろ目が美しく、コーヒーやお茶の色、料理がうんと映える器だと思います。
商品と一緒に入ってきた「うつわ工房」のリーフレットによると、『一万年の昔に縄文人が作った「うつわの想い」を表現したいと思っています。あたかも縄文の「器」に向かい合ったときに感じる、心が立ち騒ぐような、豊かな、そして少し危うい『想い』を感じて頂きたいと願っています。』ということです。
カレー皿、汲み出し、片口、カフェオレカップ(ご飯茶碗でもいけそうです)、中鉢が揃いました。
是非、手にとってその想いを感じ取っていただきたいと思います。
ゆったりとしたろくろ目が美しく、コーヒーやお茶の色、料理がうんと映える器だと思います。
商品と一緒に入ってきた「うつわ工房」のリーフレットによると、『一万年の昔に縄文人が作った「うつわの想い」を表現したいと思っています。あたかも縄文の「器」に向かい合ったときに感じる、心が立ち騒ぐような、豊かな、そして少し危うい『想い』を感じて頂きたいと願っています。』ということです。
カレー皿、汲み出し、片口、カフェオレカップ(ご飯茶碗でもいけそうです)、中鉢が揃いました。
是非、手にとってその想いを感じ取っていただきたいと思います。
夜、寒行の太鼓の音が、、、
するような気がして、起きてしまいました。何か決まったリズムが聞こえてますが、寒行のうちわ太鼓ではないですね。
最近来ませんね、あの集団は。子供心にやはり恐ろしいというか、不気味というか、人さらいというか(勿論そんなことはないのですが)、あと、山伏の格好で回ってる人もいたような気がします。寒くなると何かいろいろまわってくるんですよね。笹野の花売りとか。
そういえば、この間実家の近くで流しのほうき屋を見かけました。しかも自転車で、、、これは懐かしかったですね。イメージは弁慶を想像していただければ、背中にいろんなほうきを背負って、手にはほこり取りをたがってました。昔だとやはり師走に来るものだったと思います。あと包丁や鋏を研ぐ職人などもどこからともなく、一年に一度アポなしでやってきていました。家は繊維関係だったので鋏を研いでもらっていました。前の川の水を使って研いでいきます。それを子供たちは興味しんしんで後ろから、すこし遠巻きにして様子を伺っていました。
音が止みましたね。ダクトとかなにかでしょうか。
寒行はよく時代劇にも登場していましたが、最近その中にもあまり登場しませんねぇ。
時代劇にでなくなったといえば大きい観音様を背負って街道を歩く拝み屋みたいな人とか、虚無僧というのもあまり出ませんね、大岡越前などはしょっちゅう出ていましたけど。
あと出なくなったといえば、忠臣蔵の畳替えのシーンで盛大に走っていた茶坊主の姿。ちょっと小さい役者さんなのでしょうか。少年という感じでもないですねぇ。とにかくばたばた右往左往していたのが印象的なのですが(多分東映の片岡知恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太郎(出てないかな)中村錦之助、大川橋蔵、東千代介ほかのオールキャストのやつでしょう)、最近走りませんね。あのシーン金かかりそうですもんね。
マキノ雅彦(=津川雅彦)監督が今回次郎長を撮ったらしいんですが(未見)、次回作はと問われて、やはり最終的には「忠臣蔵」なんですが、制作費がねぇ、、、と話されておりました。
是非、作ってください、広大な江戸城のオープンセットに茶坊主が所狭しと走るシーンを。茶坊主はミッキーマウスの中に入っている人何人かにお願いすればいい感じになるんじゃないでしょうか。
最近来ませんね、あの集団は。子供心にやはり恐ろしいというか、不気味というか、人さらいというか(勿論そんなことはないのですが)、あと、山伏の格好で回ってる人もいたような気がします。寒くなると何かいろいろまわってくるんですよね。笹野の花売りとか。
そういえば、この間実家の近くで流しのほうき屋を見かけました。しかも自転車で、、、これは懐かしかったですね。イメージは弁慶を想像していただければ、背中にいろんなほうきを背負って、手にはほこり取りをたがってました。昔だとやはり師走に来るものだったと思います。あと包丁や鋏を研ぐ職人などもどこからともなく、一年に一度アポなしでやってきていました。家は繊維関係だったので鋏を研いでもらっていました。前の川の水を使って研いでいきます。それを子供たちは興味しんしんで後ろから、すこし遠巻きにして様子を伺っていました。
音が止みましたね。ダクトとかなにかでしょうか。
寒行はよく時代劇にも登場していましたが、最近その中にもあまり登場しませんねぇ。
時代劇にでなくなったといえば大きい観音様を背負って街道を歩く拝み屋みたいな人とか、虚無僧というのもあまり出ませんね、大岡越前などはしょっちゅう出ていましたけど。
あと出なくなったといえば、忠臣蔵の畳替えのシーンで盛大に走っていた茶坊主の姿。ちょっと小さい役者さんなのでしょうか。少年という感じでもないですねぇ。とにかくばたばた右往左往していたのが印象的なのですが(多分東映の片岡知恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太郎(出てないかな)中村錦之助、大川橋蔵、東千代介ほかのオールキャストのやつでしょう)、最近走りませんね。あのシーン金かかりそうですもんね。
マキノ雅彦(=津川雅彦)監督が今回次郎長を撮ったらしいんですが(未見)、次回作はと問われて、やはり最終的には「忠臣蔵」なんですが、制作費がねぇ、、、と話されておりました。
是非、作ってください、広大な江戸城のオープンセットに茶坊主が所狭しと走るシーンを。茶坊主はミッキーマウスの中に入っている人何人かにお願いすればいい感じになるんじゃないでしょうか。
2008.10.31:mameichi:コメント(0):[米沢城下に江戸を訪ねる]
この小屋は???
子供の頃から、普通にあって何がなんだか分からないが存在はしているもの、ということになります。
福田町から万里橋(これも随分おっきい名前ですなぁ)を渡り、すぐ右に曲がり大きく蛇行して通町の新道に抜ける250メートルほどでしょうか、結構ワンダーランドな雰囲気があります。あっ、ここは一方通行なので、今の説明だと逆走になってしまいますね。自転車(米短生は飛ばすよ、ここ)は大丈夫ですが、、、
通町から新道を来ると、この道を通れば信号を一つ飛ばせるエスケープなのですが、知る人もだんだん少なくなり、ここを通らずに信号待ちをして左に曲がる車も多いですね。
一つは三つの石で、ある人の話では市内から白旗刑場(今の五中前の病院のところ)に送られる人が最後にこの世を偲ぶ休み石だったそうです。ログハウスの脇の通り沿いに鎮座しています。そしてそこに残る雑木林も江戸を感じさせる手付かずの領域です。そこと松川堤防の間は新しい住宅地となっており米沢ビバリーヒルズ???という話もあります。
そして二つ目は左側の窪地です。どうしても橋の袂は堤防を作ったために地べたよりも道のほうが高くなり、2階が玄関という風になってしまいます。ここにも一軒そのようなお宅があります。これまた子供にとっては不思議感満載で、住んでみたいなぁなどと思っていました。住ノ江橋大正寺の辺にもその風情は残っていますね。あの保健所も怪しい雰囲気がありました。
そして、この小屋です。昔からあります。ずっとおんなじです。40年は見ていると思います。一回開いたところを見た気もしますが、どんなだったかまったく記憶にありません。
場所からすれば、水防の道具でも入っていそうなところです。あまりにも手付かずのところが、オフィシャルなものを感じさせます。民間ならここまで放置しては置かないでしょう。この白っぽいペンキの羽目板や、緑の屋根などイメージとしては米軍キャンプの倉庫ですね、国立や鶴見なんかにもありましたよ。オキュパイト・ジャパン時代のものなのでしょうか。進駐軍といえば旧一中のイメージともダブります。
小国町(米沢市内の)の芦川医院もこんな感じの日本でない空気がありました。何となく野口英世がジャングルで黄熱病の研究をしている病院のような、、、待合室も、診療ベットも日本ではなかったなぁ。
子供の妄想は留まるところを知りません。
まじまじと写真をみると、観音開きの戸が結構大きいので、かなりな大きいものが入っているのでしょうか。舟でしょうか?窓が割れているので、見れば何か分かるのでしょうが、「やぶこぎ」はいやなので、、、詳しい方、ご教示願います。
福田町から万里橋(これも随分おっきい名前ですなぁ)を渡り、すぐ右に曲がり大きく蛇行して通町の新道に抜ける250メートルほどでしょうか、結構ワンダーランドな雰囲気があります。あっ、ここは一方通行なので、今の説明だと逆走になってしまいますね。自転車(米短生は飛ばすよ、ここ)は大丈夫ですが、、、
通町から新道を来ると、この道を通れば信号を一つ飛ばせるエスケープなのですが、知る人もだんだん少なくなり、ここを通らずに信号待ちをして左に曲がる車も多いですね。
一つは三つの石で、ある人の話では市内から白旗刑場(今の五中前の病院のところ)に送られる人が最後にこの世を偲ぶ休み石だったそうです。ログハウスの脇の通り沿いに鎮座しています。そしてそこに残る雑木林も江戸を感じさせる手付かずの領域です。そこと松川堤防の間は新しい住宅地となっており米沢ビバリーヒルズ???という話もあります。
そして二つ目は左側の窪地です。どうしても橋の袂は堤防を作ったために地べたよりも道のほうが高くなり、2階が玄関という風になってしまいます。ここにも一軒そのようなお宅があります。これまた子供にとっては不思議感満載で、住んでみたいなぁなどと思っていました。住ノ江橋大正寺の辺にもその風情は残っていますね。あの保健所も怪しい雰囲気がありました。
そして、この小屋です。昔からあります。ずっとおんなじです。40年は見ていると思います。一回開いたところを見た気もしますが、どんなだったかまったく記憶にありません。
場所からすれば、水防の道具でも入っていそうなところです。あまりにも手付かずのところが、オフィシャルなものを感じさせます。民間ならここまで放置しては置かないでしょう。この白っぽいペンキの羽目板や、緑の屋根などイメージとしては米軍キャンプの倉庫ですね、国立や鶴見なんかにもありましたよ。オキュパイト・ジャパン時代のものなのでしょうか。進駐軍といえば旧一中のイメージともダブります。
小国町(米沢市内の)の芦川医院もこんな感じの日本でない空気がありました。何となく野口英世がジャングルで黄熱病の研究をしている病院のような、、、待合室も、診療ベットも日本ではなかったなぁ。
子供の妄想は留まるところを知りません。
まじまじと写真をみると、観音開きの戸が結構大きいので、かなりな大きいものが入っているのでしょうか。舟でしょうか?窓が割れているので、見れば何か分かるのでしょうが、「やぶこぎ」はいやなので、、、詳しい方、ご教示願います。